| 2004年01月29日(木) |
救われない男 /そして男は女から逃げ出す |
男の生き方を理解しようとする際に、その行動心理を分析することは重要です。通り一辺倒の論理ではなく、ときに理解を超越した心理をも許容できる気概がなければ、男を知ることなど無理だと僕には思えます。やはり救われない男として、僕はそう思います。 過日、好きな作家の作品を読みました。物語は十六世紀前半のフランスはパリが舞台。主人公の夜警隊長ドニ・クルパンと、その友人で美貌の天才神学マギステル(種々の学位取得者:先生)ミシェルのふたりが、カルチェ・ラタンを騒がす殺人事件と陰謀に挑むというものです。 ご存知の方も多いかと思いますが、当時の僧には色欲に走るものも少なくなく、僧であるのをよいことに、結婚を前提としない男女の関係が横行していた時代でもあったようです。物語は確かにミステリーという軸を中心に展開するのですが、ミシェルとドニを巡る女の物語も伏線として張られており、人間物語としても読み応えがある作品であったと思えます。 そんななかでも、ミシェルが事件を解決してパリを去る最後の場面で、ドニがミシェルの心理に気づく際の記述が、とりわけ僕の心を強くとらえました。以下、作品より抜粋します。 『ミシェルは、なにもしなかった。いや、なにもできなかった。恐らくは、あまりに知的であったがために、この神学マギステルもゾンネバルト教授と全く同じ理由から、女性を受け入れられないのだ。 美貌の学僧が頻々と恋人を替えた理由も、今では頷けるような気がする。薄情に捨てるのではなく、ミシェルは男に否といわせぬ女の存在感から、いつも逃げ回っていたのだ。豊富な女性経験は、百人とも二百人とも逸話されるが、もとより、ひとりの男が全部を救えるはずがない。かりそめに抱き寄せることができたとしても、本当の意味では、ひとりの女も救えやしない。 だから、私に負けたという。負けを認めるからには、もしや悔やんでいるのだろうか。愕然としながら、遂に私は真実に開眼した。ミシェルは女性を受け入れようとしていた。いや、女性に縋(すが)ろうとしていた。この男が救いを授けるのではない。知性の敗北を予感しながら、神学マギステルは生きる理由を危うくされて、今ひとたび女性に救いを求めたのだ。 佐藤賢一著「カルチェ・ラタン」より抜粋 』 男がなぜひとりの女のもとに定住しないのか。その理由は、じつにさまざまであろうと思えるのですが、ひとつには、ミシェルのような心理もあるのだと思います。事実僕自身、この一節には溜息すら漏れるほど感じ入ったものです。目の前にいる女が嫌いになったわけではない。ましてや、よそにもっといい女ができたわけでもない。それでもいつからか、男はその場を後にすることを考えはじめる……。 ここでいう「男に否といわせぬ女の存在感」という下りに、女性であれば抵抗を感じる方も少なくないでしょう。女に言わせればそんなものを望んだわけではない。男を自分の手許に縛り付ける気もなければ、むしろそうしないよう努めてきたつもりだと。されどだからこそ、理解を超越した心理が、そこにはあるんです。女がどう接したかは問題ではないんです。男という生き物が、女になにを望むか、それをどのように自分という存在にすり合せていくかが問題なんです。 それでは、男はいつでも女の手から逃れて自由になりたいのかと、そう切り返す方もいるでしょうね。答えは否です。というか、その問いそのものが、じつは心理を考慮した際には見当違いの問いということになります。「ドニ」は真実に開眼し、「ミシェルは女性を受け入れようとしていた」「今ひとたび女性に救いを求めたのだ」と書いています。その通りです。女になにかを期待し、縋りたいと思うから追いつづけるんです。はなから逃れたいのなら、近づく道理がありません。 救うとか救われるとか、男と女の関係はそんな陳腐なものでもないに違いありませんが、衝動の一端には確かにそういう想いがあるでしょう。ミシェルのような男は、女に自らを救ってもらおうと思い近づくんです。言い換えると、己の理想や目指すものを理解し包み込んで欲しいがために近づくんです。されど、肉欲と理想との狭間で、女への情を覚えるにつれ否という言葉を発せなくなり、自滅とも思える道を邁進していずれは逃げ出そうとしてしまう。本来の自分を取り戻すため、本来の理想を捨てないために、好きな女のもとから離れようとするんです。 はなはだふざけた話だと思います。女の側からしてみれば、これほど扱い難い生き物もいないでしょう。自分の言動とは無縁に、男のほうが勝手にあれこれと思いめぐらして自分を縛ってしまうのですから。されど、男にはそういう一面もあるということです。 そのような男への対処法として、距離をおくという方法があろうかと思えます。前出の抜粋に照らせば、「男が否といえる程度に存在感が薄れる距離まで離れる」ということになるでしょうか。土台が嫌われてるわけでもなければ、捨てられたわけでもないんです。叶うなら男は、女に救いを求めているわけですから、それが成就する環境を作れば宜しいということになります。 身勝手だというかもしれませんが、実際にそうやって適度な距離感をもってくれると、男には女を再度見直す余裕というものが生まれてきます。そこで縁を切ってしまえばそれまでですけど、細々とでも繋がっていることで、互いをより深く考える環境を構築することも可能なんです。 話は少々脱線しますが、かつて亡父に「経営者ってのは孤独なものなんだよ」といわれたことがありました。自分でその立場になってみると、いやがうえにも実感できる言葉です。そしてそんな立場にあって、その孤独を真に理解できる人が周囲に少ないことにも気づきました。 優しく慮る言葉は数多くあります。心無いものも、真に思いやってのものもあるでしょう。されどつまるところ、自分の道は自分でないと切り開けないんです。それをわかっていながら、心のどこかでは救いを求めようとしてしまう。縋れるものをみつけては、そこに手を伸ばし、やがてそれが自分自身でないことに気づいて窮屈な感覚に包まれてしまい、そして手放す。 ミシェルが女を渡り歩く衝動も、僕が自分の人生を歩むそれも、そう考えると大差ないような気がしてきます。自分を保持しようと努めれば努めるほど、嫌な男に成り下がってゆくんです。それが、男というものなのかもしれません。救われない男です。
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