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2007年11月23日(金)
「今日、『ママン』が死んだ」

『週刊SPA!2007/11/13号』(扶桑社)の「文壇アウトローズの世相放談・坪内祐三&福田和也『これでいいのだ!』」第264回より。

【福田和也:昔は、けっこう若いのにノーベル賞をやったのにね。カミュなんて44歳でしょ。

坪内祐三:若いよね。「名誉功労賞」化しつつあるからね、いまのノーベル文学賞は。

福田:フォークナーが52歳で、最年少はイギリスのキップリング。41歳で受賞でしょ。

坪内:村上春樹だって、いまも若い感じがしてるけど、もう60歳近いんだよね。じき還暦なんだよ、赤いチャンチャンコ。

福田:ですよね。

坪内:キャラは若いけど、大江(健三郎)さんが受賞したときと、すでに年齢は、さほど変わらなくなってきてるんだから。

福田:還暦になって、いつまで一人称を「僕」で押し通すのかっていう問題はあるね。村上春樹が、一人称を「僕」から「わし」に変えたら……。

坪内:「僕」っていう一人称、どう思う? 耐用年数とか、耐用キャラクターって、やっぱりあるもんだろうか。「僕は……」って文章、書いたことある?

福田:ないと思うけど……でも、いや、恥ずかしいことは何でもやったからなぁ。「俺」と「私」は覚えているけど。でも、「僕」もやってるかもしれない。いや、わからない。書いてる可能性がないとは言い切れない。

坪内:福田さんがいまから「僕」派に転向というのも面白いよね、急に。女の子で「ボク」もいるでしょ。

福田:水森亜土か!?みたいな感じだよね。

坪内:男で一時「あたい」っていう言い方があったじゃない?

福田:痛々しいね、なんか。

坪内:野坂昭如さんは一人称で悩んで、「保坂庄助」って架空のキャラクターを作ったりしてた。あと一人称で、「小生」ってのもあるよね。「小生、このたび定年を迎えて……云々かんぬん」とかさ。似合わず使ってる人がいる。

福田:「小生」ってね、「自分は小さい人間で」っている謙遜語だからね。最初から相手に、「おまえは小さいんだ」って思われてる人は、使う意味がないから。

坪内:雑誌なんかの原稿では悩まないんだけど、手紙やはがき、特に年上の人に対して返事を書くときの主語って、オレ悩むんだよね。

福田:そうですね。

坪内:「私」っていうのも変だし、もちろん「僕」とか「おいら」じゃおかしいし。すると、「小生」が一番収まりがいい気もするし。

福田:場合によっては、「小生」とか「愚生」って一人称を使いますよ。

坪内:「小生」で手紙を書いて……でも、読み返すと、やっぱり、そこだけ浮いちゃってたりねえ。

福田:石原慎太郎さんには、変な謙譲の仕方をすると、かえってバカにされるから、ちゃんと「私」って一人称を使うほうがよさそうだ、とかね。やっぱり相手見てやりますよね。

坪内:結局、考えたあげくに、そこは日本語の便利なところで……主語抜きでも文章が作れるからさ。田中小実昌さんはハードボイルド小説を翻訳するときに「I」っていう単語を、「私」や「俺」に訳したくなくて、主語なしで語らせてるんだよね。ドナルド・ハミルトンの『誘拐部隊』だっけな。

福田:主語というか、人称の翻訳問題で、最近になって凄さに気づいたんだけど、カミュの『異邦人』の窪田啓作訳で、最初の一文が「今日、ママンが死んだ」と。あれ普通に訳せば、今日お母ちゃんが死んだとか、母が死んだというのを、わざとそこだけカタカナで「ママン」にしている。その瞬間にもう、『異邦人』のベストセラーは決まったようなものですよ。あれは凄い。「ママンの恋人という男が来た」というのと、「母の恋人という男が」とでは、全然違うからね。窪田啓作は天才だと思うよ。今後誰かが、どんなに頑張って『異邦人』の新訳やっても同じだよね。だって、「ママン」と書くしかないだろうって。】

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 村上春樹さんは、1949年の1月生まれですから、もうすぐ59歳になられます。現在でもフルマラソンを走られているくらいなので体は頑健なのだと思いますが、年齢だけで言えば、孫がいてもおかしくないんですよね。僕たちは、村上さんの「僕」にずっと慣れていますから違和感はないのですが、あらためて考えてみると、還暦近くにもなって自分のことを「僕」なんて言う人は、あんまりいないのではないかと。村上さんが作中だけでなく、私生活でも自分のことを「僕」をおっしゃっているのかどうかはわからないし、御本人としても「もう、『僕』って年齢でもないけど、作品でも、いまさら『小生』なんていうのもヘンだしなあ」と逡巡されているのかもしれませんけどね。
 村上さんの「僕」や小林よしのりさんの「わし」なんていうのは、もう、本人のイメージとイコールになってしまっていますから、突然変えるというのもなかなか難しいのではないでしょうか。

 そもそも、男性で自分のことを「僕」と日常的に言っている人というのは、そんなに多数派ではないような気がするんですよね。都会ではどうなのか知りませんが、少なくとも九州では、「僕」というのは、「カッコつけちゃって……」という、むずがゆい印象を周囲に与える一人称なのではないかと思います。

 そういえば、僕も昔から、自分のことを一人称で何と呼べばいいのか、ずっと迷いながら生きてきました。
 「ぼく」は、なんだか堅物っぽくて弱々しいし、「オレ」が似合うほど豪放磊落なきゃラクターでもない。「わたし」なんて、女の子じゃあるまいし……と、結局のところ、しっくりくるものが無かったんですよね。
 それで、このお二人の対談にもあるように「主語なし」「一人称なし」で会話をしていたことが多かった記憶があるのです。ちなみに、「二人称」も苦手で、目の前にいる友達に対しても、「きみ」なんて呼ぶヤツは田舎の小中学校にはいなかったし、「○○君」と呼ぶのはヨソヨソしいし、呼び捨てにすると気を悪くするかもしれないし、ニックネームで呼べるほど仲が良いわけでもないし……などと、けっこう悩んでいたのです。これも結局「主語なし」にしてばかりだったような。

 病院勤めをするようになって、唯一ラクになったことといえば、とりあえず目の前の人が医者なら「××先生」と呼んでおけば間違いがない、ということです。世間からは、「お互いに『先生』なんて呼び合っているのはバカみたい」なんて揶揄されることも多いこの業界の慣習なのですが、あれは、いちいちお互いに尊敬しあっているわけじゃなくて、プライドが高くてめんどくさい人がけっこういるので、無用の摩擦を避けるために生まれた慣習なのではないかという気がしてなりません。「オレのことを『先生』だなんて失礼な!」って人は、ほとんどいませんから。

 「人称」というのは、どうでもいいことのようで、実は非常に奥深いというか、それだけで相手に与える印象がかなり変わってしまうものではあります。
 ここでとりあげられている、カミュの『異邦人』のあまりにも有名な冒頭の一文、「今日、ママンが死んだ」も、普通に訳せば、「今日、母が死んだ」になるはずです。意味は同じはずなのですが、もし、そんなふうに訳されていたら、この一文は、ここまで人口に膾炙することはなかったのではないかと思います。しかし、これってリアルタイムで読んだ人は、「ママン?何これ……」って、椅子からずり落ちてしまったのではないかなあ。
 これにOKを出した出版社も只者ではないような気がします。

 「人称」というのは、シンプルなようで、なかなか一筋縄ではいかないものみたいです。
 僕にとっては昔からの悩みの種ですし、「お前は20年後も『僕』なのか?」と問われたら、ちょっと考え込んでしまいます。
 プライベートでは、現在も「一人称省略」の場合が多いんですよね。
 いまだに「自分」を確立できていないことの証拠なのだろうか……