世界お遍路 千夜一夜旅日記

2004年11月30日(火) 仮免拝受

朝イチで教習所へ。
場内検定、合格判明、11時。
仮免学科試験、13時50分。
教習所のパソコンで、必死に勉強だ。
合格判明15時15分。
で、めでたく仮免をいただきました。

場内検定、今回はダンプはいなかったし。
だが、方向指示器を出すのを忘れること1回、キープレフトが甘い、右寄せで入るところで確認ミスが・・・などいろいろといわれたので「ああ、またダメ」か、と思っていたんだけど下さいました。
学科は、ここまで頭からこぼれない程度にはPCでお勉強していたので、ゆとりでしたが。

ヤレヤレだが、しかし、今度は「車で世間」に出るのだわ。
イラクに行くのとどっちが危険かな?

今日は、Kさんのお守り水晶、ミッチー先生から旅の時にするようにといただいたお不動さんペンダント、dさんからいただいた破磐神社さんの竹炭お守り、行者さんのお札、天川弁財天の五十鈴守り・・と私がパワーありそうと思っているものをみんな身につけていきました。なんて弱い私なんでざんしょ。(笑)
氏神の八幡さんにも実はお願いしていたんで、今日は帰ってすぐにお礼参りにいってきた。
ウオーク1時間の神社だけど、1日ストレスを感じていたので気持ちよかった。
すごい夕焼け、でも多分、冬の夕焼けとしてはあんなモノかな、と思いたい。



2004年11月29日(月) 北海道の地震

北海道釧路沖で、震度5強だ。
ヤフーの地震情報によると今日1日だけで、震度1も含めて11回もあった。
これは、プレートの沈み込みによる地震で、中越の直下型とはちがうが、もっと大きくなると広域で揺れて被害が大きくなる。関東大震災がこれだった。
気象庁のHPは、震度3以上しか乗せないので、この頃はもっぱらヤフーにお世話になっているが、余りの地震の多さにビックリする。
北海道もしょっちゅうのところの一つ、お見舞い申し上げます。

それにしても、その数の多さを見るにつけてもこれだったら、どこにいつ大きなヤツがきてもホントにおかしくないのだわとしみじみ思う。
満月前後のここ数日、奈良、兵庫、和歌山・・とあちこちで無感地震も含めて起きている。
この無感系の地震が全くなくなると「空白域」、アブナイとなるとか。
中越は、この春くらいからこの「空白域」状態で、やばかったらしい。
徳島では、アオリイカが大漁で、「地震の前触れか」という記事が徳新のHPにあった。
この前のカエルの背泳ぎも心配だ・・・。
私が地震情報を毎日見るようになって、もう1ヶ月が過ぎるけど、そういえば、四国ってないような・・・
さらには、この頃、道を歩きながら、このうちの瓦、震度5が来たら落ちそう、6が来たら、このうちの玄関のここがつぶれる・・とか・・このブロックはひび割れしているし、イくな・・・という目線で見ている、シュミレーションしている自分がいる。
こういうのも、地震後遺症というのだろうか。

義妹から、1日外泊が許されて帰ってきたという知らせが入った。
よかった。
しかし、明日から、転院で長期入院型のリハビリ専門病院へ移る。
長期戦になりそうだ・・・どこまで左手の機能が回復するか、だ。
でも、とりあえずは、医者に外泊を許されるということは「経過良好」ということで、喜ばしいことだ。
ホントに少しホッとした。よかった。





2004年11月28日(日) 立江寺まで

朝、8時15分発。
氏神さまの八幡神社さんにお参りして、遍路道途中にある天満神社もお参りして
9時20分になった。
さて、まずは恩山寺を目指す。
空は青くて雲も見えず。気持ちいい。
すったら、すったら。55号沿いのルピアでトイレ休、ついでにアイスクリームを食べて少し長く休んだ。たちまちに11時。さあもう少しと歩き出すも、途中にでかい鳥居に気がついて見上げれば、八幡神社。
そうであったか、と寄り道でお参りした。
このあたりは源義経が平家を追って上陸したところとかで、神社拝殿そばには大きな義経像があった。
そうなんだあ・・・
お遍路で何度かとおっているところだけど、こういう寄り道はしなかったわ。
恩山寺は、古い山門に行く道が危険とかで通れなくなっていた。
境内着11時半。
岡山の講がお参りに来ていて、なんと境内に広がって、お参りの合間に健康体操をしていた。ビックリしたぞう。
彼ら、どちらか一方によるとかいう団体マナーを全然守っていなくて、本堂でも大師堂前でもバアアーーと広がり放題。ほかの団体がいたらひんしゅくだ。
私は、境内でのんびりするつもりだったので、健康体操している様子に「ほおお」だったが。
お参りを終えた後、ベンチでおにぎり、チーズ、ミカンの昼ご飯を食べた。
団体さんが帰ると境内はのんびり閑散状態でホント気持ちよかった。
やっぱりお寺参りはいいなあ。

秋空へ 元気に歩くぞ やっほっほらほ  駄句でござった。

12時半、恩山寺発。
いつもは来た道を戻って車道を行くのだが、今日は牛小屋のところから竹林を行く道を進んだ。これまたのんびりとして、グッド。
立江寺着1時半。
お参りして2時14分の電車で戻った。
今、お土産の立江餅でコーヒーを飲んだ。美味。
よきお遍路ウオークでありました。

ところで、歩き遍路さんがいたら、お接待しようと、自家製お接待ぶくろを持って出たのに、誰にも会わず。
なんで?
たまちゃん情報によると、香川あたりでも少ないようだし。
ワタシ的には、春より天候が安定している今の時期は歩き日和だと思うが。
ただ、陽が短いので健脚でないと距離を稼ぐ意味ではきついかも、だが。。
それにしても、歩き遍路は下火か?






2004年11月27日(土) ネパリ

午後から、年賀欠礼のハガキを出しに徳島駅の郵便局へ。
帰りに、今日は歩くぞと駅から、うちまであるいて帰った。
途中の寄り道は、金比羅さんとネパリ。
金比羅さんは、前から一度寄りたい寄りたい、お参りしたいと気になっていた。
すごく古くて、なおかつ、なんと境内地の岩の間から水がしみ出てそれが手水の水になっているではないか。
ウーム、いいジャン。
岩盤の上に立っている神社で「力」があった。

ネパリそこから少し行ったお店。
これまた、バスのまどから気になっていたお店だ。
先日今関さんから、あそこはネパールに発電所をつくりにいった人の一人がやっているネパールのものを売る店でオレの飲み友だち、というので、じゃにいってみるかとなったわけ。
売り物は、「紫塩」というヒマラヤ岩塩だ。
この塩の特徴は、非常に硫黄分が濃いということだ。
なめると、まるで温泉タマゴを口にふくんだような具合。
以前、瞑想をやる人からちょこっともらってなめたことがあった。
これ、ふろにいれると、硫黄泉になるとか。
この塩と緑茶を混ぜて食べたり、顔につけたりするといい、いうものを買ってきた。
おいしいのだわ。
天ぷらとかの味によろしいかと思う。
いろいろとお話しして楽しかった。
気がつくと、外は真っ暗。
ばしばしと歩いて帰ってきた。
やはり、歩くのは究極のカイカーン。

うちに帰ると、部屋の中には、昨日の水仙が満開で香っている。
5本しかないのにすごいなあ。

義妹の実家のお父さんも倒れて、同じ病院にただ今入院中らしい。
母はおかしい、と感じた声のテンションの高さがやや落ち着いてきた。
軽い地震ノイローゼだな、とわたしは思っていたのだが、少し落ち着いたようで安心した。
みんな疲れているんだよ。
友人、知人、親戚・・全壊、半壊ごろごろだもん。



2004年11月26日(金) 不思議な夕焼け

 昨日に引き続いて、不思議シリーズだが、今日の夕焼けはちょっと変だった。
徳島ではおなじみのピンク色のホントにきれいなヤツなんだけど、西から、ずーーと天の川のように、天を横切って東へ向かっていた。それで天空(天のまん中)は、色がなくて、東にいくと、現れるもの。
あれれ、変だ、と思った次第。
まさか地震系の夕焼けじゃないよね。
満月が近いし、中越の地震は震度こそ弱いが、確実に数が増えているし、心配だ。
 うちの前の道は、夕方になると犬の散歩でにぎわう。
 どこにもある なにげな平和な景色だ。
 地震直前、中越にもあった時間だと思うと、無性になにげな景色が貴重だと思えるし、この世はホントに無常、とも感じられる。
 
 離職してヤッホー、で、すぐあとに地震で、郷里から帰ってきてずっと気分は底で、しかし、底も悪くはなくて、じいと、自分の本質、さまざまな状況、将来等々を考える時間になった。ヤッホーで、浮かれ歩いていたら、持てなかった時間で。
 そんなこんなで1ヶ月が過ぎた。
 思うのは、歩いて考えるのはいい。
 お遍路だと、とにかく瞑想のようにただ歩くことに専念するが、近所の神社や川縁をつれずれなるままに歩くと、元気と前向きが近づいてくる気がする。で、ものも考えられる、健全に。
 景色も季節も楽しめるし。
 散歩の勧めだなあ。
 で、今日は、髪を切ったあとに園瀬川沿いを歩いて天満神社まで。神さまにご挨拶した。この道は遍路道で、ヘンロ印がうれしい道だ。
 帰りに、川沿いで、日本水仙がさいているのもみつけてゲット。
 好きな花、いい香りだ。




2004年11月25日(木) 不思議なカエルの背泳ぎ

夕方、国道11号の橋からふっと川面を観たらでかいカエルがあおむけになって、右後ろ足をけっぽって、ぐるぐると円形背泳ぎをしている。
子どものころにお祭りの夜店の売り物に、洗面器のなかでプシュプピュと空気を送り込んで動かすゴムガエルがあったけど、あの動きによく似ていて・・あんな動き方する本物カエルは初めてみたんで珍しくてしばらく観察していた。
5周ほどもして、ぱたっと動かなくなった。脱力して浮いている。変だあ・・・
で、小石を投げてみた。動かず。
どうしたん・・・
生体反応がないではないか。
しばらくもしかしてあれは、カエルのいまわの際のあがきだったのだろうか??
観ていたが、全く動かなかった。
ナンマンダブ、ナンマンダブ〜〜〜

今日はいい天気だった。
夕日も、空気も、晩秋の景色も皆うつくし。
心まできれいになれそうだ。
徳島はいいなあ。

なんで私が国道あたりを歩いていたかというと、徳島市のボランティアセンターまで行ったのだ。
下のような「企画書」をもって。

  ::::::::::::::::::::::::

 新潟中越地震 山古志村復興支援「掘るまいか」チャリティ上映会 企画メモ    

【趣旨】
私は、山古志村のとなり長岡市(新潟県中越地方の中核都市)の出身で、10月末から11月10日ほど帰ってうちの手伝いや1日だけでしたがボランティアにも行きました。滞在中、余震で立て続けに震度5が3回という恐い体験もしました。
 あちらの惨状に心を残してこちらへ帰ってきたのですが、遠くに離れている私にできることはないかなと思っていました。何か少しでもお役に立てるできないかな、と・・・ 
 
最大震度7を記録した川口町、小千谷市、長岡市など、どこの地区の被害も大変なものだが、全村避難を余儀なくされた山古志村の被害は特に深刻です。
土砂災害によって刻々と村がダム化して行く様子を、避難所のテレビで見る気持ちというのは本当につらいものだろうと思います。
山古志村は、牛の角突きや錦鯉の発祥地として有名ですが、日本で最大の手堀トンネル「中山隧道」があります。
 この長さ900メートルほどあるトンネルは、村の人たちが16年をかけてまさにツルハシだけで掘ったものです。
 冬になると4メートル余りの雪が積もって、陸の孤島となる村では冬に病人がでると、雪崩や遭難の危険を冒して峠を歩きで越えて運んだのですが、半分の人が手遅れで亡くなりました。そんな悲劇をなくしたいと村の人たちがまさに身銭を切って掘り続けたものです。
 そのドキュメンタリー映画が「掘るまいか 〜中山手堀隧道の記録〜」です。
 私も、昨年観ましたが、感動的な大変いい映画です。
「文化庁文化記録映画優秀賞」も受賞しています。
 これを上映できないかなと考えました。
 新潟は遠くてボランティアにはいけないけれど、何か協力できたら・・と考えておいでになる方は徳島にも大勢おいでになるのではないかと思います。
 そういった方々に企画実行を共にお願いして、映画を観て「協力金」を払うことで参加したいという方には観ていただいて、ということはできないでしょうか、と思う次第です。

【方法】
参加をお願いできる方と共に「実行委員会」をつくる。
映画上映までの手順に従う。
平成16,11/25
 
      ::::::::::::::::::::::::

ボランティアセンターの方は「じきに徳島から中越地震のボランテイアに行かれた方々の反省会がありますから、そのときこの紙をお渡ししてみましょう、お話をしてみましょう」といって下さった。
実現の可否はまだワカランけど、朗報を期待したい。
有志が集まるといいなあ。

*****
修験、不合格、慰めや励ましのメールをいただきました。
ありがとうございました。
ボチボチでんな。



2004年11月24日(水) 落ちた、ぐす(<-->)

修了検定、落ちました。
ぐす・・・すす
目視、忘れ。
優先道路で待たずについ出ちゃった。(だって、相手のダンプさんが止まってくれたんだモン)冷静に考えれば、左優先車線で、ですら。
運転がぶれるともいわれたし・・
今までの練習で踏んだこともないところを踏むし(路肩50センチは踏んだら地雷) などなど。
あと何回落ちたら取れるンかな・・・いや、そもそもとれるんかいな。
なんて帰ってきて、落ち込みました。
あるいはまた
そもそも、修検の前に歯医者へ行って(予約しとったのだ)麻酔を打って、神経を抜いた私もかなりおバカでありました。
右の歯治療のせいか、首の右が痛いしねえ。
今日は早寝をするとしましょう。
ねむりゃ、元気になれるでしょう。




2004年11月23日(火) 余震ピタッと・・もこわい

昨夜から、余震が止まっている。
これもこわいよなあ。
でっかいヤツくるんじゃないかと・・・

山古志村復興支援チャリティ「掘るまいか」上映会
ができないかと思って、あちこち問いあわせた。
単に募金より、あれ、あのいい映画を見て欲しいと思って。

でチャリティに限り1回上映 フィルム貸し出し5万円
会場費 3万から4万(無料のところにもあたったが空いてない)
上映技術料(映写技師さんの派遣など)7万円
↑がボランティアの人がいるといいのだが。
わたしが完全ボランティアは当然。
会場や上記の問題がクリアできたら、それ以外のボランティアスタッフ等々は、また大学などにあたって探せる。(と思う)
1人協力金(鑑賞料金)1000円として、70人分を技術料というのはきつい、やはり。
上映技術の問題がクリアできたら、来年年明けくらいまでになんとかしたのだが。
徳島在住あるいは、近在の人で、1日だけボランティアしてくれる16m映写技師あるいは経験者はいないだろうか・・・
デジタルメディアの上映というのもあって、これは無料で機材の貸し出しがあるらしいが・・・こっちの熟達者でもけっこうです。
知っておられる方はお教え下さい。



2004年11月22日(月) 今関さんちへ

昨日は今関さんのお宅泊。
山川町で、障害者の方のコンサート「やまびこコンサート」があって、英子さんが朗読ボランティアで出演というので行った。
障害者の方が書いた詩に、曲をつけて地元で活動しているミュージシャンが唄う、あるいは朗読するといった催しだ。
障害者の方の詩は公募して選ばれたもの、その言霊性のたかさにすごいなあ、と思った。
英子さんはクリアな声の持ち主で、聞き取りやすいので、朗読にはピッタリだ、緊張していたけどよかった。

夜は、宴会だった。
新酒のどぶろくのうまさに飲み過ぎでした。
たまちゃんと、ご両親も来て一緒に歓談。
たまちゃんはお泊まりでした。
たまちゃんは、英子さんとお風呂に入りました。
楽しい夜でした。

楽しい時間を過ごして、帰ってきてネットで教習所の学科の勉強、だって忘れそうだモン。
教習所のサイトに行くと、勉強できるというわけ。
少しお昼寝、その後散歩。
今日は、すばらしい夕暮れだった。
このところ、地震雲は見かけない。

たまちゃん、足の指に傷があって痛そうだったんだけど、わたしと別れた後にお医者さんにいったらこれは大変、と切開したとか。
昨夜もお風呂にはいったし、レオマじゃ12000歩も歩いたし・・。
しばらくは静養。お大事に。

明日で、1ヶ月。
余震が少なくなった。
でも、あちこちで震度3から4の地震が起きているようだが。
そりゃ100年に一度という地震が起きたんだから、狭い日本、伝わっていくよねえ。
今年はもうこれ以上何もありませんように、と切に思う。



2004年11月20日(土) よい天気だったね

今日は、やっと「見極め良」のハンコをもらった。
これで、場内検定がうけられて合格したら「仮免」となるのだが。
自信?
ない。

よい天気だった。
夕方、散歩にでた。
空にはちょうど半月がぽかんと浮いていて、暑くもなく寒くもなく。
新潟は、初冬、ということを忘れる。
歩く快感を一番味わえる季節だ。
新潟では、あの、何日も陽がささない、灰色の空から落ちてくる雪の白さが際だつ季節がやってくる。
この陰鬱な時期がいやで新潟から逃げ出したといっていいわたしだが・・・今もいやだなあ、やっぱり。

小千谷や長岡山間部では、全半壊した自宅を家族で壊して、野焼きする光景が目立つという。
市当局は、ダイオキシンの関係があるし止めてくれといっているらしいが、それでも雪が降る前に、もしかしてつぶれて人の迷惑になるのが悪いから・・とする人が後を絶たないとか。
要するに自宅のお葬式をしているんだよね。(=_=)

長岡市長のHPを見た。
彼は建築学が専門らしいが、神戸と中越がちがうのは「地盤被害」だといっている。
確かに、新潟県の典型といえる中越地域は「地盤」・・・大地への依存率が高い。
圃場、畑、ため池、農道・・・・すべてがやられている。
ここに拠って立っていた農民なんだよねえ・・・・


 :::気分転換に.壁紙変えました 気がつきました?:::






2004年11月19日(金) のめしこき

郷里では、怠け者のことを「のめしこき」という。
「のめしをこく」が、怠けるの意味になるのだ。
この1週間、実に「のめしこき」だったと思う。非生産的であった。
気持ちが沈むというか、落ち着かないというか、とにかくダメだった。
これをしなくちゃ、あれもしなくちゃ、あのことを考えなくちゃ・・と分かってはいるんだけど、身体も頭も動かない。(現在進行中)
まあ、予約していたり、約束が成立していたりしているものに関してはななんとか動いたが。
昨夕、カメラマンが、巡礼マガジンの最終号ができたからと持ってきてくれた。
改めてみると、ずいぶん大昔につくったような気分になった。
しかし密成さんの話の中に「巷にはげんでいくたびか泣く」というお大師さんの言葉を紹介して下さっていて、そうだったお大師さんも泣かれたんだった、私たちは、弘法大師の生涯として完結した形で眺めているけど、生きている最中あの方の「生」もまた、ばくちのような、ロシアンルーレットのようなときがあっただろうなと感じる。
わたしごときは、悩んで考えあぐねて当然だ。

新幹線が来月末復旧ってホントかな。
余震は少なくなってきている。
うれしいけど、しかし、まだ震度5以上の可能性は10%とか。
4つの大きな断層、それ以外にも沢山の小さな断層がうごいているというし・・・
27日の満月前後が危ない気がするけど、それを過ぎたら一段落してくれるかなと思う。(と人間が思うようになってくれたら問題ないのだが)
まあ、余震がおさまりつつあるのに応じてわたしの気持ちも少し上向いてきているように思うし。
それにしても、地震で揺れているところからはるかに遠いところにいるアンタがどうしてそんなに不安になったり、落ち込んだりすんるんだあ?不条理だ、おかしい、という人もいるだろうが、しかし、それは理屈じゃない。
わたしは揺れていないところにいるんだから、ふつうに、むしろ元気よく生活しないと、と自分によくよく言い聞かせてもダメだったもん。
こういうセルフコントロールには、かなり自信があるんだが。
でもま、結局無理せず「のめしこき」の自分はいやだけど、「仕方ない、なっとれ」ということで素直に腐っていたんだけどね。

さてさて
しかし
ここらで気分を変えて、「のめしこき」脱却を計りたい。
明日がいつもあるとか限らない・・のだから。




2004年11月18日(木) ハローワーク

ハローワークにいって、失業認定説明会をうけてきた。
100人くらいも来ていただろうか。
初めての体験で「なるほど、なるほど」で時間が過ぎた。

昨日からなんだか、無性にケーキが食べたくて、帰りにいそいそと買ってきた。
で、2個ぺろり。
冬眠前の熊のような食欲だ。

今日は寒い日だった。
思いは、雪降り前の新潟中越に飛ぶ・・・
余震は確かに少なくなった。
避難所にいる人は1万人を切ったというが、それはそれで避難所に居続けなければならない人はわびしく、寂しいだろう。
実際、経済的にゆとりがあって家族に病人などがいる人で全壊、半壊の人は自費でアパートなどに入った人も多いようだし。

今年も後1ヶ月と少し。
ここまでで、十分すごい年だった。
転居、休刊、父の死、地震、義妹の入院・・・・一生忘れられない年になるだろう。
「禍福はあざなえる縄のごとし」っていうし、来年こそは「福」の撚り目にあたりますようにと祈りたい。台風や地震、水害被害のすべての人にとって、ね。




2004年11月17日(水) 余震2回の心配

ネットの地域ニュースで、中学時代の同級生の名前を「住職さん」として発見。
彼のうちがお寺でお父さんが偉い坊さんだって事はそういえば・・って感じで知っていたが・・・御山町という地震被害が大きかった地域にある禅寺だ。
山本五十六がたびたび訪れて、彼のお父さんを師として禅を組んだ事で知られる寺。(山本五十六の参禅のことは、今回初めて知った)
その寺、全壊でぐちゃ状態。築70年だった。
同級生の「英俊くん」は、小さいお堂でもいいから再建したいとかたっていた。
「栄作くん」という同級生は、家を新築したので旧自宅を近所の年寄りのデイケア的な場所として開放することにしたと年賀状に書いていたはずだが・・・彼の家は、栖吉町という長岡でも一番被害の大きかった地域の一つだ。
あれこれと考え、思い出されてしまう。

ヤフーの地震情報によると、本日夕方までの余震は2回。一気に少なくなった。
これもまた心配だ。
また、ドーンとでかいのが来るのではないかと思うと・・・

***********
と書いて、さて寝る前にと思ってヤフー地震情報チェック。
来ているじゃないのよ、19,20,21時代それぞれ1回づつ。
震度こそ、小さいが、おさまっちゃいない。
やっぱなあ・・
そうそう、昨夜、テレアサ「報道ステーション」でいまだ「天然ダム」の表現を使っていた。山古志村のそれに対してではなかったが、チョー不愉快だった。
全く、地震で土砂がくずれてできたっていうのにさ。
例えば未来に、多摩川や隅田川、荒川が地震でくずれたビルの累積でせき止められてダムができても、「天然ダム」っていえよな。
この国は地震から逃れられない運命なんだから・・・地球の地震エネルギーの1/10が、この小さな日本で放出されるのだという。
イラクだの、国連常任理事国入りだのに金を使うんだったら、防災に使って欲しいもんだ。
三位一体改革とかで、福祉や子ども系の予算がどんどん減っていく。
書いているとだんだん腹が立ってくる、もうねよう。












2004年11月16日(火) いつのことやら

ホントは、きょう「見極め」っていうのをもらって、明日が場内検定のはずだったんだけど、「見極めは次回」といわれてしまった。
曰く「年の数だけ乗って下さいよ」だって。
すべてが1週間のびる。
まあ、安全のためだしいいけどね。
だけど、学科の見極めは1発で合格したのにネエ。
がっくりだ。

一気に寒くなって朝晩の空がきれいだ。
穏やな雲が漂っていると、ホッとする。



2004年11月15日(月) 食はいのち

ふれあい健康館の「徳島語り場」のマネージャーさんに、行かないと?と誘われて、求めていた「佐藤初女さんの講演会 食はいのち」のチケット。
いってきた。
今だ余震が続いているので、どこにも行く気にならず、する気にならず・・・だって、わたしだけ楽しんでは申し訳ない・・。という気分で、教習所と、必要最低限の外出のみ、逼塞状態だったのだが。
行ってよかった。
元気がでた。

気持ちが逼塞して、マジに免疫力は低下してきているようだ。
右肩から腕がいたくて、神経が立っているようでピリピリする。
多分、風邪気味で三叉神経が過敏になっている気がする。
今年、年が明けてからこのかた、いくら多忙でも、大変でも「ビョーキのビ」の字もなかったのにねえ。
ボチボチだ。
だけど、今考えていること、勇気を持って取り組んでみようという気持ちになってきた。

まあ今日は早寝したいと思うので沢山は書かないけど、初女さんのことば
「ある一線までは誰でもやること。そこを越えるか越えないかが、人の心を響かせるものになる」
「一事に徹すれば、万事に通ずる」

八〇歳を過ぎてなお青森から、おむすびのお話をしにおいでになる初女さんはすごい。

佐藤初女(はつめ)さんのことをご存じない人は、お名前でネット検索して下さい、どんな方かわかります。
すばらしい、というかすごい方です。
尊敬し、お慕いしたい方であります。





2004年11月14日(日) 19種の人類の果て

我々は、アフリカに生まれて、19種の人類が絶滅してきた上に生き残ってきたんだというが・・・この先の生き延びるんだろうか、はなはだ不安だ。
すでに、少なくとも日本人は「ヤバイ」んじゃないか。
まあ、滅びてもいいや、ね。
だって、ろくなことになっていないよ、この国。

かなり免疫力が低下しているらしいわたしは、こういう感じでこれまたろくなことを考えいないというわけだ。

浅間山が、元気だ。
わたしは、独断と偏見で浅間山の噴火活動と中越地震には因果関係ありとにらんでいるから、これまた「ヤバイ」と思う。
今まで一度も活動したことのなかったらしい活断層を目覚めさせたのは、浅間山だよ、絶対。
昨日、今日と余震が数こそ減らないが震度は小さくなっているのに、またでかいのが来そうでいやだ。
このところ中越だけでなく、あちこちで揺れている。
意外にも岐阜が多い。

台風、100年に1回規模の大地震、火山活動・・・次は何が来るんだろうか。
戦々恐々とする。
この前は中国の原潜がうろついていたようだし、テロとか戦争とか「最低最悪」が来ないように祈るばかりだ。
ノストラダムスの大予言、今年のことじゃなかったのかな。
ノストラダムスが計算間違いしてたとか。

天皇家のお嬢様がご婚約。まあ、慶賀。
この時期に発表するのは控えたいって・・でも、号外とかでていたよ。笑った。
誰がすっぱ抜いたんだろね??





2004年11月13日(土) 長岡市地震情報の写真

長岡市がシリアスな市のHPを立ち上げている。
http://www.bousai.city.nagaoka.niigata.jp/jisin.html
(グーグルやヤフーなどで、長岡市地震情報と検索をかけてもでてくる)
このHPのコンテンツに「写真」というのがある。
ここを見て下さい。
危険で立入禁止、一般人が入れなかった長岡の被害がひどい地域の写真が沢山でてくる。
いや、すごいものである。
改めて、戦争最低最悪(ファルージャ)地震はその次だと思う。
英語、タガロク語、中国語、ポルトガル語などが用意されているが「more」でリンクされているのは、横浜市だ。
これって、インターネットのよさだよね。

わたしが子どもの頃からなじんできて、遠来のお客さんがあると、つれて行っていた成願寺温泉は廃業した。悲しい・・・
成願寺温泉は、7月の水害の時も被害甚大で、そこへ地震。まさに泣きっ面に蜂である。もうダメだと、判断したようだ。
全国的に有名な「魚沼産コシヒカリ」は、今回の地震の震源地のひとつでもある小千谷を北限として、川口町一帯(合併で新市になった魚沼市)あたりの米のことを言う。まさに、地震被害が一番ひどいところだ。
信濃川支流の魚野川から揚水して、あるいはまた山のてっぺんにつくったため池に天水をためて流して冠水してあの美味しいコシヒカリを育てた。ある意味、実に精巧につくられた農業だった。それは、もちろん、新潟の百姓の粘り強さの象徴みたいなモンだが。
しかし、揚水ポンプが壊れ、天水が地割れで枯れた。
いろいろなものがピンチ!!だ。
いろいろな方々から、わたしにも励ましやお見舞いのメールやお便りをいただいている。ありがたいことで・・・で、そんな力をいただいているわたしに何ができるだろう・・・と今考えている。

新潟日報の出版部にネット上から「古志の里2」という本を注文したら、届いた。
美しい・・トラベラーのわたしが見た山古志村がそこにある。
しかし、しかし、気になるのは、この最新本のあちこちに地震雲らしきものが写っていることだ。
で、昨日の朝、今日の夕方、うちの窓からもあやしい雲が観測された・・・。
文化の森方向へ向かっていた・・昨日も今日も。
さらに、今日松山の友人から、同人誌が届いて、彼女が撮影した「遍路の朝 土佐清水市 久百々」ってヤツにも明らかに地震雲が写っている・・・。
こちらに帰ってきてまどがあいていて、強い風で戸が揺れてもすわ地震か?!とビビル(これも、地震後遺症の1つだ)わたしの気のせいだといいのだが・・・四国も心配だ、南海地震が。




2004年11月12日(金) 天然ダムという言い方

自然にできたのではなくて、地震という災害で始まったせき止めでできたのに、「天然ダム」という言い方はおかしいという抗議が山古志村からあってこの言い方は止めるとか。
んだ、んだ、全く。賛成。
さらに、あの日々水没していったおうちの人は、どんな思いで自分のうちが「水の深度」の基準にされるのを見ているだろうか・・かわいそうな・・泣いているだろうに・・テレビは冷酷だと、うちの家族は言い合っていたが。
また、小千谷市で取材が許されていないところにボランティアと偽って入ってばれたテレビ局があった・・関西テレビ。市の職員に咎められたので止めてホントにボランティアをして帰ったらしいが。お粗末。
あれは10月25日すぎのテレビだったと思う、テレビ朝日かな・・・小学生が3人亡くなったがそのうちの一人の家族・・おばあちゃんとおねえちゃんにマイクをむけて当時の状況を話させてお姉ちゃんを涙ぐませていたっけ。ヒデーヤツラだと思った。あんときは腹が立った。
で、さんざんやっといて「醒めるのもテレビが一番早い」にならないようにして欲しいもんだ。
余震はまだまだ続いているぞう・・



2004年11月11日(木) 山古志村の種苧原地区

山古志村の種苧原地区に、電気が復旧した。(喜)
この地区の住民は喜んでいるとか。(そうか、そうか)
ここは、温泉などもある村の中心地の1つだったはず。
「山古志村は廃村でしょう」という、非情なメールを下さった方もいたがなかなかどうして。
村は広いし、錦鯉発祥の地という誇りはあの村の住民からは消せないと思うでな。
過疎地といいながら、錦鯉の農家(というのかな)は、けっこう若手経営者はいたはずだ。
錦鯉って、いいものは1匹1千万円とかで売れることもあるらしい。
廃村にはならないと信じている。
ところで山古志村は、確か4月からは長岡に合併して長岡市山古志町になるような・・・ワタシは「村」って響きが好きなんだが。日本一大きな村だった新潟県中之島村も今は町になってしまった・・・
長岡市山古志村はダメなのか?と姪に聞いたらそれは×らしい。

気象庁の発表
「新潟県中越地震で3日以内に地震の規模M5.5以上の余震(震度5強)が起きる確率は約20%、M5.0以上の余震(震度5弱)が発生する確率は約30%。7日以内の余震確率、M5.5以上が約30%。M5.0以上は約60%」
だそうな。
60%って、明日にでも起きるってことだよ、な。
いつまでたっても、余震地獄からは逃れられないというわけだ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
アラファトさんが亡くなった。
75歳って「若い」よ。
ウワサによると、イスラエルの密偵に毒をもられ続けたんだという話。
モサドだったかしらん?イスラエルの諜報機関は・・やりそうだ。
というか、あの酷薄面のシャロンは絶対やりそう。
あの顔は、ラムズフェルドと同じくらいに嫌いだ。
どっちも、頭のいい悪魔が人間の皮をかぶっているという感じだもん。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヤフーの地震情報を見ていると、昨夜から今日にかけては中越だけでなく台湾から日本中に地震がきている感じだ。
根室とか和歌山、宮城などもけっこう来ている。
新潟の上越・中越の近辺は、4つのプレートのうち、フィリピンプレート以外の3つが深く関わっている。
ここで起きた激震が、プレート沿いに地球の内部でジワジワ伝導しているのか??




2004年11月10日(水) 一寸先は・・・

昨年の今頃は、父もまだ歩いていて生きていて、もちろん地震もなくて、義妹も元気で・・であったが。
父は死んで、義妹は倒れて、生まれたふるさとはめちゃくちゃ。
ワカランものである。

新潟日報に、長岡生まれの女優星野知子さんが「テレビの報道でふるさとの言葉を聞くとせつなくなる」といっていたが、その気持ちはよく分かる。
取材される人の顔つきが・・・と書いたが、彼らが明るいのはいわゆる「事故後の躁状態症候群」だろうと思う。シリアスな交通事故後は、みんな一時的に「生きていてよかった」と躁になるという。それだと思う。
しかし、この後は「鬱」がくる。
これが恐い。

突如襲う地震はある意味「交通事故」と似ている。交通事故は、40秒に1件起こっているが、たいていの人が「自分は大丈夫」と思いこんでいきている。
地震だって、日本の回りに大平洋プレート、フィリピンプレート、、ユーラシアプレート、北米プレート(確かこれでよかったはず)と4つのプレートがぎしぎしと集まってきている状況、活断層の数を見れば、今回のような直下型がいつ自分とこに起きてもよいと考えたほうが自然なのだが、みんな、なかなか考えられないのだ・・・。
新潟日報のブックレットで「地震、新潟は大丈夫か?」という本が1998年?に出ていて、そこで「空白地域になっていいる長岡付近がアブナイ、活断層がたくさんあるにもかかわらず大地震が来ていない」と予言していた大学の先生がいる。
大当たりだだった。
雪の備えばかりに気を取られた県行政よ。
しかし、まあ、雪への強化住宅を造るためには公的資金援助をしていたようで、そのために全壊しなかった、そのお陰でにげられたという人は沢山いるようだが。
(新潟は過疎地なので亡くなった方が少なかったと思っておる人もいるようだが、それだけではない、家屋の構造による、つぶれるまでの時間が稼げたのだ、うちが頑丈だったから。ガルという揺れ表示によれば、神戸の2倍以上激しく揺れたらしい)
おまけに今年は、水害まであったし。
余震の震源地として時々出てくる見附・栃尾は水害でもやられたのだ。
さんざんである・・・この地域の人がいった。
「水は引いてくれれば、もう来ない。後はがんばろうと思えたが、地震は余震が続く限り終わりにならないし、余震もおしまいだと誰もいってはくれない・・・」

ところでいま、空白地域は新潟近辺では秋田、長野らしい。すこし離れたところでは、関東、東海。らしい。
南海地震も50%の確率らしい。
50%というのは、明日来てもおかしくない確率らしい。

阪神大震災の反省と智恵は、おかげさまで新潟は恩恵を被っているように思う。
ボランティアのすばやい動き(神戸から来た泥棒まがいのヤツもおったけど)、仮設住宅にディケアの施設をもうける、まだまだ全然だが、住宅再建援助額のアップ、仮設や住宅斡旋の役所にしてはすばやい対応、心のケア・・・などなど。
神戸は都市型の災害だったが、新潟は典型的な地方(過疎山間地域)の災害サンプルとして今後に生きるのだろう。
奥尻島の津波の悲劇の教訓は、宮城県の地震などにいかされているように思うし。
残念ながら、行政はこうやって実際に被害を被って初めて「対応策」「予防策」として動き出す。
たいていのニンゲンは実際にひどい目にあって初めて、つらさに共感して動ける・・といった傾向があるように思う。賢く優しくなれる・・悲しい話だが・・・

今日も明け方に大きな余震があったようだ。





2004年11月09日(火) ファルージャ

ファルージャ攻撃が悲惨だ。
イラクがベトナムになる・・・・懲りないアメリカ。
あの「イラク解放」のニュースを聞いたベトナム人が、イラクは第二のべトナムになるよ、と予言した言葉が現実になろうとしている。
ラマダンの時に、攻撃をしかけるなんて、傲慢というか、イスラムの文化をないがしろにしているというか、イスラム全体を敵に回すつもりであろう、ね。
バカブッシュ。
地震はひどい、しかしなんといっても戦争が最低!!!
この攻撃で沢山の民間人が死んだ、と思う。
小泉も攻撃を支持するってかあ?
アホが。

1時間おきぐらいにインターネットで地震チェックをしている。
これもネット中毒というのか。
朝方、震度4があったようだ。
新潟以外に台湾とか、和歌山とか・・いろいろなところで起きている。



2004年11月08日(月) 1時間に震度4が3回だ

昼ご飯の準備をしていたら、ぐおーっとすごい縦揺れが来た。
すぐにガスを消して、調理台から鍋を下ろして、様子を見た。
うちがぎしぎし揺れて、つかまるものがないと立っていられない。
しばらく横揺れ、犬がキチガイのように走ってふるえている。
抱いてやるも、とにかくすごいおびえようだ。
姪は仮眠、弟と母は外。
おさまって弟が「いや、はしごに登って仕事しようと思っていたとこだった、登っていなくてよかった」とはいってきた。
母も「地面がもくんもっくんとした」といってはいってきた。

すぐに、つぎが・・という感じで3回きた。
震度4とか、3とテレビでは出たが、あれは揺れの少ない長岡市役所の震度計なので、震源地の栃尾に近いうち+1で、最初に来た者は5だと思う。
立っていられない揺れだったから。

昨日からやけに静かだ。
おかしいねえ、不気味だねえ・・と家族でいっていたのだが、やっぱり。
いつまでたっても「今度震度5以上の余震がくる確率は20%以上」だ。もう23日から2週間過ぎているのに、いつまでたっても1ヶ月・・だねえ。

それにしても、たてつづけにすごいゆれだったわ。
家族がいうには、23日の揺れはこんなものじゃなかった、比較にならない。
とのこと。
そうか・・・

午後義妹の病院によって、高速バスで新潟、新潟から夕方5時50分の飛行機で大阪へ。
結局飛行機が一番安全だし・・なにしろいつもつかっていた夜行寝台がいまだに運休だ。
自宅帰着深夜11時まえ。
やや余震なれしてきたところで、揺れることがない地へ帰ってきた。
でもだんだか、不安だ・・・ちょこっと身体が揺れているような感じ。
気持ちは晴れない・・・



2004年11月07日(日) 激震ゾーン

新潟日報一面に「川口ー堀の内に激震ゾーン」の言葉が踊っていた。
10月23日の本震の震源地と、15分後の余震の位置を線で結んで、そこから東へ1キロいったところを平行に結んだ線上に、特に建物被害が激しい地域ラインがあるという。
堀之内町新道島から道路崩落で孤立して「めしSOS」を書いた地域のひとつである和南津地域、そして北川口町の田麦山地域。ここは、9割の建物が全半壊、長岡などではほとんど被害がなくてとこの形が強いらしいとわかった下が車庫で上が住居という基礎をしっかりとコンクリートで固めた高床式の住居も、大きな被害が出たという。
また、地面に埋まった100キロ以上もある石がごんごん飛び出してごろついている写真、「強振動で重力を上回る突き上げがあったために飛び出した」という説明があった。つまり、これって、石がジャンプしたってことでしょう???墓石が落ちて倒れてごろついているのは、うちのお墓もそうだから驚かないけど・・・ねえ。
川口町周辺では、長岡では想像もつかない状況があったみたいだ。
こうなると、耐震診断なんて無力だなあ、と思う。
どれがどれだけしっかりと見ても、重力に拮抗して石がジャンプするほど力が加わったら、人間の作ったものなど、ただ崩れるのを見るだけ・・となってしまうだろう。
弥生時代や縄文晩期の高床式住居や竪穴式の方が賢いかも。。とさえ思ってしまう。

今日は明日から学校が始まるので避難所の引越しが多いらしい。読み聞かせボランティアのお声はかからなかったので、新聞を読み返した。
24,25日あたりの新聞では、長岡市中心部の写真が多い。外で避難して震えている、めちゃくちゃのなったうちの中・・・そうか、中心部の長岡市民モ大変だったんだと納得したが、しかし、それは上記のような激震ゾーンとは比べものにならない、と思う。
比べていいものでもないがねえ・・・。

今朝は、朝から震度4(長岡市役所は震度3、うちの近所は震度4)が1来たが、後は震度2が2回くらいかな。
わりと静かな1日だった。
夕日がすばらしくきれいで、地震雲の姿も見られなくて犬の散歩に行ってほっとしつつ空を見ていた。
新潟の紅葉は今が盛り、どこも美しい。
ほんとは観光も今が最盛期なのだが、どこも閑古鳥が鳴いている。
佐渡だの、新潟、妙高は関係ないんだから、「がんばれ 新潟」を連呼するんだったら、イージーに旅をキャンセルしないで出かけてほしいと思う。
それに避難者は十分にがんばっているいるよ。
「がんばりすぎて、無理して、体や心をこわさないで」といってほしいと思う。

昼は母親の病院、ちょこっと仮眠。深夜勤務で避難所へ通っている姪が風引き(過労)弟が、肩がこるとこれまた過労気味。みんなそろそろ疲れが出てきている。避難所の人たちも当然そうだろう。早く、仮設住宅や家族としてのすまいの確保ができますように、と思う。
義妹の病院では、大部屋がずっと満員で、昨日やっとあいて部屋を移れることになった。
まあ、病状もやっとやや上向きで、やれやれだ。
しかし、再来週くらいからは厳しいリハビリになるだろう。





2004年11月06日(土) 子どもへ読み聞かせボランティア

深夜、朝方と2回、結構大きな余震があった。
人間より犬がおびえる。

10時ころ、今日は土曜だし、子どもの読み聞かせボランティアに行こうとかえるくんの「ふたりはいっしょ」と「ねずみのいもほり」「おしゃべりなたまごやき」の三冊をもって、ボランティア受付をしている市の福祉協へ。実にわかりにくい場所で、全国から来ているのにこれではねえ・・・が第一感想。
長岡駅近くとか、市の施設になっている大手通のビルでできなかったのか・・と思った。要するに、管轄が違うということなのだろうが・・・私は土地勘があるからいいが、それ以外の人で公共機関で来た人には歩くと20分以上かかるし、わかりにくい。
いってみてわかったことは、午前の受付はもう終わっていて、それで人が余っていたということだ。
30人以上の人が仕事がなくてまたされていた。
待つのいやなら帰ってくださってもいいですよということだったが、なんだかな・・・たとえば、川口町とかは手がほしいところである。しかし、長岡市は遠くからの人にとって来やすいというか、知名度は高いけど、川口町はよくわからないところではあるのだろう。それに、まだ道もよくないし、危険度も高いし、ライフラインの復旧も他地域に比べて遅れていて、たくさん入られても困るのかもしれないが、せっかくの善意が十分に生かされていないなあと感じた。
1時の受付というので、もし需要があるのならいますがないのなら帰ります、というも、わからないということでペンディング。
んじゃ、いいよと長岡中心部を散策。実に無傷である。長岡東バイパスの東側(山側)と、えらい違いだ。東が地獄なら、市内は天国だわ。
ここには「昔の長岡」があった。
さすがに、町の中心の市の施設は閉鎖していて建物前には中国語、タガログ語、ポルトガル語、韓国語、英語で地震に対する対応についての掲示が掲げてあった。
大手通のミスドで、コーヒーとドーナツで一休みした。
ところどころ地割れがあるものの、長岡の街中大丈夫!!
ボランティアの人には、ぜひとも山の中(川口、広が見、小千谷など)へいってほしいと感じた。

12時過ぎに、また戻って、今度はちゃんと対応してもらって、「上組小」へいってくださいというので、車で送ってもらっていった。
子どもは男の子を中心に15人ほどがいた。
カードゲームに夢中で、本を読むよといっても、5人ほどしか来なかった。
で、かえる君のお話をひとつとねずみの芋ほりをよんでから、新聞紙とガムテープを借りてきて「刀を作って、ちゃんばらするよ」といったら、男の子たちがわらわらと集まってきて結局12人ほどで外でちゃんばらごっこをして最後は校庭の樹をがんがんたたいて、スカッとした顔になったところでおしまい。その後、また「おしゃべりな玉子焼き」を5人ほどの子を相手によんで私のボランティアは終了。
時間にして1時間半くらいかな・・・・その間に1度結構大きな地震があってどきだったが、みんな一瞬動きを止めたが、まあ大丈夫という顔になるとまた遊びだす。
大人も子どもも、地震なれ状態だった。
詰めている市役所の人の話だと、この地域は全壊などはないので、親もまあ元気だし、子どももそれに比例して元気だから・・・という話だった。
なるほど。
それにしても早く、みんなうちに戻れるといい。

今日は結構余震があった。
地震計は市役所についてるようだが、そこの数値が公式の数値として出る。
しかし、それは問題。だって、役所の数値よりバイパス東側は1プラスだと思う。
それは、上組小で話した役所の女性もいっていた。
今日午後のゆれも、市役所の震度計は2だったようだが、避難所で感じたのは3強だった。で、これくらいだとみんな動じない。
そういう感じだ。

そうそう、長野からボランティアで来ているという男の子と話してびっくりしたのは、一番ひどい長岡東側をまったく見ていないことである。
うちの近所には避難指示で、立ち入り禁止のところたくさんあるのよ、といったらびっくりしていた。
どうしてですか、とこれまた素直?似聞くので、あなた直下型ってそうなのよ、といったらへえ・・だって、こっちがへえ・・だった。
せっかく来たのだから、長岡の中心にいないで見てほしい、山際のひどさを、それを目に焼き付けて帰ってほしいものだと思った。




2004年11月05日(金) ほとんど全壊・・親戚のうち

長岡には市内中心部を抜けなくてもいいようにバイパスがある。
そのバイパスの信濃川側(いわゆる中心)と山側(この山の向こうに山古志村がある)で被害がまったく違う。
信濃川側は被害は少ない。山側が被害甚大で痛ましいのだ。
そのうちでも、その程度がまた異なる。
うちの親戚(長倉町)は、築40年ほどになると思うが、ぼろぼろになった。
しかし、雪国仕様のつくりの強みでたってはいる。
しかし中は土壁が落ちて・・・・戸や障子はぐさぐさ、まさに人がすまなくなって10年もたつと中もこうなるか・・状態だった。
親戚のうちに間借りしているが、いとこのお嫁さんがいたので話した。
「二階にいたんだけど、壁がどおおっとかぶさってきて、全部取れた、2部屋が一部屋になった、何がなんだかわからなかった、みんなが無事で生きているのが不思議なくらい」
叔父は風呂にはいっていたらしいが、やはり壁が一気に崩れてきて、これまた良くぞ助かったという状態だったとか。
中を見せてもらうと、土壁でも中に筋交いが入っているのは何とか少し持っているが、入っていないものがだめだった。
庭先にも大きな切れるが何本も走って、庭の灯篭もあっちこっちに飛んで、まさにモンスターが通り過ぎていったかのような様子だ。
すごいよな・・・
いとこのお嫁さんは、かぞくみんなの命があったし、風通しがよくて結構気持ちのいいうちだったけど仕方ない、もういい、立て替えるしかない・・・と結構さばさばしていた。
ここまですごくなった我が家を見るとそういう気持ちにもなるのか、と・・・・
持っていたアパートも赤紙危険で、だめとかで踏んだりけったりのよう。
弟が、叔父やいとこが直後に呆然として少し精神的に変だったといっていたけど納得した。
なんとも言葉もない・・・

優太ちゃんが退院した。
あの土砂崩れで3台の車が下敷きになった。
後の2台のドライバーは逃げ出していて、命は助かった。
そのうちの1台に乗っていた女性が新聞で語っていた。
「もう一台のトラックの運転手の人に逃げないとだめだ、と強く言われて逃げた、そのすぐあとに崩れた。振り返ると、白い車(皆川さん親子の車)は見えなくなっていた」
つまり、おとながにげる位の時間の猶予はあったのだ、あの土砂崩れの現場では。
皆川貴子さんは、子供もいるし、その場で助けを待つつもりでいたのではないか、逃げるじゆんびをして、窓を開けるとか何かしらのアクションをしているときに土砂が襲ったのではないか。
私はあの2歳の幼い子が外に自由に出たということはつまりチャイルドシートからは自由になったところで、車が埋もれたと考えていいのかな、と思ったりしている・・・いずれにしても、皆川さんも自分ひとりだったら逃げ出せたろうに・・・。
今回の地震の死者は、老人子供とはっきりしている。
災害弱者、ということを考える。








2004年11月04日(木) 余震

9時少し前、トリミングに行く犬を送り出してやれやれと新聞を開いたら強い余震が来た。
まず、ごおおオーーーとすごい地鳴りがきこえて、ずんとゆれが来た。
10秒以上続いた。
それにしても、こんな地鳴りは聞いたことがない。
不気味だった。その音を聞いたとたん、心臓のぎゅっとして鼓動が早くなって、脈は多くなった、と思った。
理屈を言えば、要するに震源地が浅いから、地震のエネルギーが伝わってくるのが音でわかるということなのだろうが・・・
公式には震度4みたいだが、山沿い地区は市の中心より強いから、私は5に近い状態だったのではないかと思う。
怖かった。
10時前に関東の友人が大丈夫だったかと電話をくれたので、ついつい興奮しておしゃべりしてしまった。
(Kさん、ありがとう)
23日に、本震ショックで直後に亡くなった人がいたというのはよくわかる。
帰ってきて、何度も余震はあったけど、こんなのは初めてだ。
次の余震や断水、停電が心配だったので、すぐに水の備蓄を確認して、お風呂をしたくして、炊飯器のスイッチを入れて、お昼と夕飯のおかずの支度までしてしまった。
幸いなかったが。
しかし、越路町や小千谷ではやはり水道管の断裂があったという。
せっかく復旧したのにねえ・・・・
学校も今日から再開したところが多くて、子供たちが教室に入って「さあがんばろね」というところに余震が来たわけ。力いっぱい、出鼻をくじかれた。まったくねえ。地震は中越地方にどんな恨みがあるのかねえ。

母が、本家のハトコガニューヨークから帰ってきているといっていた。
彼女は、あっちで結婚してずっとあちら住まいのはずなんだけど、心配で帰ってきたらしい。
アメリカでもカナダなどでも、今回の地震は大きく報道されたようだし。

で、昼からは一人でいると怖いという近所のばあちゃん連が集まってうちで日本茶カフェだった。
ばあちゃん連は元気である。

夕方、畑にバイクに乗って出かけた母が言うには、今までなかったところに亀裂が走っているらしい。
昨日の陥没といい、刻々と状況は変化している。
ネットで見ると、九州でも地震、アイスランドでは火山の爆発・・あちこちで地球が大きなため息をついている・・・私は地球はひとつなんだなと感じてしまう。
アイスランドと日本はすごく離れているが、プレートでかなり緊密につながっているのだ。

ブッシュ勝利。ブッシュの支持基盤は原理主義系キリスト教連盟だ。
ばあちゃん連でさえブッシュさんじゃ、まだ戦争が続くんだねえ、とうんざりしているのに。困ったことだ。地球も怒るよ。
オランダでは、モスレムに批判的な映画監督だったかが、殺されたらしい。イスラムの若者に。確かオランダ人口の5%かそこらがイスラムの国、これって衝撃だと思う。

それにしても、今日は一日落ち着かなくて余震不安でうろうろしていた。
ボランティアに以降と思っていたんだけど・・・問題は足がない。
免許がほしい長岡生活だ。



2004年11月03日(水) 道の陥没

今朝は、朝方にちょこっとゆれたせいか、夜明け前から犬が落ち着かない。やたらに起こしにくる。仕方ないので、6時過ぎに散歩にでた。
するとすると・・・びっくりだ。
昨日まで普通に車が走っていた道路に穴が開いている。
それが何箇所もある。
50センチも下がってへこんで、知らないで車がはしったら危険だ。
やたらに巡回がくるとおもったらそういう看視もあったようだ。
義妹の病院に行く途中も、今までなかったところはへこんだり陥没して深い穴になったりで、数日前と変化している。
今後もしばらくは毎日変わるだろう。
舗装道路の下の土が動いたり移動したりして空洞ができて、そこがへこみ始めたようだ。

人は地球のゴキブリなんだ。
土地を買ったとかいうけど、地球の土地は永久に誰のものにもならない。
この世の土地はすべて地球自身のものだ。
その地球自身の大地の上になにやら膜を張って、意気揚々と車とやらをころがしている小さき虫たち・・・その名はニンゲン。
遠からず、滅ぶであろうかわいそうな虫だよなあ。
「有終の美」というけど、ニンゲンの場合「有終の醜」だよなあ。
なんて、陥没の不気味な穴を見て、妄想した。

新潟県知事が、一番被害がひどい川口町のライフラインの復旧が遅れていることに関して「一応、復旧見込みを告知して、それまでにできなかったら謝れるばいいさ」的お気楽発言をしてくれたのだ。
みんなかんかんだ。

長岡の物資について、弟が言うには、報道は長岡市役所前からしかしない。(どうしてかといえば、イージーから、安全だし、全く!)で、長岡市街地は被害はほとんどないのに、救援物資が一番必要だったのは、太田、すよし地区など郊外の山沿い地区だったのに、一番被害が少ない市内中心部の避難所から配った、次も、次も、1番に配ったところは次は一番最後と工夫すればいいものを・・・で、市役所の偉いやつら、マスコミに物資は足りてるなんていいよって、山沿い被災地は1日ろくろく食べられなかったのに・・・市の中心地は足りていても・・役所のやり方がまずい。
今も、もう十分うちに帰れる中心地の人でも、避難所にいたら、何にもしなくてもご飯が食べれるから帰らない人が大勢いる。
この言葉は、単に現地を見ないで聞くと、心が狭いと思うが、事実、長岡中心部がうそのように今までと同じ町並みで、道路に陥没も見えない。
長岡中心部に限っていえば、心の問題はともかくとして、見えるとことではそう生活が変わったようにも見えない。
対して、大田地区とか栖吉(すよし)地区はすごい、ぼろぼろ。
すよし地区なんて、まさに断層がピーと見えるような状態で亀裂が走っている。で、私の母校でもある栖吉小、中は、体育館が畳敷きになって避難生活の長期化が見えてきた。同じく母校の長岡大手高校は、山古志村の人の避難所になっているし。通った学校のすべてが避難所化しているんだわ・・・それも、長期の。こういう状態を見聞していると山沿いが緊急だったんだ、役所の対応が悪い、という消防団で活動していた弟がいうのはわかる気がする。
目の見えない方、耳の聞こえない方などは?と聞いたら、すべて1軒づつ回って、避難させたとのこと。
地域社会がまだある長岡だからできたことかもしれない。
消防団の活動はそれなりに目覚しかったらしくて、市長が感謝していたけな、感謝するなら金をくれだ、と笑っていた。
要するに消防団はボランティアだから、持ち出し系の活動なのだわね。

山古志村の水は刻々と増えている。
今日も夕方すさまじい雨。
もし、決壊すると、大田地区に流れ込む。このあたりも大被害で、避難指示だ。もし土石流が襲うと被害の上塗りとなる。
なんともやりきれない。
山古志のタカノフーズの牛救出作戦が始まったが、明日も雨だとすると間に合うんだろうか。1600頭あまりがいるという。
山古志の「日本の原風景」的美しさを知っていたものとしては、つらい。
村の人の思いはどんなか、と思う。



2004年11月02日(火) 非常時的納骨

今日は父の49日だ。
義妹は、今日はじいちゃんの49日だから帰らないと、服持ってきて・・・と、集中治療室にいるのに言い張って、付き添いのむすこをこまらせていたらしい。
ほんとは、納骨の後に食事などを考えていたらしいが、お寺も大被災者だし、いつ余震が来るかわからないし・・ということで急遽お経とお骨収め、その後にお茶で、と実に簡素な49日となった。
母によると、父は亡くなってから一度も夢にでも出てこなかったのに、地震後初めて夢に出ておいでになったらしい。ぬううーーーと顔を出して、あちこち見渡して一言も発せずに帰っていったらしい。まあ、無口な人だったし、らしいといえばらしいが。心配で見にきたんじゃないのとという結論だ。
とにかく、うちのお墓はかろうじて、前が後ろに向いていて、落ちる寸前まで動いていたが、何とか落ちずにすんで無事に納骨が終わった。
朝から雨だったのだが、午後からは上がってさわやかな空気だった。ただね、周囲の墓石がほとんど全部ダメージを受けているのが異様ではあったが・・・。

今日は午前中に、岩手一関の住宅災害診断士?サンですかね、そういう方が2人おいでになって、うちのげんかんに「調査済み」という、緑の紙を張っていってくれた。
岩手からですか、車にとまって?とお聞きしたら、いえ新潟でとまってそこからだという返事だった。
そうだよねえ。
うちの畑のそばにある電柱が明らかに傾いていて、倒れたら、直撃だ。そのことを相談したら、すぐに倒れるということはないが、電力会社に連絡しておくほうがよいということだった。
うちの古い作業小屋は、土台のコンクリートがゆれで一部かけ落ちたり壊れたりしているが、精米作業などをする最新の小屋のほうは、柱の土台近くにに鉄製の枠があって、それがボルトでしっかりとめてある。もちろん雪国仕様だから、柱は普通の2倍以上。診断士さんたちは、この柱を見て「いや、いい仕事ですよ、これだとびくともしないというのがわかりますね」とほめて帰った。
犬の散歩をしながら、あちこちを歩くと結構「要注意」の黄色紙を張られているうちがある。一見、外側から見ると被害がほとんど見えないが、プロの目から見ると危ないところがたくさんあるようだ。
ちなみにうちの本家のお蔵は、築100年くらいだと思うが、土台がずいっと動いて、もう一度でかい余震がきたら、倒壊するぞという感じだ。

ほかに今日は、水道局の人が水チェック。村内の道路は戦場仕様?の迷彩色の自衛隊の車が走っていたりして。いまだに水が復帰していない地区の方から来たから、もしかしたら、お風呂でもつくりにいったのか知らん。
それから、千葉県警のパトカーが巡回に来ていた。
これもちょこっと、びっくりした。
募金と偽って、お金を騙し取ったり、役所のもといって、入り込んで貴重品を狙ったり、こんな田舎でも人の不幸につけ込んでいろいろとあるようだから、巡回も必要になってきたのかもしれない。
ただ、基本的にはみんな助け合っている。
弟は、今日はいまだに水が復旧していない親類縁者に風呂に入りにきてといいにいったし。まえの家からは、夕方おかずが届いたし。
被災者たちの住環境も似たようなものだったろうし、たとえば山古志村の人たちが同じところに仮設住宅を作ってほしいと、強く要望しているのはわかる。見えないものがみんな大切なんだよ。同じ地域に長く住んでいるといわなくても分かり合えたりする、若者はそれがうざかったりするけど、でもそのつながりを失いたくないんだよなあ。

姪によると、物は余るくらいに来ているらしい。
彼女は、いまだ夜勤務で、夜8時から朝9時まで、近所の避難所詰めをしている。まるで、夜勤ナース状態だ。帰ってきても、そう寝ている暇もなく母親の付き添いにいくし、体を壊さないといいが、と心配になる。
役所の人も被災者なので、結構体調を崩している人がいるらしい。
被災者が被災者の面倒を見る・・・て仕方ないのだが、これって何とかならんのか?
今不足のボランティアは、たとえば子供の相手をしてくれる人、老人の話し相手になってくれる人・・・がいるらしい。
納骨も終わったし、家事をやりながら明日かあさってからそっち方面できそうだし、やってみよかしらん。







2004年11月01日(月) 体感余震2回

朝方、ゆれた。震度3かな4かな。目を覚まして思った。
昼過ぎにまた1回。これは震度3くらいか・・・・・何しろ、犬がおびえる。うろうろと落ちつかない。
23日にも、うちのわん君は、逃げ出して、一時行方不明だったらしい。
姪の話だと、避難所でも、ペットを連れての入所ができなかったりしてそれが大問題だったりしているとか。
農業新聞によれば、山古志村の闘牛の牛は、10等が建物下敷きで死亡したらしい。

わんころをつれて、村のお寺の近くまでいってみた。
墓石がぼろぼろと、ごろごろと落ちて悲惨な状態だった。
そうか・・・やっぱりすごかったんだあ、と改めて感じた。
母の姉で避難所暮らしの85歳のおばさんがお風呂に入りに来た。
その直後に、水道局の人が来て開栓しました。
やったあ!!!水が出た!
昨日あたりから、頻繁に給水車が来てくれるようになったが、それでもねえ。ひねって出るのとは大違いだ。
やれやれ、これで、もうトイレのたびに池まで水を汲みにいかなくてよい。
それにシャワーも浴びれたしねえ。
しかし、大きな余震がきたらまた断水だろうし、油断大敵だ。

雨が降っている。
みんなが土砂災害を異様に心配している。
普段の年の3倍くらいの雨が10月にふっているとうちの家族は言っている。
避難所に通っている姪によると、物資は十二分らしいが、かぜひきなどの人が増えて危ない感じらしい。


 < 過去  INDEX  未来 >


moheji.s [MAIL]

My追加