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2007年02月13日(火)
芥川賞・直木賞を辞退した作家の「辞退理由」

『文藝春秋』2007年3月号(文藝春秋)の記事「芥川賞10大事件の真相」(湯川豊著)より。

【芥川賞直木賞の長い歴史のなかで、戦前・戦中のことではあるが、賞の辞退者が1人ずついた。
 第11回芥川賞(昭和15年上期)は高木卓の「歌と門の盾」が受賞作に決定したが、高木は「2日考えた末」辞退した。高木卓(本名・安藤煕(ひろし))は一高のドイツ語の教授、「歌と門の盾」は大伴家持を主人公にした歴史小説だった。
 菊池寛はこの受賞辞退について、「話の屑籠」(同年9月号「文藝春秋」)で怒りを書きつらねた。いわく、
「審査の正不正、適不適は審査員の責任であり、受賞者が負ふべきものではない。活字にして発表した以上、貶誉は他人に委すべきで、賞められて困るやうなら、初めから発表しない方がいいと思ふ」
 文壇の大御所といわれた人らしい発言だが、高木の辞退理由もなんだか歯切れが悪かったのも事実である。
 辞退理由の真相らしきものは、意外にも次の第12回芥川賞を「平賀源内」で受賞した、櫻田常久の「感想」(受賞のことば)で明らかになった。高木と櫻田は同人誌の仲間であり、高木は櫻田の「かい露の章」が同じ11回の候補になっていると思いこんでいた。そして自分が辞退すれば、先輩である櫻田が受賞できると考えたようである。「かい露の章」は最終候補作に残っていなかったのだから、ちょっと痛ましい誤認だった。
 直木賞のほうは、第17回(昭和18年上期)、「日本婦道記」の山本周五郎の受賞辞退である。山本は「辞退のこと」という一文を寄せて、いった。
「……自分としてはどうも頂戴する気持ちになれませんので勝手ながら辞退させて貰ひました。この賞の目的はなにも知りませんけれども、もつと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか、さういふ気持がします」
 山本は戦後、すでに大家といわれるようになってからも、毎日出版文化賞、文藝春秋読者賞を辞退している。生涯無冠、反骨の作家であることを貫いた。

(中略)

 ここからは戦後の話になる。昭和20年から23年の空白の後、芥川直木両賞は24年第21回から再開された。
 第28回(昭和27年下期)の芥川賞は、五味康祐「喪神」と松本清張「或る『小倉日記』伝」の2作だった。2作とも直木賞系の色あいがあるし、五味、松本のその後の作風から考えても、小さからぬ驚きがある。実際、この受賞をめぐって、芥川賞と直木賞の境界についてさまざまな議論が起った。
「或る『小倉日記』伝」じゃ、当初直木賞の候補作だった。前回から直木賞の選考委員になっていた永井龍男が、選考会の席上で「これは芥川賞候補に回したらどうか」と提案し、会の諒解とともに芥川賞候補になった。当時は両賞の選考会が別の日に開かれていたので、こんなことができたのである。
 松本清張がのちに書いたエッセイ「賞と運」によれば、事前に直木賞候補になった通知を受けていた。北九州小倉に在住していた松本は、1月21日の夜、ラジオを聴いて、直木賞は立野信之「叛乱」が受賞と知った。2日後、夜遅く帰宅すると、朝日新聞の記者が待っていて、芥川賞の受賞を知らせた。松本は、自分は直木賞の候補だったはず、と腑に落ちない。そこで友人の名前をかたって毎日新聞の小倉支局に電話してみた。以下は「賞と運」から引用。
「『たしかにその方が芥川賞になられました。あなたは受賞者のお友だちだそうだが、おめでとうございます』
 と電話で祝福を云われた。そこで初めて本当だと納得したのだが、さすがにその晩は昂奮した。1月23日の夜遅く子供を連れて、冬の満天の星が冴える下を昂る気持ちで歩いたのを憶えている」(記録によれば、直木賞が決定したのは1月19日、芥川賞は1月22日だが、いまは松本の文章のままとしておく)】

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 芥川賞・直木賞をめぐるさまざまなエピソードが集められている文章の一部。受賞決定後の辞退者というのは、戦前に芥川賞が1人、戦中に直木賞が1人しかいないそうです。そんなに少ないのか!という感じなのですが、その「たった1人」の辞退理由というのは、けっこう気になりますよね。ちなみに現在は、「最終候補作品とすることに各作家から諒解を得ている」そうなので、まず受賞辞退は起こらないようです。落選した際の選考結果を読んで「こんな賞は今後もう要らない!」と決別宣言してしまった横山秀夫さんのような例もあるのですけど。
 山本周五郎さんに関しては、「今さら俺(のような地位の定まった作家)に直木賞じゃないだろ!」ということで辞退された、あるいは、そういう賞を嫌う反骨の士であった、ということなのだと思います。現在、「山本周五郎賞」というかなり権威のある文学賞に名前が冠されているというのは、ちょっと皮肉な感じではありますが。
 しかしながら、高木卓さんの話は、なんだか読んでいてめぐりあわせの悪さというか、人生の悲哀が伝わってくるようなエピソードでした。同人誌の先輩に賞を譲るために芥川賞を辞退してしまったと言われている高木さんは、当然のことながら、その後芥川賞に縁がありませんでした。今の時代の僕からすれば、そうやって「譲った」ところでそんなに都合よく先輩にお鉢が回るなんてことはないだろうと思うのですけど、たぶん当時は、「文壇」という世界が狭くて、そういうことが起こりうると信じられていた時代なのでしょうね。もちろんこれも「真相」が高木さんの口から語られたわけではないので本当のところは藪の中なのですが、芥川賞そのものだけではなくて、菊池寛さんらに悪い印象を持たれてしまったのは、その後の作家活動において、かなりのマイナスではあったでしょう。
 その一方で、「後輩に譲られた」側の櫻田常久さんは、その次の回であっさりと自力で芥川賞受賞者に名を連ねることになりました。もちろん櫻田さんは辞退などしていません。そのとき高木さんは、「やっと安心できた」のでしょうか、それとも「こんなことなら、前回は自分が貰っておけばよかった」と思ったのでしょうか?

 もうひとつの第28回の芥川賞の話ですけど、松本清張さんといえば、日本の社会派推理小説の草分け的な存在であり、むしろエンターテインメント系のような気がするのですが、実は芥川賞の受賞者だったという話にはちょっと驚きました。貰っているのなら直木賞のほうだろう、という感じなのに。
 ただ、これを読んで「芥川賞と直木賞の境界線への疑問」というのは、最近言われ始めたことではなくて、ずいぶん前からあったのだな、ということはよくわかりました。現在では芥川賞・直木賞の選考会は同時に開催されているので、「直木賞の選考会で、芥川賞候補に回すことが決められる」なんてことはありないのですが、今でも「この作品は芥川賞候補になっているけど、作家のキャリアや内容的には、直木賞っぽいけどなあ」って思うことはけっこうありますよね。結局のところ、そういう「曖昧さ」も含めて、芥川賞・直木賞というのは、日本の文壇の権威であり続けているのです。