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2002年10月05日(土)
2002年10月5日。


「新『親孝行』術」(みうらじゅん著・宝島社文庫)より抜粋。

【まず、自分の記憶をさかのぼっていただこう。
 諸君は自分が子供だったころ、「天真爛漫な子供」だった時期というのがあったであろうか?
 一般的には、子供は可愛い、子供は無邪気、子供は無垢、などと思われている。しかし、この言説は自分にはあてはまらなかった、と実は誰もが思っているのではないだろうか。実は誰もが、「天真爛漫な子供」を演じていた、と思っているのではないだろうか。】

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 この文章の後、具体的な例を挙げて「子供は小さいころから、親や大人を喜ばせるプレイをしている」ということをみうらさんは実証していくのです。
 僕も「子供は純真」という言葉を聞くたびに、自分の子供時代のさまざまな邪まな行為(部屋にさりげなくいい点数のテスト用紙を「落として」おくとか、尊敬する人に、アントニオ猪木と書きたいなあ、と思いつつも「両親」と書いたりするというような)を思い出し、心を痛めてきたのです。
 僕の持論として、「子供には子供の邪念がある」というのがあるのですが。
 でも、世間の子供好きの皆さんの言い分としては「子供は無邪気で無垢、天使!」であるので、子供の圧倒的なエネルギーが苦手な僕としては、肩身が狭いのです。
 「子供?あはははは…そうだね、かわいいね、ははは」みたいな。
 むしろ、伊武雅刀さんの「子供たちを責めないで」という歌のほうに、内心共感しまくっていたんだけどなあ。

 「子供は無邪気」というのは、ほんとうは「無邪気」なんじゃなくて、自分も一度は通ってきた道だから、自分にも理解し、コントロールできる程度の「邪気」ということなのだと思うのです。
 「わかりやすい」もしくは、オトナの自分の力で、かなえてやれる程度の「邪気」なので、許せたり、いとしく思えたりするだけで。
 でも、第三者としての印象は、子供にほんとうに好かれる大人というのは「子供扱いが巧い人」ではなくて「子供を子供扱いしない人」のような気がします。だいたい、オトナとコドモには、幼虫と成虫のような明瞭な変化はないわけで、子供は小さなオトナであり、大人は大きなコドモなわけですから。
 
 そうそう、僕が一番イヤなのは、本当の子供じゃなくて自称「少年の心を持った」オトコです。意識的に「無邪気」「子供っぽさ」をいい年の人間が演じてみせるほど邪気に満ちた行為は無いような気がするのですが。
 「少年の心」=純真なんて、自分の子供のころを忘れてしまっているんでしょうか?
 大人なら、大人の心で勝負しろよ。