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2007年06月11日(月)
「作品が変わるわけがない。自分が変わったのだ」

『週刊ファミ通・2007/6/22号」(エンターブレイン)の「ソフトウェア・インプレッション〜ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争」(世界三大三代川・著)より。

【マンガの『めぞん一刻』を初めて読んだとき、確かに面白かったものの、あまり心に残るようなものではなかった。それが小学校高学年のとき。それから数年後。あらためて読んだ『めぞん一刻』は、いまでも読み返すほどのおもしろい作品に変わっていた。だが、作品が変わるわけがない。自分が変わったのだ。何気ないコマの描写の意味がわかるようになり、主人公である五代君の心情が手に取るように伝わってくる。作品に対する印象の変化の大きさに「大人になるってこういうことか!」と強く実感したことを覚えている。】

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 ああ、こういうのって、確かにありますよね。
 これを読みながら、僕もいままで自分が読んできた本や観てきた映画のことを思い出していました。その時期に読んだからこそ感動できたものもあるし、体験するのが早すぎた、あるいは遅すぎたがために「面白いんだけど、なんだかのめりこめないな」と思った作品もけっこうあったような気がします。
 例えば、僕が高校時代にどっぷりとハマっていた『銀河英雄伝説』(田中芳樹著)などは、今はじめて読んだら、「なんだこの左翼的御都合主義スペースオペラは!」と、「トンデモ本リスト」に入れてしまったかもしれません。作品には年齢だけではなくて「時代性」というものもあって、『銀英伝』などは、現在では中高生が読んでも、ちょっと違和感がある世界観のように思われます。

 『フィールド・オブ・ドリームス』という映画、僕が最初に観たのは大学に入ってすぐの頃だったのですけど、ラストのお父さんとのキャッチボールのシーン、当時の僕は「ああ、いい場面だな、ここでみんな感動するんだろうな」と客観的に観ていたのです。当時の僕は、自分の父親が死んでしまうなんて実感は、全然ありませんでしたから。
 たぶん、今はじめて『フィールド・オブ・ドリームス』を観たとしたら、あのラストには号泣してしまうに違いありません。

 筆者の世界三大三代川さんは、『めぞん一刻』について書かれていますが(しかし、中学生くらいであのマンガの「機微」がわかるようになったというのは、ある意味すごいと思うけど)、同じ作品でも、自分の経験と重ねあわせることができるようになったり、自分の立場が変わったりすると、全然違う感想を持ったりするものなんですよね。
 僕は『三国志』をはじめて読んだときは、「正義の味方」である劉備や諸葛孔明を一生懸命応援していたのですが、自分が年を重ねてくると、「漢王室の血縁であることの正当性」をひたすら主張していただけの劉備や孔明よりも、裕福な名家の出身ではあるものの、宦官の家と蔑まれながらも、過激なやりかたで古いものをどんどん打倒し、有能な人材を引き立てて新しい世界を作ろうとした曹操が、なんだか魅力的に感じられてきたのです。昔は曹操なんて大嫌いだったのに。
 「不倫小説」を好む子供はほとんどいないけれど、大人になると、多くの人が「この主人公の気持ち、わかる!」とか言うようになりますし。
 
 こうして考えてみると、「心を動かされるような作品」との出会いというのは、その作品と、受け手である自分の年齢や心の状態という要素がうまく噛み合わないとうまく起こらない、稀有な化学反応みたいなものなのかもしれません。だからこそ、「自分の記憶に残る本や映画」って、とても大切なものなんでしょうね。