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2009年08月23日(日)
「日本の新聞は首相の読み間違いばかりあげつらって、本当にレベルが低い」

『2011年新聞・テレビ消滅』(佐々木俊尚著・文春新書)より。

(「第1章 マスの時代は終わった」の一部です。著者の佐々木さんは、毎日新聞社勤務の経験もあるフリージャーナリストです)

【私は少し前、ある大学で開講されていたジャーナリズム講座に講師として参加したことがある。ある全国紙が資金を出していたその講座で、私はメディアのパワーがネット時代に入ってどんどん縮小し、新たなパワーシフトが起きていることを90分にわたって話した。この本でいま書いているような話を、思い切り圧縮して紹介したわけだ。聞いていた学生からは最後の質疑応答で「まったくそうだと思う」「このような時代にマスメディアはどう対処できるのでしょうか」などという声が上がり、おおむね理解は得られたようだった。
 だが講義の最後になって、それまで黙って聞いていた新聞社の幹部が突然立ち上がり、マイクをとって話し始めた。海外特派員経験が長いその中年の記者は「佐々木さんの話には突っ込みどころが山のようにあります。ここではすべてを言いませんが」と前置きし、こう言ったのだった。
「ネットの時代だろうがそんなことは関係なく、皆さんはどんなニュースを読むべきかというような情報取捨選択能力は持っていません。どの情報を読むべきかということを判断できないのです。だからわれわれが皆さんに、どの記事を読むべきかを教えてあげるんですよ。これこそが新聞の意味です」
 この記者の気持ちはわからないではないが、しかし新聞にそのような役割を求める人はいまや少数派に転落しようとしている。一次情報としてのコンテンツを提供してくれるという新聞社の意味はあるけれども、どの記事を読むかまでを新聞社に決められたくない、とネット時代に入って多くの人が考えるようになってきている。
 この流れは、インターネットが出現してメディアの業界がネットの中に呑み込まれていく中で、もう避けては通れない運命となりつつある。】

(以下は、同書の「第2章 新聞の敗戦」の一部です)

【おまけに前にも書いたように、新聞社の公式サイトから記事を読む人は少なくなっているから、「この調査結果は重要だからトップに」と新聞社側がサイトを編集しても、その通りの重み付けで読者が読んでくれるとは限らなくなってしまっている。
 その典型的な例が「麻生首相の漢字読み間違い」報道だ。ネットでは「日本の新聞は首相の読み間違いばかりあげつらって、本当にレベルが低い」とさんざんに批判されているが、新聞社は何も読み間違いばかりを報道しているわけではない。首相番や国会担当の記者は本来報じるべき国会での論戦の内容や政局のゆくえなどを長い記事で書いたうえで、
「まあ読み間違いも話題になってるから、いちおうは記事を送っておくか」
 と短い原稿を埋め草ふうに書いているだけなのだ。だから実際に新聞の紙面を見ると、麻生首相の読み間違い報道はそんなに大きな扱いにはなっていない。どちらかといえばベタ記事扱いだ。
 ところがネット上ではそうした新聞社側の編集権はいっさい無視されているから、新聞社がどの記事に力を入れて、どの記事をベタ扱いにしたのかはわからない。結果として本当はベタ扱いの「読み間違い」報道ばかりがやたらと目につき、「レベルの低い報道だ」と批判されてしまうことになってしまっている。
 こうした現象をもって「だからネットはダメだ」というのはたやすいが、しかしだからといってネットにプラットフォームを奪われてしまって大半の人が活字の新聞を読まなくなってしまっている現状は、いまさらひっくり返せない。だったらこの誤解をなんとかひっくり返すために新聞社はもっと努力すべきなのだが、業界人にそうした発想は乏しい。
 そもそも誰が書いても同じ、どこの新聞社が書いても同じ発表ものを大量に流しまくっているような現在のやり方を変えない限り、こうした誤解はなくならないのだ。】

〜〜〜〜〜〜

 新聞の凋落が続いているのは、誰のせいなのか?

 僕はこの最初のエピソードに出てくる「新聞社の幹部」の言葉に、かなり憤りを感じながら読みました。読者をバカにしやがって、お前らなんかに御指導いただかなくても、自分に必要なニュースくらいわかるよ。だいたい、太平洋戦争が終わったあと、「大新聞」とその関係者のほとんどは、今までの自分たちの「報道」をきちんと検証・謝罪することもなく、「民主主義」を賞賛する側に転向したくせに!
 たぶん、送り手のこんな「読者を舐めた態度」が伝わってくることも、読者の「新聞離れ」がすすんでいる元凶のひとつなのでしょうね。
 もちろん、新聞社の偉い人がみんなこんな人ではないと思いますし、逆にいえば、彼らはそれだけ「自分たちはみんなに読んでもらいたいニュースを『エリートとしての矜持』を持って選んでいるんだ」ということなのかもしれませんけど。

 ただ、この本後半の部分を読んでいると、僕も自信がなくなってきました。
 「自分が読むべきニュースもわからないバカ」よばわりされるのは悔しいけれど、ネットで話題になっている記事には、たしかに、下世話なゴシップ記事や「弱者叩き」が多いような気がします。
 「麻生総理の漢字読み間違い問題」について、当時、ネットではかなり話題になっていたのですが、僕もこのニュースに対しては、「マスコミもそんなくだらない話題ばっかり大々的に報道しないでも、もっと日本人の、あるいは世界中の人類の未来にとって有益な、『報道すべきこと』があるだろうに……と感じていたんですよね。

 でも、「『漢字間違い問題』を最初に報道したのはマスコミだったかもしれないけれど、その「小さな記事」をおもしろおかしく採り上げ、人気記事にしていったのは、マスコミの力だけではありません。
 「火のないところに、煙は立たぬ」と言いますが、火をつけたのがマスコミ側だとしても、その火を燃え上がらせるための燃料を投下していったのは、「新聞なんてつまらない、くだらない」と言いながら、ずっとネットでネタを探している人たちです。
 誰も「反応」しなければ、あの「漢字間違い問題」は、好事家たちが新聞の片隅で(あるいは、新聞社のサイトで偶然に)見つけて、ニヤニヤしてそれでおしまい、だったのかもしれません。

 新聞やテレビなどのマスメディアはもちろん、ネットのニュースサイトでも「編集権」というのはものすごく重要なのです。
 同じ「ニュース」であっても、それが新聞の1面に大見出しで採り上げられるのと、文化欄の隅っこにベタ記事として掲載されるのとでは、それを読む人の数に圧倒的な差が出ます。
 ネット上のニュースサイトで紹介される記事でも、並べられる順番とか(基本的に最初のほうに紹介されたほうが来る人は多い)、紹介者がつけたコメントによって、「集客効果」は全然違ってきます。
 メディアにとっては、「何を採り上げるか」というのと同じくらい、あるいはそれ以上に、「それをどういう順番や大きさで採り上げるか」というのが大事なのです。

 ところが、ネットではそういう「編集にこめられた、伝える側の意図」が「記事への直接のリンク」によって、不明瞭になってしまいます。
 メディアの立場とすれば、「こちらはそんな記事ばかり書いているわけじゃないのに……」と言いたくもなるでしょう。

 もちろん、ネットで「メディアの編集権の影響が薄れたこと」によって、「新聞では大きく採り上げられなかった良質な記事」が話題になることも多いし、ひとつひとつの記事に対する「世間の本音」も透けてみえるようになってきたという、良い面もあるのですけど(「ネットでの反応は、あまりに極端になりがちで、本当に「世間の本音」かどうか疑問なところもありますが)。

 もし「読者が本当に求めている記事」を並べていったら、最終的には、ネットで人気の『痛いニュース』になってしまうのかもしれません。
 それが「報道の正しい姿」なのかどうか?
 「日本の報道のレベルが低い」のは、報道する側だけの責任なのか?

 「インターネット時代」だから、メディアが検証されるようになったのは事実です。
 その一方で、これからは、受け手の「自分で情報を選ぶ責任」がどんどん大きくなっていくのも確実なのです。
 ゴシップ、スキャンダル、揚げ足取りの「レベルの低い記事」ばかりが目立つのは、それが「読者に求められているから」なんですよね。