momoparco
  ++ しゃべりすぎ ++
2002年05月31日(金)  

 昨夜は、夜の9時過ぎにソファーでうたた寝をしてしまう。
テレビで、『渡る世間は鬼ばかり』が始まっていた。
私はあの番組が好きではない。
何故かと言えば、辛気臭いからである。
それからもう一つ、橋田寿賀子の脚本はセリフが長い。
あんなに饒舌な一族郎党も珍しい。
もともと、一のことを話すのに十しゃべるのは好きじゃないのに、あのドラマのように、老若男女、誰も彼もが長々と屁理屈ったれだと、いい加減うんざりする。

 しかし、このドラマの寿命も長いので、好きではないといいながら、年に一度ぐらいは誰かの付き合いで見るはめになったりもする。
するとまだやっていたのかと感心したり呆れたり・・・。
昨夜はたまたま、テレビのチャンネルを変えるのが億劫だったので、見るともなしに眺めていたら、少し前に話題になったえなりかずきの、長いセリフを間違えないように、演技を忘れないように、はては息継ぎを上手くやるようにと細心の注意を払ったしたり顔が出て来たあたりで記憶が途切れた。
寝る前の最後に見た顔がえなりかずきである。

 数日前に何かで読んだが、映画『ロード・オブ・ザ・リング』の翻訳が不評らしい。
これはあの、戸田奈津子さんの訳によるもので、かねてから彼女の訳したものは大変に好きだった。
映画の字幕というのは、数秒間に何文字までと言葉の数が決まっているので、いくら画面の俳優が長々としゃべっても、そのまま訳すわけにはいかない。
原作の意というものを、寸分たがえずに、しかも短い言葉で分りやすく伝えるためには相当なセンスが必要である。
しかもドラマである。

 日本に翻訳者は数あれど、彼女ほどこうした能力の高い訳者はいないそうで、今回もこの映画の翻訳にあたられた。
しかし、『ロード・オブ・ザ・リング』の何とか愛好会というか何とか協会というか、つまりファンの集いのようなところからクレームが立ったというのである。
いかんせん売れっ子訳者であり過ぎるために、原作への勉強が足りなかったということだったらしい。
あまりにも原作を変えてしまったというような話であった。
そのために、映画がテレビ用になる時には改めて翻訳のやり直しをするのだとか。
勿論、訳者は戸田さんである♪

 そんな事がどこか頭の片隅にあったらしく、数時間して目が覚めた時に、何故かえなりかずきの顔と共に、『渡る世間は鬼ばかり』を戸田さんがセリフにしたら面白いのに、と思った次第。



  ++ 知足常楽とか我唯足知とか ++
2002年05月29日(水)  

 以前このタイトルで、幸せとは一体何であるかというようなことを書いたら、
ある方からご自身の場合には比較である、という書き込みをいただいた。
 
 以前の自分と今の自分を見比べて、過去より今の方が幸せであるとか、あるいは、他人(ひと)と自分を見比べて、どちらがより幸せであるとか、不幸せであるとかといった見方をするから、というのである。
つまり、自分という物差しを基準にして、初めて幸せを感じたり不幸せを感じたりするらしい。
単純に現状を見て幸せだと感じるより、こういった見方をする方が分りやすいということかも知れない。

 しかし、私が今大変幸せだと思っていて、誰かから見たら自分の方が幸せだと思ったところで私にとっては全く無意味である。
一方的に自分を中心に物事を考えれば、なんだって自分との比較である。
幸せの本来の意味からずれるような気がする。
そこにある物差しは、企画マークもついていない、セルフ物差し。
物差しそのものが、違うのだから、正確に計ることなど出来ないことだ。
あるのは、持ち主の価値観だけだからである。
価値観が先か、物差しが先か。
しかしこれを他人の物差しと比較するとどうなるか。
スケールの違いが分るのである。

 で、本来の幸せとは何だろうか。
ほんの僅かな米を命と思って大切にしろ、というどこかの国と、人通りがまだある新宿で、残飯のゴミをあさって鼠が堂々とうろつく日本とでは、米の価値が全く違う。
すると目の前に米があることが、幸せと感じるか感じないかは歴然としている。
国家が機能しているから、民主主義だの自由だのと言っているが、餓鬼にさらされ内戦で死に直面した人々にとっては、民主主義だの自由だのは知ったことではないだろう。

 同じ事があっても幸せと思うか、不幸せと思うかは、その人間の置かれた環境によるものかも知れない。
だが、結局、自分で自分を幸せと思えば幸せだし、不幸せと思えば限りなく不幸なのだろう。
同じ事があっても苦労と思うか思わないかも、その人による。
失恋をバネにのし上がるか、静脈を切るかの違いぐらいのもんである。
いくら他人から見て不幸だとしても、当人が幸せだと思っていれば、これは立派な幸せである。

 価値観は多様だというが、価値が沢山あったら価値ではない。
比較出来るほどのことなら、もともと大した価値などないのではないか。


 前回、・・・つづく。と書いたので、続きを書いたらこうなった。(笑)





  ++ 野村さん ++
2002年05月26日(日)  

 野球には興味はありませんが、元どこかの球団(どこだったか・・・)の監督、野村さんが言った言葉には一つだけ気に入っているものがある。
あの方が好きという訳ではありませんが。

「苦労、努力は他人が認めてナンボのもんじゃ」

正確な言い方は忘れましたが、そういった意味の言葉です。
私もそう思うのよ。
自分で自分がどうだこうだと言ってるほど、胡散臭いものはない。
口じゃ何とでも言えるからね。
言ってることじゃなくて、やってる事を見ちゃうな、私は。
・・・つづく。

 って、朝から何書いてんだか。(笑)






  ++ 粗大ゴミ ++
2002年05月24日(金)  

 粗大ゴミを出した。
 まだ粗大ゴミ収集が無料の頃にこれをやった時には、市の環境衛生局へ電話をして、指定の日にちに指定の場所へ品物を置いておくと取りに来てくれるというシステムで、この時の電話の応対は非常に悪かった。
まるで喋ると損をするといったような尊大な態度の男性が、さも面倒臭そうに応対をしたものであった。

 しかし今回は、粗大ゴミ収集が有料になっており、その窓口を環境衛生局が民間に委託したというので、電話口に出た女性は非常に感じが良く、サービス満点の応対であった。

 今回は郵便局かコンビニで、ゴミの種類によって金額を支払うと、領収書付きのシールをくれ、そのシールに氏名を書いて品物に貼り、指定の日に自宅付近に置いておけば持って行ってくれるという。

「当日の朝8時までに出しておいてくださいね。
時間を過ぎますと、持ち帰れない事がありまので、くれぐれも遅れないようにお願いいたします」
そう言われた。
電話を切ってから、考えた。
8時以降の時間ではもう間に合わないことがある。
すると、何時から収集が始まるのだろうか。
すると、一体何時から出しておけばよいのか。

 この辺りの生ゴミの収集は、たいてい朝の8時過ぎ、遅くても9時には終っているので、地域の住民はこの時間を守ってゴミを出す。
夜のうちに出しておくのは、厳禁である。
夏など、生ゴミの腐敗臭がするので、集積場所の近くの家の人には多いに迷惑だし、夏でなくても猫やカラスがゴミを荒らすので、ほとんどの家では朝7時頃からゴミを出し始める。

 そういったルールに縛られていたので、粗大ゴミも朝にならないと出してはいけないような気がしていたが、それでは間に合わないかも知れない。

 朝の8時ではもう間に合わない。
かなり早い時間から回り始めるようだから、朝の3時か4時なのか。
何時に目覚ましをかければよいのか。
これを考えつづけていたら疲れてしまった。

 後から聞いたら、朝8時から収集が始まるので、その順番が一番最初だったら8時にはもう取りに来るということだったらしい。
ということは、8時に終るのではないのであった。

 実に疲れた。



  ++ 句読点 ++
2002年05月23日(木)  

 昨夜映画のお話を一つUPいたしました。
それを今夜読んでみて、かねてより気になっていたことを、意を決して書いてみます。(笑)

 これ、ずっと気になっていたんですが、みなさまは、私が書いた物は読みにくく思われないでしょうか?
何が気になるといって、句読点です。(笑)

 普段、何かを書くのはメモパッドを使い、そこからこちらにUPしているんですが、初めに書いた時には句読点が何もありません。(笑)
後から読んで、適当なところに入れております。
適当なところというくらいなので、本当に適当。一番頼りにするのは息継ぎの場所です。(笑)

以前のダイアリーなどは、『、』はともかく、4〜5行に一度くらいしか『。』がなくて、実にダラダラと長いものでした。
他所のページへお邪魔して、書かれているものを読んだりしているうちに、どうも私のは長すぎると思い至りまして、それからは無理やりに句読点を入れているような次第です。(汗)

実際、書くのは喋る速さということもあり、どちらかというと喋りに近いわけですが、句読点の入れ方としては、多分ちっとも正しくはないと自覚しております。

いかに現代国語が苦手であったかを露見させております。^^;
きっと恥かしいことなのでしょう、と思ったり思わなかったり思ったり。

で、『。』はともかく『、』ってどういう目安で入れるの?




  ++ アウトドア的インドア生活 ++
2002年05月19日(日)  

 テレビでホームレス、路上生活者の生活ドキュメントなるものを見た。
番組では、数名の高速道路の橋桁などに暮らす人の生活の中身を映し出していたのだが、
駅の構内や公園でダンボールを囲いにして暮らす(というのか)浮浪者とは違い
彼らには、それぞれの「家」がある。
あちこちから拾って来た木材で「箱」を作り、これも拾い物の家具調度に囲まれて、その中で優雅に暮らしている。
橋桁にズラッと並ぶ「箱」の様は、さながら長屋である。

 五十がらみの男性は、そこで電気修理店を営んでいる。
画面では彼が何かのIC回路様のものを修理している。
一見して、そういった専門の職についていたと言う事がわかるが、修理場の中に取り揃えられた、あらゆる道具の全ては拾ったものだそうである。
そうして、中国人の女子留学生がラジオの修理を頼みにやって来たりしている。
彼の家も、全て手作りで、家に帰るとコーヒーを入れ、手作りのテラスでコーヒーを飲むひと時が好きなのだそうである。

 四十前後の男性は、何をしているのか分らないが、やはり手作りと拾い物の家の中で綺麗なテーブルクロスがかかった部屋でコーヒーを飲む。
壁には、彼がボールペン1本で書いたというよく出来た抽象画が何枚も額に入って飾られ、本棚には何冊もの哲学書が並ぶ。
勿論、本も拾い物。
しかしボロボロでは決してない。
彼は、弦が切れて3本しかなくなったエレキギターを弾き、こうした生活が昔からの憧れで、このアウトドア感覚がとても気に入っているという。

 別の六十近い男性は、この界隈では有名なオカマである。
通称オカマの金ちゃんと呼ばれ、この道歴50年という。
彼は、元プロレスラーのような外見で、どこから見ても男だが、話言葉はまるきり女。
毎日毎日浅草の芝居小屋で芝居を観るのが日課であり、
「東京音頭が好きなのヨ」と言いながら道端で踊りだす。
芝居を観ている間にも
「いいわ〜」
「素敵!」
の連発で、芝居が終るとこれも日課のラーメン屋でラーメンを食べる。
「いやだわぁ〜、食べるところまで写すのねぇ〜」と言いながら、
親指と人差し指でレンゲをつまみ、小指のみか中指も薬指もまっすぐピンと立っている。
「あ〜ら、アナタとお話してたから、役者さんたちみんな帰っちゃったわね」
毎日行きつける理由があるようだ。

 店の外に出ると、知人を見つけ
「ミノルさ〜ん、ミノルさ〜ん、お話が聞きたいんですって」
向こう側に歩いている知人に声をかける。
「昔はキレイだったのよ〜」と金ちゃんがいう。
カメラに近づくミノルさんも、同じく元プロのような外見である。

 おねぇ二人の会話には、画面上にテロップが流れる。
金ちゃんの言葉はピンクの文字、ミノルさんの言葉は紫の文字、言葉の終わりには、ハートマーク。
最近、オカマのホームレス仲間が増えて、金ちゃんは上機嫌なのである。

 さて、この金ちゃんの所持金は、首から下げたがま口を覗くと、一万円冊が二枚入っている。
お金がなくなると、銀行へ行ってお金を下すのだそうだ。
預金高を聞くと、
「教えな〜い」と言いながら、軽く八桁よ、と言ってのける。
どこかに部屋を借りれば、お金がかかるが、ここにいればタダだから、
「アタシはこの生活が大好き(はぁと)」だそうである。

 ホームレスというのは、浮浪者もしくは不労者という認識があったが、これは自発的蒸発であり、世の中を追われてそうなってしまったというのとは違う。
この人たちを見ていると、渡る世間でも立派にやって行かれたようにも見えるが、きっとそうでないから俗世を捨て、出家ならぬ家出をしたのだろう。
彼らの家の中は、どの家も綺麗に片付けられている。
余計なものがないというのは、これほどスッキリしているとの見本のようである。

 界隈には、この辺りで路上生活を営むべからずといった立て札があちこちに立っているが、役には立たない。
これで取締りに合い、留置場のようなところへ入れられたとしても、それはそれでもっけの幸いなのかも知れない。

 他から聞いた話だが、女性のホームレスは非常に少ない。
男ばかりの中にいても話が合わずに面白くはないからだそうである。



  ++ ちょいと ++
2002年05月15日(水)  

 風邪ひきです。^^;

BBSへのお返事が遅くなっておりますが

しばしお待ちくらはいね。


若いアナタも

もう若くないとおっしゃるアナタも

夜更かし、寝不足、飲みすぎ、吸いすぎ・・・。

どうぞお気をつけて。 

働きすぎがない・・・。 っぷぷ。



  ++ 感動 ++
2002年05月11日(土)  

 劇場で放映される映画の上映期間は、観客動員数により、その数が多ければロングラン上映もされるが、一方でどれほどの製作費用がかかっていようと、客の入りが悪ければ、シビアにも早々に上映を打ち切られる物もある。
ロングランヒットとなってもいずれは公開が終わり、リバイバル上映というのは極めて稀だから、ほとんどの映画は公開されてしばらくの間しか劇場で観ることは出来ない。

 映画が面白かったかどうかは、蓋を開けて観なければわからない。
劇場で観た映画の全てが面白かったかと言えば嘘になるし、あまりのつまらなさに来たことを悔やまれることもあるにはある。
ストーリを知ることはビデオでも出来るし、楽しむ事も出来るから、何も劇場へ行かなくても映画を観たことには変わりはないだろう。
 
 それなら何故映画館に足を運ぶのか。
劇場で観る事の出来なかった映画をビデオで観たときに、これはやはり日常の中で観るのでなく、映画館の大スクリーンでストーリーと共にその迫力を楽しむべきだったと悔やまれることがあるからである。
流れてしまった映画は、まず二度と劇場では観られないから。
日常の中で観るには、あまりにも惜しいと思うから。


 人は本来、感動したい動物ではないかと思う。
泣いたり笑ったり、何かを五感に感じて、心の中や魂の、目に見えない触覚のどれか一つに直接触れて来るものを求めている気がする。
人の心の奥底には、日頃は見えない潜在的触覚が沢山潜んでいる。
自分自身で、見て見ないふりをしている事もあるだろうし、無意識のうちに心の底に沈殿し、固い石となっているものもあるだろう。
その毛細血管のような触覚の、どれか一つに何かが触れて、思いもよらない感動を受ける事を、いつも求めている気がするのだ。
そういった相手の発する何かが、私の触覚のどれかがに触れて、わけもなく魂を揺さぶられることがある。
それを感動という言葉にした時、その量の大小はまちまちである。
大きく感動することもあれば、小さな揺さぶりの時もある。
しかし、何も感動すればよいというものでもない気がする。
joji さんの書かれたものを、亀の歩みのように少しずつ読ませていただいているが、感動が足りないと指摘されたことがあるとおっしゃっていた。
何かを書くのに、読み手の受ける感動の過不足などつけられるものなのか、私にはわからないが、そこに現されたものを読んでどう感じるか。
それは読む側の触覚にもよるのではないだろうか。

 映画を観る、何かを読む、音楽を聴く・・・
私には創り手としての能力はないし、全てを娯楽と言いきるが、多分日常では味わえない、非日常に身を置いて、何かが触れてくるのに耳をすます事が好きなのだ。



  ++ 日曜日の暑さと ++
2002年05月09日(木)  

 昨日今日の寒さは、一体なんでしょ。
去年は5月にはもう、梅雨のような雨が降り続いて五月晴れの日などありませんでしたから、(その分梅雨明けも早かったけど)今年はやはり、爽やかな5月の風が吹いて欲しいと思う今日この頃です。
でしょ?



  ++ ライオンキング ++
2002年05月06日(月)  

 劇団四季のミュージカル、ライオンキングを観てまいりました。
四季のミュージカルは、キャッツ、オペラ座の怪人に続き3つ目ですが、
私がこの劇団のミュージカルに惹かれる理由の一つに、舞台装置のスケールがあります。
四季のミュージカルは、そのほとんどがブロードゥエイのコピー(と言っては失礼?)ですので、従ってブロードウェイの舞台装置に惹かれるといった意味合いになるでしょうか?
日本にいて、ブロードウェイのミュージカルが観る事が出来るのは、四季の舞台だけだと思っておりますので、これはとても有りがたいことなのです。
オペラ座の怪人の舞台装置も素晴らしかった。

 実はわたくし、前世はアラブの大富豪の妻であり、毎日毎日贅沢三昧、叶姉妹なんてチッチッチ♪
の生活にはすっかり飽き飽きしておりました。(うそ)
そして、次に生まれ変わったあかつきには、アメリカ人ならハリウッドで映画創りに参加をし、大道具や小道具などその場にあってなくてはならず、しかし目立たずさり気ない存在感を表すものを創り出したいし、日本人なら、劇団四季の舞台装置をつくり最終的には舞台監督になりたいと思っております。(これはホント)
NHKの子供向け人形劇など見ても、この小道具とか大道具(小さいけど)などに目が行き、そこに関わっている人が羨ましく思うこともしばしばです。

 それなら、生まれ変わらなくても今からやればいいじゃないかとおっしゃる方もいらっしゃるかも知れませんが(誰もいわないって)今の人生はそれはそれで気に入っております。
それを変えてしまうのは勿体ないし、なにより同時に二つの人生を歩むのは無理でしょう。
まるで不倫をして、あっちとこっちの日本のレールの上をガニ股になって歩くようで、決して格好良いものではありません。
プロフィールにもありますように、わたくし Smart が好きなんでございます。

 閑話休題。
いずれにしても、三次元空間を創り出すのはとても好き。
縦横高さ(あるいは深さ?)、その場に役者の演技(+衣装にメーク、勿論台本)、照明、効果(音響)なとなどが加わると、あるのはまるで異次元の世界。



 ミュージカルというと、比較的大げさなもったいぶった台詞回しのようなものが気になるという向きもあるが、ライオンキングに関しては、まるでそういった不自然さはない。
登場するのは、全て動物であるために、着ぐるみでもなく仮面でもない”パペット”と呼ばれる特別な装置を身につけて、それぞれの動物らしさというものを役者が操りながら、更に個々の演技をする。
顔の表情は変わらないが、その変わらない表情が変わって見えるほどの緻密な動作。
せりふ、歌、踊り、そしてパペット。
出来そこないのキングの弟、ミーアキャットのまるでピンクパンサーのような動き。
以前、マイケル・ジョーダンの動きについて書いたが、そこにあるのは全く同じ。
稽古に稽古を重ねて、体の中で役を消化し、一部の隙もなく集大成をみせる。
 
 アフリカ、真っ赤な太陽、満天の星、水、風。
関わる全てのスタッフの、計算し尽くされた緻密な舞台。
息もつかせず、死んでいる空間というものが一斉ない。
何から何まで、エンターテイメントの醍醐味である。
そして、鳴り止まない拍手に数度のカーテンコール。

 感動しました。
余韻が残っております。
映画なら、何本も観られる料金ですが、なお有余るものを観せてもらったと思います。


 さて、おやすみも今日で終わり。
明日からの事を思うと、ハァー.。o○ではありますが(笑)頑張りましょう♪
みなさま、ご一緒に、ハァー.。o○



  ++ 休日は ++
2002年05月04日(土)  

 みなさまどのようにお過ごしですか?
 私は、一昨日の夜からネット三昧という形になっています。(笑)

 昨日、テレビで帰省する人の車の流れというか、交通渋滞の様子を見ました。
お正月休み、お盆休み、そしてゴールデンウィークと、いつも映し出されるお馴染みの光景ですが、本当に大変だと思います。

 私は横浜生まれの横浜市民なので、帰る所というのはありませんが、それがあるのが、羨ましくもあり、同時に大変だなとも感じています。
 勿論、渋滞は帰省する人だけでなく、海外へ脱出する人の混雑模様というのもありますが、どうしても休みが集中してしまうと同じ時に人が動くことになるので、目的地へ着くまでが疲れてしまいそうですね。
今頃はみなさん現地で楽しく過ごしていらっしゃるのでしょうね。

 このような時期、逆に都内は大変に空いていて、車で動くにはもってこいなんですね。
で、明日はライオンキングを観に行ってまいります♪
楽しみです。

 イタリア小噺、じゃなかった、お話を一つUPしました。
時間があればもう一つと思っていますが、ちょっと挫けました。
あれもこれも想い出しちゃって、まとまらなくなってしまった。(笑)
またそのうちに。




  ++ ちょいとハイです ++
2002年05月02日(木)  

 連休の合い間の忙しさから開放されて
今夜はクタクタなのに、とっても良い気分。
これで今、電話がかかって来て、明日も働けといわれたら、グレること間違いなし(笑)

ほんと、良く働きました♪

みなさま、素敵なGWを!
おやすみじゃない方は・・・
良いお仕事を♪



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