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2008年08月14日(木)
押井守監督が語る、「『うる星やつら』の友人関係」

『凡人として生きるということ』(押井守著・幻冬舎新書)より。

【では、友人と仕事仲間の違いとは何か。仕事仲間とは、ともに仕事をする仲間なのだから、仕事上の自分の可能性を高めてくれる相手ということになる。いくら監督がいばっても、スタッフがいなければ映画は完成しない。つまり、僕にとっての仕事仲間であるスタッフのおかげで、僕は映画監督を名乗っていられる。
 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』では、若い石井明彦プロデューサーと一緒に作品を作り上げてきた。彼と僕は親子ほども年が離れているが、それでも仕事仲間である以上、年齢の差はまったく気にならない。始終一緒にいて映画のことを語り合い、何十時間、何百時間と話し合っているが、彼は友人ではない。信頼できる仕事仲間であって、仕事以外で付き合う気は僕にはないし、彼にもその気はないはずだ。
 僕にとって彼は自分の仕事で有用だから付き合っているのであって、彼にとっての僕もそのような人間なのである。このように、お互いが相手を頼りにしているという関係が成り立たなければ、仕事上のパートナーとは成り得ない。だから、相手との関わりをこれほど実感できるコミュニケーション手段は、仕事のほかには僕は見つけられない。
 人間関係を以上のように考察すると、次の結論を得ることができる。互いに利用しあう関係が仕事仲間であって、「損得抜きで付き合う」といった関係が友人同士の付き合いである、ということだ。
 だが、僕に言わせてもらえば、損得抜きで付き合うことは、それほど立派で大切なことなのだろうか、ということだ。
 もちろん、損得というのは、何も金銭のことばかりを言っているのではない、生きているという充実感を得ることも含めて、損得である。僕と石井プロデューサーは、1本の映画を一緒に作って、その映画を素晴らしいものにして、ある価値を新たに創出したいと、同じ夢を抱いているわけだ、レーニンとトロツキーが共闘したのと同じだ。
 新しい価値を生み出すという利害が一致したから付き合っている。もちろんその結果、映画はヒットすれば、お金も儲かるわけだが、別の章でも述べた通り、それが第一の目的ではない。
 僕らは確かに損得ありで付き合っている。こいつと付き合ったら損だ、という人間を仕事のパートナーには選ばない。しかしそれが、損得抜きの友人関係よりも、価値のない関係だと誰が断じることができようか。
 そうやって突き詰めていけば、本当に損得抜きで付き合える友人関係というものが、はたして本当に存在するのかどうかも疑わしくなってくる。恋人にしても配偶者にしても、そこにあるのは無償の愛ばかりではなく、大方はやはり損得の計算はあるだろう。
 動物と人間の関係にしても、「えさをくれる」「癒してくれる」というギブ・アンド・テークの関係が成り立っていると言えなくもない。「こいつだけは親友で、損得抜きで付き合える」という相手がいる人は、まあ確かに幸せだが、本当にその人と損得を考えずに付き合っていると言えるのか。
「何かあったら助けてくれる」とか、「寂しい時はいつでも会ってくれる」とか、その程度の計算や打算は当然働いているからこそ成立する関係もあるはずだ。
 それもないというのなら、友人が手ひどい裏切り行為をしたとしても、笑って許せるくらいの気持ちになれない限りは、「損得はない」と言い切れないのではないだろうか。
 だから僕は、本当に損得のない相手と会うと、話すことすらなくなってしまう。昔の同級生に会っても、「お互い年取ったもんだ」「何だ、お前のその腹」といった会話を交わせば、もう話すこともない。

 ところが、漫画やアニメの世界はもう、友情、友情のオンパレードだ。ハリウッド映画にしても同じである。確かにその中では、損得抜きの友情が描かれる。どんなにひどい目に遭わされても、「お前はオレの大事な友達だ」と主人公が彼や彼女を助ける。美しい主人公たちは、時に自分の命を狙う相手にさえ、友情を発揮することがある。
 それに比べて、僕たちは何と薄汚れた存在なのだろう。打算がなければ人と付き合うこともできない。損得でしか、友達を作ることもできない――。虚構の美しい友情を見せられて、そんなふうに若者が考えはしないか、と心配になるくらい美しい友情で、映画やアニメや漫画やドラマの世界は満ち溢れている。だが、現実はそうではないのだ。
 第一章で述べたようなデマゴギーが、ここにもひとつあった。漫画やアニメで描かれた友情など、未来からやってきた殺人ロボットと同じくらいに、いやそれよりももっと虚飾に満ちた表現だ。
 少なくとも僕は、そんな友情を描いたことはこれまでにただの一度もない。学園コメディーである『うる星やつら』には主人公の友人たちが何人も登場するが、あの中で描かれるのは主人公たちの欲望であって、その欲望を実現するために誰と誰が共闘し、誰と組むのが有利かという、そういう関係だけだ。それこそが、現実世界で「友人関係」と呼ばれているものの実態に近いと僕は考えて、アニメーションにしたのである。
 僕自身はどうかというと、やはり価値観を共有できる人間としか付き合えなかった。ということは、つまり、損得でしか人と付き合えなかったということだ。だから、彼女がいくら欲しくても、民青や革マルの女の子と付き合うわけにはいかなかった。

(中略)

「友人は手段」という言い方は、「友情は美しい」というより、ずっと冷たく聞こえるかもしれない。でも、そう割り切ってしまえば、別に友達がいようがいまいが、そんなことは気にならなくなる。仲間外れにされようと、同級生から無視されようと、そんなことはどうでもよくなってくるはずなのだ。
 ところが、世間があまりに美しい虚構の友情を若者たちに押し付けるから、どうしても友人の少ない人間はどこか欠陥人間のような見方をされてしまう。そしてその傾向は、近年ますます強くなっているようだ。
 ある広告会社の調査によれば、「あなたは何人の友達がいますか?」と子供に聞くと、現在は昔よりかなり友達が増えているという。少子化で自分の周囲にいる子供の数は相当減っているのに、友達の数は逆に増えている。
 この珍現象はつまり、現在は動機なくして友人を作る時代になったということの表れなのだろう。友達を作るのは何かを生み出したいからではなく、友達を作ることそのものに、若者が価値を置き始めているからなのだ。手段が目的になったということである。
 だから、友達を作ったからといって、その友達と何かを成し遂げようと考えているわけではない。友達が多い人、というふうに周囲から見られることだけが自己目的化している、というわけだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読みながら、僕は「そんなふうに『仕事上有用な相手』との付き合いだけで生きていけるのは、あなたが『世界のオシイ』だからなのでは……」と言いたくなってしまったんですよね。確かに、押井さんほど「仕事に充実感を得られる人」であれば、それでいいのかもしれないけれど、世の中の人の大部分にとっては、仕事というのは、「生きていくための手段」でしかないわけで。
 押井守にはなれない僕らとしては、仕事の後に一緒にお酒を飲んで「憂さ晴らし」をするための「友達」だって必要なのです。

 しかしながら、「友人は手段」と考えるのは、けっして悪いことではないと僕も思います。自己否定の泥沼に陥らないためには、たしかに有効かもしれません。
 僕も「友達」が少ないので、「あなたの親友は何人?」なんて聞かれると、ちょっと落ち込んでしまうのです。そもそも、そう問われたときに「じゃあ、どういうのが親友?」「あいつを『親友』って言ってしまっていいのだろうか?」と悩みますし。
 僕にとっての「親友」のイメージって、太宰治の『走れメロス』の、メロスと彼の身代わりになった友人・セリヌンティウスなのですが、物語のなかでは、このふたりですら、お互いのことを「ちらと疑った」のですよね。
 そうやって考えていくと、厳密な意味での「親友」なんて存在することのほうが奇跡的なのではないかと。

 でも、「いつもケータイでメールのやりとりをしているから、あの子は『親友』」って答える人もいますし、それが間違っているというものでもありません。定義が曖昧なものを「何人」って聞くほうが間違っているのですが、こういう質問に「ゼロ」とか答えるのって、それだけで「人生終わってる」ような気がするんですよね、自分自身でも。

 そういうタイプの人間にとっては、「損得抜きの友達なんて、いなくてもいいんだ(あるいは、いないのが当然なんだ)」というこの押井さんの考えには、けっこう勇気づけられるのではないでしょうか。

 この文章のなかで、押井監督は、自らの出世作であるアニメ『うる星やつら』での「友人関係」について書かれているのですが、押井監督は、【あの中で描かれるのは主人公たちの欲望であって、その欲望を実現するために誰と誰が共闘し、誰と組むのが有利かという、そういう関係だけだ】と考えておられたようです。そして、【それこそが、現実世界で「友人関係」と呼ばれているものの実態に近い】と。
 原作者である高橋留美子さんも同じ考えだったかどうかはわかりませんし、物語のなかでは、「損得抜き(あるいは、損得度外視)の友情」が描かれているように思われる話もあったのですけど、そう言われてみれば、『うる星やつら』というのは、荒唐無稽な話のように見える一方で、ものすごく「学園生活の雰囲気」みたいなものを内包していたような気がします。
 こいつらは、どうしてこんなに節操がないんだ!と呆れる僕もまた、節操がない学生だったのだよなあ。

 こういう「身も蓋も無いこと」が書けるのは、やっぱり、「押井守の特権」だと感じますし、「凡人」としては、それなりに「友達らしき人」がいたほうが生きていきやすいとは思います。
 「損得抜きの友達」なんて、「現実にはありえないファンタジー」だからこそ、漫画やアニメの世界では必要とされるのかもしれませんね。

 『うる星やつら』が、あの時代の孤独なオタクたちにあれほど愛されたのは、押井さんからのメッセージをみんな無意識のうちに受け取っていたから、なのだろうか……