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2004年10月09日(土)
感動する遺書、感動できない人生

「知識人99人の死に方」(荒俣宏監修・角川文庫)より。

(収録されているコラム「よい遺書、わるい遺書」(文・岩川隆)の一節です。『世紀の遺書』という巣鴨プリズンに幽閉されていたBC級戦犯の人たちが、同じような境遇のもとに刑死した戦犯たちの絞首台に上る寸前に書いた手紙やメモを集めて収録した本(収録数は、700にもおよぶそうです)を何度も読み返して考えたこと。)

【繰り返しているうちにわかってきたことは、皮肉にも、この世にある者が感動するような文(遺書)を書きつづって死んでいった人間たちの生(人生)は概して、それほど褒められたものではないということだ。たとえば、人間についての深遠なる思い、生と死についての考え方、文章力などどこをとっても立派で、この遺言集のなかでも十人のうちの一人に入るだろうと思われる人物がいるが、生前のことを調べさせていただくと、どうも感心しない。軍隊や戦地で部下や同僚だった人たちの話を聞くと、将校としての人望は薄く、エピソードからは「無責任」で「愚痴が多く」「見栄っ張りで利己的」な人物像が浮かび上がってくる。戦犯容疑となった犯罪事実も、他の多くが上官の命令や周囲の状況によってやむにやまれず敢行した行為であるのに対して、彼の場合は、「早くからジャングル内に逃走し、食料欲しさに村に出て地元の住民を殺害。たまたまそれが終戦直前の日付であったので戦犯にとして逮捕された」という。
 「人間とは存在そのものが哲学だ」とか「死もまた美である」とか書いている立派な遺書から受ける印象とはとても結びつかない実像だ。読ませる文章、自分を立派に見せたい文章。
 死ぬときまで見栄を張らなくてもよかろうにと思うのだが、この世への未練が無意識のうちに読むものを感動させる文章を書かせるらしい。このような名文の遺書は下級の兵士や将官クラスには少なくて、概して中級の尉官や下士官に多いのが興味深い。いずれも、いくらかの教育を受けたいわば知識階級である。
 いまの私は、立派な遺書や感動的な”最期の文”を目にすると、ご本人には失礼であるけれども、警戒し、ほとんど信用しなくなっている。】

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 僕はこれを読んで、耳の痛い話だなあ、とつくづく思いました。考えてみると、素晴らしい作品をを書いた作家や評論家の私生活というのは、けっしてその作品にふさわしいほど立派なものではないことが多いような気がします。もちろん、そういう「無頼」が売りの人もいるのでしょうけど。
 ここに書かれているのは、「戦犯として処刑された人々の遺書」ですから、まさに「命をかけた文章」に関してなのですが、確かに、僕も自分の身を振り返って、「本当に懸命に生きているのなら、言葉で何かを遺そうとする前に、行動で何かを遺そうとするべきではないのか?」と反省することもあるのです。例えば、こうして何かを書いているあいだに、何か論文を読むとか、参考書を調べるとか。そして、「言葉ではなく、行動で遺そうとした人」(たとえば、ずっと美味い蕎麦を打ちつづけたとか、田舎でお年寄りを診るのに一生を捧げた、とか)には、現実で勝てない分、こうして延々と言い訳を続けているのではないだろうか、と。
 本当に懸命に生きていたら、そもそも、こんなことを書いている時間すらないのでは?とかね。

 「気の利いた文章を遺そう」というのは、【読ませる文章、自分を立派に見せたい文章】を自分のイメージとして遺しておきたい、ということであり、「見栄を張っている」という面もありそうです。もちろん「素の自分を出している」つもりの場合もあるかもしれませんが、では「素の自分」というのは、言葉にできるものなのだろうか?

 そうして考えていくと【「無責任」で「愚痴が多く」「見栄っ張りで利己的」な人物像】それは、まさに僕のことのような気がしてならないのです。

 「書きたいという衝動」というのは、確かに僕の中にはあるのです。でも、それは何かの代償であり、プロの作家のように誰かに何かを伝えるほどの力すらないのに、こういうことに時間を費やしているというのは、たぶん、ものすごく時間の無駄なのでしょう。

 とはいえ、そう簡単に「未練」というのはなくならないでしょうから、少しずつでも「行動で示す」ようにしなくてはなりませんね。
 「遺書」だけが立派でも、どうしようもないから。