ヲトナの普段着

2005年01月18日(火) 大人的冬乃奏鳴曲2 /女はモノだ

 女はモノだ、と言われて「はい」と応える女性は、この現代日本にはもういなくなってしまったような気がします。良いとか悪いとかではなく、間違いなくこの国にもそういう時代があったのは事実でして、冬ソナの三角関係には腹立たしい場面が少なくないのですが、なんとなく、なんとなくわかるような気もしてしまいます。
 
 
 物語を知らない方にはとんとピントがつかめない書き方になりますけど、主人公の女性ユジン(チェ・ジウ)の幼馴染であるサンヒョク(パク・ヨンハ)が、恋敵であるチュンサン(ペ・ヨンジュン)に対して向ける言葉には、常に「ユジンは俺のモノ」という認識がまとわりついています。取られたから奪い返す。取られないように既成事実で周囲を固める。露骨なまでにユジンをモノ扱いするその態度に腹を立てたのは、きっとわが家族だけではないはずです。
 
 けれど当のユジンは、そのことにまったく触れようとしません。自分がモノ扱いされていながらも、まるでそんなことは脳裏をかすめもしないかのように振舞っているんです。まあ演出というものもあろうかとは思うんですけど、やはりその根底には、男と女という異なる性を持つ生き物の立場というか位置関係についての認識差が、見事に露呈されているということなのでしょう。
 
 冷静に考えれば、そのようなまるで男尊女卑的扱いは、現代社会では愚の骨頂はおろか下手すると犯罪者扱いされかねませんけど、男女関係、とりわけ夫婦や恋人という間柄においては、いまだこの日本でも、そういう意識が根強く残っているのではないでしょうか。
 
 
 何度もコラムに書いてますけど、結婚して夫婦となった瞬間に豹変する男も少なくありません。結婚という名の契約で檻に女を囲ってしまったら、あとは自分の好きなようにやれると考える手合いです。彼らは明らかに女をモノと考えていますし、自分と対等もしくはそれ以上の存在であるなどと、考える思考回路すら持ち合わせてはいないでしょう。
 
 面白いのは、冬ソナでサンヒョクがそうであるように、そういう男たちは揃って、獲物を手にするまでは世界で一番優しい男でありつづけます。自分の愛はきみひとりだけのためにあると、恥ずかしげもなく訴え心を伝えようとします。結婚という既成事実、契約を手にするまでは。
 
 しかしもしも、そのような「女はモノだ」という認識が「違うんだよ」という意味でのサンヒョクの人物設定であったとしたならば、この冬ソナの監督ユン・ソクホという人は、凄い人なのだと思います。あれほど露骨にモノ扱いすれば、パク・ヨンハのファンであっても眉をしかめるでしょう。それほどまでに差別的認識を表現し、「それじゃいけないんだ」と訴えたのだとしたら、僕らは冬ソナを見直さねばなりません。
 
 
 人はとかく「証」を欲しがります。それはきっと、人がとても弱い生き物だからなのだと僕は思います。愛されてる確証がつかめないから、言葉や態度で表現して欲しいと願う。少しでも相手との関係を堅固なものにしたいから、勇み足で既成事実を構築しようとしてしまう。なるようにしかならないよと友達に言われても、なんとかならないかと思ってしまう。それらはいずれも、証が欲しいからなのでしょう。
 
 人と人との繋がりは、じつは目に見えないものの積み重ねなのかもしれません。言い換えると、形がないものの積み重ねです。惚れたはれたばかりではなく、そのなかには、言葉にするのも辛いような経験もあるでしょう。そういうひとつひとつの積み重ねが、人と人とを堅固に結びつけ、夫婦や恋人という間柄を成立させていくのだと僕は思います。
 
 そう考えると、既成事実で周辺を固めていこうとするサンヒョクの行動は、とても理にかなったものだとも思えます。もちろん、方法は間違っています。けれど「ありがちだ」という一点において、彼は物語のなかでとても重要な存在価値を手にしているようにも感じられるわけです。
 
 
 女はモノなどではありません。女だけじゃない。子どもだって同じです。親の所有物などでは決してない。されど人の心に巣食うなにものかが、やもすると心をそういう方向に持っていってしまうことはままあるように思えます。サンヒョクは腹立たしい男ですけれど、どこか哀しい男でもあるのでしょうね。


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