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2008年02月29日(金)
「所詮、『忙しさ』なんてその程度のものだ」

『工作少年の日々』(森博嗣著・集英社文庫)より。

(「忙しさとは」というエッセイの一部です)

【そうだ。今日は、飛行場の草刈りだった。これも一般に意味が通じないと思うので説明しよう。ラジコン飛行機のクラブに入っている。あれは、スネ夫君みたいに住宅街の空き地や公園で飛ばせる代物ではない。道路も人家も近くになく、とてつもなく広い場所が必要で、それでも万が一の事故に備えて保険に入るくらいなのである。僕は三重県にあるラジコン飛行機のクラブに入っている。もう20年近くそこのメンバだ。高速道路を飛ばして1時間ほどかかるところにクラブが管理する模型専用の飛行場があって、周囲は田園と川、滑走路は長さ100メートル幅20メートルほどの一面の芝。その周囲の雑草を年に2回刈る。このイベントが「飛行場の草刈り」である。
 メンバは、この草刈りには絶対に欠席できない、というルールがあって、どんなことがあっても行かなければならない。雨でも中止になったことはない。根性の草刈り大会である。
 40人くらいのおじさんたちがメンバで、僕はだいたい年齢的に真ん中くらい。医師も会社員も議員も公務員もいるが、何の仕事をしているのかは、まったく話題にならない。飛行機の話しかしないからだ。普段の週末には10人も集まれば多い方であるが、草刈りの日は全員参加。大勢が一斉にエンジン草刈り機を回して1時間半ほど作業をする。僕自身、ここ以外で草を刈ったことは一度もない。草刈りは飛行場でするものだと思っている。草刈り機はクラブ所有のものが20機ほどあるのだが、自分の草刈り機を持ってくる人も半数近くいて、それがとても羨ましい。僕もいつかマイ草刈り機を持ちたいと考えているが、どうも1年に2回だけしか使わないものだという気がして、なかなか買えずにいる。だいたい、草刈り機が載せられるような自動車が森家にはない、という家庭の事情もあるため、もし草刈り機を買うならば、そのまえにまずそれ用の自動車を1台買う必要があるだろう。
 さて、何が言いたいのかといえば、どんなに忙しくてもメンバは全員草刈りにやってくる、所詮、「忙しさ」なんてその程度のものだ、ということだ。
 忙しさというのは、結局のところ、「忙しく」見せかけて、「やりたくないこと」から自分を防御するための偽装にすぎないのでは、という気がしてならない。
 多くの忙しさは、自分で望んで設定した忙しさだったりする。もっと早くやっておけば良かった。ぎりぎりまでやらずにいたのは、忙しくしないとできないほどつまらないものなのか、あるいは、ぎりぎりにやった方が短期決戦になって好都合なのか、誰かがやると思って様子を見ていたけれど、予想どおり誰もやらなかったものなのか、いろいろケースはあるにせよ、どれも、自分で予想して招いた(あるいは育てた)忙しさなのである。現に、「来週から再来週にかけて、忙しくなるから」なんて口にしたりするではないか。忙しくなることが予想できているのだ。予想できている忙しさなら、事前に何か手を打って回避すればよさそうなものだが、それもしないところをみると、なんとか凌げる程度の、取るに足らない「小粒の忙しさ」であるということ。本当に、どうしようもない「ジャイアントな忙しさ」なんてものは、まずお目にかかったことがない。
 いや、うちの会社では、もの凄い忙しさがある、という方もいるのかもしれない。死にものぐるいでやらないと、本当に過労死してしまうくらい忙しいのだ、と主張する人もいるだろう。しかし、現代の日本では奴隷制度はない。真面目な話、死ぬほど忙しいのならば、そんな仕事は辞めれば良い。死ぬくらい辛いのならば、転職すれば良いだろう。それをしないのは、ある意味で、今のその状況をあなたが望んでいるから、と言われてもまちがいではない。そう、忙しくしているのが好きな人は、しかたがない。ほら、またなんか能力開発セミナっぽい話題になっている。違う違う、そんな話がしたいのではないのだ。
 つまりはですね、「毎日徹夜だよ」と忙しさを強調し、自慢げに話す人間が、どうも好きになれない、ということ。極端にいえば、「勝手に忙しくしていたら?」と思う。
 中には、自分がこんなに忙しいのだから、みんなも忙しくしなくては駄目だ、という理不尽な論理を展開する人もいる。忙しさは、あくまでもその個人が望んでいる状況、甘んじている状況なのであって、大勢で共有したり、他人に強要するのはお門違いである。どうも、日本の仕事場というか、古い組織の体質というか、そういう観念がまかり通っているように思えてしかたがない。ある人は忙しく仕事をする。別の人は暇そうに仕事をする。どっちでも良いではないか。評価は、その人の仕事の結果を見れば良いだけだ。つまり、忙しくしているかどうかは、怒った顔をして仕事をしているか、笑いながら仕事をしているか、くらいの差でしかない。怒りたい人は怒って、笑いたい人は笑って仕事をすれば良いことなのに、みんなで一丸となって怒った顔をしよう、という発想が貧しい、と思う。ま、そんなところですゥ。】

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 この本に収録されているエッセイは、『小説すばる』の2002年11月号から2004年4月号に連載されていたそうですから、1957年生まれの森さんが40代半ばのときの話です。その年齢で、「年齢的にメンバの真ん中くらい」だそうですから、ラジコン飛行機というのは、「オトナの趣味」ということなのでしょうね。まあ、確かにお金かかりそうだものなあ。
 著者の森さんは、大学の教官と人気作家という二束のわらじを履いていて、どう考えても、ネットでしょっちゅう「忙しい忙しい」とばかり言っている人よりも「忙しそう」にみえるんですけど、このエッセイを読んでいると、「週末のほんの数時間」だけしか「趣味の工作」の時間がとれなくても、その時間は濃密なもので、かなり人生を楽しんでおられるように感じれます。

 この「年2回の草刈り」の話を読んでいると、確かに、どんなに「忙しい人」でも、本当に自分がやりたい、あるいはやらなければならないことのために時間をつくることは、けっして不可能ではないのだな、と思います。
 ここで森さんが挙げられているメンバーたちの職業や年齢からすれば、普段は、「なんで俺が草刈りなんか!」という人もいそうですよね。
 ところが、彼らは、「愛するラジコン飛行機のため」ならば、万難を排して、たかが「草刈り」のために、駆けつけてくるのです。
 アメリカの大統領や日本の首相、あるいは超売れっ子芸能人や大企業の社長ならさておき、ほとんどの「忙しい忙しいとくり返している人」の「忙しさ」っていうのは、「所詮、その程度のもの」なのです。「時間がない」のではなく「時間をつくろうとしない」あるいは、「時間を有効に使えない」だけのこと。

 雑誌の編集者や漫画家の「締め切り前の忙しさ」なんて、「普段から同じペースで仕事しておけば、ギリギリになってそんなに「忙しくなる」必要はないのかもしれませんし。

 もちろん、職種によっては、瞬間的な「忙しさ」を回避できない場合っていうのもあるんですけどね。
 医者でいえば、「当直のときに救急車が2台続けて入ってきた直後に心筋梗塞の患者さんが直接自家用車で来院」とか、警察官にとっての「立て続けの犯罪発生」とか、電力会社にとっての「自然災害からの復旧」のようなケースでは、「その『忙しさ』は、避けようがない」のも事実です。
 ただ、実際は、どんなに「忙しい人」であっても、「自分にとってどうしても大事な用事」であれば休むことは可能だし、「少し余裕がある時期」もあるのではないでしょうか。
 そもそも、「そんなに忙しいんなら、愛人の家に毎晩通うのをまず止めろよ」なんて言いたくなる人も多いですよね。

 いつも「忙しい」「帰りが遅い」と周囲にアピールしている人にかぎって、昼間は居眠りしていたり、だらだらと病棟で看護師さんと雑談していたり、という実例を僕もたくさん見てきましたし。
 また、そういう人に限って、「○○はいつも帰りが早い」なんて陰口を言ったりするんだよなあ。「実際に働いている時間」は、むしろその人のほうが多いくらいなのに。

 しかしながら、今の世の中では、「忙しい忙しいって言い続ける」っていうのは、ある意味「自分を守るための手段」でもあるんですよね。
 余裕がある(ように見える)人のところに、どんどん仕事が押し付けられていくという現実を僕はずっと見てきましたし、同じ仕事をしていても「忙しそうにみえる人」のほうを評価する上司も多いので。
 そして、僕のような「とくに人並み外れた才能も技術もない人間」は、森さんのように「評価は、その人の仕事の結果を見れば良いだけだ」と啖呵をきるほど「仕事ができている」わけでもないので、せめて「忙しさアピール」でもするしかないわけです。「でも、こんなに遅くまで頑張っているんですよ」って。

 でもまあ、「みんなで一丸となって怒った顔をしよう、という発想が貧しい」のは確かです。そもそも、「忙しさアピール」って、現場で一緒に働いている人にとっては、単に「余裕の無いヤツだ」という評価しか受けないことも多いのですけどね。