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2010年02月20日(土)
「ただエゴイズムのために人はあんなに高く飛べない。あんなに早くは走れない」

『お好みの本、入荷しました〜桜庭一樹読書日記』(桜庭一樹著・東京創元社)より。

(北京五輪直前の『Number』に掲載された、柔道の谷亮子選手のインタビューについての話に続いて)

【そこからほかのアスリートの話にもなって、家族を背負う選手たちの強さ、が話題に上った。離散する家族を繋ぎとめる、選手の活躍。コーチと選手との不安定な疑似家族関係。昔、貧しさに苦しむボクサーほど強かったものだ、という説を読んだことがあるけれど、現代においては、家族がそれに匹敵するんじゃないか、とまじめに語り合う。著名なアスリートたちは実は、テレビ越しに感じるほど、上昇志向の強い個人的な人間ではないのではないか。人が、自分個人のためにがんばれる力には限りがある。でも、崩壊する家族、つまり”世界の滅亡”を背負う若者は、無限の力を出して戦うだろう。テレビを見てると「日本を代表して!」とか「国民の皆さんに感動を与えるために!」とか、テレビ用の短いキャッチコピーをみんな語るけれど、ほんとうは国のためでもテレビの前にいる知らん人たちのためでもなくて、家族のために戦う、おおきな子どもたち、という面もあるかもしれない。
 ただエゴイズムのために人はあんなに高く飛べない。あんなに早くは走れない。いつだって、わたしたちは、誰かのために。
 しんみり……。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこれを読みながら、ある有名スポーツ選手のことを思い出していました。小さな頃から、親に英才教育を施され、「天才少女」と持て囃された彼女なのですが、メディアに採り上げられ、有名になったおかげで練習環境は向上した一方で、家族は、良くいえば「彼女のサポートのために仕事をやめ」、悪くいえば「彼女の収入で食べていく」ようになっていったのです。
 ああいう立場で「スポーツ選手」として生きていくのは、本当につらいことなのではないかなあ。

 本人の意向はさておき、有名になる、お金を稼げるようになると、こういう状況に巻きこまれてしまう可能性があるのです。相手が競技を始めるきっかけになった「身内」であれば、金銭的に頼られても邪険にはできないでしょうし、マラソンの高橋尚子選手のように、自分の「チーム」をつくった場合には、そのスタッフの生活も自分にかかってくるのです。

 もちろん、そういう「目に見える責任」というのは、選手がつらいトレーニングに耐えて競技を続けていくモチベーションになるという面もあるのでしょう。
 多くのトップアスリートたちは、「自分自身のためだけに」競技ができるほど自由ではないし、「日本国民」なんて、顔も見えず、オリンピックが終わったとたんに自分のことを忘れてしまうような存在のために競技ができるほど、夢想家ではないはず。
 
 僕は以前、こんな「金メダリストの練習風景」の記事を読んだことがあります。
『Number』(文藝春秋)542号に掲載されていた、長野五輪の金メダリスト、男子スピードスケートの清水選手の記事「清水宏保〜もう一度金メダル〜」より。

【清水のトレーニングは、目を覆いたくなるほど過酷である。特に自転車のローラーを使う無酸素系のトレーニングは、心拍数を生命的限界の220ぐらいにまで上げ、筋肉と脳への酸素の供給を絶ちきるのだ。酸素の供給を絶たれた筋肉は痙攣を起こし、脳は脳死寸前のブラックアウト状態になる。目の前の光が消える一歩手前で自転車を降りるが、苦しみのあまり地べたをのたうち回り、意識が回復するとまた同じことを繰り返す。初めてこの練習を見たときは、不覚にも涙がこぼれた。
「やる方だってイヤですよ。このトレーニングの時は前日からドキドキしますもん。でも、筋肉を破壊しないと新しい筋肉が再生されない。ただ単に筋肉の破壊なら電気ショックを与えても出来ます。でも無酸素系のトレーニングで同時に脳も変容していかないと、いくら筋肉を鍛えても指令を出す脳の限界値が低ければ、意味がなくなってしまう。」(「」内は清水選手の発言)】

 選手たちの多くは、「自分自身のため」あるいは、「応援してくれるみんなのため」だと口にします。
 でも、この清水選手のトレーニングなんて、「(自分自身を含めた)誰かのため」なんていうより、「自分を鍛えて、記録に挑戦せずにはいられない異常な執念」を感じるのです。
 「一握りのトップアスリート」の場合は、「誰のためでもない、ただ、少しでも限界に近づきたい」という強迫観念、あるいは使命感みたいなものが、彼らを動かしているのかもしれません。