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2007年09月24日(月)
「私のどこが好き?」と恋人や夫にたずねたとき、どう答えられるのが嬉しいですか?

『今、何してる?』(角田光代著・朝日文庫)より。

(「錯覚 Illusion」というタイトルのエッセイの一部です)

【私のどこが好き? と恋人なり夫なりにたずねたとき、どう答えられるのがうれしいか、というテーマで友達と話したことがある。どう、というのはつまり、内面をほめられたほうがうれしいか、それとも外見か、ということである。
 驚いたことに、外見をほめられたほうがうれしいにきまっている、と大半の女友達が答えた。顔が好み、脚が好き、目がぐっとくる、肩のラインがたまらない、だから好きだ、と続けてほしいらしい。なかには、尻のかたちがいいと今の恋人が言ってくれて、そのことに心底感動した、という人までいて、これはもう、驚きを通りこして不可解である。
 私は絶対的に内面派である。ココロがきれいだの性質がやさしいだのと言われたいのである。しかし私は内面をほめられたことがただの一度もない。手がいい、頭のかたちがいい、あげくのはては、うしろ姿がいいとほめられる。うしろ姿がいいと言われて喜ぶ女がこの世のなかにいるのだろうか。
 かくして私は外見派の女たちに反論する。顔は老けていく、脚なんかいつ太くなるかわからない、太ればでかい目も小さくなるし尻はどんどん垂れる、外見なんかすぐ変化してしまう、そんなものを好きの理由にされて何がうれしいのか。しかし外見派には外見派の信念があるらしい。内面なんかそれ以上に無意味だ、と言うのである。
 私はね。息巻いて友人まり子さんが言う。かつて恋人に、あなたのガラスのようなココロが好きだ、と言われたのよ。ねえ、私、そんな繊細な女だと思う? ――思わない。けっして悪い意味ではなくて、鋼級のたくましさを持つ女であると私は思っている。しかしだからこそ、ガラスのようなココロと言われてうっとりしたいのではないか。
 結局、外見派と内面派の接点は見いだせず、私のどこが好きかとつねに問われているはずの、男側にその話をしてみた。ねえ、本来なら内面をほめるべきだし、内面をほめられて喜ぶべきでしょう? と。しかし男友達1は、女たちとは少々違う見解を述べた。
 なあ、喧嘩するとするだろ? なんだこの馬鹿女、とか言ってぎゃあぎゃあ喧嘩しているときに、「でもこの女はココロがうんときれいだから」なんて、鬼婆みたいに怒っている彼女に対して思うか? 馬鹿女とか言いながら、「ああやっぱ、この目、おれ好きなんだよなあ」だの、「こいつこんなだけど脚だけはきれいだよなあ」だの思えば許せるものだし、最悪の事態をまぬがれることができるんじゃないかなあ。
 しかしさらに私は疑問を抱く。もし外見が変わってしまえば、喧嘩のあとで私たちは許されないのだろうか。昔は脚のきれいな女だったけど、もう見る影もない、喧嘩の最中にそんなことを思われて、憎しみ倍増なんてことになりかねないのではないか。

〜〜〜〜〜〜〜

「私のどこが好き?」という問いに対して、「外見をほめるべきではない」と僕はずっと考えて生きてきたので、この角田さんのエッセイを読んで、かなり驚きました。女性も「内面をほめられたほうが喜ぶ」ものだとばかり思っていたのに!

「人を見かけで判断するなんて最低!」「外見じゃなくて、中身をちゃんと見ておかないと」というのが「一般常識」で、そういうときに「顔がかわいいから」「スタイルがいいから」などと答えるのは、なんだか軽薄そうだし、言われたほうの女性は、「じゃあ、私が年を取って容色が衰えてきたら、好きじゃなくなるのね!」なんて気分になりそうですし。男性の場合は、男同士で「男は見かけじゃない!」なんてお互いに慰めあったりすることも多いですから。

 しかし、これを読みながらもう一度考え直してみると、「外見」より「内面」のほうが人間の真実なのだ、という「常識」そのものが疑問にも感じられてくるのです。
 僕は自分の外見にも内面にも自信はないのですが、自分なりの評価からすれば、「外見のほうが、より救いようのない状況」だと感じています。ところが、「内面」ってやつは、ほめられてもなんだかどうもしっくりこないところがあるんですよね。
「やさしい」「おおらか」「純粋」なんていうように「性格に対するほめ言葉」というのはたくさんあるのですが、こういうのって、実は、「やさしい」は「優柔不断」と、「おおらか」は「いいかげん、大雑把」と、「純粋」は「世間知らず」と表裏一体だったりするわけです。僕だって他人に対して、普段は「真面目でしっかりしている」だと感心しながらも、同じ人物に対して、ときには「杓子定規で融通がきかないヤツだなあ……」なんて批判的な感情を抱いたりします。誰かが僕のことを「やさしい」とほめてくれたとしても、それはあくまでも「好意的にみて」の評価でしかありません。僕はそんなふうに言われるたびに、「でも、この人はいつか僕のことを、『優柔不断な男』だと思うときが来るんじゃないかな……」と不安になるのです。

「内面」なんていうのは、「外見」よりもはるかに、それを評価する人の主観によって左右されやすいものではあるのですよね、実際には。付き合い始めた頃の彼女の「天真爛漫さ」は、気持ちが離れてしまえば「単なるワガママ」になってしまうことだって少なくありません。もちろん、相性が合っていて、ずっとお互いの美点だけしか見えない幸運なカップルだってこの世には存在するのでしょうが、長く一緒にいればいるほど、「長所と短所は紙一重なのだ」と感じることは多くなるはずです。「優しくて他人の頼みを断れない人」っていうのは、「善人」であることは間違いないのだけれど、度が過ぎていれば、「押し売りにもいちいち真面目に対応してしまう人」を自分の人生のパートナーとするには考えものではあるんですよね。
 そういう意味では、「内面」より、「外見」のほうが、少なくともその瞬間においては、「確かなもの」なのかもしれません。

 ちなみに、この引用部のあと、角田さんはこんなふうに書かれています。


【研究論文を書くがごとく、こうして必死にこのテーマを追いかけていくと、しかしひとつ気づかざるを得ないことがある。私のどこが好きかという質問の答えは、すべてうそっばちである、ということ。尻のかたちがすばらしいといって、それだけで好きという気持ちが喚起されるはずはない。その尻のうえに彼女のからだがあり顔があり、その内面に矛盾をふくんだ中身があって、その全体から理解できない何かを感じとって「好き」が構成されていく。自分を主語にして考えてみれば、一目瞭然だ。
 そう気づいても、それでも私は自分のどこが好きかと相手に問わずにいられない。
 好きだという気持ちは肯定だ。その肯定の理由を私はつねに知りたい。肯定が確固たるものであることの、証拠がほしくてたまらない。】


「私のどこが好き?」という問いについては、結局のところ「模範解答」は存在しないのでしょう。でも、そんなことは承知の上で、その「うそっぱち」を訊かずにはいられないのが恋愛感情というものなのかもしれません。

 こちらから同じことを聞き返しても、「うーん、なんとなく……」とか「よくわかんない、とりあえず全部!」とか、クイズダービーかよ!と言いたくなるような答えしか返してくれないことばかりなんですけどね。