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2005年08月31日(水)
「ヤンキー先生」が語る”いい先生”論

「週刊アスキー・2005.9.6号」の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。

(現在は北星学園余市高校を退職されて、横浜市の教育委員をされている、「ヤンキー先生」こと義家弘介さんとの対談の一部です。)

【進藤:北星学園余市高校(以下、北星余市)をお辞めになるまでには、誹謗中傷などもあって、たいへんだったとうかがっています。辞職を決意されたきっかけはなんだったんでしょうか。

義家:結局、私のことをめぐって教師集団が揺れたことですね。これはいつも言っていることなんですが、”いい先生”なんていないと思うんです。誰かにとって素晴らしい先生でも、その先生と相性が悪ければ、どうでもいい人にしかすぎない。

進藤:ふむふむ。

義家:みんなにとっていい先生になるよりも、いい教師の集団をつくっていくことが教育の核だと思うんです。でも気づいたら、自分の存在が、その集団を動揺させる原因になってしまっていて。あと、北星余市の教師集団に対する信頼もあったから、自分がいなくなっても大丈夫だろうという思いもありました。

進藤:揺れるきっかけは、義家さんの活動が本やドラマ、映画にもなり、全国的に注目を集めたこともあったからと報道されました。

義家:ただ、活動せざるをえない状況があったんです。’01年に北星余市の生徒79人が絡む”大麻事件”がありまして、それで生徒がまったく学校に来なくなってしまったんです。だから、母校である学校を守らなければという思いと、先生た生徒たちが、どんな思いで問題と向き合っていったのかを伝えるために。】

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 「ヤンキー先生」こと、義家弘介先生。僕は正直、あの手のドラマに対しては、「そんなの、ヤンキー経由じゃなくて、地道にがんばっている『普通の先生』のほうが、はるかに立派なんじゃないか?」と言いたくなるのですが、この対談記事を読んで、彼に対するイメージがけっこう変わりました。
 まあ、途中のプロセスはさておき、「ヤンキー先生」は、「教育」というものに対してキチンとした自分の考えを持っているし、その一方で、先生という存在を客観的にみているところもあるのだなあ、と感心したのです。
 この手の「いい先生」って、「自分」を相手に押しつけたがる人が多いような気がしていたので。
 【”いい先生”なんていないと思うんです。誰かにとって素晴らしい先生でも、その先生と相性が悪ければ、どうでもいい人にしかすぎない。】という言葉に、同じように人間相手の仕事をしている僕は、深く頷きました。世の中には、「とにかくかまって欲しい」人もいれば、「なるべく放っておいて欲しい」人もいるし、しかも、そのどちらの人でも「放っておいて欲しい」と思うこともあれば「かまって欲しい」と思っていることもあるのです。怒られると萎縮してしまう人がいれば、しかられると相手の「熱意」に感動する人もいます。それこそ、ケースバイケースで、その相手ごとに自分のキャラクターを変えられればいいのかもしれませんが、現実的に、それをすべての人間に対して完全にやっていくのは不可能です。
 「ヤンキー先生」は、そういう現実に対して、【みんなにとっていい先生になるよりも、いい教師の集団をつくっていくことが教育の核だと思うんです。】と仰っています。確かにそうなんですよね。ひとりの何でもできる「スーパーマン」がいるより、それぞれがレベルアップして、お互いの不得意な部分をカバーしあっていくほうが、誰かが抜けたとしても「教育」の全体としてのレベルはずっと保たれていくし、生徒も「自分に合った先生」を見つけてしまえばいいわけです。
 そういえば、僕も高校時代、みんなが「いい先生」と言っていた先生となんとなく馬が合わず、気まずい関係だったことを思い出しました。客観的にみて、教育熱心で優秀な人で、面白い先生でもあったのですが、なんとなく僕にとっては煙たい存在だったんですよね。もちろん「気まずい」と言っても、僕は目立たない生徒で、先生も大人でしたから、お互いに罵り合ったりすることはなかったのですが。当時は、他の生徒の大部分が「あの先生はいい」と言っていただけに、僕は、その先生を素直に受け入れられない自分に不安を感じていたものでした。
 そういうのって、結局は「相性」だとしか、言いようがないのではないかと、今は考えているのですけど。
 残念ながら、教育や医療の現場では「相性が悪いからうまくいかない」という理由は、今のところなかなか受け入れられないようです。
 本当は「ひとりひとりがオールマイティーをめざす」より、「それぞれがレベルアップしつつ、情報を共有してお互いにサポートし合う」ほうが、はるかに確実な方法かもしれないのに。