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りょうちんのひとりごと
りょうちん
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2019年07月29日(月)
Vol.884 さよなら、お母さん

おはようございます。りょうちんです。

今だからこそあなたに伝えたい言葉は、心からのありがとうしか思い浮かばないよ。とても簡単な言葉だけれど、この気持ちを上手に表現することもできないけれど、感謝の言葉以外、あなたに伝えたいことは俺の心の中には残っていないんだ。本当に本当に、心からどうもありがとう。
あなたから教えてもらったことは、星の数よりも多いと思っているよ。あなたから直接教えられたこともあれば、あなたの言動や態度を見て俺が自ら悟ったこともあるけれど。あなたと一緒に過ごすことができた時間は、俺にとってはかけがえのない時間で、一生の宝物なんだ。そりゃ時には悪態をついたり罰当たりな言葉であなたを困らせたこともあったけど、それもこんな宝物をくれたあなたのことが大好きだったからなんだ。
あなたはとても頑張ることができる人だったよね。病に倒れてから一度も弱音を吐かず、常に前向きに考えることができる人だったよね。16年もの長い闘病生活の中で、最期まで生きることを諦めずに頑張ったあなたの姿は、本当に見事だよ。立派だよ。たくさん褒めてあげたいよ。あなたの前向きな考え方が今の俺につながっているんだと、俺は確信しているよ。
悲しくて悲しくて、どうしようもないくらい悲しい気持ちで俺の心はあふれてしまっているけれど、思っていたよりも出てくる涙は少ないみたいだよ。それは、あなたが俺に心の準備をする時間をたっぷりくれたから。突然の悲しみ耐えなくてもいいように、覚悟をする時間をたくさんくれたから。だからこのとてつもない大きな悲しみも、正面から目をそらさずにしっかり受け止めることができるんだと思うよ。
ごめんね、あなたに伝えたいことが本当は山ほどあるのに、こんな時に上手に言葉にできなくて。何から伝えればいいのかさえ、わからないよ。でも、あなたと最後に交わした「来世でも私の子どもになってね…」という約束は、俺は絶対に守るから安心してね。これからはゆっくり休んでいいよ。本当におつかれさま。ありがとう、お母さん。さよなら、お母さん。



2019年06月30日(日)
Vol.883 秩父徒歩巡礼・4日目

おはようございます。りょうちんです。

前回の続き、秩父徒歩巡礼・4日目。
道の駅で車中泊をして、早朝から31番札所の観音院へ向かう。実はこの30番から31番の札所間が秩父巡礼道の中で最も距離が離れていて、18劼發△襦スタートした道の駅からも、まず約8劼了各擦鯤發い31番の観音院へ向かい、32番の法性寺を経て、33番の菊水寺まで行く予定なのだ。
長い石段を登り崖っぷちに建つ観音院の本堂で参拝の準備をしていると、白衣に身を包んだ初老の男性がやってきた。彼は前日から俺らと巡礼するスピードがほぼ同じで、各札所で何度も顔を合わせるうちにあいさつをするようになり、やがて言葉も交わすようになった。話を聞くと、彼は秩父を巡礼するのが今回5度目だという先達で、巡礼に関して詳しいことをたくさん知っていた。だから俺らは先達からのありがたいアドバイスを聞いて、この日の計画をあっさりと32番の法性寺までに変更した。
それにしても、アドバイスをいただいたこの先達だけに限らず、秩父巡礼をしている人のなんと多いことか。ちょうど元号も変わったゴールデンウィーク真っ最中の時期とはいえ、前回俺ひとりで巡礼した10月の平日は、時々バスツアーで巡ってくる団体客と遭遇するくらいで、個人で巡礼している人とは誰も会うことがなかったのに。山奥の寺でも、たくさんの人たちが参拝のためにぎわっていた。
峠道を越えて32番札所の法性寺に着く。法性寺は本堂と奥の院が離れていて、お船観音と呼ばれる奥の院は岩船山の頂上にある。そこまでは険しい山道を登るしかない。長距離を歩き続けて疲れた足で山道を登るのは大変だったが、観音様の隣で絶景を眺めながら食べたおにぎりは最高だった。先達のアドバイスはやはり間違いじゃなかった。
33番の菊水寺に向かう途中のバス停まで歩いて、4日目は終了。歩行距離は概算で29辧∧盥垰間は約9時間半だった。
秩父巡礼・4日目はここまで。いよいよ結願、最終日に続く。



2019年05月31日(金)
Vol.882 秩父徒歩巡礼・3日目

おはようございます。りょうちんです。

気がつけば、2年半もの月日が流れていた。春になって日が伸びたら再開しようとあの頃は綿密に計画していたにも関わらず、忙しさにかまけてなかなか実行できないまま時は過ぎた。心の片隅では中途半端で止まっている志をいつ再開させようか、ずっと気持ちがもやもやしていたのに。本棚にしまわれた経帳帳は、途中から墨が入らない空白のページが続いているのに。GWの後半を使って、俺は行程の半分ほどで止まっている秩父三十四ヵ所霊場巡りを、ついに再開させることにした。ずいぶん前のことだから忘れてしまっていることもあるが、前回は2日間で25番札所の久昌寺まで歩いたはずだ。今回はその続き、2年半ぶりに再開する秩父徒歩巡礼。
前回は俺ひとりで寺を巡ったが、今回は相方も同行すると申し出た。寺社や仏閣に特別興味があるわけでもなくただひたすら歩くだけだから、相方が本当に楽しめるのか少し心配だが、一緒に来てくれるのは正直心強い。会話しながら歩いたり一緒に休んだりできる方が、きっと楽しいはずだ。
秩父まで車を飛ばし、前回歩くのを止めた場所から再スタート。26番札所の円融寺に向かった。10月に歩を進めた前回とは違い、今は若葉が目にまぶしい新緑の季節。過ぎてゆく朝の薫風が本当に気持ちいい。巡礼道と書かれた道標を目印に、俺らはくだらないことを話しながら巡礼古道をひたすら歩いていく。そして目的地の寺に着くとお参りをして、ひとつずつ確実に歩むべき道を進んでいった。午前中は晴れ渡っていた空は午後から急に雲行きが悪くなり、思いがけない雷と通り雨に見舞われてしまったが。幸い雨具を使うほど雨が強くなることはなく、一時的に避難すれば問題ない程度だった。
この日は30番札所の法雲寺まで打ち、さらに31番札所の観音院へ向かう途中にある道の駅まで歩いて、秩父徒歩巡礼・3日目は予定通り無事終了。歩行距離は概算で約33km、歩行時間は休憩込みで約10時間半だった。
秩父徒歩巡礼・3日目はここまで。4日目に続く。



2019年04月29日(月)
Vol.881 平成が終わる日

おはようございます。りょうちんです。

平成が終わり、令和がやってくる。昭和が終わり平成になった時、俺は16歳で、考えてみれば俺の人生の約3分の2は平成を生きてきたわけだ。
昭和が終わった日を、今でも俺は鮮明に覚えている。高校1年生の冬休み最終日で、郵便局で年賀状を配達するアルバイトの最終日でもあった。俺が目を覚ました朝にはすでに昭和天皇は崩御されていて、TVでは厳かにそのニュースを淡々と伝えていた。これからどんなことが始まるのか気になって仕方なかったが、俺はそのまま郵便局へアルバイトに向かう。郵便局では仕事の前にアルバイト全員が会議室に集められ、昭和天皇が崩御されても仕事はいつも通りにある旨を伝えられた。世間は一気に悲しみムード一色になったが、いつもと違う状況に逆に俺はどこかしら浮足立っていた。結局、その日はTVはどの局も天皇崩御のニュースだけを報じて、楽しみにしていた番組も延期になった。そして日本中が何となく悲しみムードに染まったまま、しばらくの間暗く沈んで過ごすことになったのだ。
昭和から平成に変わった時と、平成から令和に変わる今回とで、明確に違うことがある。それは、改元する日にちが前もってわかっているかいないかだ。昭和の終わりは突然やってきた。俺はあの日、朝起きたら今日で昭和が終わってしまうという事実を突きつけられた。世間の大半の人は俺と同じで、だからこそ突然の改元にどたばたと慌て、頭の整理がつかなかったんだと思う。しかし今回平成が終わる日は、かなり前から知らされている。心の準備も頭の整理も、十分につけられる状態にある。だからその証拠に、必要以上にやたらと「平成最後の」が使われているのだ。
でも俺にとって、社会人として初めて仕事をした日や、21世紀になった日や、30歳の誕生日の方がずっと自分の中で区切りにできた日だと考えているように、平成が終わるからといって、誰もがみんな特別どうにかすることはないと思う。必要な人だけが、この改元を良いきっかけにできればそれで十分だと思う。



2019年03月31日(日)
Vol.880 続・バスに乗って学校へ

おはようございます。りょうちんです。

前回、小学生時代に俺はバス通学をしていた話を書いた。6年間も毎日バスで学校に通っていれば、そりゃ山のように思い出はある。今回は引き続き、バス通学をしていた時の話。題して、続・バスに乗って学校へ。
俺がいつも学校から帰ってくる時、俺の家へ向かう方向のバスに乗れば、どのバスでも必然的に俺の降りるバス停まで俺を運んでくれた。うっかり乗り過ごすことがない限り我が家よりも先のバス停まで行ってしまうことはなかったし、実際通学していた6年の間、乗り過ごしてしまったことは俺は一度もなかった。
しかし、俺が利用しているバス停の先に十字路があって、バスはそこから3つの方向に分岐してしまう。つまり、さらに先の地区から通っている人は、バスの行き先をちゃんと見極めないと家とは違う場所に連れていかれてしまうのだ。来たバスに乗れば自動的に家に帰れるお気楽な俺に比べると、俺の家より先の地区から通っている人は緊張しながらバスに乗る必要があった。しかも、バスの行き先表示は今と違って漢字のみだったし、小学校に入って間もない頃の漢字なんて読めない子供にとって、バスの選択はかなりハイレベルだったに違いない。万一わからなければ、運転手さんや車掌さんに必ず聞いて確認すること、これが鉄則だった。
ある日、日もすっかり暮れた夕方、母は我が家のすぐそばでRちゃんを見かけた。彼女は俺の保育園の時の同級生で俺の家よりさらに先の地区からバス通学をしていた。見ると、すっかり泣き疲れた様子でとぼとぼと歩いている。「どうしたの?」と声をかけると、「バスを間違えちゃって…」と涙目で話したそうだ。彼女の家までまだ1km以上もあるのでかなり心配だったが、彼女の大丈夫の言葉を信じて背中を見送ったらしい。彼女がどこでバスを降りてどのくらい長い距離を歩いて来たのか、俺はわからなかったが。子どもながらに、分岐の前でバスを降りる場所に我が家があって良かったと、心から安堵したのを覚えている。



2019年02月22日(金)
Vol.879 バスに乗って学校へ

おはようございます。りょうちんです。

そんなの普通で珍しくないことだと思っていたのに、実は結構レアなケースで他人に話すと驚かれることが、たまにある。小学生だった6年間ずっと、俺は毎日バスに乗って学校へ行っていた。こんなことを言うと、おしゃれなスクールバスが送迎してくれる学費がすごく高そうなおぼっちゃま学校だったのかとか、はたまた学校からかなり遠くのひどく辺鄙な山奥の田舎に我が家があったのかとか思われるかもしれないが、そうではない。誰が決めたか知らないが、俺の住む地区の小学生は全員、学校の前を通る民営の路線バスに乗って通学しなければならないという決まりがあったのだ。バス通学以外は認めないという校則なのだから、もう守るしかない。
我が家から小学校までは約2km。けして近くないが、子どもの足で40分あれば歩けたので、毎日徒歩で通学することも可能ではある。では、なぜバスを使う必要があったのか。それは、学校までの通学路にちゃんとした歩道がなかったからである。
我が家は国道沿いにある。バイパスができて裏通りになった今は交通量も減ったが、当時は大型のダンプカーやトラックががんがん走っていた。一方、小学校は国道と駅を結ぶ幹線道路沿いにある。ここも交通量が多く、車道の脇がすぐ民家や畑で歩道が全然ない区間もたくさんあった。交通事故が今よりずっと多かったあの頃、安全を考えてのバス通学だったのだ。
クラスメイトの3割程がバス通学だったのだが、バス通学の子どもは全員ランドセルから定期券入れがぶら下がっていた。ICカードなんてまだなかった時代、バスを降りる時に車掌さんや運転手さんにその都度ぶら下げた定期券を見せていた。胸に付けた名札の中には、定期券を万一失くしたり忘れた時のバスの片道乗車賃である50円玉が1枚いつも入っていたし、各学期の初めにはバス会社の事務所があるバスの車庫まで、わざわざ定期券を買いに行っていた。6年間バス通学をしたあとめっきりバスに乗る回数も減ったが、今となってはなんだかとても懐かしい思い出でもある。



2019年01月29日(火)
Vol.878 海外移住に憧れる

おはようございます。りょうちんです。

平均寿命から考えると、俺の人生もそろそろ折り返し地点に到達してしまった。うかうかしていたら、やりたいことができないまま命尽き果ててしまう。前の仕事を退職したのは、やりたいことをやれるうちにやっておきたいから、という理由もある。死ぬまでにたくさんのやりたいことがあるが、そのうちのひとつが海外に住んでみるということである。
海外と言えども、世界は広い。日本国外ならどこでも良いわけではなく、俺が望むのは東南アジアあたりのいわゆる発展途上国だ。超高層ビルの摩天楼に囲まれた近代的な大都市やヨーロッパや地中海沿岸の歴史ある古都もそれはそれでステキだが、俺にはあまり魅力的に感じない。観光で短期間訪れるなら大喜びだが、その場所に長く住むとなると話は別だ。一方で東南アジアの国々ならば、一年中寒くなることはないし、物価も安く治安もそんなに悪くない。子どもたちの割合が多く街が活気にあふれているので、国自体にも勢いがあり常に刺激的な毎日が送れそうだ。今までいくつかの国を旅した経験の中でも、やはり東南アジア諸国はそういう部分が魅力的でいつかはそこに住みたいと、俺の気持ちをずっと揺さぶっている。
もちろん、デメリットもたくさんあるだろう。日本語はほぼ通じない上、日本ほどおいしいものが簡単に食べられる国は他にないと思う。何より体調を崩したりケガした時に、日本レベルの整った医療機関にかかることはできないだろう。でもそんな不安があるからこそ、数年そこに住んだらいずれ日本に帰って来たいとも考えている。希望は海外永住ではなく、あくまでも期間限定の海外移住。死んだら実家の墓に俺の骨は埋めてほしい。
高校を卒業したと同時に留学して、そのままずっとニューヨークに住んでいる友達がいる。結婚したあと勤務先から海外転勤を命じられて、家族でバンコクに住んでいる友達もいる。彼らは自分の意志で海外移住をしているわけではないのかもしれないが、俺にとってはうらやましい限りだ。俺もいつかは彼らのように、海外移住に憧れる日々を送っている。



2018年12月30日(日)
Vol.877 眠ったままの通帳

おはようございます。りょうちんです。

保険証券や実印など大事なものばかり入れてある秘密の引き出しの奥に、昔はメインバンクだったのに今はすっかり使わなくなった銀行の預金通帳が眠っている。俺が地元の千葉を離れ就職した時、勤務先の会社からの給与振り込みがこの地方銀行だったので、その際に開設したものだ。通帳を見返すと、当時契約したての携帯電話の引き落としの記録だけでなく、入社1年目の俺の給与額やボーナスの額も細かく残っていて懐かしくなる。
しかし気になるのは、最後の記帳である。日付は転職のため会社を退職した月の月末になっていて、そこには数十万円もの残高が記されたままだ。このお金、20年近く経ってしまった今、どうしたのか全然記憶がない。千葉に戻る時に全額下ろして今使っているメインバンクに改めて預けた気もするし、そっくり手つかずのまま残しておいてある気もする。千葉県内には店舗どころかATMさえ持たない地方銀行なので、残高がいくら残っているのか確認することもずっと難しかった。
都内に出る所用があった際、一度通帳を持ってこの地方銀行のATMを訪れたことがあった。通帳の記帳さえできれば、残高がいくらなのか確認することができる。しかしATMに通してもエラーが表示され、窓口へという案内が出てしまった。通帳の表紙で笑う当時のキャラクターだったトムとジェリーはもうどこにも存在せず、これは相当古いデザインの通帳だと理解できた。だがあいにくこの日は週末で、窓口は開いていなかった。
別の日。今度は直接窓口に行き、いくらの残高があるか調べてもらうことにした。眠ったままの通帳に大金が残されていたかもしれないという期待を隠しても、調べるのに時間がかかっている分ドキドキは増してくる。待つこと1時間、ようやく呼ばれた窓口で残高照会を見せられ、少しほっとした。20年分の利子がついて、預金額は1,000円とちょっと。すっかり忘れてしまっていたが、ちゃんと俺は今のメインバンクへ移し替えていたようだ。損した気分ではないが、期待に胸を躍らせた俺が滑稽に思えた。



2018年12月29日(土)
Vol.876 平成最後の

おはようございます。りょうちんです。

今年の流行語大賞に、平昌オリンピックで活躍した女子カーリングチームが頻繁に口にした「そだねー」が選ばれた。そもそもこの流行語大賞が毎年選ばれること自体、いささか疑問に感じるのだが。今年の「そだねー」は俺ですら何度も耳にしたし、自分で口に出すこともあって、例年と違い納得ができた。しかしこの「そだねー」を超え、夏頃から急激に、しかも最近ではやや過剰気味に使われている今年の隠れた流行語がある。「平成最後の○○」という言葉だ。流行語の候補にノミネートすらされなかったが、俺はこの「平成最後の○○」が大賞でもおかしくなかったと思う。
最初に使われたきっかけは、「平成最後の夏」というフレーズだった気がする。今年の夏は各地で猛暑を記録し、台風や豪雨であちこちで水害が起きた。ちょうどその頃に来年4月で平成の時代が終わり新しい元号に変わるというニュースが重なり、今年の夏を印象づけるワードとして「平成最後の夏」がメディアで使われ始めたんだと思う。だがこの「平成最後の」という枕詞だけが異常に独り歩きしてしまった。今や必要以上に「平成最後の○○」という言葉が使われ、いたるところで目や耳にする。
「平成最後のシルバーウイーク」とか、「平成最後のハロウィン」とか。いや、ちょっと待て。平成が始まった30年前、シルバーウイークはまだ存在してなかったし、ハロウィンも日本では相当認知度の低いイベントだったはずだ。「平成最後の」の正しい使われ方は、平成の時代を締めくくるイベントとして例年より盛大で記憶に残るものにしたい、というのが本来の意味だ。というか、本当なら平成最後だからでなく、毎年それくらい印象深いイベントになるよう心掛けて行われるべきであるのに。じゃあ来年は、「新元号最初の」という枕詞が同じように流行しているのだろうか。
かく言う俺も、平成最後のクリスマスが過ぎ、平成最後の年賀状を書き、まもなく平成最後の年越しを迎えようとしている。何年かしたら、平成最後の冬はあんなだったなぁと懐かしむ時が来るのかもしれない。



2018年11月05日(月)
Vol.875 チョコミントの衝撃

おはようございます。りょうちんです。

過去を振り返ると、それまで名前すら聞いたことがなかったのに、ある時突然現れて、あまりのおいしさに絶大な衝撃を与えてくれた食べ物がいくつかある。キウイフルーツ、ブルーベリー、チーズフォンデュなどなど。最近ではバーニャカウダもか。今じゃ当たり前のように定着したものも多いが、何と言ってもその代表格はチョコミントのアイスクリームだ。
俺とチョコミントアイスとの最初の出会いは、高校1年生の秋。その日、別の高校に進学した中学の同級生から学園祭に呼ばれた俺は、彼女がやっていたアイスクリームの模擬店を訪れた。密かに俺が好意を抱いていた彼女におススメを聞くと、彼女は「チョコミント!」と即答した。実は俺、甘いものは大好きなくせに、唯一チョコレートがあまり得意ではない。チョコレート自体ほとんど食べないし、チョコを使ったケーキやクッキーは敬遠しがちだ。だからその時も定番のバニラ味に魅力を感じたが、せっかくの彼女のおススメは無下に断れない。食欲増進にはけしてならない水色のアイスクリームをコーンに乗せてもらい、ひと口舐めて驚いた。
最初、歯磨きかと思った。スーッと鼻に抜ける強烈なミントの風味のあとで、口の中いっぱいに広がる甘味。俺の苦手な濃厚すぎるチョコのきわどさはなく、むしろ時々舌で溶けるチョコチップが絶妙なアクセントになって、俺は心から感激した。あまりのおいしさにおかわりしてしまったくらいだ。チョコミントの衝撃を受けた俺は、その日を境に当分の間チョコミント以外のアイスクリームは食べなかった。あの頃、いろんな味のアイスクリームが続々と登場したが、結局チョコミントを超えられなかった。
今年の夏、メディアの影響からか、チョコミントが再注目されたらしい。そんな中、チョコミント味のカップケーキが売られていたので、思わず購入してみた。水色に焼かれたスポンジにチョコチップが散らしてあり、食べると確かにスーッとしたミントの風味が感じられるのだが。うーん、何かが違う。やっぱり、チョコミントはアイスクリームに限る。