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2008年06月08日(日)
三谷幸喜さんが「僕は映画監督として結構いけるんじゃないか」と思った理由

『BRUTUS』2008/6/15号(マガジンハウス)の特集記事「ザ・三谷幸喜アワー」より。

(特集のなかの三谷幸喜さんと糸井重里さんの対談記事の一部です)

【三谷幸喜:映画の世界は職人さんであふれていますが、実は一番の職人は俳優じゃないかと思うんです。例えば、佐藤浩市という役者はすごい職人。どこから撮られるか、どのへんまで映っているのかということを常に意識して、芝居をされる。

糸井重里:あの役を、ちょっとだけわざとらしいアホなアクション俳優にするのは簡単だと思うんだけど、佐藤さんはあいつを見ていて泣けるというところを残している。そんなにできる人はいないですよね。それに、あの髪の毛の分量がちょうどいい。もし、あれが藤岡弘の分量になると多いんですよ。

三谷:トゥー・マッチな感じ。一般人としてはちょっと多い。でも、あれより髪が薄かったら、ちょっと哀しすぎる。

糸井:同じく、深津絵里さんのグラマーじゃないぶりも素晴らしかった。もう少し肉があると必死のずるさが出ない。そして、西田敏行さん演じるボスが深津絵里さん演じるマリを本当に好きなんだということが、ちょっと肉が増えると、「あっ、肉ごとだな」と……。

三谷:生々しくなりますよね。あれより細かったら、またちょっと。

糸井:それが同情になったり。

三谷:そう考えると、監督をするということはどういうことか、おぼろげなから見えてきた気がして。それは、アングルを決めるとか芝居をつけるということだけではなく、もっと本質的なもの。極端に言えば佐藤浩市の髪の量とか座り方とか、監督が全部決めなきゃいけない。そういうところにこそ監督の真価が問われるんじゃないか。

糸井:サイズとか色とか天気とか仕様書には書きづらいけれども、頭の中では分かってるスペックみたいなものがセンスなんでしょうね。

三谷:ただ、そこに注目する人はまずいない。髪の量がよかったみたいなことを言うのは糸井さんくらいです。でも、本当に大事なのは、そういうことなんだなという気がしています。

糸井:今はマーケティングの時代ですから、話し合ったら分かるということは、頭のいい人はみんなさんざんやるんですが、それはやっぱりおもしろくなくて、「いや、できちゃったんだよ」という感じ、それを信じ込むというか、佐藤浩市の髪の分量というのは、佐藤浩市という運命を信じるしかない。感動という言葉もなんですけれども、「いいな!」と思うのはそこでしたね。

三谷:でも、髪の分量でキャスティングしたわけじゃない(笑)。

糸井:もちろん(笑)。

三谷:それはもう運命ですよね。

糸井:運命です。運命ごとキャスティングしている。深津さんのグラマーじゃないぶりというのも、それで選んだというわけじゃないですからね。西田敏行をどう描きたいかというところに西田さんの知性のあり方に対する敬意があって、その敬意を払う西田さんが選ぶ本当に好きな女というのは、ふらふらと下半身でいっちゃったものでは困る。監督はそこまで書いてはいないけど、当然知っているはずで、お客さんに「うれしい」と思わせるのはそこなんですよね。

三谷:僕は、自分が映画監督として才能があるとずっと思ってなくて、むしろないと思っていたぐらいで。映画は大好きでずっと観ていたんですけど、やっぱり脚本家として観てしまうので、「この伏線の張り方はおもしろいな」「このホンはよく出来てるな」という見方はするけど、「この演出はすごいな」「このカット割りはいいな」と思って観たことが無かったので、自分で映画を撮る時も、決して映像寄りではない。「なんて自分はアングルの見つけ方がへたなんだろう」とか、現場を引っ張っていくという意味でも、「監督としてなんて自分は不適格なんだろう」ということばっかり。ただ、結果的にその映画が豊かになっていくことにつながっていく細かいことを決めていく段階で、無意識のうちに何かを選ぶ、AとBのうちのAを選んだとか、この色を選んだとか、この帽子を選んだとか、そういう一見瑣末に思えることに関しての選択が間違えていなかったとしたら、ひょっとしたら僕は映画監督として結構いけるんじゃないかと、今回、ほんのちょっと自信が持てたわけです。もちろん、それ以外のずっと僕がだめだと思ってたことはいまだにだめなんですけども……。】

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 最新作『ザ・マジックアワー』も絶好調の三谷幸喜さん。映画好きなら誰しも、「自分で映画監督をやってみたい」と思うもののようですが、この話を読んでみると、実際の監督の仕事というのは威張って周囲に指示を出していればいい、というものではなくて、いろんな細かいところを決めるのもまた、監督の仕事なんですね。もちろん、その監督の主義や映画の予算などによって、「細かいところにはタッチしない」あるいは、「自分で決められる範囲が限られている」場合もあるのでしょうけど。

 映画監督であれば、「出演する俳優」や「ロケを行う場所」などは自分で決めたいでしょうし、それが監督の仕事であるというのはよくわかるのですが、「佐藤浩市さんの髪の毛の分量はどのくらいがベストなのか?」なんてことは、かえって決めるのが難しいのではないかと思われます。もちろん、あまり細かいことにこだわらない監督もいるのでしょうけど、それでも、誰かがそういうところを決めていかないと、映画の撮影は進んでいかないはず。なにげないシーンのようでも、「決めなければならないポイント」はけっこうたくさんありそうです。登場人物の服装ひとつ決めるのだって、大変なんじゃないかなあ。
 「雨が降っている」というシーンにしても、それが映画である限り、「どのくらいの雨が降っているのか?」というのを誰かが決めなければならないのです。「そんなことはどうでもいい」と言いたいようなことにこだわらなければならないのが、「映画監督」なんですね。
 アドバイスしてくれる人はいるとしても、最終的にゴーサインを出すのは「監督」でしょうし。

 こういう話を聞くと、「そんなの映画の内容とは関係ないし、どうでもいいんじゃない?」って考えがちなのですが、観客になってみると、「なんかこの役者さん、この役のイメージと違うんだよなあ」とか、「この主人公、こんなセリフを言うような人じゃなさそうなんだけど……」「『ものすごく感動的な夕日』のシーンのはずなんだけど、なんかありきたりの風景だよなあ」と感じることは、けっして少なくありません。

 たぶん、そういう「小さな選択」が必要なときに自覚的、あるいは無意識のうちに、「多くの観客にとってちょうどいいところ」を見極められる人が「名監督」なのでしょうね。