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2007年06月08日(金)
『ウルトラマン』のアラシ隊員だった男の憂鬱

『わらしべ偉人伝〜めざせ、マイケル・ジョーダン!〜』(ゲッツ板谷著・角川文庫)より。

(インタビューした人に友達を紹介してもらうことによって(「テレフォンショッキング」方式)、マイケル・ジョーダンにたどりつくことを目指した『週刊SPA!』の連載記事を書籍化したもの。毒蝮三太夫さんの回の一部です)

【ゲッツ板谷「ところで、毒蝮さんときたら、まず頭に浮かぶのが『ウルトラマン』のアラシ隊員なんですけど(笑)。

毒蝮三太夫「あのね、昭和39年に東京オリンピックがあってさ。体操のウルトラCとかなんとかで、とにかく”ウルトラ”って言葉が流行ってたんだよな。で、東宝にいた円谷さんが、まず『ウルトラQ』っていうのを作って、その2年後に『ウルトラマン』を作ることになったの。そんで、科学特捜隊を演じる役者が5人必要だってことになって。3人は東宝から、あとの2人はTBSから出すことになったんだよ。要するに、国会でもやってる組閣人事みたいなもんだな。で、俺はTBSのドラマに出ていた縁で、その5人の中に入ったんだけどね。採用された理由は”3点セット”なんだよ。丈夫で、安くて、ヒマ。ガハッハッハッハッハッハッ、バカヤロー――」

板谷「で、演じてどうでした?」

毒蝮「恥ずかしかったに決まってんじゃねえかよっ。30にもなってオレンジ色の制服を着せられてよぉ、仲間からは『あんなジャリ番組に…』なんてからかわれるし。とにかく、当時は円谷プロに1週間に10日通ってたな。しかも、特撮がらみだったから演技の注文も大変だったよ。光線銃の先の位置を動かさないまま倒れてくれ、とか、怪獣から目を離さずに3人のチビッコを素早く抱き起こしてくれ…なんて言われてさ。俺はゴム人間じゃないってんだよっ」

板谷「ブハッハッハッハッハッ!」

毒蝮「そんなことばかりやってたから、撮影が終わったら決まって隊員たちと車で飲み屋をハシゴして回ってて。でも、あの当時だったからそんな無茶ができたんだな。今だったらすぐにとっ捕まって『科学特捜隊、飲酒運転で丸ごと御用!』なんて見出しが各紙面で踊ってるよ。…で、そのうち街を歩いてると『あっ、アラシ隊員だ!』なんて小汚いガキにまとわりつかれるようになってさ。だいたい地球を守ろうって大仕事に、何で隊員が5人しかいねえんだよっ!?」

板谷「ブハッハッハッハッハッ!(ラジオのまんまだわ、この人って)」

毒蝮「ところで、ウルトラマンのタイマーって何で3分間なのか知ってる?」

板谷「つまり、子供がTVの前で集中して座っていられる時間が3分間……」

毒蝮「そう。あと、特撮ってお金かかるだろ。だから、そういう設定にしとかないと予算がもたないんだよ。…しかし、円谷さんは凄い人だね。当時、その特撮技術をスピルバーグとかルーカスが見に来てたらしいよ」】

〜〜〜〜〜〜〜

 毒蝮三太夫さんといえば、『ウルトラマン』を再放送でしか観たことがない僕でさえも「アラシ隊員」のイメージが強いのですから、当時の子供たちには、それはもうすごい知名度だったのではないでしょうか。しかしながら、当時の「科学特捜隊の隊員たち」は、けっして喜んでその役を演じていたわけではないみたいです。

 現代くらい特撮の技術が発展し、特殊効果が全く使われていない映画のほうが珍しくなってしまえば、役者たちもごく当たり前のこととして、何もないスタジオで「光線銃の先の位置を動かさないまま倒れてくれ」とか「怪獣から目を離さずに3人のチビッコを素早く抱き起こしてくれ」というような「演技」を受け入れられるのでしょう。でも、当時の舞台俳優出身の役者さんたちにとっては、『ウルトラマン』のような「子供向け」の「イロモノ」に出演しているのに加えて、そんなわけのわからない演技を要求されたというのは、すごく屈辱的なことだったのかもしれません。
 実際に、周囲からからかわれたりもしていたようですし、「撮影が終わったらみんなで飲み歩いていた」なんていうのも、やはり「『ウルトラマン』の撮影は役者として、あまり面白い仕事ではなかった」からでしょうしね。

 番組があまりに大ヒットし、子供たちの心に残ってしまったがために、彼らは「科学特捜隊の隊員」というイメージに縛られ続けてしまうことになりました。番組への出演が決まったときの彼らはみんな、まさか自分たちの役者人生が、『あんなジャリ番組』に左右されるなんて思ってもみなかったに違いありません。「こんなはずじゃなかったのに」というのと「子供たちに夢を与えられる役ができてよかった」というのと、たぶん、その両方の感情が、元隊員たちの心には入り乱れているんだろうなあ。