ヲトナの普段着

2003年10月07日(火) あってないのが下心

 無くて七癖という言葉があります。どれほど癖のない人のように見えても、七つくらいは癖があるものだという意味ですが、いかに無さそうにみえてもあるのが男の下心というやつかもしれません。けれど、それが無くなる岐路が男の心にはあるんです。
 
 
 およそ僕が知る範囲の男のなかには、ひとりとして女に対する下心がないと感じられた男はいません。そういう奴らとばかり付き合っているからだ、などと言われそうですが、男の本能には潜在的に女を狙うなにかがあって、表面に出ようが出まいがそれは下心として存在しているのだと僕には思えます。
 
 かくいう僕にも、下心は常に付きまとっています。明らかにフィーリングが異なる女相手にはないかもしれませんが、恋愛意識以前の段階ですでに、僕の中には何らかの形で多かれ少なかれ下心はあると自覚しているんです。
 
 けれど、それが表面に出ることはそう多くありません。自制心というものを理由に挙げる方もおれらるかもしれませんが、そうではなくて、僕の中で別の視点での「線引き」がされているような気がするんです。つまり、下心を伝えたほうがいいか、あるいはそうでないか、という線引きです。
 
 
 妙な喩え話になりますが、かつて仲間たちと、温泉場や海外を遊び歩きながら、さまざまな色里を見てきました。はじめのうちは、気に入った女とセックスすることに強い関心を抱き、宴会といえば単なるコンパニオンよりは夜の相手もしてくれる手合いを選んでいたものです。しかしある時期から、そういう選択よりもコンパニオンとじっくり楽しむことを選ぶようになったんです。
 
 女とホテルにしけこむよりは、仲間と一緒になってコンパニオンと騒いでいたほうが楽しい。理由は明快です。性的欲望の最終処理をそこで女と行うよりも、それは処理されなくともより時間を楽しめる道を選んだということです。
 
 そう考えるようになった僕のなかには、暗い部屋で女と絡み合う下心よりも、たとえ酒を飲みながらの会話だけであっても、そちらのほうがいいという価値基準が生まれました。つまり、妙な下心など出さずにいたほうが、時として楽しめるし自分を満足させられるものだということを、僕は経験のなかから見出したのだと思います。
 
 
 僕が女に対して下心を出すか出さないかの線引きは、どちらが自分にとってより価値があるであろうかという判断に依ります。もちろんそこには、「相手にとっての有益性」も加味されますよ。自分とどのような関係を持つことが、目の前にいる女にとってより意味があるのか。それを考えることも、僕は自身のなかでの線引きに繋がっているように感じています。
 
 仮に、僕が下心を出さないようにしようと決めた相手に対しては、僕の姿は極めて紳士に映るかもしれませんね。それを偽りだという方もいるかと思いますが、僕はその時点で下心を捨てていますので、いわば「あった下心がなくなった」状態なんです。ないのですから偽りではありません。下心がない状態でも、僕は存分に関係を楽しみ謳歌しているんですからね。
 
 女から見て、そんな男の心の中を見抜くのは、やはり難しい所作なのでしょう。僕と相対した女の反応を顧みると、どちらかというと皆さん僕のことを信頼してくれていたようですが、男が誰しも必ず下心を捨てられるというものでもないと思えます。悟られぬようにするから下心なんですから……。
 
 
 男と女の関係には、じつにさまざまなものがあると思います。ベッドを共にする恋人もあれば、キスすらせずに酒を酌み交わす関係もあるでしょう。ネットが普及している現在では、逢うことがなくとも成立する恋愛関係もあります。
 
 どれが一番だなどという下劣な判断基準は、僕の価値観のなかにはありません。いずれも僕にとっては大切な関係ですし、天から与えられた限られた縁なのだと思います。僕はそれらの縁を大切にしたいから、それぞれの状況で最善と思える道を選ぶんです。それが、僕のなかから下心を消すか残すかの岐路になっているのだと思えます。
 
 ですから、男のなかから下心が消えたからといって、自分を女として見ていないと考えるのも間違っています。体を重ねるだけが男と女ではなくて、互いが持っている性をいろいろな手段で絡めあうのが、本当の男と女の関係なのでしょうからね。


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ヒロイ