ぴんよろ日記
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2008年10月05日(日) 様々なこまごま

 昨日届いた100枚の手ぬぐいを折ったり、それに付けるのし紙を買いに行ったりの雨の日。のし紙は、数日前に別の文房具店に寄ったら「今売り切れました」と言われた。くんちでは膨大な数の手ぬぐいが渡し、渡されるが、そののし紙だけでも大変な需要である。おとといの庭見せでも、贈り物に付けられた膨大な数ののし紙を見たし、「花紙」だって何万枚だろうし、とにかく、くんちにまつわる「様々なこまごま」って、すごい数だ。ヒコの衣装の腰に巻く黄色い布(しごき)も、浜の町の呉服屋さんに行って、それらしきコーナーを見ていたら、「黄色のしごきですか?」ってすぐ聞かれた。のし紙、ご祝儀袋、衣装、洋服、着物、Tシャツ、靴、会合飲食費…いったいどれくらいの「様々なこまごま」があるのだろうか。
 「様々なこまごま」。それぞれはいくらでもケチれる。のし紙だって安いのも高いのもある。のし紙自体、いらないものと言えばいらない。ご祝儀袋だって、つまりはお金さえ渡せばいいのなら、茶封筒だって文句は言えないし、裸銭でもいいのである。子どもたちの付き添いをする親の着物だって、本人が思うほど誰も見ちゃいないので、安物でいい。そんな考えで行けば、なーんにも意味がない。誰も見ちゃいない着物を3日それぞれに変えるなんて、バカ以外の何者でもないだろう。
 でも、じゃぁ、そんな考えのもと、「様々なこまごま」を、片っ端から安物にして、簡略化して、合理化してしまったらいいんだろうか。演し物さえそこそこなら、付き添いのお母さんが普通のブラウスとスカートでもいいんだろうか。それはやっぱり違うと思う。そんなこと言いだしたら、突き詰めればくんちそのものが無意味なことになってしまう。
 意味があるとか無いとか、もー、そんな野暮なことは言いなさんな、と思うけれど、それでも「意味」にこだわるとすれば「無意味なものにお金と時間をかけることだけが、もうひとつ上の次元の意味を生み出すことができる」と、手ぬぐいを折りながら考えたりもした。(しかし手ぬぐいは、買ったのし紙とサイズが合わず、100枚全部折りなおし。涙。)


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