猪面冠者日記
今さらだが当分不定期更新

2016年04月30日(土) アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち

伏見ミリオン座3 11:45〜13:25 94分

 昨日は出勤日でしたが、さすがに今日は休みです。で、今日はこれを上記の回に見に行く気でいたのだけれど、土曜の朝はなかなか起きづらく、はたして圧倒的な寝坊。それでも一日を有効活用したい一心で、バタバタと仕度し、カウンターに到着したのは上映開始二分前でした。なんつうぎりぎり。ちなみに会員更新時に貰った鑑賞券を使ったので、ただです。

 タイトルどおり、この映画はアイヒマン裁判のドキュメンタリーを制作した人々の舞台裏を描いたもの。ノンフィクションをフィクションでやるというのは、珍しい気がする。

 ドキュメンタリー映画監督レオ・フルヴィッツは、若きプロデューサー、ミルトン・フルックマンに依頼され、アイヒマンの裁判の撮影を請け負うことになった。フルヴィッツは、この姓のとおりユダヤ系アメリカ人である。彼自身はアイヒマンという男を「ある意味ごく普通の人間」だと捉えていた。番組でも「誰でも悪に加担し得る」という結論を引き出したいと思っている。なぜなら彼は自由と民主主義の国アメリカで、赤狩りによって職場を追われた人だった。

 だがフルヴィッツのそんな思いとは裏腹に、アイヒマンの様子はどこまでも冷たく、渇いていた。収容所からの生還者たちのおぞましい証言が次から次へと繰り返されても、彼は何ら感情的反応を示さない。どう見ても彼は凡庸な風貌の皮を被った怪物で、フルヴィッツが欲する「彼もまた普通の人間に過ぎなかった」という結論とは程遠い。

 結局アイヒマンの態度は変わらずじまいで、フルヴィッツは失望する。しかし彼が作ったこのドキュメンタリーには、彼自身全く想定していなかったところで大きな意義があった。それが最後にあるユダヤ人の言葉によって、示されるのである。ホロコーストの真実がこの当時のユダヤ人の間でどういうものだったのか、それがこの裁判によってどう変わったのか、ということが、「意義」なんだけど、これが本当に意外だった。同じユダヤ人の間でも、ホロコースト生還者の体験談が、ホロコーストを経験していないユダヤ人には、信じてもらえなかったということ。夥しい数の人々の異口同音の証言が、アイヒマンショーによって公開されたことで、ようやく信じてもらえたのであった。

 と、こういった意外な事実を知ることができたという点では面白くもあったけど、「ハンナ・アーレント」や「顔のないヒトラーたち」に比べると、いろいろ浅い気がした。好みの問題もあるだろうけど、今挙げた二作の人間描写に不気味なまでの割り切れなさを感じることに比べるとねえ。ネオナチみたいな奴がプロデューサーを襲撃に来たり、アメリカ人記者が「戦争の裁判なんかより宇宙飛行だよ」とか言って、バカメリカン丸出しだったり、ステレオタイプなんだよな。まあ実際そういう空気だったのかもしれないけど。

 フルヴィッツが「誰だって彼のようになってしまう可能性があるんだ」と言うたびに、ホロコーストの生還者でもある現地スタッフの一人が「私が彼のようになることなど、絶対にない!」と強硬に反論するシーンが映画の中で繰り返しある。まさに「ハンナ・アーレント」と同じなんだけど、この映画のような人間描写だと、フルヴィッツの考え方がホロコーストの現実を知らないがゆえのお坊ちゃん発想に見えてしまって、逆にこの現地スタッフの言い方の方が正しいようになってしまう。こんな時代だからこそ私は「ハンナ・アーレント」の中でアーレントが言った「私が一つの民族を愛したことはない」という理性の方を渇望しているんだが。

 さて今夜から黒柳徹子のテレビ人生を描いた「トットてれび」が始まる。花アンと同スタッフということでやや心配だが、さて。



 < 過去  INDEX  未来 >


バンビーナ [MAIL] [HOMEPAGE]