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2008年03月17日(月)
私がアメリカの高校生だったころ、美術教師にもらった「忘れられない助言」

『モテたい理由』(赤坂真理著・講談社現代新書)より。

(「終章・戦争とアメリカと私」の一部です)

【今でもアメリカが大好きなことは変わっているとは思えない。
 いくらアメリカ車よりヨーロッパ車がカッコイイと思っていても、美食やブランドはヨーロッパに限ると思っていても、戦後の日本人が、ヨーロッパに学ぼうとすることはほとんどない。今でも、学ばなければと強迫的に思いつめているのはアメリカの価値であり、言語であり、アメリカが広報した「夢の感じ」である。経済の底が上がった分、それは大衆に浸透した。
 そうでなければ、「早期教育」がその実ただの「英会話」だったり、米国籍は将来有利になるかもしれないから米国で出産しようとしたりそれを援助するビジネスがあったり、両親のどちらも英語を話さないような家の子が「国際人になるために」インターナショナルスクールに入れられたりということが多くあるわけがない。自国文化よりあっちの文化のほうがよい、と親が思って子供を入れた時点で、子供はあっちの文化内の「二級市民」確定、なのに。そのうえ英語教育はオーラル(口語)偏重主義を年々強めている。「日本人たるもの、いい発音の英語くらい話せなくては恥ずかしい」というかのようだ。
「外国語教育がオーラル中心なのは植民地の証」と言ったのは内田樹だが、賛同する。読み書き中心ならば、すぐにネイティヴの教師より立派な作文をしたりする子が現れる。それは宗主国には都合がよくないことだ。しかし口語至上である限り、「それは発音がちがう」とか「そういう言い方はしないんだな」と、ネイティヴスピーカーであるというだけの人間が、優位に立てる。しかしその植民地主義を、日本人は自ら好んでどんどん取り入れている。
 言葉だけできたって、単にふつうのこととしてネイティヴスピーカー社会の下層に入れるだけだ。
 なまじネイティヴみたいなのはかえってよくないこともある。私がアメリカの高校生だったころ、忘れられない助言をアメリカ人の美術教師にもらった。
「あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴がなくなる。アメリカ人はあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね」
 なまじ発音がネイティヴ並みというのは、何かミスコミュニケーションをしたとき、それが言葉の技術的なことかもしれない、と考えてもらえないということである。
 この価値が、今の私にはよくわかる。いまだに、これより有効な異文化アドヴァイスを私は知らない。当時はわからなかった。ご多分にもれず私もアメリカ人になりたかったのだ。二十年も経ってわかる最良のアドヴァイスというのもある。こういうのを人が生きる希望というのではないだろうか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「15から16になる年」にアメリカへの留学を経験し、3年くらいの予定だったのに馴染めず1年で「挫折」してしまったという赤坂さんの言葉です。

 僕は英語が苦手なのですが、仕事上「もっと英語を勉強しておけばよかったなあ」と嘆くことは多いのです。ちゃんと勉強していれば、新しい知識を効率よく取り入れられるのに、とか、論文を書くときに、「英語の論文での表現のしかた」から学ばなくてもいいのに、とか。

 もちろん、この文章のなかで、赤坂さんは「英語なんてできなくてもいいのだ」と主張されているのではないはずです(そういうふうに誤解する人もいそうなのですが)。

【あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴がなくなる。アメリカ人はあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね】
 というアメリカ人の美術教師からの「アドヴァイス」は、たしかに、とても素晴らしいものだと思います。そして、そのアドヴァイスが、「英語をネイティヴのように話せることが正義だ」と考えていた若い頃の赤坂さんには、ものすごく違和感があったのも、よくわかるんですよね。
 
 僕たちだって、「日本語を流暢に話す外国人らしい外国人(主に西洋人)」に対しては「すごい!」「日本語お上手ですね」と手放しに褒めるのですが、アジア系の人が喋る「自然に近い日本語」に対しては、けっこうあら捜しをしてしまいがちです。助詞の使い方がおかしいとか、発音がヘンだとか。
「ワタシ中国人アルネ」みたいな喋り方をしている中国の人なんて、実際にはいないはずなのに。
 そして、相手が流暢に言葉を使いこなす人であればあるほど、微妙なニュアンスの違いや失礼な言い回しに対する「許容範囲」は狭くなりがちなんですよね。
 日本語がほとんど喋れない外国の人に対して「敬語も使いこなせないなんて……」と憤る人はほとんどいないのに、相手が「日本人の若者」であれば、「最近の若者は……」と感じる人も多いはずですし。

 中途半端に「使いこなせてしまう」ことによって「ミスコミュニケーション」が起こってしまう可能性はけっして少なくありません。外交の席で「お互いに自国の言葉で喋って、通訳を介する」というのは、こういう危険性が認識されているからです。

 「英語ができる」というだけで、僕たちはひとつの「価値」だと考えがちだけれども、アメリカ社会の側からみれば、たしかに「言葉だけできたって、単にふつうのこととしてネイティヴスピーカー社会の下層に入れるだけ」なんですよね。身も蓋もない言い方だけど、実際そうなんだと思います。
 たぶん、この美術の先生が赤坂さんに言いたかったことは、「英語がうまくなるのは損だ」という話ではなくて、「アメリカ人の真似をして、日本とアメリカの真ん中で宙ぶらりんになるのではなくて、『日本人としての個性』をしっかり磨きなさい」ということだったと僕は思うのです。
 そのほうが、「ネイティヴっぽい」発音ができるようになるより、よっぽど「言葉を活かす」ことにつながるから、と。

 ただ、こういうのって、あくまでも「それなりに英語ができる人の話」ではあるんですけどね。なんのかんの言っても、今の日本で堂々と英語を避けて通るというのは、英語を勉強するよりもっと「難しい」ことのような気もしますし。