ヲトナの普段着

2004年12月10日(金) 不平等だから愛がある /制約が人をつくる

 厭な世の中になったものだなどと、ようやく不惑の未熟者が口にする科白でもないのかもしれませんが、社会の縮図のようにもみえるウェブを俯瞰するたびに、僕の胸中にはやり切れぬ想いが広がります。ある時期に正しいと考えていた道筋が、じつはとんでもない迷路への入口であったことに、そろそろ気づかないと大変なことになるようにも思えて……。
 
 
 ウェブコンテンツ、とりわけアダルトコンテンツの世界を眺めていると、堕落した男女の姿にため息が漏れることも少なくありません。僕自身、そんなアダルトコンテンツを楽しんでるひとりの男には違いないのですが、あるべき姿からはとうの昔に離脱してしまって、いまや人間の厭な面のみを露呈する場に成り下がってしまっている気がします。
 
 ライブチャットをはじめとする有料無料さまざまなチャットや掲示板、そして出口のみえない出会い系サイト、自己責任において遊ぶのだから何ら恥じることなどないと言う人も少なくないように思えますが、その「自己責任」にこそ大きな問題と落とし穴が潜んでいることに、どうして気づかないのでしょうか。
 
 そもそも、「自己」で「責任」を負えるほど、このウェブ世界にたむろしている人たちは人間が成熟しているのでしょうか。誰にも迷惑をかけてないなどと口先だけの言葉を吹聴し、いざ手に負えなくなるとさっさととんずらする。相手の人生を背負う度胸もないくせに、平気で美辞麗句を並べ立てる。そして、そんな虚構の世界を、ひとときの安らぎだなどと勘違いして受け入れてしまう。その先に存在するであろう人間の変わり果てた姿というものを、彼らはきっと想像できていないのだと僕には思えます。
 
 
 自由という言葉は、もしかするとこの国では、もはや死語となりつつあるのかもしれません。義務を蔑ろに権利ばかりを主張してきた民族は、自由を手にしたつもりでいながらそのじつは、混沌とした無法迷路を彷徨っているだけのようにもみえます。抑制されるものがあるから自由は存在する。そんな基本的で単純な理屈ですら、頭の片隅にも置き場を持たない大人が増えてしまったということなのかもしれません。
 
 近年、子どもたちの学力低下が取り沙汰されています。具体的な原因を探り出すと手に負えぬほど広範囲に渡りそうですけど、彼らもまた、幻の自由を目指した大人たちが描くユートピアの犠牲者とも言えるのでしょう。それを事前に察知していた一部の大人たちに見守られ導かれた子どもたちだけが、十年後二十年後にはこの国の柱となっていく。なんとも末恐ろしい国の姿だとは思いませんか。
 
 いまこそ、僕は「自由」を真剣に考えるべき時代だと感じています。本当の自由というものを、本当の幸せというものを、それらが過飽和状態にある現代だからこそ、人は真剣に根本から考え直し探りなおす時期にきていると思うんです。そんな現代を象徴し牽引していくべきウェブという新たな世界。そこで織り成される核心のない人間模様の数々を目のあたりにするにつけ、僕のため息と絶望が広がっていくのも、少しはおわかりいただけるのではないでしょうか。
 
 
 僕は過去に憧れる男のひとりです。もとから歴史が好きでしたが、日本の江戸期や西欧の中世文化に強く惹かれています。あの時代には制約があった。現代と比べると、ばからしいほどに人間の権利を無視した制約がありました。けれどそこで人々は、おそらくは現代より遥かに輝いて生きていたのだと想像しています。きっと思うに任せないことの連続だったでしょう。しかし、限られた条件の下でも生命は進化するように、あの時代の人々もまた、制約の下で人間本来の姿に磨きをかけていたのだと思うんです。
 
 仲間と酒を酌み交わしながら話すとき、昔からよく口にした喩えがあります。電気というのは電線のなかを流れていきますが、その電線に全く「抵抗」というものがなかったら、電気は流れないんです。抵抗があってはじめて、電気は電流として我々の生活に光をともすんです。人間もそれと同じだと僕は思います。抵抗があるからこそ、それに抗する努力をし、力を身につけていく。そしてそこに達成感も生まれ、それは生きがいとなって人生を豊かにしていくんです。
 
 権利を考え主張するのは大切なことです。なぜならそれは、社会という枠組みのなかで生きていく自分を、人間として考える根本だからです。されどそれは、自分が置かれた立場や環境を鑑みた主張でなければなりません。自らの権利を生かすために、権利を主張すると同時に、己に負荷を負わせねばならないということです。そう、現代人に最も欠けているところでもあります。
 
 
 こんなことを口走ると、またヒンシュクをかいそうな気がするのですが、僕は男女平等と囃し立てるのはいかがなものかと考えています。人間の性、つまりは男と女という立場は、生物という観点からも明らかに別なものです。昨日今日騒ぎ出したたかだか数十年の人間経験者が論ずるより、数千年という人間の歴史が示している明白な真理だと思います。もちろん、社会的権利に関しては、男女に不平等があってはならないと僕も思います。しかし様子を眺めていると、どうも別の次元で平等をさかんに唱えているように思えるふしもあるんです。
 
 女は子どもを生み育て、男は家族を命がけで守る。おそらく男と女というのは、そういう単純な構図を天から授かった生き物ではないでしょうか。社会的事情によるとは思います。母でありつつも夫と同じように社会で働かねばならない状況というのは、あたりまえのようにこの国では展開されていますから。けれど僕が言いたいのはそういう見た目の形ではなく、もっと精神的な面での男女の位置関係です。
 
 上にいるから優れているとか、下にいるから劣っているなどという考え方は、人間と人間を並べ比較してみたときに、なんら意味のない評価基準なんです。人はそれぞれ個別の生命体であって、それは夫婦や恋人という関係にとどまらず、親子という関係においても尊重されるべき個々の生命なんです。そういう原理原則に立ち返れば、互いがどういう位置関係にいようとも、人間の尊厳が失われることなどないと気づくはずです。
 
 そしてそういう同等でない位置関係にいるからこそ、深い真の愛情も芽生えるということに、できれば気づいて欲しいものです。守る幸せ、守られる幸せ。支える幸せ、支えられる幸せ。持ちつ持たれつという言葉がありますが、人間は持ってばかりいては駄目なのだと僕は思います。ときに伴侶に持ってもらい、そしてまた自分で持ってあげるような関係が、人には必要なのではないでしょうか。自分を形の上で下におく。それは考えようによっては、意図的に己に負荷を課すことにも繋がるように思えます。
 
 
 先日、テレビで「なぜ勉強しなければならないかを子どもに教えられる親が減った」という発言を耳にしました。これにも答えはいくつかありそうに思えるのですが、ふと、かつて友人が口にした科白が思い出されました。
 
「僕は選挙には必ず行くことにしてる。なぜなら、まだ選挙権が与えられてなかった時代に、どれだけの人たちがどれだけ苦労してその権利を手に入れたのかを思うと、いかなる選挙であっても、それを蔑ろにできないからだ」
 
 現代は恵まれすぎていると思います。自由の意味すらわからなくなって、権利を当たり前のように行使しようとする。けれどその権利は、自分が苦労して手にしたものではないんです。先人たちが、それこそ命がけで手に入れてくれた権利なんです。それを忘れ、いや、それしら知らずに自由を口にする人間が増えてしまった現代、とりわけウェブコンテンツの世界を嘆く僕の気持ちも、これで少しはご理解いただけたでしょうか。
 
 まさに、混沌とした時代のように思えます。


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ヒロイ