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2006年08月11日(金)
「お盆」の不思議

「週刊現代」(講談社)2006年8月19・26日合併号の酒井順子さんのエッセイ「その人、独身?」第127回より。

【夏は、死の季節です。
 お盆、怪談、そして戦争の記憶。ギラギラとした日差しに照らされている木々の葉を見ていると、まさに「命の盛り」という感じがするものですが、しかし日の光に照らされることによって、葉っぱの生命は確実に終わりに近付いているのであるなぁ。……なーんていうことを考えるのは、私が既に「夏だ! 海だ! 太陽だ!」みたいなことにウキウキしない年齢になっているからなのでしょう。
 東京のお盆は7月ですから、私の実家にも7月半ば、お坊さんがお経をあげに来て下さったのでした。時間に遅れてきた兄達に、
「……ったく、このスットコドッコイ!」
 と叫ぶ母の声を聞きつつ、「『スットコドッコイ』って、久しぶりに聞いたなぁ」などと思いつつ、そして夏物をお召しとはいえとても暑そうなお坊さんの頭から汗が流れ落ちるのを眺めつつ、「夏がやってきたことだ」と、私はお経を聞いていたのでした。
 お盆には死者があの世から戻ってくる、という発想は、よく考えてみると突拍子もないものです。お盆の時期にはわざわざ皆が休みをとり、実家に戻って死者の霊を迎える……という話だけを聞いたら、「どこの部族か」という感じも、する。
 しかし、この「あの世とこの世の距離が意外と近い」というのは、日本人の感覚の特徴かもしれません。いわゆる祖霊信仰というものかもしれませんが、親などを見ていても、何か悩み事があったりすると、墓参りに行って気分を晴らしたりしているらしいのです。
 先日、私は青森の恐山の大祭に行ってきたのですが、そこにもイタコさんに死者の霊を降ろしてもらいたいと願う善男善女が、たくさん集っていたのでした。
 大祭のときはイタコさんが勢揃いするそうなのですが、かつては30人からいたというイタコさん達は高齢化が進み、今や8人くらいしかいないのです。各イタコさんの前には長い列ができていて、整理券など存在しないので、誰もがひたすら待つしかない。人気があるイタコさんの列では、時に5時間とか10時間も待つこともあるのですが、それをも厭わないほど、「死者ともう一度会いたい」という気持ちが強い人達が、集まっているのです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 そう言われてみれば、確かに、「お盆」っていうのは、かなり「突拍子もない」発想ですよね。この夏のいちばん暑い盛りに、死者の霊が一斉にあの世から戻ってくるなんて。もし僕が死んでしまったら、もうちょっと気候の良い時期に「里帰り」したいと思うのだけど。
 そして、「自分は無宗教だし、非科学的なことは信じない」と思い込んでいる人の多くが、「先祖に会うために」実家に帰省したり、お墓参りに行ったりするわけです。これほど多くの人々に親しまれている「宗教的行事」というのは、世界にもそんなに多くはないのかもしれません。この「お盆」の時期は、独特の人の流れが日本全体にできるくらいなのですから。
 避暑のためのバカンスでも大きなイベントのためでもなく、これだけ多くの人間が大移動する「宗教的行事」というのは、けっこう奇異なものなのではないでしょうか。
 まあ、日本人の多くにとっては、「お盆」というのは一種のバカンスであるというのも事実なのですが(でも、大概疲れ果てて帰ってくることになるんですけど)。

 「お墓参り」は、僕自身が子供の頃は辛気臭くて嫌な習慣だったのですが、ここに書かれているように、自分が年をとるにつれ、死者への祈りであると同時に、生きている側にとっても、ある種の「気分転換」という面もあるのだと感じるようになりました。死者と対話することによって、自分の命の「永続性」を確認できるし、生きている人には言えないような悩みや迷いも、死者の前では素直に相談できますし。年を重ねるにつれ、「弱音を吐ける年上の人」というのは、減っていく一方ですが、「死者」は、いつでもそこにいてくれるのです。

 それにしても、「オーラの泉」の江原啓之さん人気の影響などもあるのかもしれませんが、ここまで「イタコ人気」がすごいものだとは思いませんでした。僕は正直、本当に死者の魂というのがこの世に戻ってくることができるなら、あんな立派なことばかり言うわけないと感じてしまうのですが、「死者ともう一度会う」ことによって、自分の人生の「宿題」をなんとか解決したいという切実な願いを持っている人達が存在しているということは、否定できないでしょう。僕だって、状況によっては、同じような心境になるかもしれない。
 後から、「生きている間にちょっとだけ勇気を出して聞いておけばよかった……」なんて後悔することばっかりなんだよなあ、結局は。