ぴんよろ日記
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「自分」なんて、探しているうちが華だ。 探しあてたところで、そんなものは、はじめっからここにいる、 昨日は昨日食べたものを食べ、今日は今日食べるものを食べる人間だけだ。 自分が自分でしかないという深すぎて底が見えない悲しみをわざわざ探すなんて、 …いや、たぶんそれを見たくないから、 探してるなんて言いつつ、逃げることが「自分探し」なんだろうな。 今日もご苦労様です。ご安全に。
みんなが持ってるブランドのバックを買う人のことを悪くいう人も多いし、 それを「これを買える自分」の確認のためだっていう人もいるけど、 あんがい逆かもしれない。 自分なんて探し当てたくないし、確認したくないし、 人とおなじものがいいと思えなくなる自分を引き受けたくないという、 恐怖に対する防衛本能なんじゃないだろうか。
…あぁ、今日も朝からターボかかってるよう。梨でもむいてクールダウンだ。
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一日中、半病人のように過ごす。 眠って、本読んで、お茶飲んで、眠って、暑くて起きて、ぶどう食べたり。 昨日酷使した体もだいぶ軽くなった。 と思ったら、ついつい八坂神社に川船の稽古を見にいきたい気持ちがムクムクと。 こりてない。 でも見にいって、気が済んだ。 川船の出来は…まぁ、まぁ、か。囃子がいまひとつだった。 こないだの「龍の頭落下事件」に続き、 「この時期に演技の途中で囃子が止まる事件」を目撃してしまった。
くんちの稽古は、一日見ただけではわからないとも言えるし、 ワンセット見ればわかるとも言える。 本番がよければそれでいいんだけど、本番は稽古なしには作られない。
「俺たちはできる」と思えるところまで体と技を作り込んでなお、 「俺たちはできる」と思ってしまわない気持ちを持つために、稽古はある。
でもこれは、そうなろうと思ってなれるものじゃなくて、 そこにいる人みんなから立ちのぼってできる集合体の人格みたいなのが、 どう育っていくかということなので、完全にコントロールできる人は誰もいない。 誰もいないけど、誰も無関係じゃない。 その「無関係じゃなさ」は、単に関係者に止まらず、 稽古に通りすがって足を止めた人でさえ、取り込まれるほどのものだ。 見物している人の何気ない一言が町の人の耳に入り、 それがみんなに伝わって、落ち込んだり、嬉しくなったりというのは多々ある。 その作用が、また「人格」に肉をつけていく。
たとえば私は昨日、ちょっと離れてはいるが、 町の人の目につくところでワンセットをジッと見ていて、 休憩になったので帰った。もういいか、と思って。 でもこれが、休憩が終わった次のセットも見続けていて、 最後は熱烈に拍手したとしたら、どうだったろう。
…とまぁ、またブツブツ思いにふけりながら、 ダンナに迎えに来てもらい、駅前食堂でショウガ焼き定食を食べて帰る。
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