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2006年06月27日(火)
「結末ナシ」の小説は許されるのか?

『ダ・ヴィンチ』2006年7月号(メディアファクトリー)の京極夏彦さんと高橋葉介さんの対談記事「『幽』怪談文学賞を目指す方へ〜怪談之怪は、こんな怪談を待っている!」より。

【京極夏彦:僕の長編小説なんかは、ネタ的にはどれも4コマですからね。起承転結というか、まず構造ありきではあるわけで、だから僕は怪談が書けないのか(笑)。ただ、「この人一体何を考えて書いてるんだろう。書いた奴がいちばん怖いよ」という作品も、長編怪談の場合はアリなのかな、と思いますけど。

高橋葉介:ああ、そういうのも読みたいですね(笑)。

京極:投稿作品を読んでると、たまにあるんですよ。これ書いた人には会いたくないなあって作品が。

高橋:しかし短編の場合は『猿の手』のように「よくできていること」が重要です。

京極:そうですねえ。一方で、長編の場合は破綻が魅力になることもありますね。以前、筒井康隆先生とお話させていただいていて、「読んでる途中がおもしろいならそれでOKじゃないかと思う」と申し上げたら、筒井先生は「結末を思いつかないなら結末なんかナシでいいんですよ」とおっしゃられた。『この小説がおもしろいのはここまで、後は責任持てないから終わり』というのもアリだなと(笑)。全くその通りなんですよね。もちろんミステリーでそれをやると石を投げられるんだけど、怪談なら尻切れトンボでも成立するかも。

高橋:小泉八雲の作品の中には尻切れトンボもありますね。怪談じゃないけど『新世紀エヴァンゲリオン』も(笑)。そうそう、水木しげる先生の作品もそうだった。

京極:うちの師匠!! いや、水木大先生には理にかなった結末なんか必要ありません(笑)。そういえば、かつて怪談ものを売りにしていたひばり書房や曙出版あたりの作品群も、ストーリーよるもその不整合さがコワイみたいなものがたくさんありました。ああいうノリは、いまはもうないですが、案外リサイクルできるかもしれない。大蔵映画のような一種見せ物小屋的な空気ですよね。

高橋:すごく納得できる(笑)。】

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 「怪異」をテーマとする文芸作品を対象とした「第1回『幽』怪談文学賞」の審査員のお二人による対談です。「長編の場合は、破綻が魅力になる」という京極さんの言葉に、最初は、「えっ?破綻している話を長々と読まされたら、腹を立てたりする人も多いんじゃないかなあ」と僕は思ったのですけど、確かに、そう言われてみれば「短編」のほうが、ちゃんとまとまっていないと居心地が悪いものかもしれませんね。短編の「傑作」って、読み終えたあと「巧い!」って言いたくなるような作品が多いですし。
 ここで語られている、筒井康隆さんとか水木しげるさんの作品の「破綻の魅力」というのは、僕にもわかるような気がします。「完結しているけれどもつまらない作品」よりは、「尻切れトンボでも読んでいる最中は面白い作品」のほうがいいですよね。正直言うと、「ちゃんと結末があって面白い作品」のほうが、僕のとってはベストではあるのですが。
 そして、その「結末ナシ」が許されるのかも小説のジャンルによるみたいで、確かに「ミステリーでそれをやると石を投げられる」可能性は高いと思います。肝心の犯人が明かされる直前で「結末を思いつかないからおしまい!」なんてやられては、「もうこの作者が書いたものは二度と読まん!」なんて憤りつつ、本を放り投げてしまいそう。そこまでのストーリーが面白ければ、なおさらのことです。
 「答え」が書かれていないクイズ問題集みたいなものですからねえ。

 逆に、怪談のようなジャンルだと、かえって読者に「この先を想像できる余地」を残しておいたほうが、かえって余韻が増すような気がします。ただ、「新世紀エヴァンゲリオン」の「尻切れトンボ」が、どこまで狙ったものかは、なんともいえないところですけど……
 まあ、そういう「尻切れトンボ」が許されるためには、そこまでのプロセスがよほど面白くないとダメでしょうから、それを成立させるというのは、「普通に完結する物語」よりも、はるかに難しいことなのかもしれませんね。