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2006年05月05日(金)
谷川浩司さんの「棋士の3つの顔」

『プロ論。2』(B-ing編集部[編]・徳間書店)より。

(プロ棋士・谷川浩司さんの「何をやってもうまくいかないとき」をテーマにしたインタビューの一部です)

【10代のころは、大先輩との対戦は負けてもともと。だから思い切った勝負ができた。ところが、タイトルを取ると翌年は挑まれる立場です。今度は、思いっきりぶつかっていけなくなる。そんな中で、自分自身を見失ってしまったんです。自分の将棋が指せず、時代や対局相手を意識しすぎるようになってしまった。
 ところが、ショック療法とでもいいますか、タイトルをすべて失って吹っ切れたんだすね。原点に戻ることができた。
 棋士には3つの顔があります。勝負師と芸術家と研究者の顔です。この3つのバランスを取ることが必要になる。ところがスランプの時期は、あまりに勝ち負けばかり意識しすぎていた。もちろん最後は勝負がつきます。しかし、将棋は2人で指すものであり、2人の作品なんです。
 いい勝負をしよう、いい棋譜を残そうという気持ちが、歴史に残る大勝負を生む。私は、勝負にこだわりすぎて将棋の原点の心と、楽しむ気持ちを失っていたんです。気持ちを入れ替えると、楽しい将棋が戻ってきました。そして、結果もついてくるようになったのです。
 私はもともと大変な負けず嫌いですが、将棋では勝つか負けるかしかありません。負ければ悔しいですが、それも仕方がない。でも考えてみれば、死ぬまでずっと勝ち続ける右肩上がりの人はいないわけです。勝つときもあれば負けがこむこともある。
 大事なのは、負けた経験や挫折感を、後の人生でどう生かすかです。生かすことができれば、負けや失敗は長い人生の中で失敗にならなくなる。むしろ、とても大切な糧にできる。
 私は21歳で名人になったこともあり、20代でも無茶はできませんでした。でも、20代は、少しくらい失敗しても、やり直しがきく年齢です。若気の至りと、人生の先輩方も大目に見てくれる。そして、いろんな選択肢が残されている。やはり挑戦心を忘れないでほしいですね。

(中略)

 難しい時代ですから、迷っている人も多いと聞きます。ならば、やはり原点に戻ってみる。自分の本当の声に耳を澄ませてみるべきだと思います。仕事なら、好きな仕事をすること。好きなことでも長く続けるには努力が必要です。やりがいがない、面白くもないでは、長く続けられるはずがない。
 登山家は山で迷ったら、元の場所に戻って再スタートするそうです。迷ったときには原点に戻って再スタートすればいい、それが、いい人生につながるのだと思います。】

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 21歳で「名人」のタイトルを獲得し、「天才」の名をほしいままにした谷川さん。だからこそ、早熟であるがゆえの「壁」も大きかったのでしょうね。将棋の実力は名人でも、21歳というのは、「人間としての成熟度」としては、周囲からみれば、まだまだ「若造」レベルですから。
 「若くして成功してしまう」というのは、そういう意味では、まさに「諸刃の剣」なのかもしれません。失敗してしまったときの反動も大きいだろうし。

 ここで谷川さんが語っておられることのなかで、とくに僕の印象に残ったのは、「棋士の3つの顔」の話でした。もちろん勝たなければ生き残れない世界ですから、「勝つこと」にこだわるのは当然なのですが、谷川さんは、「勝ちにこだわりすぎてしまったこと」をスランプの原因として挙げておられます。谷川さんの場合、【いい勝負をしよう、いい棋譜を残そうという気持ち】、目先の勝利ではなく、自分の将棋を指したい、勝敗よりも、名勝負として自分の将棋を歴史に残したい、というような「大局観」に目覚めたことにより、スランプを脱出できたのです。まあ、こういうのはまさに「天才の領域」であって、普通の人は「勝ちへの執念」から鍛えていくべきなのでしょうけど。それにしても、棋士にとっての「棋譜」っていうのは、まさに「作品」なのですね。

 最後の【登山家は山で迷ったら、元の場所に戻って再スタートするそうです。迷ったときには原点に戻って再スタートすればいい、それが、いい人生につながるのだと思います。】というのは、本当に素晴らしい言葉だと思います。道に迷っているときって、とにかく、前に進んでいれば、いつかは出口につきあたるのではないか、などと希望的観測を抱いてしまいがちなのですが、そうやって行き当たりばったりで前に進んでしまうことによって、さらに迷いを深めてしまったり、目的地にたどり着くのが遅れてしまったりすることは、けっして少なくないのです。
 困ったときは、原点に戻ればいい。その場所だけ、いつでも戻れるように、ちゃんと記憶しておけばいい。
 そんなふうに考えているだけで、だいぶ気持ちもラクになるような気がします。