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活字中毒R。
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2007年08月22日(水)
「人がひと息で読めるのは200字」という時代

『なぜ日本人は劣化したか』(香山リカ著・講談社現代新書)より。

【2006年も後半のことだったと思う。
「生き方論」などで定評のある雑誌から、原稿の依頼があった。「ストレス解消の秘訣」といったテーマで1200字という短い分量だったので引き受けることにし、締め切り日に原稿をメールした。構成は、「ストレスとは何か」という定義に続けて「ストレスが生まれる理由」を簡単に説明し、それに続けて「解消のために気をつけること」を3つほど書く、というごく常識的なもののつもりだった。
 ところが、すぐに編集者から「書き直し」を依頼する返信が来た。
「いただいた原稿に問題がある、というわけではありませんが、こういった構成だと全体を最初から順に読まなければならず、途中で読者が飽きてしまう可能性があります。前半の定義や解説はすべて省き、解消法の部分だけを箇条書きにして、ちょっとした説明とともに書いてください。なお、解消法は3つではなくて、6つくらいお願いします」
 私は、自分が原稿の分量を間違ったのではないか、とあわてて依頼書を見直した。「解消法を6つと解説」ということは、1200字ではなくてその10倍だったのではないか、と思ったのだ。
 ところが依頼書には、明らかに1200字と書かれている。ということは、ひとつの項目の解説は200字程度。200字といえば、当然のことながら400字の原稿用紙の半分であり、短い文を2つか3つ、書いただけで終わってしまう。
「それでいいのだろうか」と思いながら、もう雑誌の発売日も近づいていたので、私は言われるがままに、その原稿を「さあ、ストレスを解消する6つの方法について、教えましょう。まずその一……」と説明はほとんどなしに具体的な解消法から始めた。しかも、「その一 すんだことはクヨクヨ考えない」という項目だけでも一行消費されてしまうので、説明部分には、「クヨクヨ考え込むのは、実は人間にとっての最大のストレスです。イヤなことがあっても、温かいお風呂に入って布団にもぐりこみ、楽しかった思い出などを振り返って眠るようにしましょう」程度のことしか書けない。なぜ、クヨクヨ考えるのがストレスになるのか、なぜ風呂に入るのがその解消に役立つのか、については、いっさい触れられない。
「これでいいのだろうか。これじゃ原稿というより標語みたいではないか。さすがに読者は”こんなの信用できない”と思うのではないか」と思いながら、書き直した原稿をメール送信した。すると、今度は編集者からすぐに「こちらの意図を汲み取り、この特集にぴったりの原稿を書いていただき、ありがとうございました」というメールが送られてきたのだ。「一項目200字で本当にいいのだろうか」と思いながらも、編集者が言った「それ以上長い、起承転結があるような原稿は読者に読まれない」という言葉が気になった。
 そのあと、女性雑誌の編集に長くかかわっている知人にこの話をしたら、「そんなの、あたりまえじゃないの」と一笑に付された。
「私も15年間、この仕事をしているけれど、昔はライターさんにひとつのテーマについてだいたい800字を目安に原稿を依頼していたんだけどね。その頃は、人がひと息で読めるのは800字、と言われていたから。
 それが今は、”ひと息は200字”が常識になっているの。それ以上長くなると、読者から『読みにくい』『何を言っているのか、わからない』とクレームが来てたいへん。
 でもたしかに200字だとほとんど何も書けないから、『この春はベージュのリップグロスが大ブレイク! ハリウッドセレブの誰々もヨーロッパ王族の誰々も、みんなこの色に夢中!』みたいに情報を並べるだけで、おしまいになっちゃう」
 私は、さらに笑われるのを覚悟できいてみた。
「でも、そもそもなぜベージュが流行るのか、みたいな説明もしないで、ただ”ベージュが人気”と書くだけじゃ、かえって信用してもらえないんじゃないの?」
 すると、その知人は言い切った。
「そんな背景とか理由なんて、どうでもいいの。もし書いたとしても、誰も理解しようとしないし。むずかしいことなんて、誰も考えたくないし、興味もないの。問題なのは、この春に何色の口紅を買えばいいのか、ただそれだけのことなのよ」
 薄々、気づいてはいたものの、文字の世界で何かが変わっている、ということを私は強く感じ、ちょっとした衝撃を受けた。】

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 ちょうど5年前、この『活字中毒R。』で、荒川洋冶さんが書かれたこんな文章を紹介したことがありました。


以下は、「日記をつける」(荒川洋治著・岩波アクティブ新書)より。

【作品の長さについては、ぼくは以前から次のような考えをもっている。四〇〇字詰原稿用紙で「何枚」というとき、次のようなことをこころがけるのだ。
1枚→どう書いても、何も書けない。(週刊誌の一口書評など)
2枚→何も書けないつもりで書くといいものが書ける。(新聞の書評など)
3枚→一話しか入らないのですっきり。起承転結で書く。二枚半あたりで疲れが出るので休憩をとる。(短いエッセイなど)
4枚→一話ではもたないので、終わり近くにもうひとつ話を添える。(エッセイなど)
5枚→読む気になった読者は、全文読む枚数。見開きで組まれることが多く、作品の内容が一望できるので、内容がなかったりしたら、はずかしい。原稿に内容があるときはぴったりだが、内容がないときは書かないほうがよい。「書くべきか、書かないべきか」が五枚。
6枚→読者をひっぱるには、いくつかの転調と、何度かの休息が必要(同前)。
7枚→短編小説のような長さである。ひとつの世界をつくるので、いくつかの視点が必要。(総合誌のエッセイ、論文など)

この7枚以上になると、書くほうもつらいが読者もつらい。読者は読んだ後に「読まなければよかった」と思うことも多い。2、3枚のものなら、かける迷惑は知れているが、7枚ともなると「責任」が発生する、いわば社会的なものになるのである。7枚をこえて、たとえば10枚以上にもなると、読者は「飛ばし読み」をするから、意外に書くのは楽である。読者を意識しないほうが、むしろいいくらいだ。】

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 香山さんや荒川さんは、書き手の立場で「文書の長さ」についての意見を述べられているのですが、この2つを読み比べてみると、この5年間だけでも、読み手が「読みきれる文章の長さ」というのは、どんどん短くなってきているのではないか、という気がしてきます。
 いや、あらためてそう言われてみると、僕自身だって、ネットをはじめた直後に比べたら、確実に「長文を最後まで読む気力」は確実に落ちてしまっています。どんなに内容に興味がある文章でも、「長い」あるいは「長そう」というだけで、読む意欲が失せてしまうんですよね。これも年を重ねて忍耐力が落ちたのかな、とも思っていたのですけど、どうもそう感じているのは、僕ひとりではないみたい。

 そもそも、ここで取り上げられている口紅などに関しては「この色の口紅が流行る理由」というのが本当にあるのかどうかさえ疑問なのですが、そういう「流行」以外の部分でも「理由なんかどうでもいいから、さっさと結論だけ教えて」という人が増えてきているのかもしれません。考えてみれば、細木和子先生や江原啓之さんは「発言の根拠」をほとんど語られていないんですよね。
 それは「考える」ものではなくて「感じる」ものなのだと彼らは言うのかもしれませんが、そんなプロセスも根拠もあやふやなものを信じて、「自分はどうすればいいのか」という結論だけを鵜呑みにしている人は、けっして少なくないようです。これって、すごく怖いことのような気がしませんか?

 僕も”ひと息は200字”には驚いたのですが、この編集者たちの言葉からすれば、この”200字”というのは、もはや「出版界の常識」になってしまっているみたいです。世の中の人々は、僕の「劣化」以上のスピードで、「長文が読めなくなっている」のかもしれません。そういえば、最近の文学賞受賞作も、ひとつの段落が短くて、どんどん場面が変わっていくものが多いような印象がありますし。
 なんだかこれって、「読者のレベルが下がった」ってバカにされているような気もします。その一方で、売れているのは「読者のレベルに合わせたもの」だというのも事実なのでしょう。

 しかし、みんな本当にこの文章をここまで「読み切れて」いるのかな?

 ……って、今ここを読んでいる人に言っても意味ないのですけどね。