長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2005年01月30日(日)

 此処に書く日記、というか記述は、多分人知れず(否、人に知れないのは当然なのだけれども)、書いては消し書いては消し、といった行為の末に「読み物」として成立している。書いては消し、どころか書いたにも拘らず登録釦を押さず、ということは非常に多い。其の「読み物」が誰かに快や不快を与えようと、実のところ私はあまり頓着していない。というのも情報が氾濫しているネット世界だからこそ、其れは自己責任であるから――と、言い切ることにしている。勿論実際は不快を与えるよりは快を与える方が気持ちとして、嬉しい。然しまあ、私の文章で快を与えることなんて先ず無いと思えるので、寧ろ断言出来るので、せめて不快を与えないように、とは思うのだけれど、結局思うだけで実際のところ如何なっているかは、私よりは此処を読んで下さる方々が最も良く知っているだろう、と思う。

 急に何事、とか思われるのかも知れないけれど。私はHP閉鎖を考える度に(今回に限らず何度も考えては細々と放置してあるのだけれど)先ずは日記から消すべきなのか、それとも日記を残すべきなのか、という選択に困惑する。一気に全部消す事が出来れば良いのだろうけれどね、そう出来ないのは未練でも何でも無くて、単に自分の中での「思考時間」を欲しているだけ。厄介な事に私は此の「思考時間」の最中に "如何でも良くなる" 事が多い。というか殆どである。飽き性なのかしらと何度か考えたのだけれど、どうも其れとは少々違う気がする(違う気がするだけで本当は飽き性である、という意見はさて置き)。
 例えば、という言葉を、私は良く使う。或いは、とか、若しくは、とか。そういう言葉も良く使う。例示の為の表現というよりは、矢張り自分の思考を纏める為の前表示、といった意味合いが強い気がしている。そうして同時に、其れ以上の意味は無い。


 其れで何が言いたいの、とか言わないように。其処、自己責任。だって私は何か明確な物事を言いたくて此処に記述しているわけではないもの。つらつらと、思ったことを順序も無く書き綴っているだけ。
 ……今日も目一杯不快を与えたのかな。










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