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りょうちんのひとりごと
りょうちん
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2019年11月30日(土)
Vol.888 東京オリンピックに水を差す

おはようございます。りょうちんです。

母が楽しみにしていた来年のオリンピックまで、まもなくだ。準備が着々と進み、モチベーションが徐々に高まっているが、東京オリンピックに水を差すような今更言っても仕方がない俺の意見を、今から書こうと思う。
そもそも来年行われるオリンピックは、東京じゃない別の都市でやるべきだった。例えば最後まで東京と開催地を争ったイスタンブールの方が、絶対に相応しかったはずだ。だって、東京は過去にもオリンピックをやったことがあるし、日本は冬季大会で札幌と長野でもすでに開催している。IOCの投票方法も不透明だし、世界の国々が集結する国際的なイベントを、どうして何度も同じ国や都市でやろうとするのか。俺には理解できない。
仮に百歩譲って何らかの事情で東京以外の開催地に不安があったとして、東京が招致計画として掲げていた都市型でコンパクトなオリンピックという計画は、どこに消えてしまったのだろうか。8Km圏内で全ての競技が行われると謳った売り文句は全部ウソで、本当に心から開催地は東京が相応しいと考えて票を投じた人を騙した結果になってしまった。俺が住む千葉でもいくつかの競技が行われるし、陸上競技のメインでもあるマラソンが直前になって遥か遠くの札幌で開催されるなんて、もう呆れて開いた口が塞がらない。何がコンパクトなのか、誰か説明してほしい。
スポーツは例外なく、明確なルールが存在するからこそ成立する。そしてそのルールに則って戦うからこそ、楽しめるのだ。しかし、そのスポーツのイベントを主催する大元が、ルールを無視しルールに則らないのであれば、そのイベント自体が楽しめなくなってしまう。せっかく東京でオリンピックをやることが決まったのなら、もう仕方ないからそれなら心から楽しもう、心から応援しようと思っていたのに。こんなことが続くのならば、やっぱり東京なんかでオリンピックをしなきゃ良かったのにと、改めて考えてしまう。
幸運にも、オリンピックの観戦チケットが当選した。選手や競技が悪いわけじゃない。オリンピックで美しく戦う姿を、今から楽しみにしている。



2019年10月31日(木)
Vol.887 秩父徒歩巡礼・最終日

おはようございます。りょうちんです。

2年前に秩父徒歩巡礼を始めた時も、半年前に再開した時も、本堂で参拝する際に心の中で願うのは自分のことではなく、いつも「少しでも母の病気が良くなりますように!」だった。信仰心など微塵もない俺は、神様も仏様も普段は信じていないくせに、手を合わせて拝む時だけは母と一緒に過ごせる時間が少しでも長くなればいいと、ただそれだけを無意識に祈っていた。母がいなくなった今、俺の願いが叶ったのかどうかはわからないが、そんな気持ちを常に持って俺は秩父の街を歩いていた。母の死のせいでしばらく間が空いてしまったが、今日は秩父徒歩巡礼・最終日のことを書こうと思う。
5日目となる最終日も俺らは朝早くから歩き、1時間程で33番の菊水寺に着いた。八重桜のピークはすでに終わっていたが、しばし休憩を取ったあと、いよいよ結願が待つ34番の水潜寺へと向かう。だが水潜寺はおよそ16Kmも離れている上、途中に札立峠という険しい峠道を通らなければならない。熊も出没すると看板が立てられた峠道を、俺らは疲れた体を奮い立たせて歩を進めた。そう簡単には結願させてくれない。最後の最後で強敵現る、なのだ。
山の中の険しい道を4時間程歩き続けて、俺らはとうとう水潜寺に到着できた。話好きの住職に最後の御朱印をいただき、納経帳のすべてにページの筆入れが終わる。秩父の霊場を全部コンプリートできたと感慨深くなることはなかったが、達成感は十分に感じることができた。
結願はできたものの、ここから約7km離れた最寄り駅まで戻る方法は限られている。1日に数本しかないバスをあと2時間待つか、それとも歩くか。考えたあげく、俺らは後者を選んだ。足はすでに棒になっていたが、2時間あれば楽勝で7kmは歩ける。こうして俺らは結願後もさらに歩き、この日の歩行距離は概算で約27km、歩行時間は約8時間半だった。
途中ブランクを空けてしまったが、約150kmの行程を5日間かけて歩いた秩父徒歩巡礼は、俺にとってとても思い出深いものになった。でもまだこれは、いつか夢見ている四国徒歩巡礼への準備でしかない。そう母に誓った。



2019年09月30日(月)
Vol.886 母の最期

おはようございます。りょうちんです。

母は、晩年の10年間は人工透析をしていた。毎週火・木・土の3回、毎回朝から午前中いっぱいを使った4時間、ベッドの上でじっと待つことを強いられる窮屈な生活を余儀なくされた。台風の日も大雪の日も病院へ通い、ただただ退屈な時間を過ごさなければならないのは、きっと想像以上にストレスが溜まることだっただろうと思う。それでも人工透析を止めれば、それはすぐに死を意味する。体調が悪くなって人工透析ができなくなると、長くても2週間しか命は持たない。そんな恐怖を常に抱えながら、それでも母は「病院に行けば、そこで知り合った友達や看護師と世間話ができて楽しいもんだよ!」、なんて半分冗談で言っていた。
息を引き取る1週間前、血圧がこのまま上がらなければ、人工透析をすることはできないと宣告を受けた。母は何としてでも体力を回復させて、再び人工透析を受けたいという意思を見せた。言いたいことはまだまだたくさんあるのだから、このままくたばってたまるかと、何度も悔しさを口にした。でもそれができないまま4日後、とうとう母は意識を失う。最期の会話ができた夜、母は朦朧とした意識の中で、俺ら家族の名前をひとりひとりゆっくりと呼んだ。そして俺には、「来世でも私の子どもになってね…」と言った。「そんな言葉はまだ聞きたくない!」と、俺は泣きながら答えたけれど。闘病生活で一度も弱音を吐かなかった母は、その時もうすぐ本当の別れが来ることを悟っていたんだと思う。大好きな家族に看取られて、大好きな家族のことを想いながら旅立っていった母は、きっと幸せだったはずだ。そう願わずにはいられない。
痛みもなく、苦しみもせず、本当に穏やかに眠るように母は亡くなっていった。母の最期は、俺ら家族にとっても100点満点の最期だったと思う。最期の数日間の病室での場面を思い出すと、俺は今でも涙が止まらなくなる。だから、わざと思い出さないようにしているのだけれど。でも、母の最期は、絶対に忘れてはいけない大切な記憶なのだ。



2019年08月31日(土)
Vol.885 母のいない毎日

おはようございます。りょうちんです。

母の緩和ケアが始まった去年の春あたりから、家族の死や病気がテーマになっている小説とか、母への感謝を歌っている曲ばかりを、読んだり聴いたりするようになった。重松清さんが書いた『その日のまえに』、早見和真さんが書いた『砂上のファンファーレ』、かりゆし58が歌う『アンマー』、宇多田ヒカルさんが歌う『花束を君に』などは特に心に響く作品で、そのたびに何度も何度も号泣したけれど。そのおかげで、残された母との時間をより大切に考えようとするようになった俺は、母のわがままを無理して聞いたり母との思い出をもっとたくさん作ろうとくだらない話につき合ったりもした。でも、そういう気持ちで母と接すれば接するほど、本当に母がいなくなった時は今以上に涙が止まらなくてどうしようもなくなってしまうんだろうと、俺は確信していた。
母が息を引き取ってから、早いものでもう1か月が過ぎた。目が覚めるたびに母がいなくなった現実を確認して、毎朝ブルーな気持ちになるけれど。あの頃に懸念していた俺の予測とは違って、涙が止まらなくてどうしようもないということはない。母が亡くなった日もそれからも、何も食べなければおなかはすくし、仕事で疲れれば眠たくもなる。人はどんな時でも空腹や睡眠には敵わないものだと、改めて思わされた。
時間が過ぎれば、やがて悲しみも少しずつ薄れていく。そんなことは当たり前だと思っていた。だけど、あの日に生まれたとてつもなく大きな悲しみは今もけして消えることなく、俺の心にしっかり居座っている。大きな悲しみは四六時中居座っているのではなく、発作のように突発的に俺を悲しみに陥れる。例えば運転中に、助手席に座る母のことをふと思い出した時など、それは決まってひとりでいる時なのだ。ひとりぼっちの時は心が油断してしまうからなのだろうか。一度あふれた涙はなかなか止めることができない。
母のいない毎日は、俺にとってはまだ特別な日々だ。いつかは悲しみに慣れて、これが日常と呼べる日が来るのだろうか。明日は母の四十九日法要だ。



2019年07月29日(月)
Vol.884 さよなら、お母さん

おはようございます。りょうちんです。

今だからこそあなたに伝えたい言葉は、心からのありがとうしか思い浮かばないよ。とても簡単な言葉だけれど、この気持ちを上手に表現することもできないけれど、感謝の言葉以外、あなたに伝えたいことは俺の心の中には残っていないんだ。本当に本当に、心からどうもありがとう。
あなたから教えてもらったことは、星の数よりも多いと思っているよ。あなたから直接教えられたこともあれば、あなたの言動や態度を見て俺が自ら悟ったこともあるけれど。あなたと一緒に過ごすことができた時間は、俺にとってはかけがえのない時間で、一生の宝物なんだ。そりゃ時には悪態をついたり罰当たりな言葉であなたを困らせたこともあったけど、それもこんな宝物をくれたあなたのことが大好きだったからなんだ。
あなたはとても頑張ることができる人だったよね。病に倒れてから一度も弱音を吐かず、常に前向きに考えることができる人だったよね。16年もの長い闘病生活の中で、最期まで生きることを諦めずに頑張ったあなたの姿は、本当に見事だよ。立派だよ。たくさん褒めてあげたいよ。あなたの前向きな考え方が今の俺につながっているんだと、俺は確信しているよ。
悲しくて悲しくて、どうしようもないくらい悲しい気持ちで俺の心はあふれてしまっているけれど、思っていたよりも出てくる涙は少ないみたいだよ。それは、あなたが俺に心の準備をする時間をたっぷりくれたから。突然の悲しみ耐えなくてもいいように、覚悟をする時間をたくさんくれたから。だからこのとてつもない大きな悲しみも、正面から目をそらさずにしっかり受け止めることができるんだと思うよ。
ごめんね、あなたに伝えたいことが本当は山ほどあるのに、こんな時に上手に言葉にできなくて。何から伝えればいいのかさえ、わからないよ。でも、あなたと最後に交わした「来世でも私の子どもになってね…」という約束は、俺は絶対に守るから安心してね。これからはゆっくり休んでいいよ。本当におつかれさま。ありがとう、お母さん。さよなら、お母さん。



2019年06月30日(日)
Vol.883 秩父徒歩巡礼・4日目

おはようございます。りょうちんです。

前回の続き、秩父徒歩巡礼・4日目。
道の駅で車中泊をして、早朝から31番札所の観音院へ向かう。実はこの30番から31番の札所間が秩父巡礼道の中で最も距離が離れていて、18劼發△襦スタートした道の駅からも、まず約8劼了各擦鯤發い31番の観音院へ向かい、32番の法性寺を経て、33番の菊水寺まで行く予定なのだ。
長い石段を登り崖っぷちに建つ観音院の本堂で参拝の準備をしていると、白衣に身を包んだ初老の男性がやってきた。彼は前日から俺らと巡礼するスピードがほぼ同じで、各札所で何度も顔を合わせるうちにあいさつをするようになり、やがて言葉も交わすようになった。話を聞くと、彼は秩父を巡礼するのが今回5度目だという先達で、巡礼に関して詳しいことをたくさん知っていた。だから俺らは先達からのありがたいアドバイスを聞いて、この日の計画をあっさりと32番の法性寺までに変更した。
それにしても、アドバイスをいただいたこの先達だけに限らず、秩父巡礼をしている人のなんと多いことか。ちょうど元号も変わったゴールデンウィーク真っ最中の時期とはいえ、前回俺ひとりで巡礼した10月の平日は、時々バスツアーで巡ってくる団体客と遭遇するくらいで、個人で巡礼している人とは誰も会うことがなかったのに。山奥の寺でも、たくさんの人たちが参拝のためにぎわっていた。
峠道を越えて32番札所の法性寺に着く。法性寺は本堂と奥の院が離れていて、お船観音と呼ばれる奥の院は岩船山の頂上にある。そこまでは険しい山道を登るしかない。長距離を歩き続けて疲れた足で山道を登るのは大変だったが、観音様の隣で絶景を眺めながら食べたおにぎりは最高だった。先達のアドバイスはやはり間違いじゃなかった。
33番の菊水寺に向かう途中のバス停まで歩いて、4日目は終了。歩行距離は概算で29辧∧盥垰間は約9時間半だった。
秩父巡礼・4日目はここまで。いよいよ結願、最終日に続く。



2019年05月31日(金)
Vol.882 秩父徒歩巡礼・3日目

おはようございます。りょうちんです。

気がつけば、2年半もの月日が流れていた。春になって日が伸びたら再開しようとあの頃は綿密に計画していたにも関わらず、忙しさにかまけてなかなか実行できないまま時は過ぎた。心の片隅では中途半端で止まっている志をいつ再開させようか、ずっと気持ちがもやもやしていたのに。本棚にしまわれた経帳帳は、途中から墨が入らない空白のページが続いているのに。GWの後半を使って、俺は行程の半分ほどで止まっている秩父三十四ヵ所霊場巡りを、ついに再開させることにした。ずいぶん前のことだから忘れてしまっていることもあるが、前回は2日間で25番札所の久昌寺まで歩いたはずだ。今回はその続き、2年半ぶりに再開する秩父徒歩巡礼。
前回は俺ひとりで寺を巡ったが、今回は相方も同行すると申し出た。寺社や仏閣に特別興味があるわけでもなくただひたすら歩くだけだから、相方が本当に楽しめるのか少し心配だが、一緒に来てくれるのは正直心強い。会話しながら歩いたり一緒に休んだりできる方が、きっと楽しいはずだ。
秩父まで車を飛ばし、前回歩くのを止めた場所から再スタート。26番札所の円融寺に向かった。10月に歩を進めた前回とは違い、今は若葉が目にまぶしい新緑の季節。過ぎてゆく朝の薫風が本当に気持ちいい。巡礼道と書かれた道標を目印に、俺らはくだらないことを話しながら巡礼古道をひたすら歩いていく。そして目的地の寺に着くとお参りをして、ひとつずつ確実に歩むべき道を進んでいった。午前中は晴れ渡っていた空は午後から急に雲行きが悪くなり、思いがけない雷と通り雨に見舞われてしまったが。幸い雨具を使うほど雨が強くなることはなく、一時的に避難すれば問題ない程度だった。
この日は30番札所の法雲寺まで打ち、さらに31番札所の観音院へ向かう途中にある道の駅まで歩いて、秩父徒歩巡礼・3日目は予定通り無事終了。歩行距離は概算で約33km、歩行時間は休憩込みで約10時間半だった。
秩父徒歩巡礼・3日目はここまで。4日目に続く。



2019年04月29日(月)
Vol.881 平成が終わる日

おはようございます。りょうちんです。

平成が終わり、令和がやってくる。昭和が終わり平成になった時、俺は16歳で、考えてみれば俺の人生の約3分の2は平成を生きてきたわけだ。
昭和が終わった日を、今でも俺は鮮明に覚えている。高校1年生の冬休み最終日で、郵便局で年賀状を配達するアルバイトの最終日でもあった。俺が目を覚ました朝にはすでに昭和天皇は崩御されていて、TVでは厳かにそのニュースを淡々と伝えていた。これからどんなことが始まるのか気になって仕方なかったが、俺はそのまま郵便局へアルバイトに向かう。郵便局では仕事の前にアルバイト全員が会議室に集められ、昭和天皇が崩御されても仕事はいつも通りにある旨を伝えられた。世間は一気に悲しみムード一色になったが、いつもと違う状況に逆に俺はどこかしら浮足立っていた。結局、その日はTVはどの局も天皇崩御のニュースだけを報じて、楽しみにしていた番組も延期になった。そして日本中が何となく悲しみムードに染まったまま、しばらくの間暗く沈んで過ごすことになったのだ。
昭和から平成に変わった時と、平成から令和に変わる今回とで、明確に違うことがある。それは、改元する日にちが前もってわかっているかいないかだ。昭和の終わりは突然やってきた。俺はあの日、朝起きたら今日で昭和が終わってしまうという事実を突きつけられた。世間の大半の人は俺と同じで、だからこそ突然の改元にどたばたと慌て、頭の整理がつかなかったんだと思う。しかし今回平成が終わる日は、かなり前から知らされている。心の準備も頭の整理も、十分につけられる状態にある。だからその証拠に、必要以上にやたらと「平成最後の」が使われているのだ。
でも俺にとって、社会人として初めて仕事をした日や、21世紀になった日や、30歳の誕生日の方がずっと自分の中で区切りにできた日だと考えているように、平成が終わるからといって、誰もがみんな特別どうにかすることはないと思う。必要な人だけが、この改元を良いきっかけにできればそれで十分だと思う。



2019年03月31日(日)
Vol.880 続・バスに乗って学校へ

おはようございます。りょうちんです。

前回、小学生時代に俺はバス通学をしていた話を書いた。6年間も毎日バスで学校に通っていれば、そりゃ山のように思い出はある。今回は引き続き、バス通学をしていた時の話。題して、続・バスに乗って学校へ。
俺がいつも学校から帰ってくる時、俺の家へ向かう方向のバスに乗れば、どのバスでも必然的に俺の降りるバス停まで俺を運んでくれた。うっかり乗り過ごすことがない限り我が家よりも先のバス停まで行ってしまうことはなかったし、実際通学していた6年の間、乗り過ごしてしまったことは俺は一度もなかった。
しかし、俺が利用しているバス停の先に十字路があって、バスはそこから3つの方向に分岐してしまう。つまり、さらに先の地区から通っている人は、バスの行き先をちゃんと見極めないと家とは違う場所に連れていかれてしまうのだ。来たバスに乗れば自動的に家に帰れるお気楽な俺に比べると、俺の家より先の地区から通っている人は緊張しながらバスに乗る必要があった。しかも、バスの行き先表示は今と違って漢字のみだったし、小学校に入って間もない頃の漢字なんて読めない子供にとって、バスの選択はかなりハイレベルだったに違いない。万一わからなければ、運転手さんや車掌さんに必ず聞いて確認すること、これが鉄則だった。
ある日、日もすっかり暮れた夕方、母は我が家のすぐそばでRちゃんを見かけた。彼女は俺の保育園の時の同級生で俺の家よりさらに先の地区からバス通学をしていた。見ると、すっかり泣き疲れた様子でとぼとぼと歩いている。「どうしたの?」と声をかけると、「バスを間違えちゃって…」と涙目で話したそうだ。彼女の家までまだ1km以上もあるのでかなり心配だったが、彼女の大丈夫の言葉を信じて背中を見送ったらしい。彼女がどこでバスを降りてどのくらい長い距離を歩いて来たのか、俺はわからなかったが。子どもながらに、分岐の前でバスを降りる場所に我が家があって良かったと、心から安堵したのを覚えている。



2019年02月22日(金)
Vol.879 バスに乗って学校へ

おはようございます。りょうちんです。

そんなの普通で珍しくないことだと思っていたのに、実は結構レアなケースで他人に話すと驚かれることが、たまにある。小学生だった6年間ずっと、俺は毎日バスに乗って学校へ行っていた。こんなことを言うと、おしゃれなスクールバスが送迎してくれる学費がすごく高そうなおぼっちゃま学校だったのかとか、はたまた学校からかなり遠くのひどく辺鄙な山奥の田舎に我が家があったのかとか思われるかもしれないが、そうではない。誰が決めたか知らないが、俺の住む地区の小学生は全員、学校の前を通る民営の路線バスに乗って通学しなければならないという決まりがあったのだ。バス通学以外は認めないという校則なのだから、もう守るしかない。
我が家から小学校までは約2km。けして近くないが、子どもの足で40分あれば歩けたので、毎日徒歩で通学することも可能ではある。では、なぜバスを使う必要があったのか。それは、学校までの通学路にちゃんとした歩道がなかったからである。
我が家は国道沿いにある。バイパスができて裏通りになった今は交通量も減ったが、当時は大型のダンプカーやトラックががんがん走っていた。一方、小学校は国道と駅を結ぶ幹線道路沿いにある。ここも交通量が多く、車道の脇がすぐ民家や畑で歩道が全然ない区間もたくさんあった。交通事故が今よりずっと多かったあの頃、安全を考えてのバス通学だったのだ。
クラスメイトの3割程がバス通学だったのだが、バス通学の子どもは全員ランドセルから定期券入れがぶら下がっていた。ICカードなんてまだなかった時代、バスを降りる時に車掌さんや運転手さんにその都度ぶら下げた定期券を見せていた。胸に付けた名札の中には、定期券を万一失くしたり忘れた時のバスの片道乗車賃である50円玉が1枚いつも入っていたし、各学期の初めにはバス会社の事務所があるバスの車庫まで、わざわざ定期券を買いに行っていた。6年間バス通学をしたあとめっきりバスに乗る回数も減ったが、今となってはなんだかとても懐かしい思い出でもある。