Journal
INDEXbacknext


2005年04月27日(水) 目覚めた母との再会。

■また仕事をひとつ終えた。次の仕事までに2週間の休みがある。こんなにまとまった休みは、一昨年の秋以来だ。そして今、母に会いに実家に戻っている。

■記憶が少しずつ戻りつつある母は、見えにくい目でわたしをちゃんと判別して、「親不孝娘が帰ってきた」と、少し笑い顔を歪めながら涙をこぼした。娘だと分かってもらえたことに、まずほっとする。
父が看病疲れで熱を出しているので、今日は看護を交替して、帰って休んでもらう。
ひっきりなしに出てくる痰を拭ってあげる、痛い足をさすってあげる、身体の向きをしばしば変えてあげる、そして、「痛い」「助けて」「なんとかして」しか言わない母と、なんとかお話をして気を紛らわせてあげること。
わたしのことは、ちゃんと娘だと分かっているのに、名前は呼んでくれない。このところよく看病にきてくれている叔母の名前(母の妹)で、わたしを呼ぶのだ。「違うよ、○○子だよ」と訂正しても訂正しても、叔母の名前。時折は、娘だということを忘れて、叔母に話しかけているつもりのようでもある。記憶は断片的に、消えたり戻ったりするらしい。ものすごくつまらないことを覚えているのに、自分のやってきた仕事のことは何も覚えていなかったりもする。自分の名前を思い出すより、飼い猫の名前を思い出す方が早かったし。

若々しかった外見も、痩せ衰えて、すっかりお婆さんになってしまった。もう、別人。でも、そのことにさほどショックは受けない。この間、何度か帰った時は、「会えるのも最後」と覚悟の上のことだったのだし、医者に「奇跡」と言わせたほどの、死線からの生還を遂げた直後なのだ。疲れ切っていて当然。

明るくて、我慢強くて、前向きな母だが、今やわがままと弱音を吐くことが仕事のように一瞬一瞬を過ごしている。弟に「ママは性格が変わってしまった」と伝えられていたが、これも仕方ないと思う。持てるエネルギーは生きていることに全部使ってしまっているのだ。今まで、さんざん家族のために自分を捨てて頑張ってきた人が、自分の命を守るためによけいなエネルギーを使うことをやめてしまっているだけだ、自己防衛本能なんだと思えて、わたしは母を前に、迷いがなくなる。生きることに必死な母を前に、ここのところずっと悩み続けてきた、自分の在るべき場所が分かってくる。

母は強い。生きて戻ってきた。そして、これからも生き続けるために採るべき生き方を本能で選び取っている。だからわたしも、娘として出来る限りの愛情で素直に向かえばいい。もちろんいつも一緒にいられるわけじゃない、仕事をする、離れた場所で。母もわたしも、離れた場所で強く生きていけばいい。これまでは母にさんざん助けられてきたから、これからはわたしが母を助けながら。

■生きている母を見ている時間は喜ばしい。
口から食べ物をいれて自分で呑み込むということが、母にとっては難しく危ないことらしく、まだ看護の人が来るときしか、経口で食事をとらせてもらえないのだが、今日はラッキーなことに、昼も夕食も、看護の人がまわってきた。おかゆとミネストローネをスプーンに3杯ずつくらい。イチゴ味の栄養ドリンク、一口。そして、ピーチのゼリーを、なんと一個丸々。ゼリーをひと匙ずつ口に含むたびに「おいしいー!」と表情をゆるめる母を見ていると、生きているのはなんと素晴らしいことかと、涙がでてくる。母が生きており、自分が生きている幸せで、胸がいっぱいになる。

■帰ると言うと母が泣き出してしまいそうなので、どんなタイミングで帰ろうかと悩んでいたら、母の方から、しゃべり疲れて、文句を言い疲れて、「眠い」と言い出してくれた。足をさすって、手を握って、眠ったなと思って手を離したらまだ起きてて「けち!」と言われたり、手術の傷口が痛くって何度も身体の向きを変えて寝やすいポーズを探して、そんなこんなを繰り返すうち、母は眠りにつく。電気を消して、病室を出る。あと二日は滞在できる。生きててくれた母に感謝しながら、わたしは父の待つ実家を目指す。

明日もまた、病室で、ひがな一日一緒に過ごそう。明日は、わたしの名前を呼んでくれるかしらん?


■昨夜はオーチャードホールでマシュー・ボーンの「スワンレイク」を観てきた。
美しくって美しくって、激しくって哀しくって。もう、わたしの目は、2時間、スワンを踊るジェイソン・パイパーに釘付けだった。

今日、すっかり萎えてまるで筋肉のなくなった母のシワシワな足をあさすりながら、なぜかジェイソン・パイパーの研ぎ澄まされた筋肉を思い出し、人間の持つ可能性に静かに感動していた。母の可能性も、踊り手の表現の可能性も、等価だ。ひとりひとりに、自分の身体があり、ひとりひとり、その人なりに、自らの身体の可能性と向き合って生きる。

自分の仕事が、まさにその人間の可能性を扱う仕事であることを、再び心に刻む。


2005年04月14日(木) 「わたし」に戻る夜。

■年末から東京を離れ、仮住まいを拠点に九州から東北まで飛び回って暮らした。長い旅暮らしを終えて、ようやく東京に戻ったわたしを待っていたのは、予定通り、次の仕事。休む間もなくめまぐるしい生活に入り、久々の休みを翌日に控えて心がゆるんだ矢先に、母危篤の連絡が入った。

■始発の新幹線で病院に駆け込み、動脈破裂寸前で手術室に向かう母と、5分間だけ面会が叶う。医者は「少しでも会えてよかったですね」と、手術に向かう母の気持ちを気遣う余裕もなく言う。

■5時間と予定されていた手術が終わったのは13時間後。それ以来、物語の中でしか知らなかった人の命のあれこれが、自分の人生の一部として展開する。

■これが最後になるかもしれないから、という再三の医者からの呼び出し。仕事を終えて最終の新幹線に乗り込み、集中治療室で眠る母の顔を見て、始発の新幹線で帰ること数回。一往復4万円の交通費も、その頃はどうでもよかった。
人工心肺装置で生き延びたものの、その装置の限界として外さざるを得なくなったときには、植物人間としてでも生かすかどうかの選択を迫られる。
手術の弊害として、脳梗塞が起きていることを知らされる。
肺炎で熱があがり、明日は駄目かもしれないと告げられる。
血圧が高すぎて、目覚めたときの興奮を恐れ、睡眠薬を投与し続けないと危ないと告げられる。
手術後も出血が激しく、輸血の限界と告げられる。
人工呼吸器を外すとき、持病のぜんそくで痰がつまり、気管を切開して声が奪われるかもしれないと告げられる。

■そして、医者が口にするには似つかわしくない「奇跡」という言葉とともに、母は今、生きて目覚めている。目覚めはしたが、自分にまつわる記憶が一切なかった。
父は、最愛の母に名前も思い出してもらえないまま、献身的な看病を続けている。その報告は楽しそうでもある。生きてくれたから当たり前でもあるとも言える。でも、何も出来なくなった母と、他人として出会い直しているのだ。それでも喜びを隠さない父は、わたしにとって純粋過ぎ、美しすぎる。
わたしは、記憶を亡くした母に、まだ会っていない。仕事が詰まっている。さあ、いつ会いにいこう?
死と隣り合わせで闘う母を尻目に、わたしの感情は大きく揺れ続けた。どうやらわたしは、そんなに心優しき人間でも、いい人でもないらしい。様々に揺れ動く自らの感情とつきあって、わたしはわたしと向き合うのに少し疲れた。

■わたしにとっては最愛の母だ。この世で只独りわたしを見捨てない友人と言ってもいい。その人がなくしかけた命を取り戻して、うれしくないわけはない。もう何年か分の涙を流して祈った。母が喪われる絶望と、身を捩って闘った。それでも、死と、命と、現実と、あらゆるものに、正面から向き合わざるをえない時間は、わたしにあまりにもたくさんのことを考えさせ、自らのたくさんの醜い側面をも露わにさせた。

■仕事は、母のこととは関係なく進む。このことを告げてある幾人かのスタッフの心配をよそに、わたしは頑として仕事は休まなかった。わたしはわたしの仕事を、いつものように続けてきた。

■わたしの人生に欠かせない存在になっている恋人は、ずっと辛い時期を過ごしている。心も体も弱っていた。母のことと同様、ある時は母のこと以上に、わたしは彼を守るためにたくさんの時間を使う。彼の苦しみや喜びを、我が事として生きている気がする。そうありたいと思って彼に寄り添う。時間は惜しまない。母に向かう時間、仕事に向かう時間以外の時間を、すべて彼に捧げる。

■この2ヶ月、わたしは何人分もの時間を生きてしまったように思う。そして、わたし自身も、何人かに分裂してしまうほどの現実につきあってしまった。
何をどう書いても書き表せないものばかり、どれだけ言葉を連ねても説明しきれないことばかり。それでも、今夜、少しずつでも書いておこうかと思った。母の命がとりあえず長らえることを確信して、少し心の余裕ができたせいか?それとも、恋人が長い心と体の痛みから少し解放されたせいか?

■今、強く感じるのは。なぜだろう? ひどい孤独だ。ようやく自分に立ち返ったから孤独を感じ、自分のことを書こうと思い立ったのだろうか?


MailHomePageBook ReviewEtceteraAnother Ultramarine