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2008年02月17日(日)
女優・中谷美紀の「自然な演技」の秘密

『ないものねだり』(中谷美紀著・幻冬舎文庫)の巻末の黒沢清さんによる「解説」の一部です。

【今でも強烈に印象に残っている撮影現場の光景がある。中谷さんに、沼の上に突き出た桟橋をふらふらと歩いていき、突端まで行き着いてついにそれ以上進めなくなるという場面を演じてもらったときのことだ。これは、一見別にどうってことのない芝居に思える。正直私も簡単なことだろうとタカをくくっていた。だから中谷さんに「桟橋の先まで行って立ち止まってください」としか指示していない。中谷さんは「はい、わかりました。少し練習させてください」と言い、何度か桟橋を往復していたようだった。最初、ただ足場の安全性を確かめているのだろうくらいに思って気にも留めなかったのだが、そうではなかった。見ると、中谷さんはスタート位置から突端までの歩数を何度も往復して正確に測っている。私はこの時点でもまだ、それが何の目的なのかわからなかった。
 そしていよいよ撮影が開始され、よーいスタートとなり、中谷さんは桟橋を歩き始めた。徐々に突端に近づき、その端まで行ったとき、私もスタッフたちも一瞬「あっ!」と声を上げそうになった。と言うのは、彼女の身体がぐらりと傾き、本当に水に落ちてしまうのではないかと見えたからだ。しかし彼女はぎりぎりのところで踏みとどまって、まさに呆然と立ちすくんだのだ。もちろん私は一発でOKを出した。要するに彼女は、あらかじめこのぎりぎりのところで足を踏み外す寸前の歩数を正確に測っていたのだった。「なんて精密なんだ……」私は舌を巻いた。と同時に、この精密さがあったからこそ、彼女の芝居はまったく計算したようなところがなく、徹底して自然なのである。
 つまりこれは脚本に書かれた「桟橋の先まで行って、それ以上進めなくなる」という一行を完全に表現した結果だったのだ。どういうことかと言うと、この一行には実は伏せられた重要なポイントがある。なぜその女はそれ以上進めなくなるのか、という点だ。別に難しい抽象的な理由や心理的な原因があったわけではない。彼女は物理的に「行けなく」なったのだ。「行かない」ことを選んだのではなく「行けなく」なった。どうしてか? それ以上行ったら水に落ちてしまうから。現実には十分あり得るシチュエーションで、別に難しくも何ともないと思うかもしれないが、これを演技でやるとなると細心の注意が必要となる。先まで行って適当に立ち止まるのとは全然違い、落ちそうになって踏みとどまり立ち尽くすという動きによってのみそれは表現可能なのであって、そのためには桟橋の突端ぎりぎりまでの歩数を正確に把握しておかねばならないのだった。
 と偉そうなことを書いたが、中谷美紀が目の前でこれを実践してくれるまで私は気づかなかった。彼女は知っていたのだ。映画の中では全てのできごとは自然でなければならず、カメラの前で何ひとつゴマかしがきかないということを。そして、演技としての自然さは、徹底した計算によってのみ達成されるということを。ところで、このことは中谷さんの文章にもそのまま当てはまるのではないだろうか。】

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 もし僕が役者で、「桟橋の先まで行って、それ以上進めなくなる」という台本を受け取ったら、どんな演技をしていたでしょうか?
 たぶん、「こんなシーン、全然『見せ場』じゃないなあ」なんて思いながら、ただ、桟橋の先まで行き当たりばったりで歩いていって、突端のところで驚いたような表情をして……という感じだと思います。「自然に歩き」「自然に驚く」ようにしよう、なんて考えながら。

 しかし、ここに書かれているように、演じる側は、その桟橋で、自分が「先に行けない」ことを台本で読んで知っています。つまり、「予備知識がある状態」なんですよね。
 その状態で、「自然な演技」をするというのは、かなり難しいことなのです。

 「道端でいきなり昔の恋人に出くわす」という状況では、多くの人が「びっくりする」はずです。
 ところが、「演技」というのは、事前に「あなたは今日道端で昔の恋人にバッタリ出会うことになってるから」と言われている状態で、「自然に驚いているように見せなければならない」のです。
 あらためて考えてみると、これってけっこう難しいですよね。「自然に驚いているように見せよう」とすればするほど、かえってわざとらしくなってしまいそう。

 結局、中谷さんは、「どうやって『自然な演技』に見せるか?」という難問を「自然な演技を心がけました!」なんていうような「精神論」で解決するのではなく、「自然なリアクションの場合はこういう動きをするはずだから、それに準じて精巧に演じる」という「技術」で克服しようとしたのです。

 このエピソードをあらためて読んでみると、この中谷さんの「こだわり」に驚かされるのと同時に、映画監督である黒沢さんが驚かれたということですから、ここまで考えて「演技」をしている「役者」いうのは、けっして多くはない、ということなのでしょうね。
 いろんな役者さんのタイプがあるのでしょうが、「自然な演技」ができないのは精神面の問題だと考えて伸び悩んでいる人って、けっこういるのではないかなあ。

 この話、実は「演技」に限ったことではありません。
 一般社会でも「いつも自然体」に見える人って、けっして「好き放題やっている」わけでなくて、ちゃんと「(相手に好感を与えるような)自然体を演じている」場合がほとんどです。
 「自然体」を生み出すには、「本当に何も考えていない」か、「完璧な演技をする」かという両極端の方法しかない、というのも、なんだか不思議な話ではあるのですけど。