momoparco
  Top of the world
2003年10月27日(月)  

 数日前に足跡にあったログをたどって訪ねていくと、軽快なリズムに乗って魅力的な低音の歌声が聴こえてきた。低血圧の私は朝起きて目が醒めるまでの間、何気にパソの前に座りいくつかの巡回ルートを訪問するのだが、この時からこの曲の流れるこのサイトさんが私の通り道となっている。

 曲の名前は Top of the world
カーペンターズの大ヒット曲である。数年前、日本の歌謡曲のほとんどを小室ファミリーの歌手たちで占められていた頃、私はあの独特な早口の高音がアップテンポな音に乗って流れて来るのにほとほと食傷気味であった。全て意味のわかる日本語だから、なおさら耳障りで鬱陶しく感じられ、わざわざカーペンターズの曲ばかりを聴いていた時期でもあった。この兄妹によって奏でられるのどかともいえるハーモニーには、ありがたいほどほっとさせてもらった。

 カレン・カーペンターズ。妹の彼女は、幼ない頃から母親に可愛がってもらったことがなかった。兄妹の母親が可愛がるのはいつも兄。何があっても何をしても、たとえどんなことがあろうと、兄は誉められ彼女は誉めてもらったことがない。何とかして、母に認められたい、可愛いと言ってもらいたい、抱きしめてもらいたい、その一身で彼女は一生懸命に歌を歌った。
しかし、いくら彼女が一生懸命に歌おうと、曲が大ヒットして世界的に有名になろうと、彼女は決して母から認めてもらうことがなかった。

 後年、彼女はこのことが原因で拒食症になり、見る影もなく痩せ、病に伏せたまま若い生涯を終える。最後に彼女が言った言葉「一度でいいからママに抱きしめて欲しかった」

 先日、テレビドラマ『フジコ・ヘミングの軌跡』について書いたが、今日の新聞の投書欄にそのドラマの感想が寄せられていた。文中に
「娘を最後までほめることなく、厳しくピアノをたたきこむ母親の姿には、深い愛情を書くし、娘を後押しする力強さを感じました。」
と書かれたものがあった。フジコ・ヘミング氏の母は確かに厳しく娘を一度もほめることはなかったが、彼女がベルリンへ旅立つ朝、空港での別れのシーンで、最後まで厳しく在ろうとしながらも、どうしても感情を抑えることができずに号泣してしまう。
母の厳しさに対して、いいようのない寂しさとわだかまりを持ちながら旅立とうとしていた彼女は初めてみる母のその姿に、今までのわだかまりは払拭され、志を新たに明るい未来へと旅立つことが出来たのである。

 亡くなった小説家の森瑶子は、妻で母であったが常に女であろうとした人である。彼女の夫は英国人で、彼女の仕事についてはまるで理解をせず、小説家である前に一人の妻であり母であることを忘れてはならじと強く願っていた人だったので、尚更彼女の中には生々しい女としての強い願望があったと思われるが、その書くものは常に自立した大人の女のスマートな恋愛模様ばかりであった。

 しかし、エッセイ『叫ぶ私』の中に描かれていた森瑶子と言う人は、やはり子供の頃から母親には可愛がってもらったことも抱きしめてもらったこともないと、小説を書きながらもカウンセリングに通う人でもあった。もう一度子供の頃に戻って、一度でいいから抱きしめられたいと願っていたのである。

 母親が愛情の裏づけとして厳しくするのと、愛情がないために優しくないのとは根本的に違いがあるし、その三者だけを比較することなど無謀だと思う。しかしあえていえば、愛情の裏返しで厳しく通してもその愛がちゃんと伝わっていたフジコ氏は、その才能を開花させるまでに長い長い年月を要し、母の愛に餓えたまま人生を過ぎたカレンや森瑶子が、比較的早く世に認められるようになったのは、皮肉なことではあると思う。

 たとえどんな栄光を手にしようと、願いは一つ、母に抱きしめられたい。
低く落ち着いた、穏やかなカレンの歌声を聴くたびに、私は彼女の過ごした人生を考えてしまうのである。

Such a feelin's comin' over me
 
There is wonder in most everything I see
 
Not a cloud in the sky

Got the sun in my eyes   

And I won't be surprised if it's a dream
 
Everything I want the world to be

Is now coming true especially for me

And the reason is clear It's

because you are here You're the

nearest thing to heaven that I've seen

I'm on the top of the world lookin'

down on creation And the

only explanation I can find

Is the love that I've found ever

since you've been around Your love's

put me at the top top of the world


Something in the wind has learned my name

And it's tellin' that things not the same

In the leaves on the trees and the touch of the breeze

There's a pleasin' sense of happiness for me

There is only one wish on my mind

When this day is through I hope that I will found

That tomorrow will be just the same for you and me

All I need will be mine if you are here





  仁淀川
2003年10月25日(土)  

 堰は、こちらの岸から、人の形が豆粒に見える向こう岸まで、地鳴りをあげて水を下流に落しており、その直線の横列はまるで一枚のガラス板のように光って見える。
午後の陽ざしはおだやかだが、奔騰する水は荒々しいほどの勢いで四方八方に砕け散り、その飛沫はそこここに小さな虹を作っている。豊かな水は川上から絶えまなく無尽蔵に来り、この堰で遊んではまたはるかな下流へと分散してゆく。
 何という清らかな水、何という豊富な水量、綾子は呆然と土手に突っ立ったまま、長い時間、仁淀川の姿に目を注ぎ続けた。昨年三月末、満州へと旅立つ朝、この土手を今日とは逆に伊野駅へと向かう途中、たしかにこの堰にも目をとめたはずなのに、川はいま、綾子にとって生まれて初めて出会ったような、この上ない清冽無垢な姿に見えた。


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 何年ぶりに綾子に会った。最後に会ってからどのくらい経ったのだろう。もう会うことは叶わないかも知れないと思っていた。切に再会を待ち望んでいた。

 小説『仁淀川』。
 綾子とは、『櫂』『春燈』『朱夏』に続く宮尾登美子氏の私的小説の中の主人公、つまり宮尾氏自身のことである。
満州の難民収容所で敗戦をむかえ、命からがら襤褸を身にまとい、夫と娘と共に帰国した綾子の日々は、農家である夫の実家へ帰る途中の仁淀川の、溢れ出る水の息吹きに圧倒されるところから始まる。
 
 収容所では水は貴重品、口をゆすぐことも風呂に入ることももう一年以上も出来なかった綾子の、水というものに対するおののきの部分でもある。

 満足に教育を受けさせてくれた両親の元から、この日を境に綾子には、町から来た嫁、右も左も分からぬ農家の嫁、そして母としての日々が待ち受けていた。

 宮尾さんは、非常に遅筆な人である。書かれた物は、長いものは11年、そうでなくても7年、5年とその懐に温めに温められてから出版されることが非常に多い。
 
 実家の家業は『芸妓、娼妓紹介業』。父親はつまり女衒であり、博奕打ちの人でもある。
母親の喜和は、血の繋がりのない継母であったが、溢れんばかりの愛情と包容力で綾子にそれを気付かせることなく、実の母親のように綾子を育てる。
預けられた芸妓、娼妓と多くの使用人の暮らす家の中で、綾子は常に母を慕い、その袂をつかんで傍を離れない子供であった。綾子は学問好き、成績は優秀で努力もしたが、女学校の卒業式での答辞を読む役割など、これという時に候補になりながらもその家業のために常に涙を呑む悔しさがあった。
年頃になるにつれ、綾子の中では家業に対してのコンプレックスが大きく膨らみ、小説『連』で女流新人賞を受賞したのは昭和63年。これはまだ家業のことには触れずに書いたものであり、時代小説家永井路子氏と同年の受賞である。

 しかし、永井氏が売れっ子作家になるのとは対照的に、宮尾氏の書くものはその後鳴きもせず飛びもしなかった。それでもなお書き続けた宮尾氏が、いよいよもうこれ以上の芽は出ないと観念し、書くのはこれが最後と覚悟を決めて、ようやくコンプレックスであった家業も顕に赤裸々に、自費出版で書いた私小説『櫂』で太宰治賞を受賞する。

 私はたまたま雑誌に連載されていた、この人の『伽羅の香』という小説を目にしており、長く気に留めていた作家であったので、櫂での受賞に始まり女流文学賞、直木賞、吉川栄治賞などその後の受賞は非常に喜ばしいことであった。
実は、氏が受賞することが嬉しいというより、単純にこれでこの人の書いたものはこれからの物はもとより、古い物だって読むことが出来ると思ったからである。(賞というのはそういうものだと思っている。)そうして世に出た物は何から何まで読みつくし、常に次の物を待つばかりでいるのである。

 コンプレックスとは、いかに人の人生を変えるものであるか。どこかでその一線を越えることが出来れば、後はスッと道が開けることもあるだろうが、個々によりそれは並々の苦労ではないのだろう。

 綾子の家業に対して抱くコンプレックスは、そのまま父、岩伍に対しての反感にも繋がるが、彼女はだからと言って、父に対して反抗的な態度になる事より父への思いも重く、死してから父の遺した日記を紐とけば、それはもう全て水の泡と消える。

 素堅気の継母喜和は、後妻として、またこの家業にも大変に苦労をした人であったが、自身の連れ子である綾子の義兄以上に綾子を慈しみ、その母性はまた素晴らしい。宮尾さんの今ある中にこの喜和の存在は大きく常に実母としてしか存在せず、『菊亭八百善の人びと』や『柝の音』などの女主人公の背中を通る一本の筋に、この母親喜和を彷彿とさせるものを感じないわけにはいかない。

 エッセイで彼女の人生についてはあらかた分かってはいるが、それにしてもこの一連の私小説の続編を読むと、また別なところで綾子と共にいる気がする。

 宮尾氏の小説はどれも長い。しかしその長さを感じさせずに一気に読ませてしまう筆力に、いつも惜しいくらい少しの時間で読みきってしまう。文体は非常に優しくなめらかで、それは氏の人柄であると共にその向こうにいる母親喜和の愛情ではないかと思う。

 私が、本好きへの100の質問の中にある、『作家の方へひと言』という質問に対して、「高齢の作家の方、長生きしてね」と書いたのは、紛れもなくこの人のことであり、瀬戸内寂聴氏のことある。
「私は百歳まで生きて書きますよ」とおっしゃった、宇野千代さんのようにいつまでも確かに書き続けて欲しいのだ。

 余談だが、エッセイによれば映画『鬼龍院華子の生涯』の中での有名なセリフ
「なめたらいかんぜよ」あれは嘘だそうである。(笑)高知の女はそんな喋り方はしないと言う。「ぜよ」あれは完全な男言葉なのだそうだ。確かに、原作のどこにもそのセリフはなかった。かように、原作と映画とは別物であるということである。

 話を戻すと宮尾さん、すでに齢80になんなんとし、現在は長年の念願であった『宮尾本 平家物語』に着手されたと知り、またまた楽しみが増えたと喜ぶのは私ばかりではないだろう。

 遅筆な宮尾さんの書いたもの勿体無くて、私はその筆力に逆らい獏が夢を食むように、一文字一文字ゆっくりと味わう。最近、旅行をする事もなく、自然に帰るときを逸して大自然というものへの憧れと欲求不満が募っていたが、『仁淀川』の冒頭から始まり、この小説を読む間中、私の背中には常に雄大な大自然があった。そしてそれを思うとき、私自身の魂がそこで休められていたのだと気がつくのである。



  年賀状
2003年10月24日(金)  

 Diaryもなかなか書けずに、もうすぐ10月も終わり。

 一週間ぐらい前に近くのスーパーへ行った時に見たのは、来年の年賀状の広告。
え?もう??
びっくりよ〜
毎年11月になると郵便局からも年賀状が売られ始めるのはこの数年の恒例だったけれど、まだ10月の半ばやん。
10月って言えば、運動会の季節。
予定していた運動会が雨天順延になったりすると、まだこれからが運動会という所もあるのにねぇ。

 季節感というのは、あまりにタイムリーだと、実感を持って味わっているというより、奇をてらった感じがして興醒めな気がするのに、更にこう早手回しに持って来られると何だかなぁ。

 狭いニッポンそんなに急いでどこへ行く。
そんな気がする。古いけど(笑)



  酔い覚まし
2003年10月21日(火)  

 サイトを持ってログ巡りをし始めた頃、何より驚いたことは、世の中にはこんなに詩人が多かったのかということであった。

 私の中でイメージしていた詩人たちは、まだお子様の街になる前の原宿の路上で、道行く人に買われたいと、『詩』と書かれた詩集を抱いて座っていたり、まだお子様の街になる前の渋谷のハチ公の前あたりで、同じように詩集を抱いて座っていた。またある時は、改札口の人の流れに逆らうようにやはり胸に詩集を抱いて立っていた。

 彼らは一様に、貧相で物思い気で、溢れた言葉は暗い影から日当たりを待ち、見出されぬ自分自身への憐憫や、才能への渇望と自信と焦り、そして少しだけ芸術の匂いがした。

 ところがネットの中ではどうだろう。
詩やポエムと書かれたそこにあるのは私の思い描いていた詩ではなく、もしかしてそれは、句読点のないメモ書き?ただの感情の羅列?欲求不満の文字化?としか思えないようなものが少なくない。

 恋愛に関してこの手の詩(もしくはポエム)は、ある種の人たちのものならば、それはそれで微笑ましくもあり、健気でもある。

 恋愛は他の事柄に比べれば、たった一人の相手によって、めくるめく快感から殺したいほどの憎悪まで、広く深い感情を味わえる出来事だろう。人は教えられたわけでもないのに、誰かを好きになったり愛したりする。好きになるのに理由はいらない。その感情は、意識自覚して行えることではないし、ごくごく自然に湧いてくる最もコントロールの効かない自我だろう。

 だからなのか、その感情はどうしても似たり寄ったりのものになる。内側から湧く詩なるものも、どうしても同じような言葉になる。言いかえれば、それだけ共感を得やすいものではあると思う。しかし、一瞬共感を得たとしても、たった3秒で忘れてしまうものが多くて、またあの人の書いた詩を読みたいと思うことはまずめったにない。それでも健気に書き綴る彼らを笑うことはないし、それはそれで微笑ましくもあり、感じ入ることもある。

 しかし、ある種ではない人たちによるポエムサイトのなんと多いことだろう。うっかり踏み込むとそれは不倫。とちらかに家庭があったり、お互いにどちらかに家庭があったり、形は様々だがフリーではない人たちの恋愛。世が世なら、身分や家のために結ばれることが出来ずに、日陰の身として絶える姿も、分を弁えていればこそ、それはそれなりに風情もあったが、そのようなものは当世はない。
顔の見えない匿名性を利用して、大きな顔で苦しいのせつないの・・・。相手のパートナーを三枚目にして、懺悔の気持ちのかけらもなく、自己に良心の呵責もなく。

 ご主人が不倫をして悩む女性のサイトにあった詩は、それはそれはせつなくて、涙なくしては読めないものばかりがしたためられていた。この人はこんなにも泣いていると、ストレートにサラサラの水が流れ込むように私の心に浸透した。

 好きになった人がたまたま既婚者で、堕ちてしまった心の地獄が切々と綴られていると、私にはどうしてもその相手が透けて見えてしまう。配偶者を泣かせ、更に新しい相手を泣かせ、それはなんと格好の悪いことだろう。男であれ女であれ、まるで2本のレールの上をまたがって歩いているようで、その後姿はがに股のヘッピリ腰。どちらも壊さずどちらとも上手くやろうなんて、どんなに洒落た言葉で綴ろうと『ダサイ』という言葉しか出ては来ない。関わった人はこんなに泣いているのに、たった一人の誰かのことも幸せに出来ずに、何で2人の人間が笑うことが出来るだろう。

 大手を振って人の中に出られない2人なら、せめてネットの中では一目も憚らずとは何と安上がりな愛の証だ。とどの詰まり、結局どうせ遊びなら、『惚れるな惚れさせるな』不倫の鉄則でも守ってスマートな遊びを披露してみせた方が、よほど洒落ているのじゃないか。
それぞれの痛みは痛み分け。大人の男と女なら、誰のことも泣かせず泣かず、美味しい思いをしてみせたらどうだろう。

 都会の人ごみの中にいた、何百人に一人の詩人たち。今このネットの中で、本当に心響く詩がある場所は、更に更に少ない確立でしか行き着くことは出来ない。

 我が身可愛さで綴られたものは、自己陶酔と欺瞞に満ちて、恋愛という言葉を隠れ蓑にしたエゴイストの権化。それほどその思いが大切なら、たとえネットの中にさえ出せないものだと思うがどうだろう。そんな形で誰かを泣かせて平気でいることがどれほどのことか。
本当にダ・サ・イ。



  R沁B
2003年10月20日(月)  

 一日の仕事を終えて帰る頃、目の前には暮れなずむ夕暮れじゃなくて夜がある。
もう暑くはなくて、かと言ってまだ寒いというほどでもない外気が体をつつみ、行きかう車のエンジン音と、蛍みたいなテールランプが行く筋もすり抜けて行くのを目の端で感じながら、堰を切ったように体中の支流から溢れ出す疲れが足取りを重くする。どこかのバーの扉をあけて、まだ人の少ないカウンターの片隅に腰をかけて。グラス一杯の透明なジンと、琥珀色のブルースが流れ込んで来る。目を閉じて、リズムに漂い音だけに揺れる。脈に沁み入るアルコールが、体の中の拍を変えて、しおれかかった葉っぱがまた少しだけ艶を帯びる。長い一日が閉じるまで、色を変えてもう少しだけ咲いていないと。夜はまだ始まったばかりだから。



  石畳の上で
2003年10月18日(土)  

 昨日は、久しぶりにテレビドラマを見た。『フジ子・ヘミングの軌跡〜』
ピアニスト、フジ子・ヘミングさんの幼少の頃より現在までの半生記といったところである。

 幼い時から母の厳しい教育を受けて、類稀な才能とともに、世界的なピアニストになるべく過ごした日々。
遠い異国の地で暮らす彼女が、その才能を開花させる大きなチャンスに恵まれながらも、その度に降りかかる不運によって、一度は夢を諦める。
しかし、芸術とは地位でも名声でもなく、たった一人でも誰かの心に響くことが出来ればいい、その魂を揺るがすことが出来ればいい、そう気付いてからの彼女は20年もの長い間、ベルリンで子供たちにピアノを教えて暮らす。

 その後、厳しかった母が急死、帰国して今日に至るわけだが、彼女の夢に対する情熱はすさまじいエネルギーがあった。
不運なことが続くと、人間は夢を諦めてしまいがちだし、それを責めることは出来ないが、一度もピアノを止めようと思ったことはないという彼女の、開花できなかった素晴らしい才能が、彼女の歩んできた人生を内包して人の感動を呼び起こすものだと思う。あの『戦場のピアニスト』で、戦渦の中で常にピアノを弾き続けた(イメージ)シュピルマンのように。

 私には、海外でたった一人暮らす寂しさ、厳しさは身に沁みて、あの厳寒のドイツで、貧困のために暖房もなく砂糖水だけを日々の糧として過ごすことは、仮にそうせざるを得なかったとしても、情熱に裏付けされた意志の強さが無ければ出来ないことであっただろう。

 異国において、何にも属さず身分がないと言うことは、何があろうと誰も頼ることが出来ないということなのだ。生きていようと死んでいようと、存在そのものが稀薄であれば、心に留める者はそうそういない。来るのは集金ばかりである。

 ドラマはたったの2時間、しかし長い間に彼女がその心の内に見たものは、ひと言で語るには余りあるほどの迫力であったであろうと感じることが出来る。


 それにしても、テレビドラマというのを久しぶりに見たが、CMの多さに辟易。スポンサーがいなければ仕方ないとはいえ、小刻みなCM挿入はあまり有難くはない。
ビデオに撮って見るんだったなぁ〜とつくづく実感。



  立ち止まり
2003年10月15日(水)  

 気が付けば季節はすっかり晩秋。
店頭には柿が並び、葡萄、梨、栗に松茸、実りの秋の醍醐味を味わえる季節となった。

 昨年の今日・・・
体の不調を覚えて近くの医院で受診した母を連れて、手渡された紹介状と共にガンセンターへ診察を受けに行った日である。

 初めての診察だから、紹介状があっても待ち時間は長いだろうとは思っていたが、まさかそのまま緊急入院するとは夢にも思っていなかった。
 診察室の医師がその場で病棟に連絡を取り、午後から入院予定患者のベッドをすぐさまKeep、あれよあれよという間に一週間後には手術をする手はずが整われ、母は絶対安静、そのまま車椅子に乗り入院時の検査を受けることになった。

 初めての病院で、心電図、レントゲン、検血、肺活量と広い院内を母の車椅子を押しながら動き回った日である。この晴天の霹靂のような出来事に、目の前が真っ暗になったのは母だろう。私がしっかりしていなけらばと思いつつ、車椅子に我が身を支えて歩き回った日であった。

 あれから1年、ようやく1年。
思えばあの時は、季節の味覚などあったかどうかも憶えていない。父の入院の時にはこのページのカレンダーにメモ書きを入れる余裕があったが、母の時にはそれもなかった。Diary はふた月近く飛んでいる。
病院は遠く、医師と間、母との間には毎日何かしらの予定が入があり、同じ日に父は心臓の検査入院が決まり、2人が別々の病院に入院をして、両方掛け持ちで仕事や家事、その他諸々の煩瑣な雑用を含めてよく動けたものだと思う。病院へ通う車は、いつも高速を120キロで飛ばしていた。

 退院前に母を含めた家族の前で、手術の経過や病気の形態を聞き、母の癌は抗がん剤の効果はない種類のものであるので、今後転移したら放射線療法を行うと知らされる。
今それをすると、間違いなく母は寝たきりになってしまうので、放射線療法は一クールしか行えないから、それは最悪の場合に取っておくということである。
しかし、とにかく現時点では技術が許す限りの最善の手術が行えたとのこと、母にはもう心配いらない運がいいと言われ母も単純に喜んでいた。

 説明が終わり両親が部屋を出た後で呼び止められて言われたこと。
「半年以内に転移します。それまでに好きなことを沢山させてあげてください。旅行に連れて行ってあげるのもいいでしょう。」
たとえガンセンターが告知を前提としていても、これは本人には告げがたいことだったろう。
医師には父の病気のことも話していたので、医師は人選したのだろう。

 それからちょうど半年の頃、母の強い勧めで父は気が進まぬ心臓の手術を受けることになった時、私は内心その時期に控えている母の定期健診で、万が一の結果が出たならどうしようと思っていた。方や心臓、方や放射線治療、2つの病院を行き来することもさることながら、それぞれの内容が深刻で1つ1つの判断を迫られたときに、どのように対処すれば良いのかと、まだ出ていないおばけにビクビクするような日々であった。コールデンウィークが終わり、梅雨の前には一度温泉にでも連れて行こうと思っていたのも流れて医師との約束も果たせないという思いもあった。

 幸いなことに、父の手術は無事終わり、母の定期健診もその後2度を無事に終えた。9月の検診の結果が出る日、父の検診の日でもあったので、そちらを母に任せて私だけが聞きに行った。まだあの見解は生きているのかどうか、それを知りたかったからである。

 思わぬ快方に、医師も驚きしかし体内に癌はあるだろうと言った。ただ、それがいつ出るか、もしかしたらこのまま出ないかも知れない。今後も検査をしながら様子を見るしかないが、お元気そうなのであまり深刻に考えないように、との答えであった。

 来るときは来るだろうし、来ないときは来ないということ。ただ、父が病人になってから母が日に日にしっかりしたのは事実で、それまで母が抱いていた病人意識がすっかり飛んだのは怪我の功名だったかも知れないと今は思う。


 あれから1年。ひとめぐりして秋である。
誰の上にも正確に時は流れ、父の心臓も正確に刻まれる。物事の終わりはまた何かの始まり。一日の終わりは明日の始まり。
いつになったら何をしようと思うのではなくて、明日が今日の延長なら、今をどう生きるかが全てなのだろう。一瞬一瞬の時を留めておくことは出来ないが、それが1つの流れとして、河のように緩やかに穏やかに流れに任せられたらと思う。

 今年の果物はどれもとてお美味しいと思う。去年よりは味がある。





  リニューアル
2003年10月13日(月)  

 さすらいの方、ようやく少しだけ準備が出来ました。
コンテンツはまだほとんど出ていませんが、ダイアリーと掲示板はOpenしました。

 お手数ですが、この部屋の掲示板からメッセージをいただける場合には、書き込み先のIDを momomoon@sasurai にして送信していただけると助かります。

 紛らわしくてごめんなさい。


 今、嵐のように強い風雨です。
せっかくの連休最後の一日ですが・・・。



  あしあと
2003年10月12日(日)  

 10日より、コミニュティ内のログのカウント方法が変わったようですね。
不正にアクセスを繰り返す行為が多発したために、今後同じような行為でサーバーが不安定になることを避けるためのようです。
これによって、同じ日に同一のIDは、何度訪問しても「最近30人の足跡」の中には1つしか残らず、カウントもされないそうです。
また、コミニュティ外の訪問者の名前はログに残らず同様にカウントもされなくなったとか。

 ガイアのログシステムというのはとても便利でな仕組みで、掲示板に書き込みをしなくても、訪問したりしていただいたことが分かり、お互いの姿が見えるようでなかなか気に入っていたのですが。

 不正な行為というのは、一部の人によるものと思われますが、このことによってせっかくのシステムが失われてしまうのはとても残念なことです。

 しかし、こうなるとまた新手の不正な行為が生まれるのは容易に想像がつき、何かイタチごっこの気もします。
ネットの世界も社会の縮図、こうした不毛な行為の上塗りが留まることを願っていますが・・・。

 私の足跡を忘れないでね。



  ヒッキー momo
2003年10月10日(金)  

 この数日、すーっかりヒッキーになっていました。
引きこもること数日。
何だかな〜 どうもこう、本調子にならない感じ。前回は、思いきり暗いこと書いてるし・・・。

 とてつもなくご存知とは思いますが、普段の私はどちらかと言えば根アカな部類ですので、暗い〜という状態は端で見ていてもイジイジする感じでしょう?
実は、それはそれは当人がいっちばん感じているのですが・・・。
もう1つ、というかイマイチというのか(同じ?)
何だか覇気がないような、ノリが悪いような、鬱々とした感じが拭い去れない状態というか。
・・・延々と書いてもしょうがないデスね。

 もうチョットお待ちください。
なんとなく浮上気味ではあります。
以前はね、沈むだけ沈むとスパッ!っと浮き上がったんですが、何だか今度はちょっと違う。
なんだろね。

 今、掲示板のレスをしたり、ちょっとお邪魔に行こうかな、なんて思ったのに、な〜んだかまだ動きが鈍くて。(笑)

 皆さん本当にお優しくて、色々ご心配ありがとうございます。
やっと連休です。
このお休みの間にお邪魔しますね!

 それから、膝は大分よくなりました。動きの流れで時々捻りそうになると、ひぇぇ〜っと悲鳴をあげていますが。(笑)

 でも、浴室で大怪我をするというお話はよく耳にしていたのですが、(家の中では一番多いそうですね、お風呂場)まさか我身に降りかかるとは思ってもいませんでした。
何でそういう風になったかと説明出来る動きではないのですよ、無意識ですから。そんなことで?というような動作です。多分皆さん同じなんでしょうね。今回よく分かりました。
 
 自宅のお風呂で緊張している人ってあまりいないでしょうが、皆さまもお気をつけて。


 あ、そうそう、さすらいの momomoon の方、あのままどこにもリンクしていないと部屋を剥奪されてしまうので、チョット玄関を変えました。

 良い連休を!



  
2003年10月07日(火)  

 沈むだけ沈めばあとは浮かび上がるだけなのに、沈み行くその間がとてつもなく辛い。たまにとことん落ち込むことは、誰にだってあるだろう。暗くて暗くて暗くて・・・。こんな部分は普段表出させないし、このHPに関して言えば多分始まって以来のことだと思う。夜は長くて夢と現の間で枕が濡れる。落ち込みすぎと責めるだろうか・・・こんなことがあるのだ。何度か回避しようとした。気が付いた時には遅かった。心の深淵を覗いて自分との闘いになる。

 朝、起き抜けにシャワーを浴びた。気温が低くて肩が寒い。ふいにさめざめ泣けてきた。シャンプーをしながら何故か座ろうとしたときに、下にあるカランの細長く突き出したステンレスの蛇口に膝を直撃。お皿を真横からしたたかに打ち、しばらく呼吸が止るほど痛かった。痛い・・・声にならないほどの衝撃。心が痛いのと同じぐらいに痛い。泣きッ面に蜂。骨がどうにかしたらみるみる腫れてくるだろうと思ったが幸いそこまでではなかった。でもその時から痛みで膝を曲げることが出来ない。これで仕事に行かれるだろうか。スポーツの選手は骨にヒビが入っても試合に出ていたりするのだから、仕事には行かれるだろう。やっとの思いでストッキングを履いた。普段の何倍もの時間をかけてようやく着替えた。片足は曲がらないまま一日過ごした。途方もなく疲れた。膝はまだ曲がらない。心は捻じ曲がったままなのに。また夜が来てしまった。ひと言のメッセージも残せない、ただただ悲しい夜。



  
2003年10月06日(月)  

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革衣(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる......
中原中也



 朝から冷たい雨に降られて、今日の雨はまるで氷雨のように体に滲みた。余裕のない心の中に降る雨は、すぐに溢れてこぼれそうになる。うつむいて難しい顔をした自分に気付く、そんなことが何度あったことだろう。疑心暗鬼、攻撃、罪悪感、自己嫌悪、嫉妬、非力・・・。




  ただ今、動作確認中
2003年10月04日(土)  

 今夜は綺麗な月が見えます。
秋の月ですね。うっすらと回りに晄を放って、厳粛な上弦の月が輝いています。
秋を奏でる虫の音と眩しいほどの月の光。


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 水曜日の夜、突然PCの液晶がおかしな具合になりまして、何をしてもどうにもならずに、メーカーのサポートセンターに電話をして、あれこれ試行錯誤の結果、モニターに欠陥があるということで、急遽新しいものとお取替えということになりました。

 それで水曜〜昨日まで、このPCを使うことが出来ませんでした。やっと今日、新しいモニターが届いて(しかも2台)、早速今繋いでみたところです。

 やれやれ、保障期間内で良かった。しかし、一体何故に2台? 電話をして聞いたら・・・、延々と調べた挙句、どうも配送センターの方でのミスだとかで・・・。
だって、最初に電話に出たセンターの人、2台届いていると言っても
「1台しか送っていません」というんだもの。
「しまった!だったら黙っていただいておけば良かった!」と思ったのも後の祭り。(笑)
で、繋いでみて動作確認をしてから2台を返送し下さい、ですって。
2週間以内でしたらどちらもお使いになってみて結構です。ですって〜!

 う〜ん、手違いの為にご迷惑をおかけしましたというわけでしょうか、これ、送り返したモニターはきっと、どこかに新品として売られるんだろうなぁ、と思うと複雑な心境。
まぁ、また壊れたら困るので、徹底的に使ってみましょう。(笑)

 そのようなことがありましたので、掲示板のお返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
今のところ、画面は快調です。



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