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2006年09月01日(金)
恐るべき「本のしおり」たちとの遭遇体験

「三四郎はそれから門を出た」(三浦しをん著・ポプラ社)より。

(「本にはさむもの」というエッセイの一部です)

【本を読むときの作法には、人それぞれ、こだわりがあるだろう。中でも、「なにをしおりとして使うか」というのは、読書作法的に重要な問題だ。
 古本屋で働いていたころ、「こんなものをしおりがわりにする人がいるのか!」と驚くようなものを、いろいろ目撃した。買い取った本のあいだから、しおり(および、しおりがわりのもの)がはらはらと舞い落ちる。そのたびに私は、人間の裏面を覗き見る思いがしたものである(ちょっとおおげさ)。
 帯をしおりがわりにしている人は、けっこういた。あと、文庫や新書に挟まれている、「結婚相談所」や「新刊案内」の広告の紙。それらを細かく裂いては、読みやめるたびに挟んでいく人も多い。十数ページごとに点々と紙が挟まっているので、どういう割合でどこまで読んだのかが一目瞭然でわかる。後半になるにつれ、加速度的に挟まる紙の数が減ると、「物語にぐいぐい引き込まれたんだな」と推測して、こちらも楽しい気分になる。
 事務用クリップやティッシュペーパーやお札をしおりとして使う人もいた。お札には気をつけて……。かなり多くの人が、本に挟んだことを忘れて古本屋に売っちゃってますよ〜。あ、もしかしてあれはしおりがわりじゃなくて、ヘソクリだったのかな。
「なにかを挟むなんて面倒くさい」とばかりに、ページの端っこを折っちゃう人もいる。2ページおきくらいにページが折れていて、「きみはもうちょっと落ち着いて本を読め!」と言いたくなるものもあった。
 もちろん、しおりに格別に気を配る人も多いようだ。手作りらしき布製のもの。薄い金属でできたもの、細かい切り絵になっている紙のもの。革もあった。ありとあらゆる材質、デザインのしおりが、古本のあいだには挟まっていた。
 すごく古いしおりや、素敵なデザインのしおりは、捨てずに作業場の壁に貼っておいて、店員みんなで眺めて楽しんだものだ。
 しかし、上記のように無害だったり麗しかったりするしおりばかりではない。
 世の中には、実に恐ろしい物をしおりがわりにする人が存在するのだ。覚悟はよろしいか?
 まずは、陰毛。
 文庫の「天(ページの上側)の部分から、何本もの縮れた黒い毛が、ぴょこぴょこと覗いているのだ……! 買い取った本の手入れをしようとページを開けかけた私は、「ひぃっ」と悲鳴をあげて、その本をゴミ箱に捨てた。
 いったいなにをどうしたら、あんなものをしおりにしようという発想が生まれるのか。わざわざ抜くわけでしょ? 痛くないのか? わからない……。そしてその本を、平然と古本屋に売る神経がまた、わからない……。
 次に、鼻○ソ。
 もう、汚い話でホントにすみません。私もなるべくならこんな話はしたくないんだが……。
 これまた、古本屋で作業中のことだ。文庫のページが開かない。なんだか糊のような、ゴロゴロした固形物であちこちのページがくっついちゃっているのだ。「なんだ?」とバリッとページを開いてみた私は、糊の正体に気づき、「ぎいやああああ!」とまたもや叫んだ。
 なんという不逞の輩がいるのであろうか。本に、本に鼻○ソを挟むなんて! 紐のしおりがついてるじゃないか。おとなしくそれを使ってくれよ、頼むよ。だいたいこれじゃあ、読んでいる途中で前のページを読み返すことができないじゃないの。「ふくろ綴じ」を自分で勝手に作るなっつぅのー!
 かく言う私は、本にあらかじめついている紐状のしおりや、広告がわりに挟んである長方形の紙のしおりを、ありがたく利用する。面白味のない、当たり前の読書作法で恐縮です。
 たまに、けっこう厚さのある単行本なのに、しおりがついていないものがある。私はそういう場合、「んまあ、どういうことかしら!」とひとしきり憤ってから、カバーの折り返し部分を仕方なくページに挟む。この方法だと、本が傷んでしまう。やはりなるべく、本にはしおりをつけておいてもらいたいものだ。ぷんぷん。

(中略)

 陰毛、鼻○ソの他にも、動物の毛や(どうやら猫の毛が生え替わる時期で、大量にあった抜け毛をしおりとして活用したらしい)、爪など(爪切りで切ったらしき三日月型の爪の欠片が、あちこちのページに挟まっていた。「なんかの呪術か?」と気持ち悪かった)をしおりにするのは、やはりどうかと思うのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 好きな本に囲まれて働けるなんて、いい仕事だよなあ……なんて僕は古本屋で働くことに憧れていたのですが、この三浦さんの体験談を読むと、古本屋というのもラクじゃないな、と痛感させられます。というか、このエッセイの中では三浦さんは「陰毛しおり本」をゴミ箱に直行させていますが、もしかしたらその「しおり」を取り除いて売っているところだってあるかもしれません。古本屋で買った本には、こういうリスクもあるのか、と愕然としてしまいました。車でも「あまり安い中古車は事故車の可能性がある」なんて言われますが、あの「100円均一本」なんていうのは、まさか、この手の本なのでは……
 まあ、ここまでとんでもない「しおり」を挟んで、そのうえその本を古本屋に売り飛ばそうなんていうツワモノは、多数派ではないと信じたいところではあります。そもそも、買い取ってもらうときに、店員さんが気付いて、「これは何ですか?」なんて尋ねられたらどうするつもりだったのだろうか。

 しかし、実はこの「しおり」に関しては、僕もあまり偉そうなことは言えません。こういう文章をずっと書いているものですから、本を読みながら、日々ネタになりそうな文章を探しているのですが、本によっては、「これは使える!」というような場所が、何か所もあったりするわけです。そういう場合には、本についている紙のしおりや紐だけでは全然足りないので、結局、本の端を折って目印にしてしまうことが多いのです(ただし文庫限定。新刊書はもったいないので、端は折らずに「ここだ!」というところ限定でしおりを挟みます)。それで、端が折り目だらけになった本を人に見られたりするのって、ものすごく恥ずかしかったりもするんですよね。「これって何の目印?」なんて聞かれて、「いや、あとで参考にしようと思ってね」なんてしどろもどろになりながら言い訳をしなければならなかったり(こういうものを書いているのは内緒なので)。でも、これをやってしまうと、もう、古本屋には売れません。

 ところで、ちょうどこの項を読み終えたとき、僕は「使える!」と小躍りして、この部分にしおりを挟もうとしたのですけど、この「三四郎はそれから門を出た」という本には、紐のしおりがついていなかったので、僕もカバーの折り返しの部分を本に挟まざるをえませんでした。全然三浦さんのせいではないのですけど、なんだかとても悲しかったです。