世界お遍路 千夜一夜旅日記

2004年12月31日(金) 1日、雪 in新潟

朝から雪だった。
降り続いた。
小千谷市で、半壊の家がつぶれた。
つぶれれば、全壊になるし補助金は飛躍的に多くなる、理屈的にいえばいいのだろうが・・理屈のように気持ちはならない。
義妹のリハビリ仲間に、山古志村の方がいて、子どもたちがお母さんが春になってショックを受けるといけないから、うちがどうなったか、デジカメに入れてきたし見てといって持ってきたらしい。でも、まだ見る心の準備ができていない、と断られたとか。
この勢いでふると、山間部はかなりの降雪になる。
春まで、つぶれる家は増えていくだろう。

昨年の晦日は、私はいないし、父も義妹も首の手術でいなかったし・・だったが今年は、父は写真参加だったが、全員がそろった。
よかったとしよう・・と乾杯をした。
姪は地震の日、ホントは友人と遊びにいく予定だったようだが、もしいっていたら、帰り栃尾から抜けるトンネルで地震にあっていたかも・・・そう考えると怖い・・と。
みんなそろっていることがよかった、ありがとう、といえる年だった。
姪はちなみに、中越地震関係の書類処理で夕方まで勤務。
飲んで、寝るぞとかって、がんがん飲んで爆酔している。
夕べも一人で焼酎を寝る前にちびちびやってぶつぶついっていたし、オヤジ化が進んでいるようだ。

ボーナスがない甥と、ボーナスはもらったけど新卒早々で世間の荒波にもまれた姪に「失業中でかわいそう」とお年玉をもらってしまった。
どひゃ。
寝かせると、座布団一枚に収まったかわゆい赤ちゃんだった子どもたちが・・・・私も年取ったわ、と思いました、おおつもごりの宵でありました。

皆さん、よきお年をおむかえください。
来たる年が平穏で平和な年でありますように。



2004年12月30日(木) 雪だ

昨日は、昼過ぎに晴れたので出発。姫路でお参りをしてから尼崎にあるあま湯ハウスなる天然温泉で23時半の電車時間まで楽しんだ。
年内に免許ゲットの目標を達成した自分へのご褒美だ。
ネット割引で1900円の料金が1680円になる券を持っていった。
1時間入って、1時間ビール飲んだりテレビを見たりしてボヤリン、でまた1時間入ってをしていたら11時少し前。大阪駅で丁度15分前の電車に乗車。即、寝てしまった。
やはり温泉、いいですねえ。

気がつけば、朝、外は雪だ。
電車は地震の影響で地盤が緩んだままなのか、、来迎寺から長岡の間で徐行をして10分ほど遅れた。
意外と雪がない年末が多いのだが、今年はしっかりとある。
テレビを見ていたら、山古志村の屋根の雪下ろしをしていた。1メートル以上あった。やっぱり、ここは雪国・・・・だ。寒いのも、お日様が出ない冬も嫌いな私にはやっぱり徳島をはじめとした四国のほうが好きですけどねえ・・・しかしね・・・

午後から義妹が病院から帰った。
歩くのはだいぶいいが、左手は「人の手のよう」だという。
確かに見ているとそうだ。
でも、生きていてよかった、ほかのとこだったら死んだかもしれないし、と本人は生きていたことに感謝しているし、きっと時間はかかるだろうが、何とかなると思う。

それにしてもスマトラ沖の地震がすごい。
家族が確認できないうちに荼毘に付すというが・・・まあ、伝染病のことなどを考えると仕方ないのかもしれないが・・・それでも、たとえば日本で真夏に巨大地震が着たら同じ事態になるだろう、とは思うが。
家族はなんともやるせないだろうと思うと、今年は最後の最後まで切ない年だ。
破磐の宮司さんが「大きく何かが変る時期なんでしょうねえ・・・」といわれていたが、そうかもしれない。



2004年12月29日(水) 徳島は雨

珍しく徳島は朝から雨だ。
夕方、本土にわたって、郷里に帰る。
電車が動くようになってよかった。

スマトラ沖地震のすごさ、日に日に見えてくる。
ああ、人は無力だな・・かなしい・・ただ合掌あるのみ。
今年は、環太平洋火山帯(地震帯、とよんでもいいか)の、左側が動いたようだ。
日本、インドネシア、ニュージーランド・・・
来年は地球のエネルギーバランスで、チリ・アメリカ・アラスカ・・がアブナイような。
戦争という最大最悪の事態に人が無力だから、生命体的地球エネルギーの怒りが始まっているような気がする。
津波を体験したフランスだったかの新聞記者が「ノアの箱舟のような」と評したらしいが、そうかも知れぬ。しかし、起きるべきところがちがう、よなあ。
しかし、来年こそは平穏な年でありますように、戦争が終わりますように。




2004年12月28日(火) 免許ゲット

8時半には、免許センターへ。
若い子であふれていた。
窓口に行ったら、「今まで、免許失効になっていませんか、停止や取り消しがあるんじゃありませんか、ほかの免許はホントにないんですか」としつこく聞かれた。
さすがに「ウソをいうとためになりませんよ」とはいわないが、しかし、受付のきつい顔した女性の態度はそれそのもの。チョー不愉快。
ないってんだよ、とは私もいわないが、アンタの態度は不愉快だよというのを露骨にだして「ないですよ、ありません、越してきて1年すぎてないんだから、都市部にいたから、必要なかった」といったら黙ったが。
徳島においては、私の年の人が免許ナシでやって来ているということは考えられないことなんだろう。

で、試験。10時より。
多分、手のひらにエンピツでメモした限りでは、数問は正解か、間違いか?という
のがあった。しかし、まあいけたかな。という手応えがあって、50分終了。
待っていたら、個人名で呼び出しがあった。
何事、と思って2階にいったら、「あんた、大阪で免許とっているんちがう、大阪に同姓同名で免許登録があるで」
はあ??
横浜に同姓同名がおるのは知っている。
前の住所の近所だった。
で、時たまおかしなことがあったけど・・大阪にもおったか。
この際名前変えるか。
「他人です、私とは別人です」
そんなモン、あったら、お金と時間かけて、いやな思いして教習所にかようか。
「そうか」と今度は、受付の男性、素直に引き下がったが。
朝の女性もこの人も、非常識なのは(私感覚でいえば)「すみません、ちょこっとおたずねしますが」とか、「すいませんでした」「お手数でした」とか前後に何かしらの挨拶がなくて、まるで尋問なんだよなあ。
聞くのはともかくとして、相手が不愉快にならない訊き方があるだろうが。
受付の女性は「試験官」として、試験場に現れたが、いやな気を出しながらしゃべっていた。
11時半、発表。
受験者の半分弱から1/3強が落ちている。
外に出たら、免許もらったら「とばしや」になりそな、男の子数人が「終わった」とさけんでいる。おれ、88点やっら、とかオレは87や。とかいいながら。
おかわいそうに。

2時にまた試験場へ。
階段をのぼっていたら「アンタ、免許、うけたん、とうったん」「はい」「いっぺんで?」「はい、オートマですから」という会話。
字で書くと、なんの変哲もないが、人を小バカにしたような、イヤーな感じのお人との会話であった。中年男性、ここの職員である。

写真を撮って手続きへという話をした太った女性の話っぷりもいやな感じで、写真を担当の男性がうまくとれなくて取り直しの場合でも、単に名前を呼んで「薄かったしな、下で取り直しするしな」というだけで、またまた「ごめんな、とか「すみません」がない。いわれた女の子たち2人は「薄いって、どういうことなん、泣きそうや」とブツブツいっていた。うん、わかる。
で、交付を待つ間、延々と減点3点以上で初心者講習、うけんと再受験で、受かった人は近年いない。
この制度は始められてから約800人が受験したけど、今まで8人しか受かっていない。
「こうなると、また1年後に免許は返してもらいます」
ということをリピートする。
まるで、壊れたテープレコーダーだ。「1年後には返してもらいます」を少なくとも7回はいった。
で、「1年後には、お返ししていただきます」ではないのよのう。
女帝になったようなつもりか?
ほとんどが、高校生か大学生か・・という感じの人たちだし、こういう話し方になってしまうんだろうけど、話し方についていえば、悪い大人の見本だよな。

最後は極め付き
下に降りると、「交付にあたっては、印鑑を入れ物から出してお金を出して待っていて下さい」
「1750円と、交通安全協力金が1200円です」
これまた、太った女性がいう。
(上の人とは別、ここはかなり大きな太った人が多い)
ところで、交通安全協力金ってなんだ?
教習所からもらった説明書には1750円だけは書いてあるが。
窓口の奥の方に、説明が書いてある。
「交通安全啓発キャンペーン、交通安全のための云々かんぬん・・・」
要するに、警察官僚の天下り団体がやっているなんだかなだね、これは。
(ちなみにうちに帰って、ビールを飲む前にネットで調べてみた。財団法人、交通安全協会、役員名には思った通りに元警察の方々が名を連ねていた)
問題は、上で壊れたテープ状態で話したことにこの話はなかったってことだ。
まるで、交付にあたってはこの1200円がいるかのようにやっている。
ほとんどだまし、だ。(大方は、元警察官僚方の給料だろう)
説明してから、これは強制ではないってことを情報として入れてない。
窓口で「1750円です、交通安全協力金1200円にご協力下さい」という。
お金を払う段になって、初めて「ご協力」という言葉がでてくる。
わたしはむっかとして「協力しません!」といってやった。
あちらもそれ以上はいわなかった。
で、他の人とちがったところ。
1200円を払った人は免許入れ・・男は今、女は赤(趣味の悪い色だった、あんなのただでくれるといっても私は使わない)をもらうってこと。
しかし、もしかしたら、警察のコンピュータにコイツは協力金を払わなかったとかって、※印がはいるのかも知れないが。
教習所でも最後の説明の時に「交通遺児募金」の募金を要請された。
もちろん、強制ではない、と説明つきで。
この遺児募金というのも、はじめは今のあしなが育英会の玉井さんが民間で始めたモノを元警察官僚の理事たちが、まあいってみれば自分らの仲間の天下り先のために「乗っ取って」玉井さんを追い出したという流れがあって、私は好きではないのだが、しかし、お金は確かに天下りたちの給料のほかに遺児のために使われてはいるので、協力した。
4人の合格者で、募金協力をしたのは私だけだ。
あと3人の男子くんたちはしなかった。
ちゃんと説明したら、こんな割合になるのだろう。
これだと、元警察官僚を養えないから、ほとんどだまし系の手口になるんだろうと思う。
とにもかくにも、むすっとした人相の悪い私の顔写真付き免許ゲット。
こうして免許センターの1日が終わった。
免許センター女性職員って、多分婦人警官さんだった人たちなんだろうが、どうして関取のように太っている人が多いのだろうか。
思わず以前見た映画(「読書する女」だったかな)のナチスドイツの収容所の女性看守とか、20年以上前に乗ったソヴィエトロシアのニコリとしない大女スチワーデスとか・・そういう人たちを連想させた。

一言感想:教習所も、免許センターもいやな場所であった。

夕方、バスを待っていたら、氏神さん神社の方に行くバスが、うちに帰る方面より先に来た。
そうだ、今日はお参りしてないし、こいってことなんだな、と思って、そのバスに乗ってご報告とお参りに行った。
うちに帰ってきて、とりあえずはビールで乾杯、田舎に電話したら母がでて「今震度5があった、楽がいなくなった」(楽はいぬです)
母は、ご飯の仕度の最中だったらしい。
「この頃、また大きいのがある」
「インドネシアですごいのがあったし、地球はつながっているんだよ、地震波は日本にも届いているそうだし、またしばらくは揺れるのかも知れない」
スマトラ沖地震の死者数、すごい。津波の怖さ。人はやっぱり地面の上に寄生しているんだという感じがすごくする。

ビール2本で爆睡。
朝になったら、うちじゅう電気がついていました。

以上、12/29日記す。

免許取得について、いろいろな励ましや慰めを下された方々に感謝。m(_ _)m
私は高速道路なんかは乗りません。
ただただ、老後の準備を1つできたと思っております、です(^^;)



2004年12月27日(月) スマトラ沖地震

ひどいなあ、1万3千人死者。
震源地から遠いタイのプーケットなどは2時間も経って津波が来ているのに・・・もし情報態勢ができていたら、逃げて助かった人も当然大勢いたはずだ。
人が沢山亡くなるとうつ気味になる。
で、体調がよくなくなる傾向がある。
今日もしかり。
ため息しかでないよ。
ベンキョー進まず。
中越地震にしろ、台風の多さにしろ、今年の地球はおかしい。
仲良くしないで、戦争ばかりしているニンゲンたちに地球が怒っているのではないか。
地球だって、ある種の生命体のようなもの、と考えれば納得できる。
しかし、それだったら、人間の皮をかぶった悪魔が住むところ(ホワイトハウスやアメリカ国防省)を地の底に吸い込んでほしいもんだ。
なんで、弱いところに怒りが吹きでるのか。
地球さんは、その辺のところを考えてほしい。
そうそうアルカイダ系のテロリストは、ブッシュの再選を歓迎したという。
なぜかというと、自分たちテロリストの大義名分がブッシュのお陰でたって一気に仲間が世界上に増えたからだという。
やっぱりブッシュは悪魔の手先としてこの世に来た人だわ。
さあ、気を取り直してまたベンキョーだ。






2004年12月26日(日) 目がついた

今日は、朝から香川へ。
供養の碑についての場所を提供して下さるように、お願いにいった。
あちら様は「お墓さんのようなモノでは困る」とのこと。
もちろん、私もそんなイメージではない。
今は亡き方々に手を合わせて、ここまで来れたについては一人の力ではない、いろいろな方々のお力、ご加護があってのこと、と思える、道中を振り返ることができる、生きている者(お遍路さん)が幸せになれる、そんな場になったらと思う・・という話をした。
ご理解下さった。
ありがたかった。
やっと、目がついてきた。
次は私のイメージに合う「石」(形のよろしい自然石)を探す仕事にはいらねば。
これが結構大変のようだ。
私が求めるサイズの自然石ってなかなかないらしい。
これも、ご縁ものだろうなあ。

大きな地震がインドネシアであって、津波によって沢山の人が亡くなったらしい。
最後の最後まで荒れる年である・・・





2004年12月25日(土) 卒業検定合格

昨日最後の(3時間目)路上で若い指導員にあたって「見きわめよし」をもらった。やっと。
で、午後から、検定。
合格した。
オートマは私しかいなくて、一番簡単なコース(とわたしが思っている)をあてられた。
心配だったのは、方向転換と縦列駐車だったが、行く前に氏神さんの八幡神社でお参りしていたら、どういう訳か「左の方向転換」のイメージがアタマにはっきりと浮かんでくる。
もしかして左をやることになるのかな・・・と思っていたらやっぱりそうだった。
左は昨日やっているし、マアできるかな。
しかし、しかし一度失敗した、トホホ・・・検定員がやり直してエエで、減点にはならんし、ゆっくりと落ち着いてやり直しやといってくれて、助かった。優しい検定員でよかった。
2人一組で検定をやるのだが、私が組みになった男子大学生は実はドアロックを忘れていた。「ロック、シートベルトをお願いします」と走り出す前にいうのだが、彼はいったにもかかわらず、自分側のロックをしていなかった。私は後部座席にいて気がついたが(もちろん黙っていた、減点になるし)、検定員は気がつかなかったようで。
(こういう場合は、気がついたらいわれるがいわなかった、最後まで。最後の講評のところでもいわなかったし)けっこう緩やかで穏やかな指導員とはひと味ちがったお方であった。
大学生の彼、場内に戻って、方向転換テストをするときはちゃんとロックしていたし、多分、自分がしていなかったことに気がついただろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
私が通った教習所について、ヒトクサリ言いたいぞ
送迎車のドライバーさんと受け付け事務の女性たちはすごくいい人たちで仕事もよくした。
問題は、60歳近い指導員たちと若い指導員たちの落差だ。
帰ってきて昨日教習所で話した近所のフリーパス券の方に電話して「合格したよ、応援してくれてありがとう」といったのだが、やはり「年寄りがあかんわ」といっていた。
走りのビデオがあるので私はコースが分からないので何度も見た。
その中でしているようにすると(例えば大型系の車が止まっていたらその前にでる前に一時停止する・・といったことをきっちりすると、流れが止まる、徐行くらいでええんじゃといったりする。で「ビデオではこうなっていました、きのうの指導員さんは止まって下さいと厳しくいいました」と・・事実若い指導員はそれをいうし、しかし、明言するとイヤミをぐずぐずいわれる)
ご近所の彼女は「そういうことをいったし、いつまでもみきわめをもらえんかったのは意地悪されたんやで。あそこの指導員社会は縦社会やで、それくらいはするわ、、イヤらしいわ。そんでもこんなんしとったらあそこはつぶれるな、あそこは送迎車と受付の愛想の良さで持っている」といった。賛成!
私もたいていは我慢をしていたのだが、一人の年配指導員にはきっちりいった。あまりに前日の若い指導員との指導落差があったのでいったのだが。結局指導員情報で「あのおばさん、生意気」ということになったのだろう。実に、最後の数回、年寄り指導員ばっかりだったし。彼のお仲間よのう。
最後の最後に若い方にあたって公正な評価をしてもらってヤレヤレだ。
ちなみに私が年寄り指導員にいわれ続けたのは「左の車両感覚がダメ」(こいういいかたをするから、やる気なくすんだよね。指導員という以上、やる気を出す指導の仕方を研修しろよ、といいたい。学校より30年以上おくれている)
ロック忘れの大学生の運転こそは、恐かった、何度も左停車車両すれすれに通過して、オオこわ、と思いながら、後部に乗っていた。
つまり、若い人だって、克服されていないのだ。
もちろん検定の指導講評にはやはり検定員にそれをきっちりいわれていたが。
しかし検定員は最後にいった。
「やがてなれては行きますがね、十分気をつけて下さいよ」
こういう言葉に帰結する問題、だったのか・・・?
このロック忘れ大学生も合格したよ、ちなみに。
・・・・・・・・・・・・・・・
私が通った教習所は徳島でも老舗の教習所だが、要するに老舗にありが立ちな旧態依然が特に昔からいる年配指導員に残っているということなんだろう。
高校生だって、指導員カードをもらうと「この人はええ」とか「コイツはうるさいし、だめじゃ」とかって、情報交換している。
でも、広沢という競争相手に追い込まれているのは、こういった部分で評判をおとしているからだろう。
私も、誰かに聞かれたら、私が通ったとこはダメよ、広沢がいいんだって、ウワサでは、と教えるもんね。
ご近所の彼女はそういうといっていた。

まあそういうわけで、あとは公安委員会で学科を受けて合格するだけですわ。
やれやれだす。

明日は供養碑のことに動きます。




2004年12月24日(金) 情報って大事

私と同じように、フリーパス券をもって教習所に来ている人と話した。
特に年のいった指導員の態度が「おばさんに特に厳しい」「指導内容が少しずつちがっている」「若い子にはいわんこようなことをがみがみいう指導員がいる」「運転中にがみがみいう人にはまいる」「どう見ても不平等」と言う私が感じているのと同じ感想を持っていることが分かった。
「まったくやる気なくすわ」
とは私。
「分かる、こんなんやったら、広沢がよかったわ」
広沢とは、近くにある競争相手の教習所の名前である。
「広沢はいいの」
「年のいった人は、だいたい広沢でとったというわ。わたしらのような中年にはエエみたい」
そうだったんか!しらんかった。
「アッチは人気みたいで。このままやったら、こっちはつぶれるな」
オオきつい台詞や。
「同じ指導員やったら、教え方がちがうなんてことはないし、ええで。私はいろいろな人にあたった方がいいと思ったんだけど。ここまで来て間違ったと思う」
「私もよ」

もっと早くに広沢がよし、というのを聞きたかった。
こういう裏情報は口コミだよね。



2004年12月23日(木) 寒くなったね

一気に冬が来た感じだ。
朝晩が特に冷える。
本日は、昨日からのお客さんと園瀬川沿いの遍路道を少し歩いた。
午後からは彼女は松山へ帰って、私は教習所へ。
「私はモノに執着しないタイプだけど、このテーブルとイスはいいわねえ。こういうの、私も欲しい」
私が惚れて買い込んだカンボジアの大八車の車輪と車軸で作ったテーブルとタイの古民家から出た古材を利用したイスを気に入ってくれたのがうれしかった。
なにしろ世界に一個しかないシロモノたちだ。
しかし、今後の引っ越しの大いなる障害にもなる、対象がナニにしろ、惚れるということはやっかいなことだわ。

じきに今年が終わるんだ、という感じしないが・・。
エアポケットに落ちたような年だったが、でも終わるんだね。



2004年12月22日(水) 横浜同郷?人会

今日は、松山の大学に単身赴任して来ている横浜の知人が遊びに来た。
大学の授業が夕方まであったので、到着は9時過ぎだった。
さんざんしゃべって、食べて。
来て分かったけど、来たのは失敗だったわ・・・とは彼女の台詞だ。
わたしもそうですかねえ・・なんて会話で盛り上がりました。

車免許、卒業検定まであと少しなんだけど、なかなかOKがもらえない。
理由?
方向転換と、縦列駐車がヘタピーだからさ。トホホ。
年内、無理かなあ。



2004年12月21日(火) おかゆにっき ヨーグルト粥

賞味期限切れで、でも捨てないで使いたいもの

*プレーンヨーグルト
*エノキダケの醤油漬け
*少しのこったチーズ

これらをいれるぞと決意して
米カップ1/2、水カップ2で堅めに炊きあげた。
さました白粥はさすがに新潟産コシヒカリのお粥だ、実にうまい。
一瞬、うめぼしで食べようかと思ったが、ブルンと顔を振ってヨーグルトを入れて瓶に1/3ほど残っていたエノキを入れて、これまた、手のひらにのるほど残っていたチーズを入れた。
弱火で、ぐつぐつ、エノキの味がでていて、おそるおそる試食したらヨーグルトの酸味もさほど強くなくて、けっこういける。
やはり塩だろうと、塩で味を調えたが、しかし色がねえ・・・で、ネギ(香川産)を刻んで投入。そうだ、と思いだして、少し残っていた昨日のほうれん草もいれたら、グッと美味しそうになった。ホンのチビッと、醤油を差して完了。
さっぱりしたヘルシーな味で評価「優」
またヨーグルトが残ったら、しようかな、という出来になった。食べながら、木の実系に合うと感じたんで、次回はクルミだの松の実に合わせよっかな、だ。

★ヨーグルトの力★
乳酸菌 ビフィズス菌 ブルガリア菌 アシドフィルス菌 サーモフィルス菌 ヤクルト菌など乳酸菌を牛乳に入れて発酵させた乳製品のこと。
歴史的には、6千年前エジプトで、飲み残した乳に菌が入り込み、それを古代人が飲んだことに始まる。
ヨーグルトが健康食品として世界に名を馳せたのは、ノーベル賞学者メチニコフの論文からだ。
「ブルガリアの村に100才を超える老人が多いのは、彼らがヨーグルトを常食としている為である」
メチニコフは、ヨーグルトを毎日食べていれば、身体の老化が食い止められると考えたのだった。
昨今増えている大腸癌を防ぐにはヨーグルトがとってもいいらしい。
た・だ・し「常食」、カップ1杯!よろしく。

:お粥、やるじゃん:
ヨーグルトが、こんなにも粥と合うとはしらなんだ、よ。
これは、ヨーグルトの懐の広さ?
それとも、米の持つ奥深さ?
どっちも、長い間人類に食べ続けられてきた「正しい食物」たちだ。
まあ、その辺のジャンクフードとはちがうんだわね。
そうそう、あれがまずい、これがイヤだ、と言わないわたしの胃袋の力のすごいかも知れない。



2004年12月20日(月) 行ってきました、第二の地へ・・フシギの雨が

昨日、松山のMさんからお教えいただいた第二の地へ、教習所を1時間目に終えて行ってきた。
一度はお断りした場所だが、その場に立ってみると意外と里が近く、人気もあって決してさびしくはない。
事故地が数百Mの地であり、もともとはそういった場所を望んではいたのだ。
しかし、ここでいいのか、どうか・・・
「オーイ、ここでいいのか、いいんだったら、雨でも降らしてくれ」
「いいんだっら、雨が降れ」
と、人がいないのを幸いに何回か天に向かって叫んでみた。
で、しばらく(5分か10分)その場に手を広げて佇んだが、ふらない。(あったりまえだよね、うす曇りではあったが雨が来そうにはない空だった)
で、道の駅ながおに歩き出して百mほど、ぼちっと顔に水滴が当たった。
え?
でまた手を広げたら、手にはあたらないし、コートにもあたっていない。
気のせいか。
しばらくしたら、また、水滴?
今度は乾いた道路にもボチ、ボチと水滴が。
雨、だった。
ええええ・・・ふった・・・・本気に??
この辺だってことなのか。
その後、5分ほど、道路に水滴がついて、小雨の手前みたいなまさにお湿り的な雨ともいえないような雨が、5分ほどふった。それで止んで陽が出た。
2時半前後だ。(携帯デジカメでとった時間がそう)
偶然にしては余りに都合よすぎではないか。
ただただ、ビックリした。
「わかったよう、必ずしますよう!」と、天に向かって叫んだ。
・・・・・・・・・・・・・
夕方、4時半前には、今度こそホントの雨が降り出してきて、本降りになった。
だから、空は雨を孕んではいたんだ、と夕方になって分かったが。
それにしても、あんなに都合よく、それも、道路に水滴の跡がつく程度(まるで証拠提出のような)振るものだろうか。
偶然と言い切ることができないような・・あまりに打てば響くよな雨粒であった・・・
昨日の絶妙のタイミングで入った電話にしろ、この雨(というか、空から来た水滴)にしろ、昨日から、供養碑建立について不思議な、と思えることが続く。








2004年12月19日(日) 自分で動くということ

土曜(昨日)私の以前からの懸案「遍路道で結願ならずして亡くなった方々の慰霊碑の建立」について、動いた。
遍路道沿い某寺の山門近辺がいいと思ってお願いして住職さんにお会いしに行った。
わたしとしては今回は、「自己紹介とお話を聞いていただくだけ」のつもりで行ったのだが、なんだか、トントン拍子に「場所」を了解してくださり、自ら石屋さんに電話して下さり、どんなデザインで、どのくらいの費用で・・まで一気に決まってしまった。
えーーー、こんなに簡単に決まってしまっていいのか?と、うれしかったのだが。
今朝、ずっと気にかけて場所の選定を考えて下さっていた松山のMさんに報告とその後のことをご相談にいって、亡き奥様にお経をあげさせていただき、さてとなったところに電話。
昨日、気持ちよく、建立をOKして下さったご住職から、やはり、昨日の話はなかったことにしてくれ・・・はあああ???
青天の霹靂の変心・・でただただあ然。
すごく乗り気だったのに一晩で変心になるのが信じられなかった。
結局「家相」(祈祷寺なのに、山門近くに供養のつく碑を建てるという問題、ということじゃないかと察する・・しかし、これ、立てたら、お遍路さんのお参りは絶対増えて寺門隆盛だとわたしは思うのだが)
「自分のあとに建てたものを、次の住職が守ってくれるか」(ご住職はかなりご年配)という点での変心だった。
理解はできるが・・だったら、石屋さんまでよんだりしないで「一晩考えさせてくれ」といって欲しかった。
Mさん「縁がなかったですねえ、それにしても、ここに来て、家内の仏前にお参りしてくれて終わったとたんの電話というのは因縁ですなあ。そこの場所やない、ということではないんですか」
「はあ・・・立てるべきところがちがうという霊界からの通信ですか。でも怖いような気がします。どっかで見ているなんかがあるみたい」
いっしょにいった松山のTさんも「あんまり絶妙なタイミングで・・・恐い」
で、建立の段取りとか、その後のことのお話をさせていただくつもりでいたのに、場所についての話に戻った。
Mさんに進められてお断りした場所の写真を見せて下さって(そこは、最初に立てたいと考えていた場に近いが、さびしそうなのでお断りしたのだが)「そんなさびしい場所とちがうよ」
確かに。
歩き遍路さんだけでなく、車遍路の人も止まって手を合わせていただけそうな感じなのだ。
「とにかく、見てきなさいよ、それでよいとなったら、またこの話を戻しましょう」とは、Mさん。
はい。
それにしても・・・霊界の人々は、この地(Mさんご推薦の場所)を望んでいるのか。結局その話をするために、私はMさんの所にうかがったのか?
とにかく、私は自ら動いてこのことをせねばならないのは確かなのだ。
で、できるだけ早く見に行くことにした。

映画の件でも、自分でうごかなくては、とは思っておるのだが。
徳島では難しいので、松山でしようかという話にはなってきているのだが、しかし、映写機と映写技師がいなくて。
徳島ではボランティアをしてもいいという人がでてきてくれない。
つくづく、今私は自分が今までいた基盤とはちがう「一時滞在の地」にいることを感じる。例えば、関東だったら、ボランティアでてつだってくれる人がいないなんて事は言わなくていい。新潟でも、昔の級友やつてでみつかるだろう。
足元がまさに、自分の足サイズしかないのだ。
でもま、意識して自ら動いて「カラ」のごときものをこつこつたたいていきたいと思っている。
「カラ」とは、年を取るにつれて作る限界であり、御身大切であり、お利口面である。まあ、これぞ一種のボケ防止。なのである、私の。

供養碑(自然石を使用した柔らかい感じのイメージ)建立の折りには「勧進」を募ろうと考えている。
石に供養力を供えるためにはたくさんお方の思いが必要だと考えるから。

そういうことで香川、愛媛とうろついて帰ってきた。



2004年12月17日(金) 高速実習完了&おかゆにっき

朝イチで3時間、高速実習だった。
強面系のお兄さん指導員とまじめ系の男子大学生との3人。
車はベンツだけど、今までの素朴な教習所の車と仕様が大幅にちがって、特にウインカーの位置が反対で、しばしばまごついてハラドキした。もちろん強面指導員がなおしてくれたけど。顔のわりに優しい人みたいだ。
で、駐車は例のごとく、全然線からはみ出して、これまた指導員のお直しで。
でも、高速が空いていて、意外とあっと言う間に終わった。
しかし、例のごとくパワーのありそなお札、お守りの類をみんな身につけていった気の弱い私であった。

NHKで、大洲の肱川嵐をやっていた。
長浜だったが。
すごいんだわ。
でも、のんびりした愛媛の奥座敷の気配がよかった。

・・・・・・・・・・・・・・・
キムチ粥

白粥(米1/2杯、水3杯)を炊いて、しばらく置く。
ふっくらと程良い温度になったら器に移してキムチをたっぷりこんもりと。白粥の白とキムチの色が美しい。食欲をそそる。
このところ、パワー減退という気がするし、キムチパワーで挽回しないと・・ね。
おいしかった。
食欲を刺激されて、もっと、になって困った。

★キムチの力★
キムチを食べて食欲が増すのは、唐辛子に含まれるカプサイシンがアドレナリンの分泌を促し、キムチに含まれる消化酵素や各種ミネラルが消化吸収を助ける働きがあるからだとか。キムチは乳酸発酵食品。魚介類の塩辛を加えて漬け込むので乳酸発酵して、ヨーグルトに匹敵するほど乳酸菌が豊富。
カプサイシンや乳酸菌には、肥満や高血圧、動脈硬化を予防する効果があり、最近では、抗ガン効果も明らかになっている。 
さすが、キムチだね。

:直売所のキムチ:
横浜たまプラーザの農協直売所には絶品キムチがあった。
日本人と結婚した韓国の方がつくって販売しておられるものだった。
すごく辛いんだけど、甘い・・・実に奥が深い味に惚れていた。
デパートやスーパーでいくら高いモノを買っても、あのキムチにまさるものはなかったっけ。
日本でも、結局「お母さんがつくったおつけモンが一番」なんだけど、韓国でも家庭で、お母さんがつくったキムチが究極なんだろうな、と思う。
キムチを焼き肉を食べに韓国に一度韓国に行かないとねえ。
今だ、韓国に縁がない私だ。
しかし、あの「ヨンさま」騒ぎってなんなんだろ・・・。
だた、彼はスターがすべきことを知っている。
先日のけが人騒ぎでの対応や地震見舞金など、日本の芸能人よりずっと「倫理的」と感じた。
アタマ、いい人なんだろうな。



2004年12月16日(木) トルコのEU加入

NHKのクローズアップ現代で「トルコのEU加入」についてやっていた。
EU諸国、お上(政治家たち)は、入れたい、イスラム圏の国との関係改善にトルコを言葉は悪いが利用したい・・しかし、フツー人(国民)は、はんた〜〜いを叫んでいる、ということ。
アムスでは、トルコ屋さんにずいぶんとお世話になっていた。
が、でも、彼らの内向きのコミュニティのあり方や、EU圏でのかれらの人口増加への恐怖、犯罪率の高さ等々を思うと、フツー人が反対を叫んでいる気持ちも分からないではない。
少なくとも、バルト3国がスンナリお許しをもらうのとはえらくちがうよ、もちろん。やはり、なにより、異教徒同士なんだよね、彼らは。
加入するにしても、2015年以降とかっていっていたけど、それもなんだかね。
いずれにしても、しばらくすれば、地球上の宗教人口はイスラムが1位になる。
だって、産めよ、ふやせよだものね。
イスラムの男たちは金曜の午後に男だけで礼拝をしている。
で、その晩は「子ども作り」にいそしまないと、女(奥さん)に「不信心な」とか「ろくでなし」と罵られるらしいもん。
そりゃ、人口、増えます。
だから、イスラムの男はマッチョ系が多い。というか、マッチョを演じていないと、イスラムの男じゃないのだろうよ。(ご苦労さん!)
トルコは好きだけど・・EUってやっぱりちょこっとちがうか??なあ・・・という気もする私である。
無理したら、あちこちが軋むだろう。

今日は、「卒業検定」の前に、必ず合格しなければならない「学科効果測定」なるものを受けて、めでたく合格した。
100問で90点以上をとらないとダメ。
97点でしたわ。
パソコンでするんだけど、受ける前に模擬問題をこれまた教習所のPCで800問した。目がちろちろしました。
明日は高速実習だ。
路上実習5時間目、交差点内で信号が黄色になって、思わずブレーキを踏んでしまってさんざん叱られた私である。(交差点にはいったら、ナニがなんでも走り抜けると学科で知り尽くしてもやっぱり踏んでしまうバカさかげん、これは我ながら恐いよ)
高速車線にうまく乗れずに、加速車線に立ち往生なんてことになったら・・・まあ、指導員が何とかするか。
それと、方向転換とか、縦列駐車とかもうまくできんのだよね。
サービスエリアで、あそこに入れろとかっていわれたら、こまるんだよお。
教習所の高速に行く車ってちなみにベンツである。
今晩は、悪夢をみそうだ。(-_-)










2004年12月15日(水) 北海道の地震

ちょこっと前は、九州、今度は北海道で震度5強だ。
今日もすごく暖かい日だったけど、不気味だ。

今年は「大地震がある」「風水害が甚大」と予測した占い師がいるらしいけど大当たりしてしまった。
ちなみに、私は今年は「運がいい」年らしいだけど、とんでもぎっちょん。
早く新しい年よこい、来年は平穏であれと思います。

教習所4時間のあと、夕方「15歳の夏休み遍路」の元不登校中学生の岡田くんの写真展に行って来た。
お母さんとお父さんの海十さんも見えていた。
いろいろとお話しして、お菓子をいただいて記念写真まで。
なかなかよかった。
あれだけ細い身体で、重たい荷物背負って、よくぞあれだけ撮ったと思った。
人の表情を撮ったものが特にいい。




2004年12月14日(火) 今日は おかゆにっき

今日のお粥は、お粥というよりお粥スープという感じかな。
ちょぼっとのご飯を白粥風に炊く。
とろとろになったところで、とろけるチーズ2枚小さくちぎって投入。
ゆっくりとかき回す。
チーズが溶けかけたところで、粗挽き黒胡椒をバリバリと。
最後に、塩かな、いやこれは醤油じゃと、醤油をちょぼっ。
くれぐれも沢山いれないように、チーズってけっこう塩気が強い。
トーストとコーヒー、ミカン・・・で朝食ではなんだか口がさびしがっていたのでつくった1品。
コショウにピリピリ感がよい、香りもよい、で、おいしかったすよん。
ポイントは、即、食すこと。とろとろチーズが固まらぬうちにね。

★チーズの力★
完全栄養食品的に栄養価が高い食品。「乳」を濃縮したものだから、乳に含まれる栄養成分がチーズには丸ごと詰まっている。つまり、チーズを20g食べるだけで、乳を200gを飲んだ場合とほぼ同じ栄養分を得ることができるということだ。でもま、チーズって、好きか嫌いか、だよね。納豆がすきでも、チーズのにおいで吐き気って人いるもん。牛乳とかかずに、「乳」と書いたのは山羊の乳のチーズなんてものもあるから。ヤクっていうのもあったなあ。山羊チーズは、アンモニア臭、チョーくさいぞう。

:日本チーズはまずし:
オランダチーズを食べてしまうと、日本のチーズはまずい。
やっぱり、あの匂い(香り?)のあるなしだろう。
日本のは「薄い」のだ。
この辺は、「匂わない納豆」なんて絶対食べたくないと言うのと似ているかも。
納豆だってあのにおいがうまさの源で、チーズもくさすぎるほどのにおいがうまさの命だ。

  ・・・・・・・・・・・・・・

心配だし、気になってホントにこの1ヶ月半くらい四国に地震がなかったのかもう一度、地震情報をさらえてみた。
ありました、12月9日だったに、室戸沖。
で、室戸市街は震度1かな。
ヤレヤレだ。
それにしても、暖かい。
まるで、10月のような気温と陽の光だ。
気持ち悪い。



2004年12月13日(月) おかゆにっきブログ

先月から、こっそりと「おかゆにっき」なるモノを某日記サイトに書いていて、いっそブログにするかと、今流行りのブログをしばしやってみていたんだけど、メンドいので止めた。
時間と気持ちにゆとりがあれば、それなりにブログもおもしろそうだけど・・・
「おかゆにっき」も、そんな訳でとどこっている。
無理は止めて、おかゆもこのサイトにかくか。
冬を間近にすると食欲が昂進して、むくむくとデブになるので、今年は予防策として1日1回おかゆ食を取り入れて、1日1時間は歩くようにしているのだ。
ちなみに今夜のおかゆは「五穀がゆ」だ。
アシスランド産のかれいの煮付けとか、水菜とベーコンの炒めとか、トリの唐揚げとか、大好きなもずくとか惣菜がたくさんあるので、味は付けないで。しかし、こくがあっておいしかった。
かきためたおかゆにっきも、こっちに移転して、あちらも閉めちゃうかな。
そんなわけで、時々おかゆ紹介をしますね。
おかゆはなかなか奥が深いのです。
気にいっています。

・・・・地震・・・・・・・・

栃尾市の地震被害がひどかった中野股小学校が解体されるという。
創立は1873年、校舎は1902年の木造舎だ。
冬の大雪にもたえて100年、しかし・・・だ。

10月23日に中越で地震が起きて以来、毎日地震情報を見るが、四国が「空白域」になっている。通常、有感、無感を含めて1日5回から10回ほどの地震が全国各地で起きている。
しかし、播磨灘や淡路島、兵庫であっても四国本体では10月23日以来一度もない。
なんだか、気になる。



2004年12月12日(日) マナーについてのヤフー記事

ヤフーの記事を読んでいたら、松坂坂大輔が行儀の悪い少年野球チームの子どもを叱る、という記事と、相撲界のマナー知らずの問題という記事があった。
野球チームの子どもたちのマナー知らずは要するに親だよね。
挨拶や、人を呼ぶときの「さん」づけ、年上の人への態度などは家庭で育むモノだ。
教習所の送迎車でも、さきに降りる私が「お先に、さようなら」と同乗の高校生に声をかけても「さようなら」と返す子は3人に1人かな。2人はいない・・・だれにいっているんだ、と不審顔をする子もいる。

相撲界のマナーといえば、私は朝青龍って「横綱」の風格がないなあと思う。
横綱は強いだけでなく、「大人」の風格も必要なのに、彼のそれはまさに「小人」。勝負がついてもしかけたり、あらわにしなくてもいい闘志を露骨に示したり。相撲はもっと「典雅」であって欲しい。
お遍路でいえば、「大先達」さんは、要するに横綱。回数だけでなくて、やはり一種の「あたたかな風格」あらまほしく、というのと似ている。
この春、島四国で見かけた愛媛西条市の正信講の大先達さんはそんな風格があった。カッコよかった。あれなら、人も自然とついていく。
かつて曙あたりは「ガイジン」だけど、「大人」のこと、そのあたりを心得ていた。横綱になったばかりの曙を間近で観たことがあったが、威風堂々のゆとりがあった。目つきがなにより、朝青龍のように、こせついていないというか悪くなかった。
朝青龍は、ハングリー精神であそこまで登りつめたといってもいい。ファイターとしてはいいかも知れないが、だったら、プロレスかほかの格闘技(K1とかいうのあったよね)に行けばいいのだ。

松坂クンは「人格の進歩なしに技術の進歩なし」という野村監督の言葉を座右の銘にしているようだが、シブイよなあ。
だから、かなり年上の柴田アナウンサーでもよかった??^^;

今日の徳島は雨でした。
久しぶりの雨でした。
乾燥でお肌がわれそうだったので、このお湿りや吉。



2004年12月11日(土) 徳島中央局の門松

時々、不在郵便とかを取りに徳島中央局に行くんだけれど、なんだかおかしい・・とずっと感じていたことの正体が分かった。
そう、クリスマスの前に「お正月」が来ているのよね。
この前にいったときは「?門松?早いなあ」と、正面にあった門松を見て思った。
で、なんだかおかしい・・とふっと変な感じを覚えたんだけれど。
今日、すっかり枯れている、松や竹を眺めて「そうか、クリスマスをすっ飛ばしてこの門松だから、おかしいと思ったんだわ」(笑)
クリスマスツリー、その次は門松、と11月から12月の変化だ。
しかし、中央局は、クリスマスがなくて、一気にお正月が来てしまっていたのだ。
何でかな?
それにしても、正月が終わって1週間が過ぎてしまったような中央局の門松の惨状。もう一度、飾りなおさんと景気がワルイねえ。

いい天気だったし、郵便局に寄ってから、路上コースを日暮れまで2時間余り歩いてみた。
少し、道が見えてきた。

今、横浜マリノスが優勝した。
けっこういい試合でした。
それにしても「横浜」と聞くと、郷愁を感じるわい。
おめでとう、横浜マリノス。



2004年12月10日(金) 血液製剤のこと

c型肝炎を起こす血液製剤フィブリノゲン製造は、薬害エイズでも悲劇を引き起こした旧ミドリ十字(今は三菱系の会社になっている・・・つぶれていないのが驚きだ)の関係、まあいってみれば「怨霊」だ。
厚生省はいち早く病院リストを公開したが(この辺はお役所も少し利口になった)に試しに新潟を開けてみれば、県内の基幹病院、ほとんどすべてがのっている。
まったく、なんてこったいだ。
しかし、80年代から90年代のモノ、なんで今頃?もっと早くになんとかならんかったのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・

路上教習、ここに来て、指導員の微妙な価値観の違いが見えてきて、ウーン。
つまり、ただ流れに乗れ、ということを重視する人、車が止まっていたら、徐行ででとにかく人の飛び出しを注意しなさい、という人。
昨日は、徐行をしてをうるさくいう人、今日は、ただ流れに乗れ、というだけの人だと、こちらは困る。
私は徐行をうるさくいう人のほうがありがたい。
制度として、自分に合わない指導員を2人まで理由付きで「お断り」ができるんだけど、この権利を行使した方がいいのかな・・・なんて。
好き嫌いはいうまいと思ってはいるんだけど。
それと、道を覚えなければならないので苦戦している。
しらんのよね、私、遍路道以外は。
しかし、最終検定は、規定を走ったら、自主経路で走らないといけないので、道覚えは必須。やれやれだ。
それと、7時間路上を走って思うのは、やはり、できたら、車に無縁の生活をしたい、という思いだ。
昨年いった、チベットヒマラヤ街道はヤクとドンキー以外はいない道。
あれが私の道の理想だ。
急がなければ、人は少欲になるし、穏やかになれる。
タンポチェに行く前、深い谷間の宿では、客も家族も、ジャガイモのみの夕食だったけど、みんなおだやかに楽しい夕ご飯だった。
また、チベットへ行きたいなあ・・・切実に思う。



2004年12月09日(木) お別れランチ

まだ徳島の事務所に勤務しているカメラマンが「来週には社長と引っ越す、事務所も引き払う」というので、お昼にランチにご招待した。
短い間だったが、「ご縁」だったし。
涼しく寒くなって、体調もいいらしい。(多分、雑誌も終わりになって、本社に戻るという覚悟?もできて、悩んでも無駄、というか心の平穏ができたせいだろうけど)
まあ、よかった。
「もう終わりだし、仕事もないし」という彼、クリスマスフラワーなんぞを持って12時に来て、2時過ぎまでいた。
メニューは、朝5時起きしてつくった特製ビーフカレー(9時から11時までき教習所)、サラダ、ワカメスープ、デザートは、ヤキシューと紅茶。でありました。
カレーは「うん、うまい」といってくれて、よかった。私も、よくできた、と思ったけどね。
「広島に骨を埋めるんだ、お元気で」といったら「埋めません!」と彼にしては珍しく断言して帰っていった。(苦笑)







2004年12月08日(水) 旅、をとるか

旅日記」の旅を取ろうか、な。
このところ、旅していないあ・・・
三日坊主であり続けた我が日記人生、ここまで来たのが奇跡だし、もう少しやりたいのだが。
まあ徳島に「いる」こと自体が、いってしまえば「旅」のようではあるが・・・
なんてことを、考えた。

弟から電話が来た。
まあ、うちの送ったみその農園のおいしいミカンのお礼なんだがつらい話を聞いた。
中越地震で仕事をなくした人がうちに火をつけて一家無理心中。
「これから、先、こういうのが増えると思う」
とは弟の言葉。
確かに。
特に二年後、仮設をでなくていけなくなったとき、どれだけの人が自前でうちを持てるか・・・土砂災害で、もとの場所に立てることが困難な人は、土地の取得からはじめないといけない。
このあたり、で行政のしっかりした援助がないと、それこそ自殺者ゾクゾクだろう。
JA勤務の甥が、震災で被害がでたのでボーナスカット。
JAも、あちこち被害をうけたのは確かだし、損害も相当大きいのだが、九時過ぎまで働いて帰ることたびたび。かわいそうな話だ。
甥は、家族を背負っているわけではないし、ローンがあるわけではないが、うちのローンなどを抱えている人はどうするんだろうかと思う。



2004年12月07日(火) 自動車学校、大繁盛

技能(路上)の予約が取りにくくなった。
高校生は休み、まだだろ、と思っていたのだが、今日送迎の車の中で話しているのを聞いたら、なんと学校を休んで教習所に来ているらしい。
なんだか、おかしい話だ。
高校生は、学校が先じゃないのかな。
私が親なら、そうするけど。
で、ごくふつうの女の子だけど、就職進学もせん、とかって話しているのも驚いた。
ええ・・・そうなん・・と耳をダンボできいている私はただビックリ。
私の高校時代と全然違う、そりゃ分かっちゃいたけどね。

化粧、目張り・・超ミニのスカート、でも、高校生っていう子もいるし。
私が親なら、あんな格好や化粧は、絶対させんなあ。
化粧のせいだろう、肌はブツブツがたくさん。
ふつうに素肌にしていた方がいいのに・・・むしろダサイんだよ、といってやりたいが。(もちろん、いわないです。心の中でブツブツ)

ダンボの耳と、鵜の目鷹の目で高校生の実態を観察している今日この頃であります。
技能予約がなかなか入らないので、免許、今年中に取れそうもない。
残念? 
でも、私、ペーパードライバーになるかも。
若い子は「運転、おもしろい!スピードだスンは、なれたら楽しい」というけど、私は乗れば乗るほど、「恐い!」的心境になる。









2004年12月06日(月) スギヒラタケの不気味

新潟や山形でスギヒラタケを食べて亡くなった話が9月からある。
私も、子どものころから高校生までよく食べた。
田舎の家近くの杉林に入って、5分ほどで大きな杉の切り株があって、そこによくでていた。
淡泊な味で、豚コマ、里芋、ニンジン、ゴボウなどの根菜の実だくさんのみそ汁にちょこっと取ってきてよく入れた。
きのこを入れると秋の味わいになった。
だから、あれに毒性?と耳を疑った。
けっこうふつうに食べられていた(る)きのこだが、病気になったという話は聞いたことがない。
この夏の暑さや台風ゾクゾクによってきのこがストレスを感じて毒を生成した、あるいはまた、空気中の何らかの物質による胞子等の突然変異・・・
昨日の仁木さんの話では、仁木さんのおうちの鶏は今だ産卵量が減っている状態だという。
鶏は彼らの子孫繁栄のために卵を産むのだし、鶏が何か、卵を産んでも子孫繁栄できないような状況を感知しているとしたら、産卵量は増えない・・という図式ができるというわけだ。
いくら台風崩れの低気圧といっても、昨日の関東地方の大風や夏日というのも、気持ち悪い。
とにかく、何か重大なことが自然界に起きているような気がするのだ。
この国も大いにおかしいことをし続けているし、つけが来ているといわれればそれまでだ。
意外と早く、地球号の上で好き勝手しほうだいのニンゲンの滅びはくるのかも知れない。
沢山の人が死んだり殺し合ったりする元凶をつくっている困った政治家たちの滅びから始めて欲しいです、閻魔様。



2004年12月05日(日) 破磐神社さんへ

朝8時に、近所のケーキ屋さん前で、小松島のみその農園の仁木さんと待ち合わせ。松茂で、今関さんご夫婦とたまちゃんご家族と合流。
我ら総勢7人と姫路のdさんとお知り合い計9人が今回の正式参拝のメンバーである。
破磐さんはだいたい12月初めで正式参拝は終わり、自作お守りつくりが忙しくなる。で、今年の〆、来年は平穏なよき年であれ、といのりたい。
昨日からの大荒れの天気のせいで、あちこちに虹が出ている。しかし、風が強くてドライバーのたまちゃんパパは大変だ。
でも、おかげさまでかなり早く着いたので、途中で長く休んで、さらには破磐のいわれとなった「われ岩」見学だ。
皆さんん、ほおーーーー
で姫路組と神社前で「こんにちは」
12時に正式参拝。
台風でやられた屋根修理のために、神社の屋根にも大工さんが登っていて、神さま(ご神体)も下に降りてきておられた。どこも、かしこも本当に今年は大変だったんだ、と改め定実感。だって姫路は災害の少ないところの1つだ。
参拝後、お下がり膳をいただく。
久しぶり、おいしかった。
たまちゃん、お腹がすいていたせいもあろうが、ほとんど手助けなしに、積極的に箸を進める。彼女は、正直で、おいしくないと「もいらん」ということがよくある。
みなさんから、おいしいといわれて私もうれしかった。
西国巡礼で出会った姫路dさんとのご縁のお陰で・・とみなさんにご紹介。
まったく、巡礼遍路はまわることで、不思議なご縁がいただけると思う。

徳島に5時着。
みなさんありがとうございました、でした。
楽しかった。

吉野川沿い組と別れて仁木さんの車で帰路へ。
仁木さんの農園は有機栽培で農園をなさっているのだが、今年は大変だったらしい。
ヤマモモは台風で落ちるし、鶏は相次ぐ台風のストレスで産卵量が落ちるし・・・いまだに回復していないらしい。
注文があっても応えられなくて、お詫び電話がせつなくて、ストレスで体調まで崩されたらしい。確かに、1年前にあった仁木さんより痩せているというか顔色がよくなくて。
「今年は、自分の友だちで有機栽培で農家をしようという人が3人、あきらめて別の道に入った。台風でやられて全滅に近いんやな」
「後継者といわれる若いモンは、水耕とかに走ってじかに土にさわるモンをバカにしよるようなとこがある、いかに身体を動かさないでカネがはいるかいうことしか考えおらんように思うし」
「水耕でつくった、味のない野菜なんてうまくない」(まったく)
「ブロイラーは55日で出荷されて日に当たるのはその日時だけやな。女性ホルモンを食べ差されてよろよろや、でもそれを鶏肉屋と食べとるんや、うちの鶏はあれらに比べたら、野性的な目をしよる」
等々、車が渋滞したお陰で、実際に身体を動かしておられる実感あふれた言葉を沢山聞かせていただいた。
しかし、仁木さんがストレスで参った、といわれる気持ちもまた分かった気がした。
仁木さんが自分の農園で作られたミカンを持ってきて下さったので車の中でいただいたのだが、すごくおいしかった。
今関さんのどぶろくも、宮司さんのお下がり膳にピッタリと合って実にウマし、だった。
利き酒師の宮司さん、今関さんのどぶろくを「うまいです」といわれた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
久しぶりに先週の木曜から出ずっぱりで疲れたね。
帰宅後、ビールを飲んだら爆睡。



2004年12月04日(土) 金山出石寺へ

松山1日目 ヒサコさん宅へ。出石寺登拝に備える。
3日
ヒサコさんと、松山駅発8時6分のいしづち1号で内子へ。内子で、なみちゃんママにお会いする。ご主人に送っていただいて一路、金山出石寺地蔵越えの歩き遍路道の入り口へ着。9時15分、証拠写真をとって歩き始める。
10時前に、(宮崎地図の)標高390mの林道合流点に着くも、ここからが道分からず。
地図の場所にない。
遍路札は道のはしっこにおちていて、それがどこに付いていたかわかんないのだ。
ここしかない、というところに入ってみたが、ソマ道という感じ、遍路道ふうでない。
ろうろするうちに、なんとこんこんこんという、まるで木の小さなドラムをたたくような音がするではないか。
見上げるとキツツキが木をつついている。
テレビでは見たことがあるけど、ナマのキツツキがお仕事中のところ、初めて見た。そうか。。。多分こっちだと教えてくれているんだ・・3人でガッテンして、地図とはちがうが林道ウオーク。
しばらくいったら、見事にヘンロ印が出てきた。
つ・ま・り、キツツキくんがこんこんと教えてくれていたところ(そこは、私たちはこれは遍路道じゃないと戻ってきたきた方向でもある)を無理にでもあがるとここに出る、つまりショートカットルートであったと判明。
やれやれ。
キツツキくん、ありがとう
私は、ここで、「そうか、人生も、いろいろサインが、実は、アッチからきているんだよな、それに気づくかどうかって事なんだ」
と思いました。
キツツキくんから、学びました。

宮崎さんの地図、この390m地点あたり、ルートがちがっている。と思われる。
(出石寺の住職さんもそういわれていた、ただ、ヘンロ印を探して進めば何とかなる)

ここの後はさして迷うところもなく(一ヶ所、丁石に導かれてのぼったら、天照大神さんの石碑でお参りしてよということなんだと参拝してきましたが)
12時半すぎに出石寺着。
後半3キロは、山道歩きでよろしい道でした。
天気も上々で景色もすばらしく。
お参りの後、パワーのある本堂前でなみちゃんママがつくってきて下さったお弁当をいただいてもういうことなし。
帰り、ご住職さんにご挨拶して、歩いてきたのでと、納経の紙に今日の日付を入れていただいた。
下りは、八幡神社の方に出るルート。
すばらしいお天気に恵まれてよかった。
念願の出石寺へ自分の足で登ってお参りしたいという思いが果たせてホントにありがとう、ヒサコさん、なみちゃんママ、観音様に感謝。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、ヒサコさんの主宰する松山の同人誌「スクランブル」の忘年会に出て帰宅。
本日、嵐のようなお天気だ。
出石寺登拝、昨日でよかったです。



2004年12月02日(木) 松山へ

これから、ちょこっと、松山へ。
日記は、数日お休みです。
いい旅するよ。



2004年12月01日(水) 路上は恐いなあ

初めて「路上」に行った。
も、ものすごく恐かったす、です。
夕方で、下校時の子どもはいるわ、杖付いて散歩しているお年寄りはおいでになるわで。
指導員には、場内でやったことをもっと生かして下さいね、無理だったら、指導員も手も足もだすんだから、安心してスピードを出して・・・徐行ばっかりでブレーキ踏むばかりじゃ、皆の迷惑ですからね、とさんざんいわれたわ。
はああ・・・・・
ヤッパ、イラクより恐い。

夕方、原付実習(必須)で、内心「わたしゃ、原付のような、寒くて、暑くて、アブナイモノに乗るんだっら、100%タクシーに乗るのに、どうしてこんなんやらんといかんの」と思っていたんだけど、見事に指導員に見透かされて、「原付に乗られますか」「いえ、原付に乗れといわれたら、100%タクシーにさせていただきます、と言うと思いますよ」といったら「じゃ見学でいいですよ」と一気に実地なしとなった。高校生に交じって、冬の寒空に原付ィと思っていたとこだったので、やれやれ。
指導員としても、暗くなって、おばさんにケガでもされたら、困るし・・という気持ちがミエミエで。
お互いの利害が一致したということでありました。

明日も当然路上があるんだけど・・いやだなあ。


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