momoparco
  ++ 手術前夜 ++
2002年06月26日(水)  

 病院の生活は規則正しく、意外と忙しい。
朝は朝食が終ると、看護婦さんが血圧や脈や熱を計りに来る。
一人一人に体温計を渡し、何かと話ながらテキパキと仕事をするが、病院にいる間中思ったのは、
看護婦さんのみにあらず、医師も含めて、あの人たちは一体いつ休むのだろうかということであった。
勤務は三交代制で8時間勤務なのじゃないかと思っていたが、寝る前に来た看護婦さんが、朝まだ忙しく動き回り、
「あれ?おやすみは?」
と一体何人のスタッフに聞いたことだろう。
その度、彼らは曖昧に笑っていたが、とてつもない激務なのじゃないかと思ったりする。

 しばらくすると、医師の回診があり、大勢の医師がカルテを見ながらゾロゾロと徘徊する。
各患者の担当医の他に、研修医や医学生も混じっているのだろう。
その時、初めて私の担当医と挨拶を交わす。
ベッドの名札に担当医の名前は書いてあったので、知ってはいたが、この医師は背中まである長い髪を編みこみ模様の三つ編みにしてリボンで止めた、綺麗な女医さんであった。
手術の最終的な説明は、今夜家族ともども受けることになっていた。
この時
「先生、ビキニが着られるように、お腹は横に切ってね」
というと
「ハイレグが切れるように、縦に切りましょう」
という。
母の大昔の盲腸の跡が、横に切ってあるので全く目立たないのだ。
ったく・・・。

 午後になると、麻酔科の医師が来て、
「明日の手術の麻酔を担当する○○です」
と挨拶を受ける。
麻酔に関しての検査も終っていたが、
その場で、聴診器を当てたり、背中を海老のように丸めて、脊髄を探ったりする。
「それでは、よろしくお願いします」
と言って帰っていった。

 何となく落ち着きのない気持ちになり、休憩所と部屋を行ったり来たりする。
ベッドで本を読もうと思うが、隣のおばさんのつけている機械の、シュシュ、ゴボゴボという音がやけに気になった。

 早い夕食が終わり、になり、家族が集まり、手術の説明を受ける。
この時になって、初めて、思っていたより大掛かりな手術になりそうな説明を受ける。
手術の途中で取り出した細胞の異物を、その場で病理検査に出すという。
これは、迅速病理検査といって、採取した細胞を20分以内に検査をすることである。
結果が悪性なら、その場で反対側の卵巣も、子宮もリンパ腺も全て取り出すというのである。
その為には、お腹は縦に切る必要があるというのであった。
手術は午前9時からなので、軽く済めば11時過ぎには終るが、長くなると更に2時間ぐらいを要するといわれる。

 実は、初めに病名を聞いてから、回りになんと説明をしてよいのか分からないので、もう一度分かりやすく説明をして欲しいと、2週間後に医師に面談を申し入れていたのだが、その時にもそんな事は言っていなかった。
あまりにも簡単に終りそうな説明だけしか聞いていなかったので、ここで初めて詳細を知る。
なんとうかつというか、呑気というか、無知というか。

 それからしばらく、あれこれとやり取りをして、説明も終わり家族も帰る。
その後、私はハツカネズミのようになっていた。
それは手術を受けるラットの意味ではなくて、ただ籠の中でウロウロと動き回るネズミになったような気がしたのだ。
このまま逃げようかと思ったりした。
動揺していたらしく、無意識のうちに休憩室の公衆電話の場所へ行き、受話器を手にした途端に我に返る。
誰に電話をしようと、今更なにがどうなるものじゃなし、一体何をしようとしていたのか。
ここで、初めて煙草を吸いたいと思う。

 私は血圧が非常に低く、もっとも低い自己最低記録では、下が30、上が60ということがあった。
普段はそれほどでもないが、麻酔に関しては少々怖いものがあり、これだけは手術が決まってからいつも気になり死を意識しないではいられないものであった。
万が一・・・、そう考えたら、の話である。
今まであまり密着して考えたことのなかった、死が背中合わせに意識にあったのは嘘ではない。
私は死ぬ事を怖いと思ったことはなかったが、それは死そのものが、まだまだ先のことだと思っていたからに過ぎず、しかしこの場になっても、怖いと思うより、絶対に死にたくはないと思っていた。
仮に世界が滅びてゴキブリだけになったとしても、生き延びたいと思っていたからである。
いくら、死神も神様だとしても、この喧嘩は負けるわけにはいかなかった。
部屋に戻って、隠し持っていた煙草を持って来る。
たて続けに数本ゆっくり吸うと、気持ちは落ち着き前に進むしかないと思い当たる。

 その時は何故か誰も話し掛けては来ず、部屋に戻っても同室の二人も気を使ってか静かであった。
しばらくして、看護婦さんがよく眠れるようにと睡眠薬を一錠持ってくる。
言われた通りに、横になる時に服用するが、普段そういった薬を飲んだことがない。
効き目は2〜30分後なんだろうと、枕もとの電気をつけて本を読み始めたが、一ページも読まずにストンと眠りに落ちていた。

 カーテンを廻らしたベッドの中、電気がついたままなので、他の患者さんたちは私が眠れないでいると思っていたらしいが、実は深い眠りの中にいたのである。



  ++ 入院の記 ++
2002年06月21日(金)  

 私が入院した部屋は、産科と婦人科の病棟が廊下でつながった、地上7階の眺めの良い部屋であった。
4人部屋のこの部屋の廊下側のベッドをあてがわれ、同室の人に挨拶をする。
手術の二日前に入院したのは、一日ゆっくり過ごして体力を養うことと、それまでにしていた煩瑣な検査の最終チェックのためといわれた。

 隣の窓側のベッドには、60代ぐらいの女性がいた。
この人は、つい最近手術を終えたらしく、掛け物の横からいくつかの管がはみ出していた。
一つは導尿管の細い管であり、その先に袋がついている。
もう一つは何やら錆びたような赤茶色と透明の液が入り混じった太い管で、その液体は体内で循環しているらしく、大きな機械につながった太い管が二本出ており、常にシュシュ、ゴボゴボと音がしていた。

 向かいのベッドの女性は、この人より更に年配だが、手術はまだ先のようである。
糖尿で白内障やその他の症状があるので、安易に手術が出来ないとのことであった。
もう一つのベッドは空いていた。

 病室のドアは常に開放され、廊下を歩く人の姿や、反対側の病室の中も見える。
そちらの部屋にいる人たちは皆、ナイトキャップを被り、綺麗にお化粧した人もいる。
私は、枕を汚さないようにタオルの何枚かは用意していたが、ナイトキャップなど用意していなかったので、なんとまぁ世間知らずだったかと反省した。
病院の中でもお化粧をしているなんて、身だしなみの良い人もいるものだと思ったりする。
この人は、すれ違いざまに目が合うと、必ずニッコリ笑ってくれた。
この先、世間知らずという言葉が何度か自分の中で去来するようになる。

 院内の生活は規則正しく、いつもならコーヒーなど飲んで一休みしている時間に、夕食が運ばれて来たのには驚いた。
話には聞いていたが、消灯が夜8時なのに更にビビり、今後の生活が思いやられる。

 食事は、薄味だが、元来腹ッっぺらしの私は何でもいいから良く食べた。
手術をしたばかりのおばさんは、お粥状の食事だが、歩けそうもないので運んであげる。
糖尿のおばさんは、食事制限が非常に厳しく、味がないものばかりの食事に耐えられないようで、ベッドの上の移動するテーブルの上から小さなタオルをハラリと取ると、湯のみや老眼鏡の他に、梅干、塩昆布、イカの塩辛の瓶詰めなど、普段から私なら頂かないようなものがズラッと並ぶ。

 それじゃ、ちっとも良くならないじゃないかと思うが、
「70も過ぎて、主人も亡くなったし、今更何でもいいのよ、アタシ」
などとおっしゃる。
非常に明るく、パキパキした人で、好感がもてた。
というか、年齢のいった人のいう言葉というのは、そこらの若造のいうことなどとは一味違うと常々思っていたので、このような言葉にもそれなりの人生の裏付けがあるのだろう。
小さい子供なら、いけないよと教えてあげるが、分かりきった大人のやる事は、時として聞き分けのない子供より始末が悪いことがある。
まぁ、すべからく、てんでの甲斐性でやればよいのだ。
冷たいようだが、このような場所で、お互いの一線を超えた発言はよろしくないだろうと思う。
しかしお話しは楽しく、隣のおばさんも笑うと痛いといいながら、一緒によく喋った。

 食事が終わり、面会時間も過ぎて、8時になればもう消灯である。
トイレや廊下以外の電気は一斉に消され、つまらないので、ナースセンターの前を通って、エレベーターの近くにある休憩所のような所へ行ってみる。
ここにはテレビがあり、何となく座っていると、何人かの患者さんに入れ替わり立ち代わり、
「あなたは一体どうしたの?」
と優しく声をかけられる。
新人はすぐに分かるらしい。

 それまでは、周囲の誰彼との間に感じた一線がここにはなく、その気安さから今までの経緯などを話すと、人それぞれ興味深く聞いてくれ、自分の経験なども話してくれる。
同病相憐れむとはこのことだと思う。
しかしまだまだ世間知らずであった。
話をしているうちに、ここに入院している人がどうも全て癌患者であることを感じはじめる。
馬鹿な話だが、私は勝手に、そのような人もいるが、癌以外の人も沢山いると思っていたのである。
しかし、そんな軽い病気の人なら、ここには入院できないらしい。
私の動揺を察知したらしい、女性は
「痛みがあるのは大丈夫、痛みがないのが悪いものなんだから」
と教えてくれる。
とにかく色んな人がいた。
皆、とても優しく、心身共に同じような不調を体感したのがよく分かる。

 頭の中には、色々なことがグルグル回り始めたが、
「右の卵巣を取ってしまえばいいんだから」
と言った医師の言葉を安直に信じる事にした。
どこの窓からも海が見え、様々な灯りがチラチラしていたが、月が出ていたかどうかは記憶にない。

 いい加減、同じ事を話すのにも疲れ、部屋に戻ると、他の二人のベッドの周りにはカーテンがかけ廻されていたので、私も真似をして、枕もとの電気をつけて本を読む。
私のベッドの上のテーブルには、湯のみの他は文庫本がズラっと並ぶ。
読書は私にとって、水や空気と同じであった。
酒ダメ、煙草ダメ、の病院生活で、残るは本を読むこと以外ないではないか。
そうして、いつものようにもう眠くて限界と言うまで読みつづけ、電気を消して入院一日目が終る。



話があちこちへ飛ぶので、とてつもなく長くなりそうです。(笑)



  ++ 卵巣嚢腫 ++
2002年06月17日(月)  

 「これは卵巣の癌です」
目の前の医師は、超音波画像のフィルムを見ながら淡々と言った。

 半年ぐらい前に体の不調を感じて婦人科個人病院の診察を受けた時に、とりあえず卵巣の病気を疑ってみましょうと言われていた。
その時には症状が改善されたので、忘れていたが、半年後に、また同じ症状を感じて別の個人病院で診察を受けたところ、卵巣癌の疑いがあると言われ、思いきって市大の婦人科で診察、検査を受けたあとの医師との面談の場面である。

 個人の病院で癌の疑いがあると言われるのは、もしかしたら誤診の可能性もあると、自分の中で現実を否定し、大きな病院ならそれは間違いであるといってもらえるのではないかとの希望的観測を持って診断を受けた時の医師の言葉。

 その時、一瞬目の前が暗くなり、何かがこみ上げて来るのを感じながら、一方でもう一人の私が、後ろから私と医師の語る場面を見ていて、本人に向かってこのようなことを告げるものなのか、まるでドラマのシーンのようだ。と思っており、その後ろの私がかろうじて医師の前に座る私を支えた。

 そのおかげで冷静に、取り乱す事もなく、医師との話を続けることが出来たが、やはりともすれば泣きそうな気持ちを押さえて、事務的に、医師に負けずに淡々と今後のことを話し合った。
頭の中には、回りの誰彼にどう告げようか、これから先一体どうしたらよいのか、何もかも空白になりそうな半面、まるで医師を敵のように様々な質問をぶつけていた。

 卵巣嚢腫は一般的に水泡性の柔らかい嚢腫だが、私の体内にある嚢腫の影は、充実性の硬い性質の物で、また、腫瘍マーカーの検査においても、ある一定の数値が非常に高く、極めて癌の疑いが濃いというのである。
現代医学は日進月歩、今でこそこの病気の手術も簡単にお腹に穴を開けただけでファイバースコピーを使って日帰りの手術も可能になったが、数年前はまだ卵巣のように、体内に宙ぶらりんにあるものは、どこからも手が届かず、回腹手術をするしかないのであった。

 医師は、簡単にただ、右側の卵巣を取ってしまえばそれだけでよく、左右に二つある物を一つ取っても、もう一つが機能するから、女性ホルモンや排卵は正常に起こるし、その後の生活には何の支障もないと言う。
早ければひと月近い入院で退院出来るし、長くなると三ヶ月ぐらいは治療をすることになるが、その時のことはまたその時に考えましょうとの言葉。
既に事務的に、一日も早く病室が開いたら入院、手術をする事を勧められた。
私自身も、そういった病気の知識がまるでなく、それはそういうものなのかといった、単純な理解をして帰って来た。
その時、医学書を見なかったのは、何処かの具合が悪い時に、あれを見るとみんな当てはまり、病気でもないのにますます病気になってしまいそうだったことがあるからである。
他のことなら、何でも知りたがり調べたがるのに、この時ばかりはそれ以上怖い物は見たくはなかった。

 その結果、長ければ三ヶ月の入院や、その後も定期的に入院をする事が、抗癌治療のことであると知ったのも、うかつにも入院、手術を受けた後であった。
ただ、真夜中に救急車を呼ぼうかと思ったほどの、尋常でない疝痛は処方された鎮痛剤で少しは治まり、それだけはあり難かった。

 それから周囲に病気の話をして、手術をすることになるということで、今は病室の空きを待つ状態であることを告げる。
この時の反応は様々であった。
家族は驚いたものの、比較的冷静に受け止め、ただ、病院をハシゴしなくても良いのかといった不安はあったようだが、何故か私の中にあの病院でいいという自信があったので、これは問題なく過ぎた。
話は一人の友人に告げれば、後は緊急連絡網のようにあちこちに伝わり、誰彼から電話がかかってきたが、私があまりにも事務的に語るので、拍子抜けというよりもショックを表しそこなったようであった。
涙声になるほどうろたえた友人には、こちらが慰める始末であった。

 持つべきものは、男友達だと思ったのは、こんな時で、誰もみな話を告げると一拍おいて
「ふーん」である。
これは自らにはない卵巣という臓器の病気であることが皆目見当がつかないので、何と言ってよいのかわからないのと、冷静でいようとしてくれたための両方と取られ、この「ふーん」にはそれぞれの驚きが隠されていながら冗談からコマのような話が出来た。

 このような病気になってみて、初めて分かったことだが、周囲にどれだけの心配をかけるか、これは非常に辛い。
申し訳なくて仕方がなくなる。
比較的若いうちのこのような病気は、誰も彼もが経験のあるものではなく、みんなどのように接してよいのか分からないのだ。
それがわかるから申し訳ない。
この頃は、歌手の宇多田ヒカルがこの病気であったことから、若い女性にも非常に多いという認識が多くの人になされるようになったが、数年前はまだ、卵巣だの子宮だのの病気は中年のおばさんがなるものとみな思っていたのだ。

 誰かに心配をかけ、誰かに辛い思いをさせる。
これはとてつもなく辛い。

 不思議だったのは、どこから聞きつけたのか、同じ中学高校ではあっても、話をした事もないような同級生から電話がかかり、何とかカントカ会なるものに入信の勧めやら、何とか苑への帰苑の勧めをして来たことである。
(私の記憶が確かなら、私たちの出身校はプロテスタントの学校のはずである)

 彼女たちは一応に、自分がそこで何かが良くなったという経験上、それを私にも進めてくれるわけで、まったく悪気はないどころか、良い事を教えてくれているに過ぎないのだが、病気の不安と日々の痛みでこちらはそれどころではなく、わざわざ遠くまで出向いて、何とか様のお話を聞くよりは横になっていたかったので、丁寧に断るが頑として聞かない。
それどころか、私じゃ力不足で上手く伝えられないから、上の人と逢ってくれないかなどという。
心配してくれるのはありがたいが、今、あんたの面倒までは見きれないと思ってしまう。
人の弱味につけこんでいるのではないかとさえ思えてくる。相手に悪気はないにしても。
断るのに、どのくらいの時間を要したか覚えていないが、かなりの時間がかかり、私がキレなかったのは、闘うべき相手が他にいたからである。

 この相手とは、勿論病気そのもの。
この時、私は未だかつてこれほど何かを憎んだことはないというくらい、自らの体内で起きている病気を憎悪し負けるものかと闘志を燃やした。
それはメラメラと燃えていたと思え、ふとした瞬間に気を抜いた時、何かこみ上げそうになるのを堪えることが出来たのは、闘うという意志だけであった。
泣いたり、気弱になったりしただけで、病気に負けると思ったのである。

 イタリアに初めてついた頃、とてつもなく孤独な気持ちを味わったが、この時それとは別のも孤独さがあった。
ここは日本で、周囲には家族も友人もいて、みんなが心配してくれるのに、何かここからこっちとそっちの線を引かれたような気になったのである。
何で私なのか?
つまり理不尽なのである。
そういった気持ち、これも辛いものであったが、なってしまったものをクヨクヨしても始まらない。
とにかく私は絶対に負けるわけには行かないのだ。

 しかし、痛みは常に体の内部にあり、歩行は困難、座っていても横になっていても、体の内部から何かが圧迫して神経に触れるので、身のおきどころのない不快な鈍痛が続いていた。
それから入院まで、どのくらい日にちが経ったのか正確には覚えていないが、公私共に忙しく外せない仕事もあり、まだ入院をしたわけでもないので、平常の生活をしていた。
この時は、病院から処方された痛み止めなどとっくのとうに無くなり、市販の鎮痛剤は一日の許容範囲を遥かに超えて、痛みが来ればすぐさま服用するという鎮痛剤漬けの生活であった。

 手術をするのだから体力をつけておくように、と周囲からニンニクエキスだの、漢方薬だの勧められるが、私は密かに薬剤関係の営業の仕事をする友人に電話をして、体力などつけたら癌細胞も成長してしまわないかと聞いたりもした。
今から思えば笑いそうになるが、本人は至って真面目であった。
若い細胞の方が、癌の進行が早いというぐらいは知っていたからである。

 そうして入院、手術となるが、ここで皆さんにご心配をおかけするといけないので、先に結果を書いておくと、私の病気は良性のもので、現在ではすっかり元気になっております。
ご心配をおかけしてごめんなさい〜。

以下まだまだつづく。
(明後日ぐらい・・・)




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