ヲトナの普段着

2005年01月14日(金) 大人的冬乃奏鳴曲1 /冬ソナにみるHugの論理

 昨年、わが家族全員が目一杯馬鹿にしていたドラマ「冬のソナタ」。ペ・ヨンジュンがCMに登場すると、一斉に顔を背けて「ペだよペ!」と声を揃えていたわが家族。それが昨年末、「完全版を放送するらしい。一度見ないことには批判もできないから」という妻のひとことで渋々テレビに向かった一族は、見事にミイラ取りのはずがミイラになりました。
 
 冬ソナがどうであるとか、なぜこれほどまでにブームになったかなどという論点には、じつはさほど興味がありません。そういうことはおそらく、もはや言い尽くされているでしょうから。むしろ僕は、「変なの」とか「あ、そうか」と少なからず胸に引っかかったポイントを軸に考えてみたほうが、よりヲトナらしい楽しみ方ではなかろうかと思ったんです。まさか冬ソナをネタに書くことになろうとは思いも寄りませんでしたけど……。
 
 
 冬ソナは恋愛ドラマです。複数の登場人物が、「こいつら絶対におかしい」と小五の息子にも言わせるほど変幻自在な人間性の不一致(平たく言えば、言ってることとやってることが支離滅裂)をもって、恋愛模様を展開していきます。全二十話という長さですが、くっついたり離れたり、とにかく忙しいドラマです。
 
 そんな大河恋愛物語ですけど、見終える以前、まだ物語の途中の段階から、僕の中にはひとつの「興味のポイント」が生まれていました。それは「果たしてどこまでラブシーンが展開されるのか」というものでした。恋愛ドラマにはラブシーンがつきもの。ラブシーンがない恋愛ドラマなど、海老天がのってない天ぷらそば、具のないカレーライス、炭酸が抜け切ったソーダー水のようなものです。
 
 それなのに冬ソナでは、全二十話のなかで、軽いフレンチキスのキスシーンが三度あったきりでした。もちろんそれ以上の展開などありません。まあナントいやらしい。性風俗花盛りの日本国民にとって、キスを終着点とする恋愛ドラマのしらじらしさは察するに余りあるはずなのですが、それが逆に受け入れられてしまったのですから、日本人もまんざらでもないのかもしれません。
 
 と、あまり小莫迦にすると批判の嵐を受けそうなので本題に戻しますが、不自然なほど少ないキスシーンとは対照的に、物語のそこここでみられたのが「ハグ」でした。何も言わずそっと抱き合う、というあれです。なにかにつけ「ふたりはそうして愛を確かめ合った」とでも言いたげに、硬く抱き合うシーンが連発されます。
 
 文化の違いというのは間違いなくあると思います。親子関係や恋愛というものの認識も、日本と韓国とでは微妙に異なるでしょう。モラルの違いが、キスシーンを減らしハグシーンを増やしているとも受け取れる気がしますし、ハグを意図的に恋愛関係の象徴と結び付けようとしている風にも、僕の目には映ったんです。
 
 
 じつは先日、一冊のエッセイ集を読みました。直木賞作家の山本文緒さんが書かれた「日々是作文」という本です。そのなかの一節に、「スキンシップ」に関してのものがありました。人は生まれて幼いうちは親にスキンシップを求めるけれど、成長するにつれて異性にそれを求めるようになる、という内容でしたけど、読みながら思わずうなってしまいました。
 
 男と女の構図を頭に思い浮かべると、不埒な僕はその最終形態として「セックスでひとつになる」という姿を思い浮かべてしまいます。たしかにセックスもスキンシップには違いないのですが、なにも全裸にならずともスキンシップは成立するわけで、そう考えるとなんとなく、冬ソナの不自然なまでに繰り返されるハグも、崇高な恋愛の至上形態なのかもしれないと思えてきました。
 
 求めるものが何なのか。求めるものが激しさや官能ではないのなら、それが安らぎや安定であるのなら、ハグはセックスに勝る愛情表現となりうるのかもしれません。両の手で相手を包み込むということ、心と心を少しでも至近距離に置こうとすること、それは紛れもなく、誰もが持ちうる恋愛感情に違いないでしょうから。
 
 
 冬ソナのハグでひとつ面白いのは、お互いが望んで抱き合うハグとそうでないものとがあったということです。不本意なままにハグされる瞬間の表情は、いかなる科白にも勝る効果があったと思えます。とかく科白やト書きで雁字搦めにされがちな風潮にあって、あのようなしらじらしいまでの演出というのもときに、無垢な人間を見せてくれるのかなと思ったりもしました。
 
 ハグを見直し、ハグを至高と思えるようになれば、もしかするとそこには、人として望まれた姿が見えてくるのかもしれませんね。無言の愛情のやり取り。ハグは単純なようでいて、じつに奥の深い愛情表現なのかもしれません。


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ヒロイ