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2008年09月30日(火)
「積極的な人と消極的な人は、ただ、『理解の仕方』が違うだけなのだ」

『間の取れる人 間抜けな人』(森田雄三著・祥伝社新書)より。

(イッセー尾形さんの演出家である森田さんが、「人との間のとりかた(=上手なコミュニケーションの方法)」について書かれた本の一部です)

【見知らぬ他人と偶然のように話が弾む秘訣は、ここにある。共通地盤を探すコツさえ掴めれば、さほど難しいことではない。「駅前に映画館がある街ですね」、「立派なケヤキの木だね」、「小川が音を立てて流れてましたよ」。その土地の固有さを言葉にすれば、自分も相手も落ち着いたペースに立てる。
 無理して話題を作ろうとして、たとえば相手がプロ野球ファンだからといって「阪神は強いですね」などと、その話に合わせたら、ゴマスリであってコミュニケーションとはいわない。聞き手も話し手も窮屈になるだけだ。
「話し上手」な人は、どんな話題にもそつなく受け答えできるというイメージがある。コミュニケーションのノウハウ本の受け売りだろうが、「銀座のホステスさんやバーテンさんは新聞各紙に目を通している」と聞いたことがある。客である企業の幹部や文化人たちとの話題に困らないためだそうだ。
 こんな風説もオヤジ族の説教のたぐいで、「酒場の従業員も努力は怠らない」というものの一種じゃないかな。そもそも高いお酒を飲む客は、お洒落なホステスに自慢話をしたいに決まっている。取り巻きのゴマスリにヘキエキしているに違いない偉い人が、ホステスに専門分野の話をされてもシラケルのじゃなかろうか。ホステスの仕事の重要さは「あいづち」にあって、内容にあるわけじゃない。
 この「新聞各紙に目を通す」みたいな迷信が横行するのも、背景には、学校教育を手本とする人たちが陥っている「会話には知識が必要」という思い込みがある。彼らは、コミュニケーションというと、丁々発止に弾んだ会話をイメージする。現実生活は「朝まで生テレビ!」じゃないのだ。
 だから話題がないときは、仏頂面で黙っているところからスタートすれば、相手が話の接ぎ穂を探してくれるものだ。「間」に耐えられなくて、無理してしゃべるのは愚の骨頂。そんな失敗から「自分は話し下手」と決めつけて、会話の前からオドオドするのは、墓穴を掘り続けるようなものだ。「上がり症」も同じ。ただただスロースターターなだけなのに。
 ワークショップでもそう。「言葉」がすぐに出てこない人や、「見学です」と車座にも加わらなかった内気な参加者が本領を発揮するのは3日目ぐらいからで、初日の張り切りマンが失速しだすのも同じころだ。

(中略)

 素顔のイッセー(尾形)さんは、地味で目立たぬ部類の人間だ。積極的か、消極的かと言われたら、消極的な部類に入るだろう。しかし、積極性と消極性は、やる気がある、やる気がない、に直結するわけではない。それは「理解の仕方」の違いであり、積極的な人は「やるタイプ」であり、消極的な人は「見るタイプ」だと言える。
 あるワークショップで、参加者に簡単な自己紹介をしてもらったことがある。その時の参加者は、50人近くいただろうか。名前と簡単な経歴を述べる程度にして、一巡した後、紙をくばり、覚えている名前を書き出してもらった。
 よもや記憶テストになると思っていなかった参加者は、この唐突さにざわめきながらも鉛筆を動かしていた。集計をとると、1人も覚えていない人から、半数を記憶している人までバラバラだった。
 自己紹介に工夫をこらした「積極的な人」は名前を覚えられたし、声が小さい「消極的な人」は票が入らなかったのはもちろんで、面白かったのは、みんなに名前を覚えてもらった「積極的な人」と、誰にも名前を覚えられなかった「消極的な人」の関係だ。
 総じて積極的な「目立つ人」は、他人の名前を覚えていないし、消極的な「地味な人」は、とてもよく他人の名前を覚えていた。積極的なタイプは「自分がどう受け取られたか」に関心があるのに対して、消極的なタイプは「あんな風にできたらいいなぁ!」と注意が周囲の人に向かうからかもしれない。
 いろいろな場所でワークショップを行える利点から、さまざまなスタイルでこのタイプ分けをする稽古を行った。たとえば「大根」という名詞に形容詞をつけてもらう。「三つまたの大根」とか「髭が生えた大根」、博多人形のような大根」といった具合。
 その後、別の稽古を行って時間が経った後、さっきの「大根」についた形容詞をいくつ覚えているかを書き出してもらう。そのゲームにイッセーさんも参加していたが、他人がつけたフレーズを覚えている数は群を抜いていた。
 別の場所でのワークショップで、昨日他の参加者が言った台詞のどれを覚えているかと質問をした。明るく元気な「積極的」と思える参加者は、みんなが一斉に笑った台詞や、僕がコメントを加えた台詞を取り上げたのに対して、目立たぬ「消極的な人」は、独自の地味な台詞を覚えていた。
 現実の世の中では、積極的に目立とうとし、地味で消極的な人間は否定されがちだが、それは間違っている。ただ、「理解の仕方」が違うだけなのだ。「イッセー尾形」の演劇が取り上げるのは「目立たぬ市井の人たち」であり、「イッセー尾形のつくり方」と題した4日間のワークショップも、「人に誇るようなものはなにもないと思っている人」という言葉で、参加者を募っている。
 地味な目立たない人たちは、ワークショップの最初は積極的な人たちの後ろに隠れてしまっているが、「見て理解する」ことにより、4日間の最後のほうでは、メキメキと頭角を現わしてくる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 上の文章でも書かれているように、イッセー尾形さんの「専属演出家」である森田さんは、全国各地で「(地元の)素人が4日間で芝居を作る試み(ワークショップ)」を行っておられるそうです。しかも、この芝居は、内輪で見せ合って終わるのではなく、「有料公演」として上演されるのだとか。
 まあ、こういうワークショップに参加するというだけで、「消極的な人」とはいっても、それなりの「積極性」がありそうなものではありますが、ここで森田さんが仰っておられることに、「消極的サイド」の一員である僕としては、ちょっと励まされたように感じました。

 確かに、世間では「積極的な人」というか、第一印象でアピールできる人のほうが有利な気はするんですよね。多くの場合、人間関係に「4日目の最後のほう」はないので。
 それでも、「積極的な人」と「消極的な人」というのは、どちらが優れているとか、やる気の差というわけではなく、それぞれのタイプの「理解の仕方」の違いだというのは、とてもよくわかるような気がします。

 「消極派」の僕は、「もっと積極的にいかなきゃ!」と言われて、中途半端ボソボソと自己アピールしようとして玉砕、という経験を何度もしてきましたが、結局のところ、僕の場合は、「やるより前に、まずは見るタイプ」であり、「他人に記憶されるより、他人を記憶する」ことのほうが得意なのです。それを生かせるかどうかはさておき。

 世の中というのは、僕のような「見るタイプ」には何かと生きづらいものではあるんですよね。世の中を支えているのは、どちらかというと「見るタイプ」だと思うんだけどなあ。「見る人」がいなければ、「やる人」だって存在できないわけだし。

 でも、実際は世の中の多くの人は、「やるタイプ」でも「見るタイプ」でもなく、「ただ漫然とそこにいるタイプ」で、僕もその一員なのかな、とも感じるんですよね。それは、あんまり考えたくない話ではあるんですけど。