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2002年07月31日(水) 日々。振り返り、仰ぎ見。

 ひたすらに仕事をしていると、思いがけない早さで暦が進んでいて、何やらがっかりしてしまう。もう8月だ。

 わたしも恋人も、毎日仕事仕事。わたしは稽古場へ。彼は事務所でデスクワーク。夜中に顔を合わせてからの食事、そしてお酒で、わたしは2キロほども太ってしまった。でも、おかげでストレスはない。
 毎日外で食べたり飲んだりすると破産してしまうので、仕事の後でも食事を作る。美味しいジンリッキーを作るのも上手になった。ライムは6分の1カット。美味しい氷に、WILKINSONのソーダ。時には渇きを癒す爽やかな飲料として。時には眠りを誘うディープなお酒として。
 私たちは10日に1本のペースでビフィーターを空けている。

 書かなかった間いろんなことがあった。
 
 主演俳優が倒れたり、出ずっぱりのキャストが肉離れを起こして入れ替えがあったり。そうこうしながらも幸福な千秋楽を終え、今は新しい芝居の稽古場に入っている。
 毎日毎日、それは色んなことがあるというのに、過ぎていったことを振り返ると、自分に何が残ったのかと不安になる。結果、未来に向かって喘ぎ続けている自分を見いだす。

 人生って、そんなものなの?


 


2002年07月27日(土) 帰京せり。

 またしても長らく書かなかったのは、旅先のホテルでうまく回線がつながらなかったため。

 新潟と大阪での地方公演の間に、幾冊かの本を読み、相当量の酒を飲み、ネットで誰かと繋がるためではない文章を細々と書いていた。
 ただ、そんなことより、やっぱり仕事が楽しかった。そこに開けるべき芝居があって、開演を待ち受ける観客がいて。うれしい事件もうれしくない事件も、そこに人が集まっている限り起こって……。

 千秋楽のマチネを終えてすぐに新幹線に乗り、夜には次の仕事の勉強。翌朝には、新しい現場の稽古場にいた。この仕事は10月半ばまで続く。


2002年07月11日(木) 美味しいお酒を今宵も

 新潟公演第1弾の初日を開ける。演劇に良い意味ですれていないお客さんが満杯で、幸福な公演だった。

 地方公演に出た時のわたしの行動パターンには二通りあって、飲んで楽しい仲間がいる時は夜毎飲み歩き、飲んで楽しい仲間がいない時は、ただひたすらホテルで本を読み過ごす。

 このたびは前者の方。
 ただ、大勢でわいわいがやがやは苦手なので、ほとんどない。2人か3人で、ちゃんと美味しい酒を飲む。

 先日この日記にも書いた池内紀さんと飲んだ時に、「ああ、これは美しいな」と思ったこと。
 蕎麦屋にて。「食べるもの、なんでも好きなのを頼んでください」と言われ、お品書きの中からわたしはわたしの趣味で酒肴を選ぶ。
「じゃあ、わたしは蕎麦味噌と、生湯葉と、酒盗を頂きます」
 当然、池内先生はご自分で好きなものを選ぶのだと思っていたら、
「じゃあ、それをふたつずつ」
とおっしゃったのだ。

 なんとも美しい注文の仕方。
 わたしたちは日本酒を傾けながら、同じ酒肴をほぼ同じペースで美味しく頂き、皿の空いたところで、お蕎麦。先生は2枚。わたしは1枚。

 美味しいお酒があって、美しい飲み方を知っていて、美味しい人間関係があれば、そりゃあわたしは毎日お酒を飲む。
 恋人と囲む酒が最も美味しいと思える現在は、やっぱりどうやら、幸せなのであるな、わたしは。

 


2002年07月08日(月) ただ仕事をしているだけなのに。

 新潟の劇場に入って2日目。セットを建てこんだりしている間は、わたしはバイト君がわりのお手伝いをしたり、その時々のお願いやら注文をスタッフに伝えるくらいの仕事で、かなりのんびりしている。(もちろん、そういう時に未然にふせげる過ちを見つけるというのは、大きな仕事なので気を抜いて過ごせるわけではないが。)
 自然、わたしは働く人たちを眺めて暮らすことになる。
 これが、また、楽しい。

 朝一番にやる気満々の人やら、低血圧ゆえか不機嫌な人。皆それぞれなのだが、ひとたび仕事が始まると、皆それぞれに、自分の信念やら「仕事ってのはこういうもんだ」という方式にのっとって動き出す。物事がうまくいかなかったり、ちょっとした読み違いをしたり、思った以上に事がうまく運んだり、意志の疎通がうまくいったり……生まれる状況は様々で、その時々のスタッフの動きやら選択を見ているのは、なんだかひいて見ているようで申し訳ないとは思うのだが、実に楽しい。一人一人の資質が、とっても露わになってくるのだ。

 これはもちろん、俳優達が劇場入りをして、わたしが忙しくたち働き出した時に、彼らがわたしを観察しているという事実にも通じる。

 人が複数集まれば、どんなことだって起こりうる。限られた時間で何かを作り上げようとすれば、それなりに緩衝は生じる。そこでどう動くかが、現在の自分の存在証明になる。

 なんだか、やっぱり、仕事している以上、一瞬も気を抜けないってことかな。

***

 久しぶりに、日々の記録を再開すると、それなりの反応がある。今みたいに、書きたいことはたくさんあっても時間のない時、そんな時でも、ちょっとでも書き付けておくことの魅力を実感する。

 仕事場にいて、現場にいて、今日もまた、何がなくても幸せだった。
 この幸福感、いったいいつまで続くのやら?


2002年07月06日(土) センセイと蕎麦屋で。 ●ルネ・マグリット展

 明日から東京を離れてしまうので、初日のルネ・マグリット展へ。予想通りの大変な人出。絵を見る環境ではなかったが、辛抱強く眺めて歩く。
 複製に慣れ親しんだ絵の現物に出会う時の感動は、それでもいつもの如くある。キャンバス自体の凹凸が生み出すささやかな影やら、筆の走りの跡。べったりとした色が、たくさんの微妙な色の重ね合わせであることを知ることもできるし、何より画家の息づかいを感じることができる。20日後帰京したら、時間を見つけてまだ出向きたいが、はて。

 昨年の今頃仕事をご一緒し、わたしの日記に登場した愛すべき翻訳家。実はドイツ文学者にして翻訳家、エッセイストでもある池内紀氏である。
 劇場で久しぶりにお会いし、思いがかなって、池内先生とデートをすることになった。
 先生は、ゆったりと、おおらかに、茶目っ気たっぷりに、あれこれよそ見したり寄り道を楽しんだりしながら、人生を散歩しているような人。いつだって忙しさにかまけてしまうわたしの、憧れの人なのである。

 場所は先生のエッセイにも登場する頑固な亭主のお蕎麦屋さん。そこで日本酒を頂きましょう、という約束。これはちょっと「センセイの鞄」にさも似たりの設定ではないか。

 さて、実際は。
 蕎麦屋に入るなり、やはり池内先生を慕う地元の落語家、柳家はん治さんを発見。はん治さんも先生と一緒に酒を飲みたいのは、わたしと同じ。で、ずっと3人で飲むことに。
 湯葉だの蕎麦味噌だの酒盗だの、日本酒ならではの肴を囲んでの、ちょっとした芸術論、落語論。つい熱くなりがちなわたしとはん治さんを、真ん中に坐った池内先生が、おおいなるユーモアで包み込む。
 はん治さんは、如何にも懐かしい噺家の風貌で、すごく気持ちの熱い人。気持ちのまっすぐな人。
 年齢もそれぞれの3人のいい加減な大人が、与太を飛ばしあっているような、そんな2時間半。実に楽しかった。

 池内先生とわたしは、偶然にも同じく姫路を故郷としている。
 帰りがけ、懐かしい穏やかな播州弁で、「しんどかったらまたいつでも電話してきてください」とおっしゃってくださった。
 
 ああ、なんてもう幸せな時間たち。

 明日はざくざくと荷物をまとめ、新潟の劇場を目指す。


2002年07月05日(金) 魂消る。 ●鬼が来た!(チアン・ウェン監督)

 新宿武蔵野館に、「鬼がきた!」を見にいく。今日が最終日だったので、見逃すものかと駆けつけたら、文化村のプロデューサーW氏やら、毎日新聞の記者T氏と一緒になる。

 脚本、監督、主演の3役を兼ねたチアン・ウェンの才能とか気迫、また映画そのものに、魂消る。

「アンダーグラウンド」に匹敵する、バランス感覚。人間洞察の深さ。そして鮮やかな演出の数々。

 中国侵略時の日本を一方的に責めるものではなく、人間を描くため戦争を描くための舞台設定だと重々分かってはいても、一日本人としては胸の痛むシーンが多い。

 新宿の雑踏を抜けながら、W氏と「すごいもの見ちゃったなあ」と二人それぞれに映画を反芻した。


 ずどーんと重くなった気持ちを転換するために(?)伊勢丹へ買い物に。バーゲンで賑わう中、わざわざバーゲンじゃないワンピースに大枚を使い、帰宅。

 恋人のリクエストで、今夜はヒレカツ。たくさんのキャベツを添えて。料理の楽しみは、旅公演に出るので、今夜が最後。


2002年07月04日(木) 休日の贈り物 ●「桜の園」(森光子)

 3日。新国立劇場にて、「桜の園」を長野を舞台に翻案した森光子主演の舞台を見る。森さんの素敵さは否定しないが、演出の不手際か、どの俳優も手の内でしか舞台に存在してくれず、ちっとも心が動かない。翻案も余りに強引。説得力を感じず、久しぶりに途中で劇場を抜け出してしまう。

 公演と公演の間の休みとは言え、恋人は先々の仕事の準備の仕事ってやつで、ずっと働き続け。3日の夕刻から4日の朝までだけ、せめて二人でささやかな休暇を過ごそうと彼が予約してくれていた、お台場の日航ホテルへ。

 海を眺めながら、山のように買いこんできた美味しい食べ物と共に、シャンパン、ワイン。ちょっと外に出たくなり、海沿いを散歩して、これまた海の見える寿司屋へ。部屋に戻ってまた飲み続け、知らぬ間に眠っていた。

 疲れと不眠のせいで、起きたらもう12時前。いそいで仕度して、チェックアウト。ホテル内のオープンテラスで朝食。食べ終えて彼は仕事へ。わたしはテラスの余りの気持ちよさに、一人残る。

 持ってきていた戯曲を精読しながら、誘惑に抗しきれずビールを頼む。他のお客さんは、暑さのせいかみんな屋内。わたしは肌に滲む汗も、紫外線の一斉射撃も気にせず、海を眺めながら、読んだり書いたり、3時間をそこで過ごす。

 素晴らしい休日の贈り物。

 幸福を噛みしめつつホテルを去り、自宅に向かう途中、目に焼き付いて離れぬ、親子の姿を見る。


 改札に向かう人々の雑踏の中、80歳くらいの母が、40歳くらいの身障者の娘をおぶっている。

 母は150センチにおよそ満たない小さな体、そして悲しいほどに痩せている。娘の目は濁って遠くを見ており、母の小さな背中の上で完全に脱力し、四肢はだらりと垂れ下がっている。おぶってくれている母の体の温もりを感じられる知覚があるのかどうかも怪しい。

 母の折り曲げられた両肘には、くすんだバッグがそれぞれ一つずつ。ふたつの掌で、娘の尻をしっかりと支える。そして、しばし歩けないといった様子で、立ちすくんでいる。
 わたしが近くで立ち止まり、声をかけようかと逡巡していると、近くの店員が先に声をかけた。きっとその店の前で長らく立ち往生していたのだと思う。

「大丈夫ですか?」
老いた母は、彼女に視線も移さず、ただただ首をふった。助けはいらない、といった感じで、しゃにむに。そこには意志が感じられた。

 店員の存在を振り払うかのように、老いた母は歩き出す。蟻のような歩み。


 わたしはしばらく後ろ姿を眺め、それから彼女を追い越し、振り返り振り返りしながら、改札を抜けた。
 仕事をしよう、仕事を、作品を世に送り出そう、との思いを強くしながら。この不平等な世の中で、理不尽な生の中で、わたしにも出来ることが、そこにはきっとある、と思いながら。


 胸をはって自分は幸福なのだと言うために、やるべきことがある。そのことを忘れないでいなければ。


2002年07月01日(月) 幸福也。●断腸亭日乗 ●停電の夜に(再々読)

 仕事をしていれば、そりゃあ滅入ることもあるし、疲れることもある。他   人に囲まれて、世界や人間を描出する仕事などしていれば。それでも、今は実に楽しい。実に実に楽しい。
 若い主演俳優の、日毎に新しい発見をしていく姿を見守るのは、スタッフ冥利に尽きるし、また、年上の大物俳優とのつきあいとは違って、終演後の楽屋で、今日の芝居について喧々囂々できたり、夜遅くまでともに酒を酌み交わすことも出来る。
 毎日同じ芝居の幕を開け、基本的には毎日同じことを繰り返しているはずなのに、毎日が感動的に違う。そして、自分自身の中には、沸々と、まだ誰も知らない感動を見つけたいと思う気持ちが湧いてくる。

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 今わたしは、ここ3年間ずっと心に秘めて慕ってきた男性と共に暮らすようになった。好ましい関係を保ちつつも、向こうが結婚しているため世間に秘していた恋が、胸を張れる関係に転じつつある。

 わたしはどうしてしまったんだろう?
 あらゆることが好転する。あらゆることが喜ばしい。
 失ってしまったものはないか? 忘れているものはないか? と自問する。

 そうだな。本を読まなくなった。もちろん、新作の初日を開けて、かつ恋をして生活をして、と、物理的な時間のなさもあった。でもそれより、フィクションより自分を取り巻く物語の方が面白かった、そのことが大きい。作品をたちあげること、恋人とのあらゆる交歓。
 それでも、常に常に、かつてのようにフィクションに溺れる時間を待っている。恋人の寝息を待ち、一人わくわくしながら開く表紙を。

 そうだ。わたしは孤独を失ってしまったんだ。あれだけ仲良くしていた「孤独」を忘れてしまった。これだって、いつかきっと戻っていることを知っているくせに、今、忘れていることが、贅沢にも、淋しい。孤独から派生する喜び、孤独から派生する発見、そんなものをわたしは愛していたんだろう。
 今。常に一緒にいたかった人と常に一緒にいられるという、人生でどれだけあるかわからない幸福の時を過ごしているというのに、そんなことを思うわたしがいる。そしてまた、恋人の中にも同じ匂いのものを嗅ぎ取ってもいる。これから、二人して、共生する時間と孤に(個に)戻る時間を、うまく生き分けていくようになるのかもしれない。それなれればいいと思う。お互いの仕事のためにも。

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 わたしは今日、久しぶりの休日を過ごした。部屋を片づけたり、本を読んだり、料理をしたりしながら、こんな風に思った。
 仕事に熱中していると、どうしても仕事が表、生活が裏に思えてしまうけれど、表裏一体の暮らしをしなければ、様々なものを発見する五感を失ってしまうだろうな、と。

 恋人は、今日頭脳と肉体をどちらもフル稼働する仕事で、クタクタになって帰ってくる。気分転換に外で一緒に一杯やり、それから上出来のカレーライスを食べてもらう。「牛丼かと思った」と笑われるほどに沢山いれた牛肉のシンプルなカレーに、夏野菜のガーリックオイルソテーをたっぷり添えたもの。
 人と暮らすことの喜びに、食事を用意する喜び、食べてもらう喜び、共に食卓を囲む喜びがある。喜びが待っているかと思うと、あらゆることが好転し、ちょっと自慢したくなるような料理をわたしはこの1ヶ月でたくさん作った。おかげで、2ヶ月で5キロしぼった体重が一気に2キロ戻ったけれど。

 明日の九州日帰り出張に備え、仕事を片づけてから眠るはずだった彼は、疲れに抗しきれず眠ってしまった。ここにも喜びがある。人の寝息を感じる喜び。
 どこから眺めても、その眠りの中で疲れが少しずつ溶けているように見える。必要な眠り。だから、そのまま眠らせてあげて、朝、早く起こしてあげようと決める。朝に弱いわたしは、それまで眠らず、寝息を聞きながら、仕事したり書いたりして過ごす。

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「断腸亭日乗」を読みながら、なんでもいいから毎日を書き留めてやろうと思う。思ったので、今日はこうして書いている。幸福なことばかり書き留めることに、ちょっとした戸惑いはあるのだけれど。



 


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