momoparco
  大晦日の夜に
2004年12月31日(金)  

 はらはらと粉雪が舞い、寒い大晦日。
午前中に、各駅停車で三つ先の駅まで買い物にいく。二日の日に使うお土産と出たばかりの好きな作家の本を大急ぎで買い、再び帰りの電車に乗った。

 手袋をしていない手が冷たくて、下りの電車のホームはひとも少なくて、誰もが急いでいるみたいで。

 天候のせいで景色が暗い。手に入れたばかりの本が嬉しくてパラパラと眺めていたら、降りる駅を乗り過ごしてしまった。次の駅で電車を降りて、反対のホームに移る階段を昇っていたら、大晦日終夜運転の時間表が目に入った。

 この電車は大師のある駅に繋がっているので、初詣の参拝客が沢山乗るのである。
終夜運転か・・・、最後に外で年を越したのはいつだろう。ホームに立って反対のホームにある階段を眺めながらそんなことを思った。

 代々木の明治神宮で年を越したり、海岸でカウントダウンをしたり、年を越すのはいつも大勢のひとのいる中で過ごしていた数年があった。そのうちに、何だかだんだん億劫になり、大晦日の夜はゆっくり家で過ごすのが当たり前になっている。

 あの頃は若かったなぁ、なんて何だかとっても思えた。何をするのにも億劫なんて思わなくて、ふと回りを見れば、あの頃の私くらいの若者が、じっとしているなんて考えられないという様子で生き生きと動いている。

 きっと年をとるのは嫌じゃないのだ。たとえ若さが失われていくのだとしても、本当に嫌なのは老いて衰えることだけだ。私は過去の私に戻って若返りたいなんて思わない。今の私が知らないことにもっと出会いたいと思っている。体だけが若いときみたい動ければ、中身なんか若くなくてもいいと思っている。むしろ中身は、もっともっと熟成したいと思っている。

 何故か頭の中にサザンの歌が流れてきた。勝手にシンドバッド。何でだろう、この歌冬の歌じゃないのに。

♪砂まじりの茅ヶ崎 人も波も消えて

 電車の中、駅についてから、それから後の今日の日は、ずっと頭の中がこの歌だ。さっき紅白歌合戦が始まって、年越しそばを食べながら TOKIO を見たとき

恰好いい!彼らは演奏するんだったね、ひとりひとりのドラマだとかマラソンだとか、バラエティ番組の印象が強いのに、ああしてみるとなかなか恰好いいじゃない!

と思ったのにその後は

♪心なしか 今夜 波の音がしたわ 

 それから、今度はモー娘が出てきて、なんだろうあれは。夏休み子どもミュージカルかなにかに出て来る主人公以外のみんなみたい。メンバー全員がその他大勢みたいってどういうんだろう。なんて思ったが、すぐに頭の中は

♪男心誘う 胸騒ぎの腰つき・・・

なのだ。

 そして、もう今年の仕事はお終い。
あとはのんびり過ごすだけ。
一年が終わりますね。
皆さま、今年もありがとうございました。
どうぞ、素敵な新年をお迎えくださいね。



 ♪ラララララララララ〜



  ゆく年ゆく年
2004年12月30日(木)  

 朝開店早々に買出しに行く。
さぁ、これから家を出ようという時に、デパートから注文の品物が届き、グットタイミング♪と言いながら出かける。
お正月といっても、財布の紐はこの時に引きしめるかどうかで、1月の財政は大きく変わるので(だって過去の経験だと、無駄にするものが多いし)なるべく買い物は控え目に、と思いつつ、食料品売り場では、食いしん坊の母の要望を聞いているとついつい沢山買ってしまいそうになる。

 そんなことではエンゲル係数が上がりっぱなしやん!と思うが「孝行のしたいときに親はなし」などという言葉が浮かび、ついつい言いなりになる。

 だって、「うに」とかさ、大きいのと小さいのとだと、大きい方がいいって言ったりするわけ。一事が万事この調子なのだ。

 買い物を済ませて急いで帰り、冷蔵庫の掃除をしながら中身を入れていると、今度は宅配業者から電話がかかる。アマゾンに注文しておいたCDを今からお持ちしますという。まるで見ていたようなタイミングの電話に再び♪グットタイミングと踊る。

 遅めの昼食をとるとすぐに父のお墓へ。
掃除をして新しい花を供えると、何だか床屋さんへ行ってさっぱりしたような父の顔が浮かんでくる。

 再び大急ぎで帰宅。すると待ってましたとばかりにケンケイホンブから電話がかかる。こういうとき、ケンケイホンブはすぐに県警本部とは結びつかない。はっきり警戒心を持つ。誰か何かしたのか?というより、嘘つきか?と思うのである。電話の内容は、最近の詐欺事件にはくれぐれも注意するように、ということなのだが、立石に水のようでいて、セールスマンのそれより愛想がないので、何だかそれ自体が詐欺みたいと思ったり思わなかったり。

 それから掃除掃除掃除。こういうことをし始めると、日頃もっとマメにやっておけば良かったのに、とこれはもうその度に必ず絶対に思うのだが、さすがにもう今度からはそうしよう、などと殊勝なことは思わない。(笑)
後悔役に立たず、とか、後悔後を絶たず、とか、そんなことも思わない。
多分、私はそのようにして、大掃除のときに同じことを思い続けていくだろうと開き直っているのである。

 何だか一日が目まぐるしくて、夕方までフルに働くと、仕事をしている方が楽だと思ったりする。きっと家事だけで過ごすなんて私には不可能なことなのだろう。

 とにもかくにも今日のノルマはお終い。明日はまた雨か雪になると聞いているので、料理のしたごしらえなどしつつ、家の中でふらふらすることになりそう。
泣いても笑っても一年が終わる。



  やっとお休み
2004年12月28日(火)  

 ようやくほっと一息。
といいたいところですが、まだ何も新年を迎える準備をしていません。(汗)
今日明日で何とか少ししないとね。
と思うのに、気ばかり焦ってなんにもしたくない。(爆)

 あ、そうそう。
昨日は雪が降りました。
お昼近くに大きな大きな雪が、しんしんとよく降り続いていました。
水をたっぷり含んだ雪だったので積もったりはしませんでした。
夕方には小雨にかわり、何にも残っていませんが、あしもとから冷え冷えとして、冬なんだなぁと思いました。

 朝出かけて行くときは、みぞれだったのですね。
で、なんとなく

♪雨は夜更け過ぎに 雪へとかわるだろう

なんて口ずさんで歩いていました。
一日その曲が頭の中に。(笑)
数あるクリスマスソングの中で、最も好きな曲かな。
なんて、クリスマスのお話も何だか古いねたっぽいですが。
あの曲を始めて聴いたとき、ずい分感動しました。


 あ、明日もまた雪みたいです。
今日、お天気のうちに出来ることからやらなくちゃね。

 風邪のご心配ありがとうございました。
おかげさまで元気です。



  風邪ひきでした
2004年12月23日(木)  

 昨日はクリスマス、みなさまどのようにお過ごしでしたか?
私は風邪でダウンしておりました。(泣)
朝起きて、また寝て、ちょっと起きてまた寝て、またちょっと起きて寝て、気がついたら今朝。
一日爆睡のクリスマスでした。
何だか冴えないクリスマス・・・。(笑)

 もしも、冴えないクリスマスを過ごしたとおっしゃる皆さま
私はそんなアナタの味方です♪(笑)

 皆さまも風邪を引かれませんように。



  そうる
2004年12月20日(月)  

 病院の待合室って好きだ。なんていうと語弊があるけれど、待合室で待つことが好きだといえば近いのか。二年前から両親が相次いで病気になり、その付き添いをすることが多くなって、特に母の検査結果を聞くときにはいつも私がひとりで行く。母と一緒のときは、待合室に着いた途端にあまりの混雑に機嫌を悪くする母のお守りをしなくてはならないので、待たされることはありがたくないが、ひとりのときは違う。検査の結果を聞くためという理由は大きな顔をして非日常にいられる大義名分で、その時間、ゆっくりと本が読める。いくら予約が入っていてもたいてい二時間近くは待たされる。

 日頃の生活で公園のベンチに座ってゆっくり読みたいとか、仕事帰りにちょっと静かな喫茶店で本が読みたいなんて思っていても、なかなかそんな風にできたことがない。それをしていると遅くなってしまう、とかそんな風に軌道をはずれることでついつい後のことを考えてしまうからだ。

 もっともっと若いころはちっともそうでなかった。あの頃は早くこいこいお正月みたいになかなか時間は経たなくて、明日のことなんかはるかに遠い先のことで、それよりも今したいことを今すぐしないのが苦痛で、明日やるなんていうのは気が遠くなるほど先のことみたいで、そして時間ならたっぷりあると思っていたから。

 だんだん時間はあまりないと感じるようになると、予定外の行動を入れて遅くなろうであろう今夜のスケジュール(ご飯をたべたりお風呂に入ったり何でもないことだけど)が遅れてしまう、それだけのことでも明日に影響がでてしまいそうで軌道を逸することができなかったりする。

 だから、病院の待合室で待たされれば待たされるほど、その場所は非日常の場所で、だからゆっくり自分の時間に当てられるという、何だか情けない状態である。

 たぶん、私自身の病気や心配だったらそうではないだろう。すると私は少し冷たいのかも知れないが、今までのところずっと母の結果は良かったからで、診察室に呼ばれても、ものの5分で終わってしまうのが習慣のようになっていて、だから私は心配をしていなかったというのも大きな理由なんだと思う。

 歯医者さんもいい。どんなに予約をしていても、いつも必ず待たされる。すると私はゆっくりできる。たまにすぐに名前を呼ばれてしまうと何だか少しガッカリする。せっかくだったのになんて思ったり。


*


 そういえば、昨日私はひさしぶりに本を閉じて音楽を聴いた。昨日のDiaryに両方は一緒にできないと書いたのだけど(読むことと聴くこと)休日の曇り始めた午後に、例によってCDをかけ、ソファーに寝そべりながら読みかけの本を開いた。CDは今日初めて聴くもので、だけど読みかけの本の行方も気になっていたから。

 いつしかCDから流れる音が体にずしずし入ってくる。そんな感じが私の意識を音に集中させる。それはJa Rule というラッパーのR.U.L.E.というアルバムでいつものことだけどブラックテイストだ。

 なんだろうこの感じ。これもいつものことなんだけど、すうっと体に入り込んでくるリズムがなんだかとっても懐かしい。こういうとき、私の前世は一体なんだったのだろうと思う。この感じに安心する。魂が休められるみたいな、ああ、SOULだなぁ、なんて思う。

 実は私はまったく音の世界のことはわからない。だから、こういう感じを伝えるのが難しい。音を聴いてもそれが何の楽器であるのか、何のどこがいいのだと専門的に書くことができないのだ。それなのにSOULだなんて、自分でも可笑しいのだけど。

 その感じを私的に書くとこうだ。
それはホンダのプレリュードかレジェンドのエンジンだ。ベンツではいけない。あんなに静かで振動のないエンジンではだめだ。といって音がすればいいというのでもない。そして、エンジンの回転数はロウからセコンドに入り込むまでの間の音だ。その車内のBOSEのスピーカーからお腹の底に入り込んでくる低音の感じ。本当は振動とエンジンの音の感じる場所は逆なのだけど、エンジン音を耳で聴いて、低音をお腹で感じる。ボーカルのだみ声が混じる。何もかもがずしずし。まさしくその感じ。なんだか魂がすっかり休められるような気持ちがする。 

 読みかけの本をぱたりと閉じて、それからついでに目も閉じて、全身の力がぬけて弛緩する。頭のなかではぁ〜っとため息をつきながら、そうして私は胎児になった。


 な〜んて、やっぱり可笑しいかもしれない。(笑)



  お釈迦さまとは正反対
2004年12月19日(日)  

 ネットの上でいくら内面を書いたとしても、画面からはわからないことがあると思う。
例えば私は、普段の生活の中で少し足りないのじゃないかと自分を見て思うときがある。
それはどのような時かというと、聴覚と視覚がバラバラに活動できないときだ。

 私が驚くのは、電話で込み入った話をしながら電卓で縦計算ができるひとがいることや、電話をしながら後ろの方で話すほかのスタッフの冗談話に笑って反応できることや(ふり向いて笑うのだ)、職場以外でも、日本語の音楽を聴きながら物が読めるひとがいることや、何かを書きながら誰かと話ができるひとがいることだ。

 好きな音楽をかけて(歌詞が日本語じゃない)本を読み始めると、いつしか音は聴こえていない。CDが止ったことにも気づかない。ふと気がつくと音が止っているという感じだ。あるいは、音に意識がいった途端、目が止る。同じ活字から視線は動かず、読むという行為が止る。

 寝そべりながら本を読むとか、座りながら音楽を聴くとか、歩きながら話をすることは出来るが、そうしたことはどちらかが脳を通じて行う行為ではないときだ。視覚と聴覚のどちらかを同時に使っているのと違う。
 映画の画面を見ながら字幕を読んで音を聴くことは可能だ。それは意識が一つに向かっているからだと思う。

 しかし、意識がまるで無関係の二つに向かい、しかも視覚と聴覚が必要なとき、私はひとつしか出来ないのだ。だから、何かをするときにテレビをパチンと消してしまったり(気が散るから)、音楽を聴こうとするとき本をパタンと閉じてしまったりする。
 
 何かに夢中になっていると、話しかけられても聞こえなかったり、聞こえていても別の世界の出来事として私に関係ないことのように思ってしまったり。

 そんな癖があるから、職場で新しいひとが入ってくると私に話しかけても知らん顔をされるときがあるらしい。そして、自分は嫌われているのじゃないかと思ってしまうらしいのだ。そんなことは誤解で、それはすぐに溶けるのだけど、それにしても少し悲しい。

 視覚と聴覚、どちらにも素早く反応できるひとは、仕事においてとても有能なのだと思う。つまり逆に言えば私はまったく無能なのだ。タリナイヒトだと思われているんじゃないかと思ったりする。否、実際に足りない。それをここに書くのはウィークポイントをさらけ出すようで、恥ずかしいが、思いついちゃったんだから書きたいのだ。書かなきゃバレやしないのに、なんて百も承知だ。

 もし、この場にいらっしゃるどなたかが今私の名前を呼んでくださったとしても(例えば一堂に会していたとして)たぶん、私は気がつかないだろうと思う。



  パスカルッチォーネ(笑)
2004年12月11日(土)  

人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない

しかしそれは考える葦である

これをおしつぶすのに宇宙ぜんたいはなにも武装する必要はない

風のひと吹き水のひとしずくでじゅうぶんことたりる

しかしたとえ宇宙が押しつぶそうとも人間は人間を殺すものより尊いであろう

なぜなら人間は自分が死ぬことを知っており

宇宙が人間のうえに優越することを知っているからである

宇宙はそれについてなにも知らない

それゆえ我々の尊厳はすべて思考のうちにある

我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって

我々の満たすことのできないところからではない

だから我々はよく考えるように努めよう

ここに道徳の根源がある

パスカル『パンセ』より


 考えることは悪くない。
嫌というほど考える。ノイローゼになるほどに。
考えに考えて、そして本来の自分を取りもどすことが出来たとき
その喜びは無上に大きい。
それはただただ清々しい。



  とにかくミーハー
2004年12月10日(金)  

 昔からこれになったことがない。なろうと思ったこともないが、思ったとしてもなれないだろう。その点寂しい人種かも知れない。(笑)

 世間にはよくいるミーハー。最近なら、やはり ペ・ヨンジュンファンというあれだ。先日テレビを見ていたら、彼が来日した(らしい)時に、空港で出迎えたファンのひとりの中年女性がインタビューを受けていたが、実際に涙を流し興奮していて驚いた。あれは一体なんだろう。車に乗ればまるで轢いてくれと言わんばかりに近づいてギャーギャー言っているであった。

 例えば被災地に、天皇皇后両陛下が慰問をされに行かれたとき、ひとりひとりにお言葉をかけられると、言葉をかけられたひとが感激のあまり涙を流すというシーンを見ても、それはそんなに不思議ではない。(私の場合)

 私は両陛下のご尊顔を実際に目の前で拝顔したことは一度もないが、後光がさしているようだという感想には、何となく納得できるものがある。それは生まれながらにして身分というものに裏づけされた存在そのものから来るものだろうし、そうしたやんごとなきご身分の方々が、今目の前でまさに自分に向かって激励の言葉を差し向けてくだされば、それは感激してもおかしくはないと思うからだ。

 しかし、 ペ・ヨンジュンに関しては全くさっぱり分からない(分かりたくもないが)。余談だが、住友生命保険は今年の世相を漢字4文字で振り返る「創作四字熟語」優秀賞を発表したらしいが。何が大賞なのか知らないが、その中に『様様様様』というのがあって、それが彼のことらしい。どうでもいいけど。

 で、ミーハーである。私は小説家浅田次郎が好きで、サイト名には彼の作品名をつけたくらいだ。彼の作品には三つのタイプがあり、『プリズンホテル』を初めとしたいわゆる極道小説と呼ばれるもの、『蒼穹の昴』を初めとした純文学、そして知る人ぞ知る競馬評論家としての『勝負の極意』を初めとする賭け事師的エッセイ。

 本来は、そうしたもののことをもっと紹介するべきであり、それは私にとってずっとずっとのテーマである。しかし、畏れ多くて書けないでいる。彼の書くものは、これは本当に同じ人間の書いたものなのかと思うくらいに幅広い。それだけでなしに、何か私なんぞの言葉でくくれない偉大さを感じてしまうからである。(勿論極私的に)

 しかし、逆にどこを切っても金太郎飴のように、開けても開けても浅田次郎のことばかり書き連ねていたらどうだろう。それがいわゆるファンサイトだ。そうしたものは排他的であるから、一分のひとには受けるが、そうでないひとには素通りされる。されるというのは、私ならそうだからだが。知っていることの披瀝をし合あたってしょうがないじゃないかと思う。(沢山知っていることが凄いのか。)

 それだけでなしに、同じ好みのひとばかりが集まるようになると、そこにはなぁなぁの関係しか生まれない気がする。だから、というわけではないが、そうした方向へ向けて行くことは性格上、ごくごく自然に出来ないことである。だっていいものはいいだろう。好きなものには理由はいらない。ツルむ必要がどこにある?(つまりへそ曲がりだわね・笑)


 ついでに言えば、好きな映画俳優に、トム・クルーズやブラッド・ピッドがいる。彼らの映画はことごとく観るが、私生活にはあまり興味がない。従ってということでもないが、彼らにサマなんぞつけない。

 で、ミーハーである。(爆)日本の女の外人好きは一体どこまで続くのだろう。かつて紅毛碧眼、いわゆる青い目の男を求めて日本の女がわんさと渡米し、そこで男をひっかけては寝るのが流行った。実際はどっちが引っかけたのか引っかけられたのか、ではあるが。それはいみじくも『イエロー・キャブ』と呼ばれた人種である。まだ余談だが、イエロー・キャブというのはタクシーで誰でも乗っけるということだ。

 それからしばらくすると、家田荘子いうところの『黒い肌に群がる女たち』という人種が現れた。これは、ターゲットが紅毛碧眼からブラザーに変わっただけのことだ。どの時も同じ、いかにその男たちがいいかが基準になり、女たちは行動を起す。

 そして今度は韓国ブーム。韓国の男と結婚をしたいという女が増えて、そのためのツアーやら、そうした男と知り合うための努力を惜しまない女たち。まだ、そこへ行くと、空港でギャーギャー泣いているくらいは可愛いものかも知れない。

 日本のある種の女たちが外国の男に走るのは、男によって幸せにしてもらおうと思う女が、日本の男では不足だから(人数じゃない)さっさと諦めて表に走るとしか思えない。そんなに日本の男はダメなのか。

 ところであのイエロー・キャブや黒肌の末裔は一体どこへ行ったのだろう。それより何より、女たちは胴長短足、鼻ペチャの日本人であることを自覚しているのだろうか。それが疑問。

なんだこれ、どれがテーマだ。

。。。このDiaryは一日にひとつしか書けないので、日付がずれております。



  時の過ぎ行くままに
2004年12月05日(日)  

 心を亡くすと書いて忙しいと読む。
などと情緒チックなことをいうつもりは毛頭ないんですが。

 忙しかったです、ここんとこずっと。かったというよりまだ忙しくて、更新することはもとより、掲示板のお返事も皆さまのところへの訪問もなかなかできずにおりました。

 今日はやっとやっとやっとのおやすみ。こういう時の休日ってアッという間に終わってしまうのですよね。早朝は風雨が強くて今日は何も出来ないかな?と思っていたら、少しずつ天気は回復。もう青空が見えていて何だか暑いくらい。お暑うございますって言いたくなっちゃう。で、一応、洗濯も終わり、掃除も済んでようやくPCの前に座っております。

 しかしこう、時間がないというかあるのに呑まれている状態って何も考えられなくなります。物を考えようとするとストップがかかる。頭の中で思考が始まりそうになると、別の思考が遮断するとでもいいますか。何だろう、不思議な感覚。

 特別悩みや心配事があって、考えなくてはならないことなどはないんだけど、何だか頭の中が忙しい。ある部分にピンスポットが当たりそれが浮き彫りになったかと思うと、次の瞬間には全く別方向のスポットが光る。そうした形で見ていると(見ているとっていうのも変ですが、自分の意識を見ている感じ)何かこう一つ一つがサブリミナルのような、常にクルクルと動く万華鏡を覗いているようで、落ち着かないったらありゃしない。
一つ一つは、このように書くにも足らないことばかりなのに、寄り集まるとうるさいのなんの!

 でもそれ、言いかえれば考えているようで実は何にも考えていないのだということになります。だとするとこの感覚って何だろうと思う。何だか分からないけれど、マグマのように色んなものの断片が寄り集まってフツフツと煮えたぎっている。それがいつか爆発しそうな気配。ただ、その爆発の仕方が分からない状態。どうしたもんだ、これ、って感じ。

 だからといって耐え忍んだり、我慢に我慢を重ねていたりしているのでもないのに。要するにストレスが溜まっているのかしら?と思うのだけど心当たりもなかったり。ほら、書いていてもグルグル回ってらちが開かない(爆)

 なんと言いますか、小さい子が夜中に急に泣き出して止らなくなったりするでしょ、昼間の残像だか何だか刺激が過ぎたときなんかに。その泣き出す寸前の思考状態ってこんなんじゃないかと思ったりしますね。上手く言えないけど。

 そんな日々を送っておりました。皆さまお変わりありませんでしたか?
もう12月も5日ですね。師走、年の瀬じゃないですか。時間の経つのが早いです。私の中ではまだ初秋くらいなのに、どんどん追い越されているみたい。体内時計はまだ狂っていないようですが、脳内時計が遅れている。何だか追いつかない。あ、その追いつかないってのがストレスになっているのかも。

 今日はちょっとくてくてしていようと思います。
皆さま素敵な休日を♪



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