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2002年02月27日(水) 物語。

 夜中の12時に起床。午前3時、物語の続きを書き始める。午前10時に、「了」に届いた。途中、書けないところは飛ばして進んでしまったため、20%は書き足し、30%は書き直すことになるだろう。それでも、ようやく、自分が何を書きたいのかがわかった。

 売れなくても、面白いと言われなくても、それでも書く人がたくさんいることが、少しわかったような気がする。自分も知らない物語が、勝手に動き出す瞬間のその喜び。力。物語は読むだけだったわたしが、ほんの少し、書くことの魅力を知った。

 急に劇場に行きたくなった。自分の場所に早く帰りたいと急く心を押さえて、この原稿をしあげよう。いつも自信のなさから詰めの甘くなる自分の尻をたたいて。


2002年02月26日(火) へらへらしてやる。

 財布紛失。
 
 風邪ひいてぼうっとしてた。確かに。寝ても覚めても、原稿のこと考えてた、確かに。悪い意味で人間離れした生活してた、確かに。

 買い物にいって、自転車の籠に財布をいれっぱなしにしてしまった。そんなの、持ってってくださいって言ってるようなもの。

 折しも有り金ほとんどおろしたばっかり。どうしろっていうの?

 おまけに風邪はぶり返して、家のティッシュの消費量ははんぱじゃない。

 銀行のカードは簡単に暗証番号がわかるものではないから大丈夫だろうが、ああ、伊勢丹のカード、使われてませんように。残額は10万円。昨日1日で「がっちり買いましょう!」なんてやられてたら、わたし、どうなっちゃうの?

 こういう時は町田康の小説の登場人物みたいな心持ちになって「へらへら」してないとやってられない。

 気分を入れ替えて、夜通し書いた。たった6枚しか書けなかったけど、ちょっと救われた。


2002年02月25日(月) 痛んでもなお。

 母から風邪薬が宅急便で届き、涙する。風邪の症状はおさまったような気もするのだが、薬を含む。
 頭痛を抱えたまま、作業を続ける。眼の奥も痛い。眼をつぶるたびに、涙がにじみ出る。どうやらわたしはひどく疲れているらしい。
 
 不器用なので、書き始めると、ほかのことにまったく手がつかない。いつまで続くやらわからないが、あと1週間はこのまま頑張ってみる。


*HP/Etceteraに「ワイエスの窓から」UP


2002年02月24日(日) 寝て治す。

 5時に目覚めたとき少しよくなったような気はいていたものの、頭痛がひどい。とてもものを考えたり感じたりというような気分になれない。書けなければ起きていても意味はない、と、暴力的な気持ちになり、またベッドへ。体調が悪いときというのはいくらでも眠れるもので、次ぎに目が覚めたのは午前0時過ぎ。
 わたしは2月24日を丸々寝て過ごしたことになる。
 
 調子、戻ってる。元気と大声で言えないまでも。

 残り野菜残り肉をいれた具たくさんのおみそ汁を作って、今いただいたところ。すっかり温まって、さあ、今から作業にかかろうか。


2002年02月23日(土) 前触れなしに風邪をひく。

 物語の主人公と同い年の友達と会って、昭和40代の話に花が咲く。やる気満々になって帰ったら、なんの前触れもなしに風邪の症状が。気にせず作業を続けていたら、どんでもない加速度で風邪が悪化。頭はぼーっとし、寒気がして熱が出て、鼻水は際限なく出てくる。それでも無理してやっていたら、もう自分の体がわたし相手に反乱を起こしているかのような暴れよう。いよいよこりゃもう鎮まっていただくほかないと、午前5時頃、衣服を着れるだけ着込んでベッドへ。汗をかいて起きるたびに着替えて、ようやく起きようという目覚めを向かえたら、なんと12時間後の午後5時。
 鼻水はなんとか止まっている。果たして暴動は鎮まったのか? でもなあ、頭はまだぼーっとしてるし・・・・それは寝過ぎたからかな? うーん、でもひどい涙目だ。どうなるんだ、わたしの体。
 なんにしても、心細いことである。やっぱり、一人暮らしは辛いんである。
 様子を見ながら、今日もこれから作業をする。


2002年02月22日(金) 痛み ●沈黙(村上春樹)

 ひどい腹痛と、腰痛。机に向かおうとするも、椅子に座れない。痛みと闘っていたら日付が変わってしまう。
 ようやく椅子に腰を下ろせるようになって、書き始めようとしたら、物語破綻。1時間くらい意気消沈したあと、登場人物の年表をつくる。つくっているうちに、横軸と縦軸が見えてきて、また、物語が動き始めるような気がしてくる。
 7時ころ、ベッドにはいり、わたしは弱いなあ、と実感。
 いつも懸命に働くばかりの毎日だったけれど、結局人をサポートする仕事しかしなかったのだと、30代を振り返る。
 


2002年02月21日(木) "Bad Raymond" and "Good Raymond"

 小説を書いている。多くの人が小説を書こうとするように、小説を書いている。仕事は、舞台を作ることだ。それでも休みなので、わたしは小説を書いている。
 敬愛するレイモンド・カーヴァーは、ずっと書き続けて生き、死んだ人だ。書いていなかった時期も、常に書こうとあがいていたわけだから、一生書き続けた人なのである。書かなかった、書けなかったのは、30代だ。常に金がなく、愛情のなくなった妻との関係に悩み、細々とした生活のあれこれに疲れ、酒に頼っていたらひどいアルコール中毒になってしまった。のちのち、彼は30代の自分をふりかえって、"Bad Raymond"の時代と呼ぶ。40代になって、彼は病院に入り、書くためにアルコールの毒から逃れ、新しいパートナーと出会い、再び書き始めた。"Good Raymond"の時代だ。それは、"Bad Raymond"からすれば、奇跡のような美しい時代になった。
 たくさんの人が一生宝物にするであろうことばを、物語を、次々と書き残し、大好きな川のそばで、最後まで愛する女性と二人きりで暮らした。

 バイオグラフィーを俯瞰すると、決して幸福なことばかりではなかった彼の人生が、時々、わたしのお手本のように思え、自分が彼を追いかけているような気持ちになることがある。もちろん、わたしが彼の書くものをこよなく愛しているせいでもあるのだが、それは、ほかの作家を愛するのとは少し違う。わたしは作品と同時に、彼のバイオグラフィーを愛しているのだ。

 わたしは、30代に何も為さなかった。確かに仕事をし、たくさんの人と出会い、色々な喜びを得たが、振り返った時の空疎感は隠せない。誰に言っても、贅沢だと言うだろう。望みすぎだと言うだろう。でも空疎なのだ。それは自分自身にしか分からない。何度も繰り返してしまった過ちを思い、「三人姉妹」のマーシャを気取って、失敗の人生と呼びたくなることもある。

 そして、これまでに失ったものを確かめるようにして小説を書いているのだ。自分のために。書き終えたら、"Good"と呼べる時代になるような仕事が出来るように、小説を書いているのだ。


2002年02月20日(水) かつて書いたものの方が面白いなんて。

●今日は日本中のお茶の間で、田中鈴木両氏の質疑応答の話が盛り上がったんだろうね。で、だいたいは、同じような反応をしてるんだろうね。わたしは触れることをやめておこう。

●髪が伸びた。20代からストレートロングで通し、30代後半であっさり切ってしまった髪が、また伸びてきた。
と、髪への思い入れを書こうとしていたら、かつて自分が書いた文章を思いだし、引っ張り出してきたら、今書こうとしていることよりよっぽど面白かった。まずいな。
ということで、全文、ペーストしてみる。1年半ほど前に、メールマガジン用に書いたものだ。(ちょっと長いです。)


 最近のこと。2年ぶりに実家に帰ると、76歳になる祖母が驚いたように
「いつ髪切ったん?」と聞いた。
 わたしは24歳から35歳までずっと、腰までのストレートロングで通した。
今でも久しぶりの友人に会うと、トレードマークの長い髪が刈られてしまったことに皆一様に「勿体ない」と言う。ただ、祖母は髪を切ったわたしを2度ばかり見ているのだ。
「こういう短いのんもええなあ」と言いながら皺を貯め込んだ指を広げてわたしの髪に手櫛を何度も何度も通し、目を細める。きっと祖母の目には長い髪をしたわたしの姿が映っていたのだろう。祖母はわたしの長い髪が大好きだった。

 そんなに長くロングで過ごした女が突然切ると、たいていの人が「何事か」と思うらしい。実際は何事でもなかった。女友達とお茶を飲んでいて、
「時々、突然、髪切っちゃおうかなって、思うことあるんだよね」
「じゃあ、今日切る?」
「今?」
「うん、すごく分かってくれる美容師知ってるから」
というなんのことはない会話をした3時間後に、ショートヘアーのわたしになっていた。
 わたしから切り離された60センチくらいの髪は、友人の漆芸家の手にわたって、うるし筆になった。
 髪を切って後悔することはなかったが、少しだけ残念に思っていることがある。できれば美容院ではなく、家に新聞紙を敷いて、どこでも売っている紙ばさみで、誰かにざっくざっくと切ってほしかった。

 わたしは「散髪」が好きだ。

 切る人と、切られる人。
 新聞紙を敷いて、その真ん中に椅子を据える。大きなバスタオルを肩にかけて洗濯ばさみで留めたり、ゴミ袋の底に穴を開けてすっぽりかぶってガムテープで留めたり。いずれにしろ少しみっともない。少し恥ずかしい格好で慎み深く第一刀を待つ。排泄する時の動物みたいに、じっと一点に視線を留めて。恐々と頭部を委ねる。自分でもじっくり見たことのない後頭部やら頭頂部やらをまじまじと眺められ、霧吹きでシュコシュコと水をかけられ、冷たいとも言えずちょっと顔をしかめている内に、突然はさみが入る。
「じょりっ」
 さっきまで自分の体の一部だったものがぱさりと落ちる。その行方を見ようと顎をひくと、いち早く人差し指でくいっとあげられてたりして。次第にリズミカルになっていくはさみの動きに一抹の不安を覚え、相手の顔を上目遣いに見たりする。忙しそうで視線は交わらず、新聞に目を落としたりする。足で落ちていく毛束を集めてみたりする。見出し小見出しまでは読みとれても本文までは読めなくて、小見出しを声に出して呼んでみたりする。なんの反応もかえってこなくてまた視線を中空に戻してみる。まじまじと見慣れた部屋を眺め、あそこを明日整理してやろうなどと考えたりして。試しに今日の自分のトピックを口にしてみたり。かえってくるのは「ほんと?」「そう・・・」「よかったね」とか、そんな感想ばかり。仕方なく聞こえてくる音に耳を澄ます。雨音だったり、BGMだったり、しゃきしゃきしゃきしゃきはさみの音だったり。そしてある時は、呼気と吸気の音だけの時間。時には「あっ」という小さな声の漏れるのを聞き取って、反射的に「大丈夫?」と尋ねる。「大丈夫大丈夫」と真意を汲みかねる答えが返ってきたりして。
 切る人はそれは真剣だ。円形舞台のようにしつらえた作業場をくるり、くるりと回ってみて、あるべき姿を夢想する。しゃきしゃきしゃきしゃきはさみを二本の指で音立てながら、髪に手櫛を入れつつ、上から横から、眺めてみる。上瞼にちょっと力が入り。全神経を集中して第一刀をいれる。一度落ちていく毛束を見ると、何やら気が大きくなって、作品を仕上げる自信と責任感に溢れる自分を楽しんで。また一刀、また一刀。作業にちょっとしたリズムが生まれてくると、それを守ることを楽しんで。時折選択肢が現れる。こう切るか。ああ切るか。一瞬悩んで動きを止めて、結局本能的に手を動かすことを楽しんで。大胆に。繊細に。揃うべきところはきっちり揃え、あるところでは不揃いの美しさもちゃんと考慮にいれて。ある瞬間、ここからが「仕上げ」だというポイントがやってくる。終わりよければすべてよし。自分が見たいものを仕上げる喜び。はさみは段々ゆっくりになっていく。眺めては僅かに切り。切ろうとしては思いとどまったり。円形舞台を再び回りながら、作品を検証する。どこかに輝かしい可能性が埋もれていないかと探ってみる。そして突然、「出来上がり」がやってくる。「出来上がり!」と宣言してから、また少し距離をおいて見たりして。

 鏡に見慣れない自分を映してみる。口をちょっとすぼめて、右から、左から。
上目遣いに。顎をあげて。手鏡を合わせて全き横顔。そして後ろ姿。
 一方。気に入って貰えるだろうかと息を詰め、相手の肩越しに自分の顔を映し込む。角度を変えるたびに笑ってみせる。どれもいい。どこからもOK。と、伝えたくて頷いてみせる。
「いいね」「そうでしょ?」
「上手だね」「そうだろ?」
 時々はお互いにちょっと気を遣ったりしている。時々は新しい自分と新しい相手にほんとうに浮き浮きしている。
 いずれにしろ、ひとつの鏡に二人の姿が映っている。鏡の中に二人でいる絵を、お互いが眺めている。

 散髪のことを想像するのは楽しい。しあわせと名のつくいろんなものがそこにあるように思えて。
 いつだったか、誰かに散髪して貰うためだけに、もう一度髪を伸ばそうと思ったことがあった。そしてすぐに思い直した。髪が短くったって散髪はできるじゃない! でも。と、わたしは思う。
 
 ある幸せな風景が、わたしの今はなき長い髪に映し込まれているのかもしれない。ちょうど祖母の瞳の中に、長い髪のわたしが映りこんでいたように。

※HP/Etcceteraに「A grin without a cat」をアップ。


2002年02月19日(火) 毒と薬

 休暇中のわたくしとしては、普段めったにできないことを今いろいろやっておるわけで、テレビを見る、なんてのも、そのひとつなんである。仕事してる時は、ほとんど見ないからね。まず、家にいないし、帰ってからもなんだかんだやることあるしで。しかも、長らく壊れてつかないまんまで、仕事でビデオをみなきゃあならん時に、やっと買ったくらいだから。

 で、つけっぱなしにしていたら、時々、「おっ」と思う情報がながれてくる。今日の、午後のワイドショー。金熊賞を受けた宮崎駿監督が記者会見にのぞんでいる。受賞の喜びを語ったあと、(カットされていたのでどういう経緯でその話になったのかはわからないが)最近の子どもと、親のことを、嘆いている。いや、怒りを露わにしていると言った方が近い。

 携帯かけている親の横で、携帯かけている子ども。
 日本語もきちんと使えないうちから、英語を習わされる子ども。
 自分で火もつけられないうちから、パソコンのキーボードをたたける子ども。

 何をとっても情けない。親が情けない。誰もがいちばん大事なことを(子どものこと)真剣に考えようとしない。と、そのようなことを、氏は真剣に嘆いていた。憤っていた。

 毒にも薬にもならない番組の中で、突然怒りをあらわす宮崎さんの姿が画面から飛び出してきた。これは、その番組の趣旨的には、逆に「毒」の映像だった。アナウンサーは、「心にしみますね」とかなんとか言って笑顔を作り、次の話題へ。まあ、彼は時間で区切られた仕事をしてるわけだから、そのように流すしかないわけで、要は、突然の毒に、「えっ」と感じた視聴者が、どう感じ取るか、ですね。番組的には「毒」で、軽くあしらわれたことを、自分がちゃんと薬として、摂取できるかどうか?

 テレビといつもつきあっている人は、情報の受け取り方なんてのはもう先刻ご承知なのかもしれないが、わたしには、こうしてちょこちょこ発見がある。とは言え、見るのはやっぱりお笑い系が好きである。だって、「土曜の午後は吉本新喜劇と松竹新喜劇で決まり!」で育った関西人だもんね。

※ HP/Etceteraに「丑の輔さんのこと」をUP


2002年02月18日(月) 街を歩けば思い出に当たる。

 昨日、三百人劇場で芝居を観た。劇団昴の持ち小屋なのだが、わたしは断然映画館として恩恵を受けている。

 関西から東京に出てきて、田舎ではとても見ることのできない面白い映画をいつも何処かでやっていることが嬉しくって、名画座にはさんざん通った。大学が早稲田だったから、休講だったら早稲田松竹に行けるし、その頃はまだ高田馬場パール座なんてのがあって、ここも当時はいい映画をかけていた。じゅうたん敷きの部屋にべた座りして見るACTは、いつ行ってもブニュエルを見れるところだった。東西線に乗れば、飯田橋ギンレイホール、逆行すれば三鷹オスカー。国鉄(あの頃はまだ、確か・・・)に乗って、新宿、渋谷、目黒、五反田、私鉄に乗って、下高井戸、三軒茶屋、そうだ、足を伸ばして大井町にもよく行ったし、銀座なら行きつけは並木座。銀座に出る時は、着ていく洋服とか考えて、ちょっと緊張したり、当時から嫌いな街だった池袋には、文芸座が他の街にあればいいのに、とか失礼なことを思って通っていた。

 で。三百人劇場は、なんといって、わたしが大学1年の時に組まれた特集「ソビエト映画の全貌」を見たのが大きい。
 「戦艦ポチョムキン」を始めて見、タルコフスキーと運命の出会いを果たし。メジャーなところでは「カラマゾフの兄弟」「ワーニャ伯父さん」「イワン雷帝」あたりから、今は題名も思い出せないマイナーなものまで。大学でロシア語を学び始めたばかりだったし、高校の頃からドストエフスキー、ゴーゴリ、チェーホフをことばだけで愛してきたわたしには、もう宝物のような企画だった。

 以来、三百人劇場に足を運ぶたび、大学1年の頃の、自分の初々しい感じが必ず蘇る。上にあげた映画館だってそう。どの映画館にも、「出会えてよかった」映画があり、その時の自分のこと、一緒に見た人のこと、不思議なほど鮮やかに蘇る(もちろん場所によっては「なんじゃい、この映画は?」で印象が残っていることもある)。
 そんな感覚は、自分が舞台の仕事で大忙しの生活になり、見る目が商売がらみになり、映画館も画一的にキレイになり、レンタルビデオが普及し、で、どうも喪われてしまったような気がする。
 内容だけじゃなくって、場所と時間にくっいた映画の記憶。

 ああ、夜中に独りで、妙に甘酸っぱい気持ちになってしまった。どんどんいろんなことを思いだしてしまう。いかん。

 18歳で東京に出てきて独り暮らしをはじめ、すでに実家で過ごした年月より長くこの街に暮らしている。映画館だけじゃなく、もう、街を歩けば、そこここにメモリアルポイントが! いいことあり、悪いことあり、こっちの都合はおかまいなしに、「ほらほら、ここは、ほら!」と語りかけてくる街角のあれこれ。
 歳をとるってことは、思い出の堆積と、なんとか折り合いつけてうまくやっていくって感じかもしれないな。

※HPに新しいページを久しぶりに作りました。「喪われた図書館」と「竹内浩三の12ヶ月」をアップ。興味のある方は下のリンクからEtceteraというページを訪ねてみてください。


2002年02月17日(日) 書評が好き ●それから(昴ザ・サードステージ)

 書評を読むのが好きだ。
 この人が薦めるなら読む!と思っている評者が幾人かいるし、評されている作品自体より批評文そのものの方がぐっとくる方もいらっしゃる。
 面白いのは、なんといっても、読んだその人のぐっときた感じがその人らしく伝わってくる文章だ。

 今年のはじめに、文芸批評家の向井敏さんが亡くなられた。もうその愛情溢れる批評が読めないと思うと、とっても悲しくって、近刊の「残る本 残る人」を買ってきた。この先読めないので、一気読みせず少しずつ読んでいたのが、もうすぐ読み終わりそう。(まだ読んでいない著作はたくさんあるのだが)
 向井さんのニュートラルな文章は、読書への愛情、ひいては、人間への愛情、人生への愛情にまで広がって、読書する人々著作する人々を祝福してくれるようだ。

 今、朝日の書評担当に久世光彦氏がいらしゃるが、彼もまた、読みたいと思わせてくれる人だ。
 しかし、向井さんとはずいぶん違う。毒がある。ニュートラルな愛情なんてものじゃなく、ごつごつして時にいぎたなく、時に輝かしく、清濁混交の感がある。そう思っていたら、氏は今日の書評欄で、このように書かれていた。
・・・著者のことを書くくらいなら〈自分〉、つまり〈私〉について書こうと努める。でないと、その〈本〉についての私の思いは、読む人に伝わらないと思うのだ。・・・・

 いずれにしろ、本当に読書を愛している批評家の手になる文章は、この世に愛すべき素晴らしい作品が生まれることに、間接的に寄与していると思う。まあ、あまりいい批評ばかり書かれると、ついついあらゆる新刊を買ってしまい破産しそうになるのだが。

 そう言えば、この間、近刊50冊をBookOffに持っていって、1300円だった時は悲しかったなあ。世の中の作家と呼ばれる人たちは、ちょっとこだわりのある古本屋ならともかく、BookOffで自分の著作を見ると、もの悲しくなってしまうでしょうね。


2002年02月16日(土) 零れおちた栞から

 通常の読書に加えて、ちょっとした気分転換に本を読むということがある。
 すでに読んだ本を書棚から取りだして、通読するのではなく、好きなところを読んだり触りだけ読んだり、クライマックスだけ読んだり、といった具合に。

 今日手にとったのは、「手紙、栞を添えて」という、何年か前に朝日新聞の日曜読書欄に連載された、辻邦生さんと水村美苗さんの往復書簡をまとめたものだ。連載当時から愛読し、本にまとまったらすぐに買い、一気読みした記憶がある。
 文学に関する書簡の美しさもさることながら、わたしを魅きつけたのは、水村さんの少女時代の文学体験。あまりにもわたしに似ているのだ(わたしが似ている、が、正しい)。愛している作品がかなり重なっていることもさることながら、愛し方がとにかく酷似している。
 共通点は、なんなのだろう? 自意識の強い夢見がちな文学少女だったということか。それとも、読後感を反芻することで自分で物語をふくらませてしまうタイプということか?

 改めて、幾つかの書簡を読みながら、水村さんの方が、ずっと自分の感覚を信じ、大事にしてきたのだろうなあ、などと考えていた。

 自分をきちんと(真っ当に、と言い替えてもよい)大事にすることを知っている人と、知らない人の差は大きい。

 そして。わたし自身はまったく記憶にないのだが、この「手紙、栞を添えて」という本の中には、たくさんの紅葉の栞がはさまっていた。凍える季節に、秋の香りが零れおちた。
 いつ、どこでいれたのやら? 形の美しい、見事に赤いまま押し葉にされた紅葉たちに、ちょっとした感動を覚えた。函入りの本なので、引っ越しのごたごたでもこぼれずにすんだのだ。
 自分自身に感動させられる、というのも、なかなか悪くない。
 
 水村さんとわたしの共通の愛読書、「愛の妖精」「カラマゾフの兄弟」をベッドサイドに置いた。「カラマゾフ」の方は、いったい幾つ夜を過ごせば読み終わるやら。もちろん、わたしの大好きな「少年たちの群れ」の章を読むだけでも楽しいのだが。そして、米川正夫氏の、なつかしいロシア翻訳文体に、ちょっと触れるだけでも楽しいのだが。
 


2002年02月15日(金) 河合隼雄さんという人 ●ウソツキクラブ短信

 人に本を貸すことあげることはままあっても、人に借りることは少ない。それが珍しく友達に借りた。いや、一緒に映画を観に行ったら、「これ面白いよ」と前後なく貸してくれたのだ。
 河合隼雄、大牟田雄三共著のウソツキクラブという講談社文庫。

 読み始めたらこれが実際面白いので、のんびりした時間がくるたびに、少しずつ読んでいた。
 
 これ、読み始めてすぐに分かるのだけれど、共著の大牟田雄三さんは「大無駄言うぞう」で、これ自体が河合さんのおちゃめなウソのである。(おちゃめって死語?)

 内容は、もう、恐れ入りましたって感じのオオウソの連続。しかも、あることないこと言ってるのではなく、在ること在ることウソにしている。つまり、現実に在るもの、在る人、本当ならこうという姿、を、しらっとした顔してウソに変換しているのだ。

 だから元の、本来の、在る事実を知らなければ、面白さも半減だ。するとこれはウソの本とは言え、インテリ向き? いやいや、だれでも楽しめる。わたしのようなpetit×petitインテリでも十分笑えたから。

 それにしても。真っ向からオオウソをついておいでになるので、わたしなどはついついウソにひっぱられてしまう。

 〈次郎物語〉という章がある。大牟田雄三氏は、「浦島太郎だとか、桃太郎だとか、金太郎だとか、日本人はどうして太郎さんのことばっかり語るのだ!?」と憤慨してみせる。そして、「まあ、次男に生まれた痛みから、たくさんの次郎さんのことを研究して「次郎物語」という著作で紹介してくれた下村湖人という人もいるが・・・」と、こんな具合に次郎さん応援歌が始まる。そこに、息子の大牟田岩二くんが加勢する。「父上、灰谷健次郎先生がいらっしゃいます、中村雄二郎先生がいらっしゃいます、大江健次郎先生だっていらっしゃいます」
 ここで、わたしは、え? と思う。大江さんって、次郎さんだっけ、太郎さんだっけ?
 まったく、大江さんが次郎さんでも太郎さんでもなく、三郎さんであることを、一瞬でも忘れさせた河合センセイはエライ。

 かなわないなあ、バッカだなあ、と思いつつちびちびと読み進めるオオウソはなかなか楽しいものであった。


 河合センセイに、一度お会いしたことがある。
 「ロミオとジュリエット」を上演した時、観劇されて、その後のパーティーに同席してくださったのだ。
 センセイはその場で、このようなことをおっしゃった。

 長い間、わたしは人の話を聞き、人の心に立ち入る仕事をしている。それは無力感を感じることの連続である。特に、思春期の少年少女のことは本当に分からない。(上演当時、確かサカキバラ事件の前後で、13歳14歳の犯罪が取り沙汰される時期だった。)ロミオもジュリエットはちょうどそれくらいの歳だ。彼らの愛し方、彼らの進み方、彼らの選び方を見て、涙が出てきた。わたしには彼らのことが分からない、そう思った。これまでどれだけの13歳や14歳と、分からないままにつきあってきたのだろうと、苦しくなった。

 そのように語りながら、センセイの目が、また赤くなってきた。

 人の心の仕事に、真剣に立ち向かってきた人の痛みが、そこにはあって、わたしは、ただただセンセイの顔を見ていた。

 なんだかその時のことをありありと思いだして、この先がどうも書き継げない。

 時間ばかりが過ぎて、独り物思いにふけってしまうので、今日はここまで。(駄目だなあ。思うことが言葉にならない。)

 ところで、わたしが河合先生のことを河合センセイと書いたのは、完璧に川上弘美氏の「センセイの鞄」に影響されている。
 あの小説にでてきたセンセイとツキコさんのように、日本酒を、こう、くいっと傾けあえたら、麗しい時間になるだろうなあ。
 河合センセイは、そんな風に思わせる、実に素敵な男性なのである。


2002年02月14日(木) シマンテック社に感謝

 今日はもう、大変なことが起こってしまった。
 午後7時過ぎ。さあ、今日も先の見えない作業に入ろうかと書きかけの原稿を開こうとしたら・・・・・フォルダがない。
 ないという事態が飲み込めないままに、ゴミ箱を開いてみる。

 ない。

 わたしは「あっ!」と昼間の作業を思い返す。

 仕事に必要な資料を求めてネットで新聞検索をしていて、とにかく色んな記事をデスクトップ上にクリップしていた。あとで必要なものだけファイルにコピーペーストして、資料を作るつもりだったのだ。
 資料が出来上がり、よしよし、と、山のようにできているクリップファイルを一挙に選択して、ゴミ箱に捨てて、おまけに空にして(!)、電源を落としたのだった。

 呆然として、しばし何も考えられず。

 大事なフォルダ二つを、一緒に選択して捨ててしまった?

 なぜHDに置いてエイリアスで作業しなかったのか!? と、後悔先に立たずのよしなしごとを繰り返す。デスクトップに置いておいたフォルダの中には、この休暇が始まってから書いた、すべての草稿、プラン、6種類のワードファイルが入っていたのだ。そしてもう一つのフォルダには、撮りためたデジカメ写真がたーくさん入っていた。
 写真なんてどうでもいい! とにかく原稿を取り戻したい!

 うじうじしていても仕方ない、もしかしたら! と、ノートンシステムワークを引っ張り出し、起動。アンイレースの機能ははじめて使うので何が何やらわからぬまま、直感的に捜し始める。ちゃんと説明書を読めばいいのに、馬鹿だから一瞬でも早いほうがいいような気がして、とにかく捜す。(本質的にわたしはPCに向いていない!)

 出てくるわ出てくるわ、何千ものファイルたち。これだけあればきっと、と、一から見ていくも埒があかず、ファイル名だのカタログツリーだのでさらに検索。

 「奇跡」だと思った。

 シマンテック社に足を向けて眠れないと思った。

 捜しても捜しても、フォルダ自体は見つからないのに、最も大切な原稿のコピーファイルだけ、なぜか「あった!」のだ。

 実はほかにも細々と色んなファイルを入れていたのだけれど、もう今はほかのことはどうでもいい。ただひとつのファイルが見つかっただけで、それだけでよかった。

 これからもPCで書き続ける限りは、バックアップのことを真剣に考えなければ。いつも、つい面倒で、楽観的にかまえているからな。

 
 今はもうこうして落ち着いているが、発見したときは大変だった。もとが関西人なもので、火急の事態が起きると、関西弁でしゃべりまくる。

「なんで?」「なんでないんよ?」「ちょっと待ってえな」「何処行ってしもたん?」「堪忍してよ」「ちょっと、どないなってんの?」「ああ、もう、どないしょう」

 と、こんな感じで、ノートンシステムワーク様が長い長い時間をかけて検索してくださっている間も、ずっとしゃべっていた。「いつまでかかってんの!」「もう、はよ調べてよ」「頼むで、見つけて!」ああ、いやだいやだ、何年東京に暮らしても、根っこは関西人なんだな。向こうで暮らした時間より、もう東京暮らしの方が長いというのに・・・。

 さあ、とにかく、いちばん大事なものだけは助かった。感謝して、またこのファイルを育てようかな。

 
 


2002年02月13日(水) ささやかな楽園 ●バスを待ちながら

 「バスを待ちながら」は夢のような映画。

 キューバ田舎町のバス待合所には老若男女、多人種のすごい行列。待って待ってようやく出発とあいなったが、あえなくバスはエンジン故障。
 客の中にいたエンジニアを中心に、バスを自分たちで修理することで客達の中には奇妙な連帯感が生まれてくる。バス停に夜を徹してとどまる人たち。ひとつの困難をともにすることから、順番待ちでいがみあっていたような人々が、翌朝からは食べ物を分け合ったり、居やすい空間を自分たちで作ろうと協力し始める。あれよあれよという間に、そこは楽園の様も呈してきて、バスが到着しても、もう皆乗りたくなくなっている。留まりたい場所がそこに出来てしまったから・・・。
 ざっとそんな内容なのだが、「そんなうまい話!」とつっこみを入れる間もなく、楽園はできていく。他人でしかない人すべてと、手を繋ぎあう可能性があり、それが豊かで優しい時間を生んでくれるということ。そして、誰もが仏頂面で行列に並びながらも、心の中でそんな時間を希求していたということ。
 夢みたいな話を夢見るような気持ちで見ていたら、映画の中の人々も観客であるわたしも夢から見放され、そのあとまたちょっと夢見ることができる、そんなおいしい仕掛けの連続で終わり、映画館を出るときは幸せな気持ちだった。

 最もシンプルで、最も豊かな幸福が、そこにはあった。お伽噺だが、誰もが望んでいることを、映画は楽々と信じさせてくれ、「人間ってそういうものだよね」と、人なつっこく話しかけてくる。
 楽ではない制作に関わった人たちに、ありがとう、の気持ちで帰途につく。

 渋谷の人混みで、昨年仕事をともにした20歳の人気歌手とすれ違う。「あ!」とお互いに言い合って、立ち話。通り行く女の子達が気づかないかと、わたしはひやひやしてるのに、おおらかに懐かしがる彼。
 ひとつひとつの現場で、出会っては別れを繰り返すわたしには、嬉しい瞬間だった。映画を観た余韻とあいまって、わたしの心はほかほかに。

 帰ってからはちょいと勉強を、と思っていたのに、ラージヒル決勝にはまってしまった。貧乏暇なしの上に暇があれば遊んでたわたしは、オリンピックをリアルタイムに見ることなんてめったになかった。ジャンプをまじめに見るなんて、実に札幌オリンピック以来なのだ。
 それぞれにそれぞれの風が吹く。決して平等とは言えない条件の中で、自分のために跳んでいる姿が美しい。
 人間の体はきれいだな。見ている者は楽だなあ。わたしも別の場所で自分の勝負をそろそろしなきゃなあ。
 などと書きながら、わたしは船木のジャンプを待つのでありました。


2002年02月12日(火) 陽に透けたる卵殻、いとおかし ●戦争の悲しみ(バオ・ニン)

 朝、目玉焼きをつくろうと冷蔵庫から卵を出したら、窓から差し込む朝陽で、白い殻が透けている。なんとも言えない、透明な白。そしてまばゆく光っている。中にはうっすら黄身の影。
 健康的で、生命力があって、と、わたしは、馬鹿みたいに感動して、しばし目の上にかざして見ていた。
 調べてみると、 卵の殻の表面には直径 15 〜 65μmの微細な気孔が,1cm2あたり 100 〜 300 個存在しているらしい。 炭酸ガスや水分をこの気孔から逸散してゆく。
 まったく、冷蔵庫をのぞいただけでも、この世は神秘の宝庫。
 神秘の造作の長たる人間のことを考えるのは難しすぎて時としてしんどいけれど。(このところ、わたしはちょっと戦争ものを読み過ぎているものだから。ちょっと飽和状態。)
 
 長らく一人暮らしをしていると、こういうつまらないことでも、隣に誰かいて、話せたりすると、いいかもしれないな、と、時々思う。ま、つまらないことに感動し過ぎると、馬鹿にされるのがオチと分かってはいても。


寒いけれど、いい天気が続く。ベランダに出て、わざわざサングラスをかけて新聞を読んだり、書き仕事したりしている。洗濯物があっという間に乾いていく。まったくもって、生かされていると思う。
 


2002年02月09日(土) 孤独の幸福へ。 ●パードレ・ノーストロ(佐藤信演出)

 孤独だとか、不幸だとか、そういうのは、少なくとも自分を愛することを知っている人の観念。その、自分を愛することさえも、生まれた時から否定されていた魂が(一人はたとえば誰もが知っているJ・F・ケネディの姉)、この世から消えてしまった後に、祝福を受け直す、といったような芝居を観る。
 
 劇場の可能性について考える。劇場に戻る日に備えて、また明日から。


2002年02月08日(金) 春近い冬晴れ

 いっつもいっつも仕事ばーっかりしてたから、わたしは長らく、冬晴れっていうのがこんなに美しいということを、知らなかった。いや、かつてはきっと知っていたのだろうけれど、すっかり忘れていた。

 透明な青と、きりりとした空気。誰しも形容するようなことばで、わたしは満足。だって、その通りだもの。おまけに、なんだか春の匂いさえ。贅沢な季節だ。

 今日はずっとベランダで過ごした。我が部屋の家賃をぐんと高値につり上げている8畳ほどのベランダの恩恵、久しぶりに。

 無為なのに幸福感がある日というのは、わたしみたいにしゃかりきにやってきた人間には、何にも代え難いな。

 
 
 


2002年02月07日(木) 美しくない生活 ●善人はなかなかいない(F・オコナー)

 昨日は、制作会社の女性二人と、インティマシーを観る。あること、あったこと、なってしまったこと。すべてを感傷なしに描き出して、観客に委ねてくる。
 25歳と32歳と40歳のおかしな取り合わせで食事。久しぶりにワインを飲む。歳の離れた妹のような、かわいい25歳を我が家に連れ込み飲んでいたら、上司のプロデューサーと美人女優がやってくる。
 朝五時まで。ほぼ、くだらない話をし続ける。

 ひどい二日酔い。自堕落に本を読みながら、頭痛と闘う。

 友人からメールが届いており、この休暇のことを「一進一退のようですね」と書いてあったが、一進したら五退ぐらいしているような気がする。

 気にいってた朝型生活が、一晩で崩れてしまった。まったく、この美しくない生活。

 歳の離れた妹に、昭和32年刊の米川正夫訳「罪と罰」を進呈した。この二日内で美しい事柄は、それだけだな。


2002年02月05日(火) あれこれ ●善良な田舎者(F・オコナー)

●必要に迫られて大嫌いな歯医者に行く。治療中、「痛いですか?」と訊かれ、我慢できないほどでもないのに「ええ」と答えてしまう自分が情けない。幼い頃、母に連れられて行った頃は、我慢強い自分を主張したくって、どんなに痛くっても「痛くない」と強がった記憶があるのだが。
 医者に「腫れてますか?」と訊かれ、「ええ、左奥の口蓋が」と答えると、「なんで口蓋なんてことば知ってるんですか? 歯医者に勤めたことがあるの?」と逆に質問される。うーん、別に歯医者に勤めなくたって、口蓋ってことばくらい知ってるし、漢字だって書ける。なんだかわたしは無駄なことばっかり知ってるような気がしてきた。そうだよな。わたしって無駄なことばかり知ってて、生きるに必要なこと、あまり知らないよな。

●筑摩書房から出ている「文学の森」とか「哲学の森」とかのシリーズは、図書館に行くと必ず1冊は借りてしまう。で、だいたい2、3篇読んで返し、また借りて2、3篇読む、そんな繰り返しの愛情を注いでいるのだが。今日読んだ「悪の哲学」篇にあるフラナリー・オコナー「善良な田舎者」には驚いた。
 最近の悪の特徴はそこに文法の存在しないこと、とは思っていたが、オコナーは、1955年、すでにそのことを書いている。
 本ばっかり読んでることがわたしの「逃避」なのだと、自分に読書禁止令をしこうとしていた矢先に、こんな驚くべき短篇を読んでしまった。やっぱりやめられないな。

●雨が降ると、このところ必ずKeith JarrettのThe Melody At Night With Youを聴いている。彼のI Love You Porgyは、得も言えぬ美しさ。こんな息づかい、こんな間を知っている俳優がいたら一緒に仕事したい、と、思ったりする。


2002年02月04日(月) 無題 ●演技でいいから友達でいて(松尾スズキ)

●やるべきことがちっともうまくいかないので、自分が今日どんなに落ち込んでるかってことを、まあ、自分を鼓舞するために、長々と面白げに書いていたのに、何を思ったか全選択してdelateキーを押していた。

●うまく行ってなくっても、こんな風に自分を笑い飛ばすだけの元気はあるんだぞ、と、そんなこんなで書いていたのに、消えちゃった。ま、そんなもんだよな。あんなことども、二度は書けないっつうの。

●つまらんこと書き殴って慰撫するより、たまにはちゃんと落ち込めば?ってことか?

●うーん、ビールでも飲んで勢いをつけよう! って、それがいけないんだってば!

●そんな馬鹿なことを言ってられることに、静かな夜の騒がしい我が心中に、ほんのり幸せを感じたりもして。・・・・だから、そういうところが! そのチープなセンティメンタリズムがわたしを・・・・!


2002年02月03日(日) 奇跡の泉 ●アレクセイと泉(本橋成一監督)

 友達に誘われて、「アレクセイと泉」という映画を観てきた。

 舞台はチェルノブイリ原発事故で汚染されたベラルーシ共和国のブジチェ村。
 かつて600人が暮らしていた村も、今は55人の老人と一人の若者アレクセイ(映画撮影中に35歳になった)が暮らすのみ。

 カメラは淡々と、一人の若者と老人たちの暮らしを追う。ドキュメンタリーのナレーションも、アレクセイのたどたどしい語りだ。

 朝が来れば、泉から水をくむ。昼は労働する。食事をして、家族の時間を過ごして、眠る。
 暖かい季節は短く、一年分の作物を急ぎ足で育て、収穫する。
 長い冬は厳しく、寒いときは寒さをこらえて過ごす。
 自然にも、時間にも、老いにも、何にも逆らわない、地に足のついた人間の暮らし。


 この村はひとつの不思議に支えられている。
 学校跡からも、畑からも、森からも、採取されるキノコからも、放射能が検出されるのに、この村の「泉」の水からは検出されないのだ。

 こんこんと湧き出る泉から毎日の飲み水を得、家畜を育て、食物や衣料を洗って、大事な泉と共存する老人たちは、自慢げに言う。
 「この泉の水は、百年前の水だからね」
 そして村を出て行かなかった理由を問われると、
 「ここにはきれいな泉があるから。ほかにどこでこんなきれいな水が飲めるか」と答える。

 (でも何故? たとえ汚染以前の水であっても、泉には雨も雪も混じるのに!)

 そしてただ一人村に残った若者アレクセイは、老人でまかなえない村の仕事を一手に引き受けて暮らし、先々も出ていくつもりはないと言い、その理由をこんな風に語る。
 「もしかしたら、泉が僕を村にとどまらせたのかもしれない。泉が僕のなかに流れ、僕を支えている」



 泉の水は、地表に下り大地に浸透してからどれだけの時間を経て湧き出ているのだろう? 老人たちが言うように、100年だろうか? それとも、老人たちの言う100年は、自分たちの人生も追いつかない長い長い時間、という意味なのだろうか?
 長きに渡って大地の深みにとどまり、静止にも見えるゆるやかな旅をする内、濾過され、純化され、(敢えて言ってしまうなら)聖化された水。とめどなく「今」に溢れ続ける「いつかずっと以前」の水。
 そして、汚染された大地に再び湧き出ても、自浄して生き続ける奇跡。

 人間の体の60%が水分だと言う。
 わたしは泉の水を愛して暮らす彼らの体の中を流れる水のことを思った。生まれてからずっと同じ泉の水を飲んで育った人たちの体の中の水のことを。
 
 人間は、こんなにもきれいだ、と感じる。

 そして、(陳腐な言い方ではあるが)現代の誤った人間たちをも再生させる、強さや優しさ。
 そんなに大袈裟に言わずとも、わたしは力をもらった、確かに。

 急ぎ足に暮らすしかないこの国でも、自分のからだに流れるものなど気づく必要もないこの暮らしの中でも、その水のことを感じて暮らすことはできる。


 一昨日は、竹内浩三とわたしを分けた40年という時間を考えて暮らした。
 
 今日は、あの泉にわき出る水の時間を考えて暮らす。


2002年02月02日(土) 生かされている ●俳優たち(桐朋学園卒公)

 昨日は引き続き、竹内浩三を読んだ。

 筑波の兵舎で綴られた日記。あるいは死に至る行軍に出る前の、手紙。


 竹内浩三は、1921年に生まれた。

 わたしは1961年。

 この40年。たかだか40年の違い。

 あまりに残酷な40年。

 あまりに世界が変貌した40年。

 
 40年という時間が、

 期せずしてひょんと死ぬる人と、わたしとを分けている。

 それほどまでに人の運命を分ける時間なのだ、40年というのは。

 
 そして、わたしは、もう、その40年を生きた。

 なんということだろう。

 なんということだろう。

 
 この40年という時間差を思ったとき、しばし涙が止まらなかった。

 あまりに複雑に想いが交錯し、収拾がつかず泣いていた。
 
 でも、泣きやんだ頃には、やっぱり、生きているのがありがたかった。


 
 竹内浩三の23年間のことばは、きらきら光っている。

 血反吐のようなことばもあるが、それは彼が血反吐のような暮らしの中にあったからだ。血反吐のようなことばの向こうに、きらきらした魂が透けて見えている。

 人のことばに接してここまで感じることは、めったにあることじゃない。

***

 今日は、若い人たちの芝居を1本観たあと、友人としばし、軽くお酒を飲みながら、「このところ」について話す。隠遁生活の今の身では、人と会って話すことから得ることが多い。人と話して、自分を知る。仕事をしていると、いつも一人になりたくてウズウズしているところがあるものだから、そういう機会を逃していたのかもしれないな。


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