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2006年10月11日(水)
タージマハルの「完璧なシンメトリー」を崩した「異物」

「インド旅行記1〜北インド編」(中谷美紀著・幻冬舎文庫)より。

(女優・中谷美紀さんがタージマハルを訪れた際に、ガイドさんから聞いたというタージマハルの由来をまとめたもの)

【昔々、インドには300年続いたムガル王朝の5代目の王であるシャー・ジャハーンという王様がいました。王様は、3代目のアクバル王が城壁を築き、4代目のジャハンギール王、つまり王様の父が宮殿を建てたという、アグラー城に住んでいました。
 シャー・ジャハーンは、イスラム教の習慣に則って、お見合いで2人の妻を娶りましたが、そのどちらをも愛してはいませんでした。
 アグラー城の宮殿内では、王族のための市場が開かれており、そこでは宝石などが売られていましたが、ある日、その市場を王様が通りかかった折に、ペルシャから物を売りに来た女性ムム・ターズの姿が目に入り、一目惚れをしてしまいました。お見合い結婚が常識だった当時、2人が逢瀬を重ねることは国中の噂になりました。しかし王様は何をささやかれようとお構いなしで、2年の後にはムム・ターズを3番目の妃として迎え入れました。王様にとって初めての恋愛結婚でしたから、ムム・ターズはとても大事に扱われました。
 回廊式の宮殿の中庭部分には池があり、2人はそこで釣りをして過ごすことが多かったようです。どちらが多く釣ることができるかを競うのですが、王様はいつも負けてしまいます。なぜならば、ムム・ターズのあまりの美しさに見とれてしまい、ゲームのことなど忘れてしまうからでした。
 一方のムム・ターズは、とても要領がよく賢い妃でしたから、次々に魚を釣り上げ、ゲームに勝った褒美にたくさんの宝石を贈られたといいます。
 王様はいつでもムム・ターズをそばに置き、外交で旅に出かけるときはもちろんのこと、戦場に赴くときですら、彼女を伴って行ったそうです。
 それだけ仲睦まじい2人のことでしたから、19年間の結婚生活で14人もの子供を授かりました。ところが残念なことに、1631年、その14人目の子供を出産してすぐに、ムム・ターズは病に臥せってしまいました。王様はあらゆる手立てを尽くして、愛する妃の病を治す道を探しましたが、そうした甲斐もなく、ついに永遠の眠りに就いたのでした。
 しかし、賢い妃は、自分の命がもう長くないことを悟ってから、王様に2つのことを約束させました。1つ目は再婚をしないこと。そして2つ目は、アグラー城の宮殿からも見えるヤムナー川のほとりにタージマハルのような霊廟を建造することでした。
 ムム・ターズ妃を失った王様の哀しみはとても深く、それまでは週末に通っていた宮殿内でのハーレムでの遊興もピタリとやんで、妃との約束どおり、全ての情熱と国力をタージマハル建造に傾けたのでした。
 イスラム教圏の近隣諸国から優秀な建築家や技術者たちを呼び集め、お隣のラジャスターン州からは、インド随一の白い大理石を運ばせました。そのほかにもマラカイト、オニキス、コールネリア、ジャスパー、サンゴ、ラピスラズリといった貴石類を他の国から運ばせ、2万もの人員を動員して、22年もの歳月をかけた後の1653年には、いたるところに象嵌細工を施した美しい白亜のドームが完成したのでした。それは東西南北全てが均斉のとれた完璧なまでの美しさを誇る建物で、愛すべきムム・ターズにこそふさわしいものでした。
 王様は妃の眠るその建物を直接眺めるよりもむしろ、敷地内に張り巡らせた運河と池に映り込んで揺れるタージマハルを好んだといいます。なぜならば、水面に移って揺れるタージマハルには情緒があり、亡き妃の顔を思い起こさせるからなのでした。池の東西南北にはいずれの位置からでも眺めることができるようにと王座が据えられ、太陽の角度や、月齢の変化とともに移ろいゆくタージマハルを見るためにその場所に座ったといいます。
 タージマハルが完成してから5年後の1658年に、精魂尽き果てた王様も病魔に侵されました。するとデリーにいた王様の長男は王位を継承するための話し合いをしようと、インドの地方を治めていた3人の弟たちには「父が死んだ」と嘘の知らせを出して、帰郷を急がせました。
 しかし、デリーに向かう道すがらアグラーに立ち寄って父の遺体に対面しようとした弟たちは、長男の嘘に気づき、王位継承に有利な企てを働いたのだと勘繰って、骨肉の争いは殺し合いに発展しました。
 しかも彼らは全て王がムム・ターズとの間にもうけた子供でした。次男が長兄を、3男が次男と末っ子を殺すという凄惨な争いの果てに、病床へ父を見舞った3男のアウラングゼーブは、父の顔に憤りを見てとり、自分が王位を継ぐことを許されないのではないかと不安になったため、実の父をアグラー城に幽閉してしまったのでした。
 望みどおり、王様はタージマハルの見える部屋に幽閉され、祈りのためにモスクを使用することも許されましたが、息子同士が血の争いをした挙句に帝位を奪われた孤独からか、緩やかに死に向かっていったのでした。
 7年の幽閉の後にムム・ターズの死から数えて35年目の1666年に王様もこの世を去りました。本来であれば、ヤムナー川を挟んでタージマハルの向かい側に、正対称の黒い霊廟を造って眠るはずでしたが、王様のはかない夢は散り、ムム・ターズの隣に寄り添うように、タージマハルのドームに納められたのでした。
 タージマハルはムム・ターズひとりのためにあれだけの歳月を費やして造らせたものでしたから、全てに均衡が取れており、ムム・ターズの墓も真ん中に据えてありました。ところが皮肉なことに、完璧を要求した王様自らの墓がドームの下、ムム・ターズの墓の左側に据えられることで、見事なシンメトリーは崩れてしまったのです。】

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 インドと言えば、最初にこのタージマハル廟の白いドームと寝そべった牛を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。僕もそのひとりで、正直、インドという国に行くのはちょっと怖いような気がするのですが、このタージマハルは、一度くらいこの目で見てみたいものだなあ、と常々思っています。インドの人たちにとっては、そういうイメージは、日本に対する「フジヤマ、ゲイシャ、サムライ!」みたいなもので、あまり喜ばれてはいないそうなのですが。

 あの「タージマハル」を「インドの王様が先に亡くなった愛する妃のために建てた」という話はかなり有名だと思うのですが、こうしてその話の詳細を聞いてみると、歴史というものをあらためて考えてしまうのです。19年間の結婚生活で14人の子供なんて、王様の家族でなければ「大家族スペシャル」というか、よくそこまで飽きずに…という感じでもあるのですけど。
 ムム・ターズの「再婚しないこと」と「霊廟を建てること」という「2つの遺言」は、王への愛情と信仰心の深さから出たものなのかもしれませんが、考えようによっては、「王が新しい寵妃をつくらないこと」と「王の興味と情熱を閨房にではなく、大規模な建築のほうに向けさせること」によって、自分の子供たちの地位の安定をはかるという目的に適ってもいます。もし、この「約束」がなければ、次の王位に就いたのは、新しい寵妃の子供だったかもしれません。もっとも、シャー・ジャハーンにとっては、「タージマハルを造りながら、新しい妃を迎える」ことだって十分に可能だったでしょうから、やはり、ムム・ターズへの愛情が非常に強かったのは間違いないことなのでしょう。そして、ムム・ターズは賢い女性だったに違いありません。民衆にとっては「いい迷惑」だったとしても。

 しかしながら、そのシャー・ジャハーンの後の王位を巡って争ったのが、同じ母親を持つ王子たちだったというのは、本当に皮肉な話です。まあ、世界の歴史には、そのような話はたくさんあるのですが、最終的に王位についた3男のアウラングゼーブには、【アウラングゼーブは死刑に処した兄ダーラーの首を(兄を後継者にしようとしていた)シャー・ジャハーンのもとに送り、その箱を晩餐の場で開封させるなど残酷な復讐行為を行った】などというような、目を覆いたくなるようなエピソードも残されており、シャー・ジャハーンの「余生」は、けっして幸福なものではなかったように思われます。文字通りの「骨肉の争い」を横目に、幽囚の身で妻のために建てたタージマハルを眺める前王は、いったい何を考えていたのでしょうか。
 今もタージマハルは、インドの代表的な建造物として世界中に知られており、訪れる人は絶えません。しかし、その「均衡」を崩してしまう「異物」が、その「均衡」を最も求めていた人の墓だというのは、なんだかとても皮肉な巡り合わせのような気がしてならないのです。