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2004年05月01日(土)
『世界の中心で…』と『ノルウェイの森』の「死生観」

「世界の中心で、愛をさけぶ」(片山恭一著・小学館)より。

【「でも、どうかな。もしそんなふうに、死んだ人間と簡単に話のできるような機械が発明されれば、人間はもっと悪いものになるんじゃないかな」
「悪いものって?」
「朔太郎は、死んだ人のことを考えると、なんとなく神妙な気持ちにならないかい」
 ぼくは肯定も否定もせずに黙っていた。祖父はつづけた。
「死んだ人にたいして、わしらは悪い感情を抱くことができない。死んだ人にたいしては、利己的になることも、打算的になることもできない。人間の成り立ちからして、どうもそういうことになっているらしい。試しに、朔太郎が亡くなった彼女にたいして抱く感情を調べてみてごらん。悲しみ、後悔、同情……いまのおまえにとっては辛いものだろうが、けっして悪い感情ではない。悪い感情はひとつも含まれていない。みんなおまえが成長していく上で、肥やしになっていくものばかりだ。なぜ大切な人の死はそんなふうに、わしらを善良な人間にしてくれるのだろう。それは死が生から厳しく切り離されていて、生の側からの働きかけを一切受けないからではないだろうかね。だから人の死は、わしらの人生の肥やしになることができるんじゃなかろうか」
「なんだか慰められているみたいな気がする」
「いや、そういうわけじゃないんだ」祖父は苦笑しながら、「慰めてやりたいとこだが、それは無理だ。誰も朔太郎を慰めるなんてできんよ。自分で乗り越えるしかないことだからね」】

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「ノルウェイの森」(村上春樹著・講談社)より。

【死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく
、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸い込みながら生きているのだ。

(中略)

 死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。】

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 大ベストセラー小説2作品での「生」と「死」についての記述です。もちろんこの二つの作品中での「死」に対する概念は、これ以外の観点からも記されてはいるのですが。
 「世界の中心で…」のほうが、主人公の男の子が恋人を病で失ってしまったあとの祖父との会話の一部、「ノルウェイの森」のほうは、親友が自殺してしまったあと、主人公が持つようになった「死生観」です。

 このそれぞれ引用した部分では、まったく正反対ののことが語られているような印象があります。前者は「死というのは、生と隔絶したところにあるからこそ、人間はそれに畏敬を覚え、善良なるものとして浄化していく」というものであり、後者は「死というのは、人間の中に本来含まれているものだ」というものです。
 もっとも、この2つの考え方というのは、前者を発したのが「恋人を病で失った男の子の祖父」であり、後者が「親友を自殺で失った男の子」であるという、それぞれの年齢や人生経験、大切なものを失ったプロセスの違いの影響も多きいのでしょうけど。
 同じ「死」というものであっても、「高齢者の病による死」というのは僕たちにとって「天命」として比較的受け入れ易いものですが、「若者の不慮の事故や病での死」というのは、「人生の肥やし」として受け入れにくいものでしょう。
 前者を読んで、僕は自分の親の葬式のときに親戚のひとりに言われた「この経験も、医者としてのお前にとってはプラスになることもあるよ」という言葉を思い出しました。
 でもね、僕はその言葉は当たっているのかもしれない、と今では感じることもあるのですが、そのことを言った当人に感謝する気にはいまだにならないのです。年上の人なのですが「知ったようなこと言うなよ!」と当時は「そうですねえ」なんて愛想笑いしながらも、内心ムカついていましたし。
少なくとも僕の親は「僕の人生経験になるため」に死んだわけではありませんから。ましてやそれを誰かに訳知り顔で教えてもらいたくないなあ、と。
 そういう場面で、人生の先輩として気の利いたことを言ってあげたいという気持ちは、いまの僕に理解はできるのですが、感情として受け入れられないのです。
 それは、絶対に生きている誰かが、生きている誰かに言うことではない、と思います。生きている人間は、所詮「生きている人間」としてしか死者を語ることはできないのだけれど。

 もちろん「美しい死」「良い死に方」というのはあるでしょう。でも、自然死ではない事故や事件、戦死などでも、人はその死に対して「復讐したい」とかいう負の感情を抱かずに、善良であることができるのだろうか?

 僕は、いろいろな「死」に立ち会ってきました。でも、いまだに「死」というのは、僕と隔絶したところにあったり、僕の中にあったり、ゆらゆらと揺れていて、つかみどころがないものなのです。

 ただ、16歳で「ノルウェイの森」をリアルタイムで読んだときよりは、32歳の今のほうが「死」というものを遠く感じているのも事実なんですよね。ひょっとしたら、こうしてどんどん「死」と隔絶して、死ぬことが怖くなくなっていくのかな、なんて思うこともあります。そのほうが、生きていくのはラクなんだろうけど。

 ひとつだけわかるのは、たぶん、僕はずっと「死」について考え続けなければならない、ということなんですよね。

 いつか、自分の番が来る日まで。