momoparco
  今回の手術
2004年01月25日(日)  

 昨日は、午後から父の手術の説明を聞きに病院へ行き
最終的にどんな手術にするかを話し合う。

 父の肺の癌は左の肺にあり、直径1cm大の大きさである。
右の肺には、もう少し小さな腫瘍があり、これは今のところ良性ではあるが、いつ悪性に変わるかも知れないというのは、すでに聞いていることであった。

 心臓外科、心臓内科、呼吸器内科、呼吸器外科
医師団の一致した考えは、せっかく全身麻酔をして手術をするのなら、今のところ良性ではあるが、右の腫瘍も取ってしまいましょうということである。
こちらは切るのではなくて、体に穴を開けて腫瘍の部分だけを切除するに留めるという。

 その後左の肺の手術に移るが、こちらはメスをいれて体を開き、肺の半分を取り省くという。
癌に対して一番完璧に近い手術なら、両側の肺を半分ずつ切り取り、更に気道に向かうリンパ節も取ってしまうのが良いらしいが
癌に対して最善というだけで、その後の生活を考えれば、肺は片肺になってしまうのと同じになり、心臓手術後の体力の衰えから鑑みても、薦めることは出来ないという。

 しかし、今までの検査では、脳や骨、他の臓器には転移は認められないものの、顕微鏡では見えない転移は、もう起きているかも知れないという。
たいてい、癌の転移というとそのようなことであるらしい。

 といって、勿論個人差はあるし、ケースバイケースなので、それが全てとはいえないから、後は祈るしかないともいう。
術中の迅速病理検査で、万が一右も悪性だったとしても、左右の癌細胞が同じ組織であるかどうかは分からない。
癌の組織細胞にも、いくつかの種類があるからである。

 最終的に父の下した判断は、両側ともメスを入れずに、穴を開けて癌細胞や腫瘍の部分だけを摘出するという、一番簡単な手術を受けることになった。

 これはもう、本人の意思に任せるしかないことなので、本人がそれで良いと言うのなら、それが一番良い方法なのだろう。
父はとっくに決めていたようでもあった。

 手術は大きくなればなるほど危険が伴うから、これを聞いて医師は拍子抜けをしたらしいが、簡単な手術であればそれだけ無事に終わる確立が高いのでホッとしたようでもあった。

 しかし、癌に対しての手術は万全とは遠くなるわけで、その後も常にどこに何が起こるかは分からない。その意味では、後々の不安は常にある。

 しかし、いくら万全だと思われる手術をしても、やはり転移したという話は数多く、次々と転移、手術を繰り返し、結局は痛い思いをするだけで、助けきれずに亡くなる人も多いという。

 アメリカではこれを考えて、切らないで過ごすという選択を医師が薦める場合が増えているのに対して、日本では、まだまだ徹底的に取るという方法が一般的らしい。いずれにしても、本人が望むやり方をする以外にはないだろうと思う。

 それから、手術に際してのお定まりのお話を聞く。(笑)
これは、手術中に起りうるあらゆる危険についての話で、例えば、術中に心不全や心筋梗塞、脳血栓や脳梗塞、肺血栓や院内感染などなどのこと。
今はその病気の不安が全くない人でも、手術中にこういうことが突如として起ることは否めず、場合によっては死に至るわけで、それを一つ一つ丁寧に説明をして、それでも良いですね? と念を押すあれである。
何かあって、後から家族に詰め寄られては困るから、医師にとっては、嫌でもやっておかなければならない話ではある。

 医師は、もう言い忘れたことはないだろうと思えるまで、延々ときっちりと説明をする。
話を聞いていると、そんなに怖いことならやりたくないと言いたくなるような話ばかりである。
今までこの病院では、何人の人が死亡している、といった数字まであげて一つ一つを話されると、勿論、あまりいい気持ちではない。
その説明の後で、患者にとっては手術を受けない選択もあるが、もともと手術を受ける方向で話の場があるわけで、それでやめるという人はほどんどいないようでもある。
ようやく全ての話が終わってから
「やるなら今聞いたような起きても、後から文句は言いません」
といった誓約書に署名捺印をするのである。

 これはお約束の儀式なのだが、今までにこの手の話を、自分の時を入れると8回も聞いたので、いい加減飽き飽きしていたりする。(笑)
手術中に待機するのだって、5回目だったりすると、さすがにちょっと慣れっこになっていたりするのである。不謹慎かも知れないかも知れないかも知れないが(笑)

 医師は、手術の度にこの手の話をするのだろうと思うと、いやいや、大変なことだと思う。
スタッフの間ではツーカーで通じる話を、素人相手に、とんちんかんな質問(だと思う)にも一つ一つ答えなくちゃならないし、やってられないだろうな〜、なんて考えてしまうわけで、いっそのこと、話している場面をビデオに撮って、全ての患者や家族に見せたら楽だろうにと思うが、患者一人一人には、様々な違いがあるのでそうもいかないのだろう。

 医師の方も、流暢で、ホワイドボードに書く文字や絵も上手い。(笑)
何度となく繰り返しているうちに、立石に水のようになったのだろう。
だんだん講義を受ける講師と生徒のようなやり取りになり、2時間半の話が終わる。

 昨日は夜になって、サーバーがダウンしていたので、ネットに繋ぐことが出来ず、今日は一日仕事だった。
何だかベルトコンベアーの上に乗っているような気がしなくもないが、勝手にベルトが動くから楽ちんなのかも知れない。
何だか目まぐるしい感じの日々なのだ、この数日。



  不信のとき
2004年01月23日(金)  

 有吉佐和子の書いたものは大好きだから全て読みつくし、もっと読みたいと思っていたのに、残念なことに有吉佐和子は亡くなってしまってから久しい。

 初めて彼女の書いたものを読んだのは、随分若い頃だったが、確か【不信のとき】じゃなかったと思う。
「この人は、なんと頭の良い人だろう」と思った。

 小説の内容は、それより少し前から世に出た「試験管ベビー」のことを題材に書かれたもので、子供の出来ない夫婦(確か40才代だったと思う)がいて、特に妻の方は妊娠を強く望み、不妊に悩みながら過ごしていた。

 夫も子供は欲しいが、妻の熱心さにはある意味で辟易している部分もあり(種馬のようにされるでしょ)、妻の妊娠をすっかり諦めて、行きつけの酒場のホステスと愛人関係にあった。

 ある時、妻と愛人が同時に妊娠する。それから、二人はほとんど同じ時期に出産をするのだが、妻と愛人、夫と妻、夫とその愛人、そして夫と会社。
三つ巴、四つ巴の話の展開の中にいくつかの問題提議が隠され、大変に面白いものだった。
以来、すっかり彼女の大ファンとなった私は、あらゆるものを読みつくした。

 有吉佐和子の書く人は、どの人も皆頭がいい。多分やっぱり、有吉佐和子自身の頭が良いからなんだろう、と勝手に解釈しているが、特に女性は皆切れる。

 文章や、構成は勿論だが、この人を凄いと思うのはその取材力だ。作家とはいえ、想像力だけでは物は書けないと思う。
実際に経験したことなら、内側にある記憶を辿りながら書くことも出来るだろうが、一人の人間が何もかも経験できることなどないだろう。
不倫を書くのに、不倫の経験がなければ、不倫をしている誰かの脇にピッタリついて、その心情を事細かに聞き出したり、観察したり、そういったことも取材のうちに入るだろうから、回りに沢山の知人や友人がいるのも助けにはなるかも知れないが、どれほど観察力があったとしても、それにだって限りがある。

 机上の想像だけで書かれたものは、陳腐なセリフが出てきてがっかりすることがあり、そういう時、その書き物には何の説得力もないし、信憑性もない、つまりつまらない。

 浅田次郎が『日輪の遺産』を書いた時に4ヶ月も取材したことを考えても当然なのだろうが、経験のないことを書くなら取材、それが最近の作家にはあまりないような気がする。

 感性や言葉のイメージを先行させた散文的なものが悪いとは言わないが、少なくとも私の好みではない。情緒的な背景描写や、カレシやカジョノのどうしたこうしたというのが何だか私にはダルいのだ。

 話を戻すと、有吉佐和子にはいくつかの女の一生ものがある。
「紀ノ川」をはじめとする一連の「川」もの。
「芝桜」をはじめとする花柳界もの。
「出雲の阿国」をはじめとする伝統芸能もの。
「恍惚の人」や「複合汚染」をはじめとする社会問題もの。
その他、海外、家庭、男女の確執。
あらゆることをテーマに幅広く物を書く人は稀で、そういったものは、当然取材が物を言うし、といってレポートではなく小説なのだから、読むものを惹きつける運び(ストーリーがある)。
 
 常に時代を先取り、どこにでもいるような人と人の絡みから、社会風刺的なメッセージを織り込めたり、その世界の裏も表も余すところなく見せてくれる。そのことに何の関心も持たずに読み始めても、問題提議や意図するテーマが伝わり、知らない世界をかいま見ることが出来るのは、本を読む楽しみの一つだと個人的に大いに思う。

 この人のことを私は才女だと思っているので、彼女が亡くなってしまったことは、かえすがえすも口惜しいが、一つだけ「らしくない」と思ったことがあった。

 それは、この人の書く女主人公の出産の場面と、子供を他人から誉められた時。
彼女書く出産の様子は非常にあっさりとしているが、数多い作品の中でどれも似たような文章になっている。それから、「親は他人から我が子を誉められると、相手に土下座をしてお礼をいいたいくらいの気持ちになる」というのをいくつかの作品で読んだ。

 なるほど、有吉佐和子という人は、私生活において一度しか出産をしていない。出産の経験はあるから取材をしなかったのか、それがたった一度だから他の想像をしなかったのか、それともその部分はどうでも良かったのか、何しろこの部分だけ手を抜いたように感じられた。

 だからといって、大有吉の書いたものには何の影響もないことは言うまでもない。
 小説家にはもう、こんな人は出てこないのかな?と思うのはとても寂しい気がする。



  人体の不思議展
2004年01月19日(月)  

 からだ=未知なる小宇宙
 
 前回の開催時に見に行った。
何で今この話題かというと、たまたま読んでいた養老さんの書かれたものの中に、何度か取り上げられていたのと、先日行った、安室ちゃんのコンサートの会場の隣で開催されているからである。東京国際フォーラムは、ホールが全部で4つある。安室ちゃんのコンサートはAホール。

 私はこれを前回横浜と九州(確か)で開催された時に見に行ったので、今回は特に見ようとは思わなかったが、コンサートの折、会場到着の夜7時少し前にはまだ、仕事帰りらしき若い人が、会場に入りきれずに長蛇の列をなしていた。

 人体の不思議展に展示されているのは、養老さんに言わせると『プラスチック人間』。つまり、人の体の中から、水分という水分を全て抜き取り、代わりに樹脂を流してプラスチノイドされた人体である。
 そのプラスチノイドされた人体を、ある体は縦に、ある体は横に5ミリの厚さにスライスして少しの隙間を開けて並べられたもので、全容は若干大きくなるが、琥珀色の透明な人の体なのである。
 人の体の透明なものだから、当然内臓は透けて見える。3Dよりも確実に見える。標本とはまるで異なるのは、その成分(?)がもともとは生きた人の体から出来ているということである。

 こういうものは、人によっては嫌悪感を抱く方もいらっしゃるだろうし、実際にカトリック色の濃い方は、神への冒涜だとされる向きも多いらしい。
 しかし、人の体の標本は、普段は私たちの目に触れることがないだけで、ホルマリン漬けのものなら、あちこちにある。ただそれは医学従事者や、その予備軍しか集まる場所にないということだけなのだ。

 私が行ったときには、すでに開催も終わりかけていた頃だったので、多くの人がいた。
 並べられたプラスチノイドの標本が何体あったのか、正確な記憶にないが、様々な年齢、性別、胎児を含めた妊婦さんのものや子供のもの、肝硬変の肝臓や、末期癌の臓器、三半規管や内耳骨、全てがプラスチック化されて薄くスライスされていた。

 解剖が医学にとって大いに役立つということを考えると、これは非常に有意義なことだと思った。普段目にすることのない、三半規管や、筋や筋肉、その他の臓器は、全て私の体の中にもあり、勿論全ての人の中にある。

 自分の体の中に、一体何があるのかということは、脳が作り出す心という目に見えないものばかりに目を向けるのではなくて、外側からは見えない臓器や血管、およそ体内にある全ての形あるものを知ることも興味深いものだと思う。

 また、それら全ての遺体は、献体という形をとられており、初めは若干の拒否反応がある人が、見終わる頃には自らの体の献体を申し出て帰るということは珍しくないらしい。
 私が見に行ったときには、日本の人の体はなかったが、今回はどうだろう。
もし、チャンスがあれば、一度ご覧になられることをお勧めしたいと思います。

人体の不思議展   からだ=未知なる小宇宙(東京展)

2003年9月6日(土)〜3004年2月1日(日)
東京国際フォーラム
11時00分〜20時00分(最終入場19時30分)

JR東京駅、有楽町駅、地下鉄日比谷駅、二重橋駅、どの駅からでも。



  何で日本語が美しいのか
2004年01月18日(日)  

 日本は美しい言葉だとよく言われるが、実のところどうしてなのか分からなかった。母音発音の、スタッカートな音の連なりであるこの言葉が、何故に美しいのかというのは長い間私には謎であった。

 「愛してる」と言葉に出して言うなら、英語で「I love you」と言った方が流れがいいし、フランス語で「je t'aime」という方が、ますます美しい。

 とかくそのように思っていたので、外国人が聞いたら日本語はとてもおかしな音だろうとも思っていた。

 そういえば、ちょっと話がソレるけど、一度だけイタリア人が美しいといった言葉は「犬」であった。彼女はその「inu」の音を美しい言葉だとえらく気に入り、子供が生まれたら、「inu」と名付けたいといって、尻下がりの「inu」を何度も反芻していた。やめた方がいいとは言っておいた。(笑)

 話を戻して。

 しかし、美しいといわれるのは、実は音に出して発する日本語のことではなくて、文字で表す日本語のことのようだ。私はそれを知らなかった。

 日本語を文字で表す時の特徴は、漢字とカナの混じったものである。この漢字には、一つ一つに意味がある。ある時は音読みで、またある時は訓読みで。

 今更何をと言われそうだが、なるほどそうかと思ったのは、養老孟司著の『涼しい脳味噌』の中に書かれていたことからで、以下引用。

 -日本人のマンガ好きは、この問題と深く関連するはずである。なぜなら、マンガは、ルビをふった漢字に相当するものだからである。吹き出しの中がルビであり、マンガそのものは、漢字に相当する。これはマンガを馬鹿にして読まない人には、わかりにくい理屈であろう。
しかし、いまや日本のアニメは世界を席捲している。これは漢字カナ混じり文が生じた時代、つまり伴大納言や鳥羽僧正以来の伝統に基づく能力なのである。-

 そうかなるほどそうなのか。漢字の一文字一文字には意味があり、そこには埋め込まれたイメージがある。

 庭と書けば、私たちは何がしかの庭を思い浮かべるし、薔薇と書けば薔薇の花を想像する。庭には沢山の薔薇の木がある。と書くと、何がしかの思い浮かべる庭に、それぞれの想像の上に成り立つ薔薇の花を思い浮かべる。

 それは、ある人にとっては沢山の赤い薔薇だし、また別な人には色とりどりの薔薇かも知れない。そこに、形容詞が加わると、一段と想像は具体的になり、ますます色濃くイメージが出来る。

 庭の薔薇の木は、今勝手に思い浮かべた例だが、そのように一つ一つの文字や、二つ以上の熟語を思い浮かべると、質感だとか情感が知らず知らずのうちに湧く。

 なんだ、そういうことだったのか。漢字を学ぶということは、知らないうちに、物の形や様子や質感やあらゆる情感のような、いっさいのイメージを埋め込まれていたのだ。象形文字が、そのものの形から成ることを考えれば、それは全く不思議ではない。人によって、イメージするものは多少違うだろうが、少なくとも美しいものは美しく、醜いものは醜くといったイメージは変わらないだろう。

 本当に、今更?と言われそうだが、私はやっと納得した。だから日本語は情感たっぷりといわれるのだろう。演歌は日本人の心なんて、分かったような分からないようなことも言われるのだろう。

 美しいのは、日本語そのものなのではなくて、そこに書き表されたイメージそのものなのだろうと、やっとやっと思った次第。

 余談だが、日本語の場合、文字を処理する脳の部分が、漢字とカナでは違うらしい。他の言語にはないことなのだそうである。だから、日本人の場合、漢字が読めないという人と、カナが読めない人というのは別もので、「字が読めない」という病気は、日本人の場合二分化されるのだそうだ。


 更に余談だけど、直木賞を受賞した、江國香織は、正しく美しい日本語を心がけているのは、随筆家である父の江國滋氏の影響だと思うと語っているのを、新聞で読んだ。

 ふ〜ん、なるほど美しい日本語を常に考える。確かに小説家ともなると、それは日々精進、想像力や表現力+美しい言葉を連ねる一連の作業が、稀に見る結晶となった時、賞を獲ったりするのだろう。

 個人的好みで言えば、彼女の書くものはあまり好きではないけど、若い女性には圧倒的な支持があるとか。

 同じように、辻仁成の書くものも苦手だ。私のように、情感もなくて、描写もない、説明文ばかり書く人間には、キレがないとダメなのだ。(笑)

 何で辻仁成がダメかというと、私的無粋な表現でいえば
「童顔の中年は嫌い」ということになるんだけど、そういう表現じゃダメですか?(笑)


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*

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 ところで、今日は誕生日です。
また一つ大きくなりました♪
う〜んとね、あたしとっても嬉しい〜〜〜(るん♪るん♪)




嘘だってば。







  意識とは何か  茂木健一郎著
2004年01月17日(土)  

 先に書いたスルメイカの養老氏との対談相手の書いたもの。

 クオリア・マニフェストについて興味津々だったので、読んだ本。
意識の中にある様々な質感、脳が心の中にその感覚を生み出すのは何故か、というようなお話。どういう条件が満たされると、『意識』は生まれるのか、その意識を持つ『私』とは何か。

 だから、少々『まともな人』にも共通したテーマがあることは感じる。
この人の書くものは、養老氏のものとはうってかわり、時間が止ったのではないかと思われるほどにスローなテンポで、つまりそれだけ、全くもってほんの些細なことを膨大な文字で表してくれているのだろうと思われた。

 読んでいる間中、筆者が目の前にいる感覚はなくて、むしろそれより、頭の中に『EAGLES』の古いアルバム、『HOTEL CALIFORNIA』の中の『The Last Resort』という曲が流れていた。何故だろうね。ゆったりしているからかも知れない。

 この人は、子供のころに『ただいま』というごくごく日常会話の中にあるこの言葉を発しながら、その言葉の奇妙さを感じたという。

 『た』『だ』『い』『ま』
 その音や、音の連なりから来る言葉の響きや感じが、この人にとって、これは一体何なのだろう、と考える発端となった言葉なのだそうで、その感じが何故どうしてということとなると、未だにはっきりとは分からないという。

 これに近いことは私にもある。
私の場合は、『もしもし』という、電話中に発するあの4文字である。これは、『申し上げます。申し上げます。』という言葉が短縮されて出来た言葉だと聞いたことがあるが、私にとっては、非常に奇異な言葉である。そう思ったのは、子供のころだが、未だにそう思う。

 どこかで誰かと知り合い、電話番号を交換して、初めて電話で話すことがある時には、最もそれを感じる。何故なら、この『もしもし』という言葉が、その人にも通じるかどうかと考えてしまうからで、それはいつも少しの不安がある。多くの挨拶の言葉と同じに使っているかその奇妙な音の連なりは、その人には通じないことがあったとしても、おかしくはないと思うからである。
 
 今のところ、それが通じなかったことはないが、初めて電話で話す相手が『もしもし』と言った時、それは他では味わうことのない一種の感動がある。仕事中に、電話の相手が一生懸命話していることがある。それを聞きながら、この人も『もしもし』って言ったなぁ〜、などと感じたりしている私は日常的にいる。

 クオリアの話からズレでしまった。(笑)
奥が深くて・・・。ん?実はそうでないのか?
何しろまだまだ追求したい。
まだ、数冊読んだものがあるのだが、時間がないのでこれでお終い。

 そうそう、お二人の書いたものを読んで、少しだけわかったことがある。
『日本語は美しい言葉である。』
とよく言われるが、その意味が、実は私はよく分からなかった。
何で、日本語は美しいといわれるのだろうということが。

 この二人の書くものを読んで、それはもしかしたら、こういうことなのじゃないかなと感じたことがあったのだけど、ホントに時間がない。
また憶えていたら書き綴るかも知れないし、忘れるかも知れない。(爆)

 ネット休止中なのに、読んだら出したくなったので、アムロちゃんからここまで、書いてみた。
だって溜めておくと体に悪そうだし。(笑)

 で、ザ・ラストサムライについても書こうと思っていたのに、ちょっと延期です。
 ではではまた。



  スルメを見てイカがわかるか! 養老孟司&茂木健一郎対談
2004年01月16日(金)  

 つまり、スルメを見たって、泳いでいるイカは分からないだろうが!というようなお話で、私など生のイカを店頭で見ても、透明にスイッ スイッ クイッ クイッ っと動く本物のイカの動きは水族館で見るまで知らなかった。・・・というのは本当だけど、本の内容としては真っ赤な嘘。(笑)


 そうではなくて、当たり前と思われているようなことが実は一体どうなんだろう?といった解剖学医と脳研究者(適当でごめんね)の対談。
これは対談なので、『バカの壁』(養老さんの話したことを編集者がまとめたもの)同様にやさしい語り口となって、当たり前と思われていること=つまり常識 を考えたもの。

 面白いと感じたのは、標本箱に閉じ込められた昆虫は自然か人工か。
人間が採って並べているという意味では、人工だが、標本箱に並べた時から、その自然性が強まってくるという話。普段、人を自然と思ってはいないにしても、死体を解剖する時にそも同じようなことが言えるらしい。

 それは、意識というものがなくなることによって、自然性が強くなるということで、言われてみれば確かにそういう気がする。
自然を意識して作られたものは明らかに人工で、それは全く不自然なことなのだ。では自然に湧いた、あるいは出来上がったものには自然にふさわしくないものはない、ということなのかというと、どうだろうか。

 意識というのは自覚できるものである。無意識というのは、それを感じているかどうかといえば、感じていないものである。しかし、無意識という意識は確実にあるもので、潜在意識や過去の記憶や、あらゆるものが混沌とこれとは意識しないだけで、人の頭の中にある。

 頭の中にあるものを表そうとすれば、しょうがないから手っ取り早く言葉を用いることになる。しかし、この言葉というのは一体何なのか。自然に感じたことを既成の言葉に出していう時、それは既にある言葉に、こちらの感じた何かを合わせている場合の方が多いだろう。

 感覚は常に変化している。言葉は一度出たら変わらない。

 私は、よく気に入った本を再読するが、その度に受ける印象や感想が変わる。前回読んだ時には見えなかったことが、今回は見えたり、その逆もあるに違いない。時を経て再読するときに起る感じ方の違いは、勿論、本の中身が変わったのではなくて、私側の変化だろう。

 そういう意味では、私にとっては、その本の中身が変わったと捉えることも出来るかも知れない。その差を知る感覚が面白くて再読癖が止められないのだ。と、これはこの本を読んであからさまに納得したこと。何か新しい自分を発見できたような気になる。だから一度しか読まないという話を聞くと、なんと勿体無いと思ってしまう。

 脳は心を生み出す臓器であるという。『私』という存在は、脳が何を感じ、考えるかによって決まる。その心=脳を大切に育むことは勿論、意識して方向性を変えたりすることは出来ないが、自らの持つ自然な『意識』がより自分らしくあるために、常に筆者のいう『手入れ』←耕したり、をしたいとは思うのである。

 何か言葉にして表せないような(自爆)不思議な思いを廻らした一冊。



  まともな人  養老孟司著
2004年01月15日(木)  

 これは、バカ壁(爆)の語りや、スルメイカ(爆)の対談集とは違い、養老さんの書いたエッセイのようなものなので、筆記体。(?)

 こういうものを読むと、この人の迫力は強い。読み始めてから読了まで、まるで目の前にこの人がいて、私に向かって話しているような錯覚すら憶えた。しかし、それは口角泡を飛ばすといった激しいものではない。

 ものの見方には、誰の中にも無意識のうちに、秤や物差しがあると思う。
そのものを測る手がかりを使って、人は物事を判断する。しかし、秤や物差しの作りそのものが、全く同じでない限り、ものを判断する基準が全くことなる。実は当たり前と思っていたことが、この秤や物差しを替えて見ることによって、全く別の尺度で計測すると、それは随分と違った判断になる。

 私はある人を変わった人だと思うとき、ある人から見れば私が変わった人だろう。物事を一方的にしか見ないでいると、私から見た変わった人は誰から見ても変わった人でなければならないが、実はそれはそうでない。

 インターネットを狭いと感じるのは、この当たり前というのが、何の断りもなしに前提として使われていると感じる時である。

 これは以前書いたが、お正月にあちこちの地方の人数人でチャットをしていて、たまたまお雑煮の話になった時。
 それぞれが、お雑煮は美味しかったといい、同じようにお正月にお雑煮を食べたことがわかる。
しかし、そのお雑煮の内訳は、四角い餅入り、丸い餅入り、などと違うし、そのダシは、味噌味だったり、しょうゆ味だったり。それだけでも、同じお雑煮と言っても食べたものは随分違うが、中でも最も驚いたのが、丸い餅(これはいいとして)の中には、甘い小豆餡が入っていて、しかも汁醤油味であると知った時で、天地がひっくり返るほど驚いた、というのはオーバーだが、目の前が少し遠のいたような気はした。(笑)甘い小豆餡の入った『あんころ餅』なら、汁は当然はお汁粉のように甘いのが、私的に正しい。ところが、そのちぐはぐとも言えるお雑煮を食べたという。
そのようなものを食べるのが、想像も出来なかったというか、許せなかったというか・・・。

 しかし、その地方の人にとってはそれは疑いの余地のない、当たり前のことで、そういうことを知ると、やっぱりネットは狭いと思ってしまうのだ。それを同じ『お雑煮』として納得、そのまま話が進んでしまうという不可思議な世界。
そのことを知ったことは、ある意味広いのかも知れない。
しかし、ネットサーフィンをして、巡る部屋のどこかに、その地方ならではのなにがしというのはあまりない。どちらかといえば、あるのは、日頃家族や回りの誰かと話さないような、映画や書物の感想や、情感だとか、心の中のなにやかや、といったことの方が圧倒的に多い。

 例えば、主婦が子供を通して、旦那を通して何を感じたとか感じないというエッセイなら、個人的に言えば隣の奥さんとの会話と変わらない。そのようなものをネットの中でまで見ようとは思わないが、その人の住む地方や、地域によって、例えば『嫁』としてのあり方だの、『姑』との何やかやだのということは絶対にあるはずで、むしろそういうことを知ることが出来たら、ネットは広いと感じることが私は出来るだろう。サラリーマンの妻と自営業の奥さんと、農家の奥さんとでは何もかもが同じであるはずがない。
地域の中にいて、それを他方から見ることが、中にいる人には難しいことであるとしても、それがないとわざわざあちこち行く意味がないと思ってしまう私はネット界の『まともな人』ではないかも知れない。

 あ〜、ちょっと話がソレちゃった。(笑)
筆者の書かれたものは、もっともっとハイレベルなお話なのだ勿論。
読みながら色々なことが浮かぶのだけど、何しろネット休暇中で何も書かずにいたのと、読む端からどんどん忘れていくのとで、こんなことになってしまった。



  安室奈美恵コンサートへ行く
2004年01月13日(火)  

 夕べは安室ちゃん、2年半ぶりのコンサートに行って来た。今までコンサートに行くチャンスを逸していたので、今回はどうしても!というわけ。

 会場にはすでに、新しいアルバムの中からの曲が流れ、それはもうゾクゾク期待させるほどのR&B。
あまり知られていないが、安室ちゃんが小さな時から憧れていたのは、ジャネット・ジャクソン。初めから彼女の求めていた音楽はいわゆるJポップではないし、そういった歌手志願の女の子たちと違っていた。彼女は自分のことをアーティストと呼び、歌手であると言ったことは一度もない。

 私は個人的に、ソウルやR&B、ラップ等の黒人系音楽が好きで、デビュー当時から彼女の中にはその匂いのようなものを嗅ぎつけていたので、彼女にはずっと注目をしていた。実を言えば、デビュー以来、CDはもとより数本のビデオだって持っているのだ。(笑)

 彼女はアイドル系とは少し違う。性格的には派手ではないが、媚びることもない。
そういう部分も好感が持てていたので、結婚、出産を経て、ますます彼女のテイストが確固としたものとなり、スキルたっぷりのラップやブルースにも大人的要素が加わり、一段とよくなった気がした。

 生で観た安室ちゃんは、とてつもなく細い。TVというのは、少し横に膨張して映るものだが、それにしたって細かった。脚なんか折れてしまいそうだし、回りの女性ダンサーと比べても、その骨格の細さは同じ人間ではないようである。

 ダンスの上手さ。これは想像以上で、そのキレのよさには一分の狂いもなく、驚いたのは、あの細い身体で、アンコールを含めると約2時間半、ほとんど踊りっぱなしなのである。小休止といえそうな場面は一度だけ、時間にすれば3分ぐらいのものじゃなかっただろうか。後は、数曲が終わり暗転になる、そこで衣装変えがあって若干休むのかと思うような場面で、パっとスポットライトが光るとまた踊りだす。
彼女の踊りは、アップテンポでハードだし、次から次へと展開していく様子には目が釘付けになるのは、最後に東京で観たマイケル・ジャクソンを完全にしのぐ!

 ブルースのせつない歌声も、彼女ならではのテンポで、日本であそこまでやれるシンガーはいないと私は言い切る!(笑)う〜ん。まだ26才。貫禄はあるし、これからますます期待大。アーティスト・アムロはまだまだ進化中。

 チョット音響が悪くて、それが難だったのね、実は(何だそれ・爆)
安室ちゃんの歌声にボイスチェンジャーがかかったような感じで、 
『安室ちゃんヘリウム吸った?』
って聞きたくなっちゃったんだわ。(笑)それが惜しかった。
といいつつ、あのダンスを観られただけで、CD2枚分のチケット代(6500円)は惜しくなかった。



  ご挨拶♪
2004年01月12日(月)  

 いただいたメッセージへの返信が遅れていて申し訳ありません。パソ、退院してまいりました。
 入院の理由は、パソの時計が止ってしまうということだったのですが、時計だけのことでしたら、時計は他にいくらでもあるので、なくても困らないと言えば困らない。ただ、メールの送受信の日付が狂うのと、時間で起動させていた、ソフト等の動きがおかしくなるなどの不都合が生じるのが困りまして修理に出しました。

 すると、DVDの方も破損していたようです。こちらはステレオで見るのであまり使っていなかったために気がつきませんでした。
んで、んで、(笑)
結局、マザーボード交換で戻ってまいりました♪特した気分♪♪

 ですが、明日からまた父が入院しますので、少しばかり忙しい日々が始まります。
今回は、ネットの方を休んで持久戦に備えたいと思いますので、引き続き、というか改めてというか、しばらくおサボリいたします。

 やっぱりね、家族が病院にいるとなかなか忙しいです。行ったり来たり、普段しないことが生活に加わりますから当然ですね。前回は特にお休みしなかったのですが、どうもこのところ疲れを感じていたりします。
特に目にキているみたい。(笑)
ドライアイにその他の疲労。
眼精疲労って、頭痛、肩こり、ひどくなると辛くなりますよね。
しばらく画面を見ない生活などいたします。

*
*
*

 話が変わりますが、ザ・ラストサムライ観てまいりました。
今まで観た映画の中でも上位に入る映画だと思います。
日米合作で、観る人のために、英語のセリフの時は日本語の字幕、日本語のセリフの時には英語の字幕が出ていました。

 サムライスピリッツとか武士道マインドとか、そういうものが一般のアメリカの方にどこまで伝わるものかというと、どうなんだろう?とは思いましたね。といって、日本人である私にも分かっていたかと言われれば・・・、?がついたりしますから・・・。

 ”これは古きと新しきに和をもたられせし者の刀なり”

 歴史を変えて、あそこまで、”武士道”を追求しようとしたハリウッドは、やっぱり凄いなと思いましたね。あのドラゴンボールもどきの『マトリックス』も同じハリウッドだけど。(キアヌちゃん、ごめんね・笑)
私のトムはやっぱり格好よくて、惚れ直し♪(爆)
で、次に観るのはやっぱり、ブラピの『トロイ』ですね。って、話がソレソレ。(笑)

 話を戻すと、ザ・サムライの映画の中で、要所要所に、『 本懐を遂げる 』という言葉が数回出てくるんですが、これが字幕になった時、その言葉が果たしてどのように向こうの人に受け取られるのかなぁと、ちらちら思っておりました。
その英語のセリフを、目を皿のようにして見たんですが、情けないことにもう思い出せません。

 このところ、心=脳 だとかそういう書物を読みふけていたので、この映画はよけいに新鮮に映った気がします。

 長くなりましたが、おやすみ前のご挨拶に変えて。




  ハウンドドック
2004年01月07日(水)  

 一つの誘惑がある。
半年ほど前から少しずつ芽生え、日に日に大きくなっている。また犬のいる生活がしたいと思うのである。

 以前いたのはトイ・プードルで、19歳のある日亡くなった。知り合った時には生後三ヶ月の仔犬だったのが、いつの間にか私を追い越して、年を老い亡くなってしまった。

 以来、動物と過ごすことにはためらいがあり、なかなかその気にはならなかった。
私より遥かに幼い子が、年老いた時の世話は切なかったし、何より別れることは辛いことだ。次に犬を飼っても、多分また私が見送ることになる。そう考えるとその気にはならなかった。

 それなのに、何故か、いつの間にか、また犬のいる生活がしたくなっていた。

 少し前までは、以前のように小型犬が欲しかった。最近はティーカッププードルといって、トイ・プードルの更に小さな、ティーカップに入ってしまうほどの小さなプードルがいて、そのコが欲しくてたまらなかった。

 しかし、どういうわけだか最近は、大型犬のグレー・ハウンドが欲しくて仕方ない。多くのハウンドドッグの中でも、レースに一番ふさわしい走力のある猟犬。

 精悍で伸びやか、しなやかで強靭。
勿論、毎日の散歩もするし、トイ・プードルのような愛玩動物と違い、大型犬の場合は野生に返ることがあるから、訓練に出すことも必要だ。

 利口で、精悍なグレー・ハウンドと暮らす。私が主。いいなぁ・・・。

 日に日にその誘惑は膨れるばかり、抗いがたくなっている。このところ、ふと気がつくと考えている。想像に溺れている。(笑)

 しかし、大きな犬はそれだけ食べる。散歩や世話をするのは良いが、養っていかれるかどうか・・・、そこでかろうじて誘惑に負けそうな気持ちを抑えているのである。

 でも、ペットショップへ行ってもしも出会ってしまったら・・・。
連れて帰って来てしまいそうで、せいぜい足を向けないようにしているのだ。


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パソの時計が壊れて、修理に出すことになりました。
明日(もう、今日かな?)の午後、引き取りに来ます。
一週間ほど時間がかかるとのこと、それまでしばらくお休みです。

 読みたい本が沢山あるし、しばらくオフライン生活を楽しみたいと思います。
戻りましたら、またよろしくお願いいたします☆





  年賀状
2004年01月05日(月)  

 今年もいただいた。
私も差し上げた。
もしかしたら、今度の年賀状は書けないのではないかと思って過ごした一年だったが、幸せなことにしたためられた。

 一年の最初の挨拶。
それぞれの方を思い、ひと言ふた言、時には手紙のような長いメッセージになることもある。
同じように、ひと言ふた事、または手紙のようなメッセージをいただいて。

 私がいただく年賀状の中には
「今年もまた笑わせてください」とか
「あなたの笑顔に、いつも癒されます」
と書いてくださる方が多い。
どうやら、リアルな私はネアカらしいのだ。

 こんなに暗くて、陰鬱で、世の中の全ての苦悩を一身に背負い、光を求めて悩める腺病質なか弱い子羊だというのに。

 なんていうのは嘘だけど。(笑)
やっぱり私は明るいのだなと、人様からいただいた賀状を読んでそう思った。
それはとっても幸せなことだろう。

 人を笑わせようとか、紀子さまのように、いつも笑顔でいようとか、そんな風に思っているわけじゃないが、でもそんな言葉をいただくととても嬉しくて、胸が熱くなった。

 その時その時、様々な思いで過ごした一年だったが、そんな風に思っていただけたのなら、とても幸せな一年だったのだろう、と改めて思う。


あなたの笑顔に、いつも癒されます。

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どうもありがとう。




  年の初めに
2004年01月04日(日)  

 今まで書いたものや、眠らせておいたものを、改めてメニューとして更新しました。

 Essay や Ingredients です。

 長文に慣れてしまって、短文が長くなる。
それがまた、面白かったりして。(笑)

 お時間がありましたら、お付き合いくださいね。

 と言いつつ、短い Diary で締めくくる私。(笑)

 
 でも、日が伸びましたねぇ。(でも、は余計か・笑)
何が好きと言って、こうして日々少しずつ日が伸びて行くのが好きですね、私。



  明けましておめでとうございます
2004年01月01日(木)  

 一年の計は元旦にあり。
今日の日に、意気込みも新たに今年の計を。

 はやり、お肌のため、美容のため、美しさのために。

あ、はやりっていうのは、私が『やはり』と書こうとするとキーボードが勝手に動くこのパソのクセです。(笑)

 やはり と書こうとすると、はやり になるのです。
古くからのお客さまは、ご存知のことと思いますが。
 
 で、話を戻しますと、お肌のため、美容のため、美しさのため、日頃のお手入れと規則正しい健康的な生活を心がけようと、今年こそは、夜更かしをせず、肩こりや眼精疲労の元となるインターネットをほどほどに、ホームページのいろんなことをしないで、ゆるりゆるりと過ごそうかと心に決めました。

 美しさは、日々の心がけ、手入れ次第でございますから。

 ということで、早速お手入れいたしました。
トップページはもうご覧になられたと思いますが、momomoon の方も綺麗にお正月らしく装いました。

 どうぞ、入り口だけでもご覧くださいね。

 ・・・、何のお手入れをしたんだか。


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お正月とは不思議なものですね。
年が明けるといいましても、昨日から今日へはたった一日。
何が変わるというのでもないのに、昨日までの気ぜわしさは嘘のように消えてなくなり、こののんびりとした気分は何でしょう。心地良いものですね。

 これでしばらくはまた、年末の気ぜわしさから開放されて、昨日までの師走の様々な反省をいかし、来年のお正月の準備こそは早々に、などと思うのでありました。

 きっと皆さま、今頃はのんびりゆっくりされていらっしゃることと思います。
今頃お仕事の皆さまは、お疲れさまです。
早くお正月のお休みになられると良いですね。

 無病息災、大願成就、商売繁盛、色々ございますが、皆さまのご多幸をお祈りして、お肌のため、美容のため、美しさのため、世のため人のために今夜はもうおやすみいたします♪






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