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2012年07月11日(水)
「子ども」と「子供」の問題

『その「正義」があぶない』(小田嶋隆著・日経BP社)より。

【子供は、原稿を書く人間にとって、何よりもまず、表記の問題として立ち上がってくる。
 このことに、私は、過去20年来、折にふれて、わずらわされてきた。
 たとえば、どこかのメディアに原稿を書く。
 私は、ふだん、「子供」と、この言葉を、二文字の漢字で表記している。
 と、媒体によっては、ゲラの段階で「子ども」という書き方に訂正してくるところがある。
「ん?」
 最初のうちしばらく、私は、意味がわからなかった。
 で、個人的に「漢字」と「かな」の混じった単語表記が気持ち悪いので、再度「子供」に直してゲラを戻したりしていた。
 と、先方から電話がかかってくる。
「あのぉ、コドモの表記なんですが、『ども』をひらかなにする書き方はお嫌いでしょうか?」
「まあ、あんまり好きじゃないですが。そちらがどうしてもということなら、別にこだわりませんよ」
「……でしたら、恐縮ですが、ここは当方の表記基準に沿って、『子ども』とさせていただきます。どうも申し訳ありません」
「いや、かまいませんよ」
 こういうことが幾度が続いて、何回目かのある時、私は、説明を求めた。
「お差し支えなかったら、『供』をひらがなに開く理由を教えていただけますか?」
 と。この質問に対して先方の語ったところはおおむねこんな感じだった。


1.子供の『供』の字には、「お供」という意味合いがあって、結果「コドモ」と「子供」表記すると、『大人に付き従う者」であるというニュアンスが生じる。

2.その他、「供」を、神に捧げる「供え物」と見る見方もある。


「いや、私がこう思っているということではありません。読者の一部に、いまご説明したみたいな受け止め方をされる人々がいる、ということです。とにかく、慣例として、『コドモ』は『子ども』にしておいた方が面倒が少ないということです」
 なるほど。
 全面的に納得したわけではなかったが、私は、先方の説明を受けいれることにした。モメるのも面倒だし、どっちにしても大差はないと思ったからだ。
 新聞社や雑誌と付き合っていて、この種の問題が持ち上がることはそんなに珍しくない。
 そして、ほとんどの場合、私は、先方の表記基準をそのまま了承することにしている。用語や表記についてこだわり出すときりがないし、実際のところ、文句を言ってどうなるものでもないからだ。

(中略)

 話を「コドモ」に戻す。
 説明を受けて後、しばらくの間、私は、「子ども」という表記で原稿を書いていた。
 と、ある時、童話作家の先生(かなり有名な作品を書いているちょっと有名な先生)から、メールをいただいた。前半部分は、いつも原稿を楽しく読んでいるというリップサービスで、後半(←たぶん本題はこっち)は「子供」の表記について、メディア側の強要に負けては駄目だぞ、というお叱りの言葉だった。
 以下、内容を列挙する。


1.「子供」の「供」は、単に複数形の名残り。たいした意味はない。

2・こういう文字を取り上げて問題にしたがるのは、子供を利用したおためごかしだ。

3.差別のないところに差別を言い立ててそれを問題視する連中は、差別をネタに何かをたくらんでいる。油断してはならない。

4.表現者が表記について妥協するということは、武士が刀を捨てるのと一緒。許してはならない。しっかりしなさい。

5.何よりもまず漢字とかなを交ぜて書く「交ぜ書き」は絶対に醜い。書いてはならない。


 恐れ入って、私は、早速返事を書いた。
「了解いたしました。以後気を付けます」
 以来、私は、特に制限がない限り、「子供」もしくは「こども」と書くことにしている。
 でも、媒体の側が「子ども」表記を推奨してくる時には、しぶしぶ従ってもいる。
 うん。わがことながら、ふぬけた対応だとは思う。でも、仕方がないのだよ。独自の表記を押し通すには、それなりの手間がかかる。そういうのが私はイヤなのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 小田嶋さんは、「そもそも『子ども手当』の表記自体が『子ども』を採用していて、福祉行政や教育の現場では、いまなお『子ども』という書き方がスタンダードになっているのではないか」と推測されています。
 実は僕も、この「こども」をどう表記するかに関しては、アドバイスをいただいたことが何度かあります。
 「こども」が「大人に付き従うもの」とか「供え物」という意識は全くないのですが、「そう感じる人がいる」と言われてしまうと、「それは考え過ぎなんじゃないかな……」と思いつつも、やっぱり気にはなります。
 いまのところ、僕のなかでは統一されていなくて、けっこう場当たり的に使っている、というのが実情です。
 個人的には、「子ども」と「子ども」よりも、「コドモ」とカタカナにしてしまうほうがはるかにいろんな(子どもを特別視するとか、ちょっとバカにしたような)ニュアンスを含んだ表現だとは思うのですが、これはまあ、あまり公の場所では使われません。
 
 しかしながら、思い返してみると、「子ども手当」が、「子供手当」と書かれているのを見たことがないので、行政的には「子ども」を使うべき(あるいは、使ったほうが無難)だと考えているのかもしれませんね。

 「子供」か「子ども」かで、書いている人のスタンスを色分けしようというほうが、乱暴なのではないかと僕は思いますが、その一方で、この有名な童話作家の先生の「子ども」批判にも、内容的には頷けるのだけれども、「そこまでこだわる必要があるのかなあ」と感じてしまうんですよね。

 もし僕が職業的物書きだったら、自分の意志を貫き通せるような大御所でないかぎり、「はいはい、まあ、面倒なことは避けたいですものねえ」って、あっさり「子ども」に変えてしまいそう。
 逆に言えば、そこまで「子供」と漢字で書くことにこだわりもない、というのが本音です。
 たぶん、世の中もそういう人が多いから、誰か声が大きくてめんどくさそうな人が言った「『子供』だと親の付録、生け贄!」みたいな、想像力が豊かすぎる話が『子供』と書きにくい理由になってしまったのでしょう。
 
 それなら、「美しい」の「美」なんて、生け贄になる羊が元になってできた漢字なんですよ!とか、言ってみたくもなるし、そんなことにこだわる前に、「こども」のためにできることがあるんじゃない?という気もするんですけどね。

 「子ども」か「子供」か?
 実にめんどくさくて、どうでもいい問題ではあるのですが、「差別表現」というのは、こういうふうに生まれてきて、いつのまにか「禁忌」になってしまうのだな、というのがよくわかる話ではあります。
 とはいえ、「表現の自由のために、『子ども』じゃなくて、『子供』と書くぞ!」なんて主張するほどの「根拠」も「やる気」もないんだよなあ。だからこそ、こういうのは連綿と受け継がれてしまうのでしょう。
 少なくとも、「こども」にとっては、「そんなのより、小遣いアップしてくれないかなあ」って感じだろうとは思うけどね。