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2005年11月22日(火)
セックスやメシやテレビや足の臭い以下の「人生」

「いつかパラソルの下で」(森絵都著・角川書店)より。

【そんな人の気も知らずに、ぽっと別れ話なんて持ち出した上、勝手に逆ギレをしている達郎の無神経さはさすがに腹にすえかねた。
「つまり、私が一緒じゃ安定した生活を送れないってことだよね。達郎らしい」
「らしいって、なんだよ」
「達郎はいつもここじゃないどこかに行くためにお金を貯めてるとか言うけど、どこかなんてどこにもなくて、そのうちマンションとか買う頭金にでもするんだろうなって思ってた。今時、ベルマークを集めてるのなんてPTAの会長と達郎くらいだろうし、達郎のお財布はスタンプカードでいっぱいだし、年金改革の記事とかもしょっちゅうスクラップしてるし、この人は、絶対、老後に困ることはなさそうだなって」
「悪いかよ」
「悪いなんて言ってない。達郎のそういうとこ、いやだなんて一度も思ったことなかった。でも、達郎は私のことがいやだったんだよね」
 達郎は聞こえよがしな息をつき、再び淡々と頭を垂れた。
「どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、たぶん、違うんだ。確かに気は合うよ。一緒にいると安らぐし、楽しい。でも、人生に対する考え方があまりにも合わないっていうのかさ。だから、今のうちに別れたほうがいいのかもしれないって……」
 私はうなずいた。うなずくしかなかった。
「わかった。なんかバカみたいだけど、達郎がそう思うならしょうがないよね。次に住むところ見つけたら出ていくから、ちょっと時間ちょうだい」
「それは全然構わないけど、バカみたいってどういうこと?」
「だって、人生に対する考え方の違いから別れるなんて、バカみたいじゃない。それならセックスがダメだとか、食の好みが合わないとか、観たいテレビが違いすぎるとか、足が臭いとか、そんな理由のほうがよっぽど納得できる。でも、達郎は人生のほうが大事なんだよね」
「当たり前じゃねえか。あんた言ってることおかしいよ。じゃあ何か、あんたにとって人生は、セックスやメシやテレビや足の臭い以下つうことか?」
 まさしく売り言葉に買い言葉だ。不毛を悟った私が口をつぐむと、達郎はまるで勝ち狼煙でも上げるように言った。
「つまり、そういうところだよ。あんたのそういう人生に対するなめきった姿勢つうか、全然本気出してなさそうなところが見てていらつくんだよ」
「本気出すってどういうこと? お墓のこととか考えること? よくわからない。私はいつでも本気だし、人生をなめてなんかないよ。ただ就職とか、結婚とかに縛られるのは怖いだけで……。二十歳までさんざん父親に縛られて生きてきたんだから、しょうがないじゃない。修道院みたいな家から自由になってまだ5年目なんだから、ちょっとくらい羽目を外したっていいじゃない」
 思わずほとばしった父への恨み言に、自分でもハッとした。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「人生」って、何なのだろう?
 僕は最近、そんなことを考えています。大学時代などは、「いろんなことを我慢して自分を磨き、社会に貢献し、後世に名を遺すのが「人生の目標」だとシンプルに思いこんでいたのですが、現実というのは、そんなに簡単ではないのだということを、あらためて感じます。
 子どもの頃から「大きくなって困らないように」一生懸命勉強をして、大人になったらなったで「老後に困らないように」と、いろんなものをガマンして資格を取ったり、貯金をしたり。それでいざ年をとってしまったら、家族には厄介者扱い…というような「人生設計」というのは、考えれば考えるほど虚しい気がするのです。「アリとキリギリス」の話は、「将来に備えて地道に貯蓄することの大切さ」を教えていますが、でも、一生ガマンしつづけて、「とりあえず生存するのには困らない人生」を送るのが、本当に「一度しかない人生を、真面目に過ごすこと」なのかどうか、僕は最近わからなくなってきています。いや、そんなふうに「生存していくこと」そのものがけっこう大変で、価値があるのだとは思うけれど、そういう「平凡な幸せ」っていうやつに安住して自己満足に浸っているのは、ある意味、「人生を投げている」のではないか、という気もしなくはないんですよね。
 地道に、コツコツやることはもちろん大事なのだろうけれど、それが「人生に対して真面目に向かっていくこと」なのかどうか。
 むしろ、地道に生きて、貯蓄とかして、先のことを考えてさえいれば、それでいいのか?とも思うんですよね。すべての価値を「未来」に置くとするならば、現在は、いったい何のためにあるだろうか。
 まあ、そういう刹那的な発想は、多くの場合、人を不幸にします。でも、その一方で、「まだ見えない、あるいは、一生見えない何か」のために生き続けるというのは、なんだか、騙されているような感じもするのです。美味しいものは後にとっておくのはいいけれど、とっておいても、いつかは腐ってしまいます。もちろん、「まだ残っている」ということそのものが快楽なのかもしれませんが。
 アリは、はたしてキリギリスより幸福だったのだろうか?短い夏でも、楽しく過ごせたキリギリスは、「人生」(人じゃないけど)の全体で考えれば、そんなに「不幸」ではなかったのかもしれません。そもそも、アリだってみんなが冬まで生きられるわけではないだろうし。

 ただ、こんなことを考えてしまうのも、僕が所詮、「キリギリスにはなれない人間」だからなんですよね、きっと。いつか来るはずの、「飢えたキリギリスが食べ物を乞いに来るとき」だけが生きがいなんて、寂しい「人生」だとは思うけど、それを否定してしまったら、僕はなおさら生きる意味がわからなくなってしまうのです。「人生設計」っていうけどさ、「設計通りの人生」なんて、つまらないのは確実なのにね。