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2011年06月23日(木)
「人の目や世間というものは、車窓から見える景色みたいなものなんです」

『秋元康の仕事学』(NHK「仕事学のすすめ」制作班・編)より。

(2010年5月にNHK教育テレビで放送された「ヒットを生み出す企画力 秋元康」の放送とテキストを元にまとめられた本の一部です)

【第1章でも申し上げたように、もしも僕がお茶汲みをするのであれば、その部署の全員の健康状態や趣味嗜好を調べて、それぞれの人に合ったハーブティをブレンドして出してあげようと思うでしょう。なかには、そのときに先輩から「なに、あのコ、勝手なことして」と言われる人もいるかもしれませんが、そういった意見は全く意に介さなくていいですよ。
 人の目や世間というものは、車窓から見える景色みたいなものなんです。例えば、電車の窓から、田んぼの真ん中で踊っている裸の女の人が見えたとします。みなさん、そのときは「なんか、変なのがいるぞ」って窓際に集まりますよね。けれど、次の駅で降りてタクシーを飛ばして見にいく人はいないものなのです。
 あるいは男性が、「おれ、エアロビ習おうかな」と、ふと思ったときに、でもレオタードを着ることが、恥ずかしいと思うかもしれません。はじめのうちは、見た人は「プッ」と笑うかもしれないけれど、何回か通っていると、ずっと見ている人なんて誰もいなくなるんですよ。多くの人は、そのはじめの部分だけを気にして、やりたいと思うことを断念してしまうんです。
 ですから、先輩に「なに、あなた、勝手なことして」と言われることだけに怯えて、何もやらなかったりすることが、僕はとてももったいないなと思うんです。その先輩が家までずっと後ろをついて「カッテナコトシテ、カッテナコトシテ……」と耳元でささやいていたら別ですよ。けれど、そんなわけ、ないじゃないですか(笑)。
 人に悪口を言われたとしましょう。悪口を言われたら、みなさん傷つくでしょう。でも僕は、悪口を言われてずっと落ち込んでいる人によく言うんですけれども、悪口を言った張本人は言った瞬間に満足することが多いんですね。それでもう充分で、そのあとは友達と飲み屋でバカ騒ぎをしているか、テレビを見て大笑いして、とっくに忘れてしまっています。それなのに言われた被害者のほうが引きずってしまうんですね。そうやって、ずっと傷ついている人というのは、何かこう、おならを手に握って、ずっと嗅いでいるような感じに見えるんです(笑)。もう、いいじゃないですか。その瞬間は臭かったんだからと思うのですが、すごく大事に、何度も何度も「くせぇなあ……」と言っているように見える。それは、非常にもったいないと思うんですよ。なぜなら、いつかは忘れるわけじゃないですか。だったら早いほうがいいでしょう?
 僕が今、人生の半ばで思うことというのは、自分勝手でわがままに生きることの大切さです。もちろん社会のルールは守らなければいけません。青信号は進めで、赤信号は止まれということを守らなければ、この社会では生きていけません。しかし、それさえ守れていれば、人に嫌われようが、自分の生き方を貫くほうが魅力的だと思うんです。新しいことをやろうとするときには、必ず反対意見が出るものなのです。多少嫌われてしまうのは、しょうがないんですね。つまり、嫌われる勇気を持たないと優れた企画は生まれないのです。「こんなのはだめだ」「こんなの当たるわけがない」と言われては当然なんですよ。むしろ、みんなが「いいんじゃないの?」という平均点の企画ほどつまらないものはないんですよ。】

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 これを読んでいて、僕は、「あの秋元康さんも、いろいろと苦労してきたんだなあ」と思わずにはいられませんでした。
 こういう心境に至るまでには、悪口に対して、けっこう傷ついたり、落ち込んだりされたこともあったのではないでしょうか。
 放送作家として「時代の寵児」になったときの秋元さんへの評価は、けっして好意的なものばかりではありませんでした。
 僕も、「なんかうまくやったなこの人は……おニャン子クラブの高井さんと結婚までしちゃったし……」と思っていましたから。
 有名になるっていうのは、けっして、良い面ばかりじゃない。

 ここで秋元さんが仰っておられるような「人の目や世間」って、やっぱり気になりますよね。
 でも、自分がその「人の目や世間側」になったときのことを考えてみると、たしかに、「他人がやることなんて、ちょっとくらい変でも、自分に直接迷惑がかかるものでさえなければ『車窓から見る景色』みたいなもの」なのです。
 「世間」にとっては、その程度のことなのに、僕も含めて多くの人が、「はじめの部分だけを気にして、やりたいと思うことを断念してしまう」。
 ほんと、もったいないですよね。
 その入り口さえ突破してしまえば、あとはもう、どうってことないのに。

 この「悪口を言う側と言われる側の不平等」というのは、ブログをやっていると感じることがよくあります。
 言ったほうは「日頃の苛立ちを、顔の見えない相手にちょとぶつけただけ」で、それこそ、「言い終えた(あるいは掲示板などに書き終えた)瞬間に、何を書いたのかさえ忘れてしまう」のに、言われた側は、いつまでもそれを引きずってしまう。
 ブログのコメント欄などでは、「言う側」に比べて、「言われる側」は、「自分の場所で、いろんな人の目があるだけに、口汚く罵ったり、無視したりするのも「世間」の目が気になる、という事情もあります。
 眞鍋かをりさんが以前言われたように「ネット上の悪口は、見たら負け」だというスタンスで、無視していくしかないのかもしれません。
 もちろん、秋元さんや眞鍋さん乃場合は、賞賛や応援も多いでしょうけど、ネガティブな言及も、ブログをやっている一般人とは大きな差があるはず。
 いずれにしても、「名無しで悪口を書いて去っていっただけ」の人の言葉を過剰に気にするのは、たしかに「割に合わない」ことです。
 頭ではわかっていても、ついつい、「くせぇなあ」をやってしまいがちではあるのですが。

 「嫌われる勇気を持つ」っていうのは、「どこで悪口を言われているかわからない世の中」を生きていくためには、すごく大事なことなのではないかと僕も思います。
 結局、「嫌われないことを最重視した言葉」って、誰からも強く好かれることはないのだから。