おひさまの日記
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2011年01月31日(月) 猫のキオク

「にゃーっ、にゃーっ、にゃーっ」

買い物へ行く途中、道を歩いていると猫の声が聞こえた。

猫好きなもので、どうしても気になる。
辺りをきょろきょろしても猫の姿はない。

なーんだ。

そう思って歩き出すと、

「にゃーっ、にゃーっ、にゃーっ」

また猫の声がする。
ずーっと鳴いてる。

一緒に歩いていた娘とあちこち猫探し。
そこそこ車通りの多い道路で、
立ったり座ったり、あちこちのぞいたり、不審な動きの親子(笑)

いた!

道を挟んだ向こう側の、路地の入り口に、
猫が座って鳴いている。

「とらみちゃん!!!」

私と娘は、車の流れが途絶えると、
道を渡って猫に駆け寄った。

そう、その猫は「とらみちゃん」だった。



とらみちゃんは、ずっとウチに来ていた通い猫。
きっとまだ1歳にならないくらい。

最初は、ウチの猫、はなのごはんを盗み食いして、
ばあちゃんに、蹴っ飛ばされたり、
ほうきで連打、まさにフルボッコにされていたり(母意外に凶暴…)、
散々な目にあいながら、
エサと寝床を求めてさまようサバイバル系野良猫だった。

その様子(蹴り&フルボッコ)があまりにかわいそうで、
私がはなと同じ時間にごはんをあげるようになった。

すっごく美人な猫なの。
鳴き声も甲高くてかわいくて。
トラ猫なので、とらみちゃんという名前をつけた。

最初は警戒しながらだったとらみちゃんも、
いつしか心を開いて(笑)
仲良くしてくれるようになった。

はなは、テリトリーを侵す猫にフーッ!ってしてたけど、
そのうち2匹もだんだん仲良くなって。



ある日、とらみちゃんにご飯をあげて、
なでなでしていると…

「ん?」

なんかついてる…
股間に立派なものがついてる…

そう、とらみちゃんは女の子じゃなく、
男の子だった。

でも、もう定着していたので、とらみ続行(笑)



1ヶ月前くらいかな、
とらみちゃんの姿が見えなくなった。

毎日来ていたのに、パタッと来なくなった。

口にしないようにしていたけれど、
野良ちゃんだし、どこかで車にひかれちゃったんじゃ…
と、心配していた。

気にかけながらも時が流れた。



そんな今日、思いがけない形での再会。
鳴き声がした先に、とらみちゃんがいた。

とらみちゃんがいた路地の奥には、
昔ながらの立派な家があった。
とらみちゃんは、今そこの猫になっているのかもしれない。
飼われてはいなくても、いい住処なのかも。



道の向こう側を歩いていた私達が、
ねぇ、わかったの?
とらみちゃん。

キミを見つけるまで、ずっとずっと鳴いててくれた。
あんな表通りで。
だから、キミにまた会えた。

猫のキオクの中に私達はいたのかしら?
短い間だったけど、
すっごく楽しかったんだ。
とらみちゃんは覚えていてくれたのかしら?

きっと、覚えてて呼んでくれたんだ、
私はそう思うことにした。

うれしかった。

ウチでは、私がいないと、
母は絶対にとらみにはごはんをあげなかったの。
だからかなぁ、来なくなったのは。
ごはんのない日が何日も続いたこともあったもんね。

だから、来なくなっても仕方ないと思ってた。
動物だし、まず「エサ」なんだろうな、って。

だから、鳴いて呼んでもらえて(そう決めつけている・笑)
すごくうれしかったんだ。
覚えててくれたんだ、って。



屋台の焼き芋屋さんで、焼き芋を買って、
見ると、もうとらみちゃんはいなかった。

心はあつあつの焼き芋よりあったかかった。
涙もろい私はうれしくて泣きそうなんだ。


2011年01月30日(日) 気づくと楽になる

スーパーの通路に寝転がって、
お菓子買ってくんないとヤダ〜〜〜!!!
と、泣き叫ぶ子供。

思い通りにならなくて、
かんしゃくを起こしたり泣いたり暴れたり。

そこそこよく見る光景。



本当はお菓子が欲しいんじゃない。
本当は思い通りにしたいんじゃない。
もちろん、お菓子も欲しい、思い通りにしたい、
けれど、心の奥にある「本当の声」は、
別のことを伝えたがっている。

お菓子が買ってもらえない、思い通りにならない、
そんな出来事は、彼らにとってすべて「きっかけ」。

普段から、知らず知らずのうちに、
心の奥の奥にたまっていった思いを、
やっと外に出すためのチャンス。

それを突破口に、
心の痛みからの叫びを吐き出す。

それが、お菓子だったり。

「さっきおやつ食べたでしょ!」

なんて、まっとうなことを言われても、
気が済むわけがない。

「明日買おうね」

なんて言われても、
たとえ、やさしく言われても、
気が済むわけがない。

だって、本当に言いたいのは、
お菓子が欲しい、ってことじゃないんだもの。

子供が例なら、

「ママ、もっとかまってよ、さびしいよ!」

って叫びかもしれない。

「ママ、幼稚園でこわいお友達がいて行きたくないよ!」

って叫びかもしれない。

ねー。



これは、大人でもよくあること。

人って面白いもんで、
自分の中に何か痛い気持ちが生まれても、
その根っこには気づかないで、
そこから生まれる感情だけを体験する生き物。

子供の例で言うところの何らかの「きっかけ」で、
感情がだーっと出てくるけど、
ただ、ただ、つらい、苦しい。

うっすら根っこを感じていても、本当にうっすらなの。

たとえば、

「私ってダメなんだ…」

という気持ちが生まれたとする。

けれど、表面で感じるのは、
重苦しさだったり、
行き詰まりだったり、
説明のつかない悲しみだったり、
何かへの過剰なまでの拒否反応や嫌悪だったり。

なんでこんなに苦しいんだろう?
自問自答するも答えは見つからず。



私もそういうこと、ある。

やたら気が滅入るなぁ、とか、
訳もなく(本当はあるんだけど・笑)悲しいなぁ、とか、
ただ、ただ、つらいなー、とか、
妙にイライラするなー、とか、
気力が全然ないなー、とか、
私やたら批判的だなー、とか
(↑何を批判したいかで自分を知るヒントになるよ)、

そういう時は、
自分でも気づかないうちに、
心の奥に生まれた「思い」と、
そこから生まれる「感情」に翻弄されている時。

でも、自分、その根っこに気づかず(笑)
無意識のうちに、
心の奥で自分に起こっている異変に苦しんでいる時。



でもね、その根っこに気づくと、
すっごくラクチンになるの。

たとえば、



「ああ、私さびしかったんだ…」

とか、

「ああ、私怒ってたんだ…」

とか、

「ああ、私自分はダメだと思ってたんだ…」

とか、

「ああ、私ガマンしてたんだ…」

とか、

「ああ、私本当はやりたくないことしようとしてたんだ…」

とか、

「ああ、私本当はこうしたかったんだ…」

とか、



色々、色々、あげればキリがない。
自分の本当の姿。

不思議なんだけどね、
それに気づくと、本当に楽になるの。
状況が変わらなくても、
ふぅ…っと心が軽くなるの。

その本当の自分の姿に気づくと、
涙が流れちゃう時もある。
それは、悲しい涙じゃない、ほどける涙。

私もいつも泣いている(笑)

わぁ、気づいてくれたんだね.。゚+..。゚+.
まるでそう喜んでくれているみたいに、
心がほろほろとほどけてやわらかくなってゆく。

私が大好きな瞬間。

そして、たくさんの大切なものが帰ってくるんだ。

好きなこと、
したいこと、
得意なこと、
自分のいいトコ、
ユーモア、
笑顔、
ゆとり、
自分を信じる気持ち、そして、勇気と力。



私達は、元々すっごい力を持っている。
けれど、まあ、みんな色々あって、
その力がないと信じ込んでしまったり、
逆にその力を過信して大切なことを置き去りにしてしまったり、
自分が自分であることを忘れてしまう。

自分の真ん中にある気持ちに気づいていない時、
自分が自分でない時、
自分以外の何かになろうとした時、
人は苦しいんだねぇ。

そして、それに気づくと楽になる。

楽になって、道が見えてくる。
気づいていなかった時には湧いてこなかった考えや思い、
そんなものが、進む道を示してくれる。
それは、自分の力で感じ取り、つかんだもの。

人間ってすごい。



だからねぇ、思うんです。

それがどんなものであっても、
自分の中にあるものに気づいて、
じぃっと見てみることで、
不思議なことが起こるんだよね。

なんて言ったらいいんだろ、
自然治癒力みたいな、
人間本来の姿に戻ろうとする力が働く。

人間本来の姿は愛そのもの。
すべての存在が個々の素晴らしさを持って、
その人にしかない輝きで生きるようにできてる。
そこに戻っていくんだ。

それが人間の力。



だから、私は、

「ほれ、こんなん出ましたー(笑)」

って、奥の方にある大切な声、
その人と一緒に聞くのが好きなんだ。

それに尽きると思うんだ。
そのお手伝いをしているようで、
実は、自分の作業をさせていただいているんだと、
つくづく思うよ。



気づいていこう。
気づくと楽になる。



どうやって気づくかって?

うーん、

意識してみよう。

「私は根っこでどんな気持ちなんだろう。
 本当はどんなことが言いたいの?」

「きっかけ」で吹き出したつらさは、
何が言いたいのかな、って。



ひとりじゃあちょっとわがんね、って人は、
お手伝いもしてます。

セッションを受けてくださった方には、
ニンニク帽子を…いや、プレゼントしません、
ひとつしかないし(爆)


2011年01月29日(土) 宇宙でいちばんおいしいたこ焼き

土曜の昼下がり、
部屋でカタカタとキーボードを打っていると、
ドアを、コンコン、とノックする音がした。
誰じゃ(って、家族の誰かなんだけど・笑)。

仕事を区切りたくない時だったので、

「はい?」

そう言ってぶっきらぼうにドアを開けると、
階段を上がってきた母親がいた。

そして、私にたこ焼きを差し出す。
黙って、ほれ、ほれ、って。
びっくりして受け取ったたこ焼きは、すごぉくあったかかった。

灯油節約だってんで、
ストーブ消して、厚着して、指先のない手袋して、
パソコンいじってたもんだから、
私の体、特に手は冷えきっていた。

そんな手に乗せられたあったかいたこ焼き。
手に伝わるたこ焼きのあったかさが、
私をはっとさせた。
うまく言えないけど、真人間に戻ったような感覚だった。

「何これ?
 食べていいの?」

そう尋ねる私に、母が言う。

「うん、食べなー」

よろよろと階段を下りる姿を見て思った。
お母さん、年を取ったな…

足腰の運動のためによく歩きに出る母が、
その途中にわざわざたこ焼きを買ってきてくれたのだった。

チクショー。
なんだか泣けるじゃねーかよー。

誰かが自分をあったかい気持ちで見ていてくれる…
その気持ちで、時に、自分の知りもしないところで、
自分のことを思って何かをしてくれている…

それ以上のことってあるだろうか?

私はたこ焼きを冷えた両手で包むように持って、
少しの間その場に立っていた。
たこ焼きのあったかさが手から全身に広がるようだった。

それは、あったかくて、やさしくて、やわらかい、
「お母さん」そのものだった。
それに包まれる時、自分の周りに高く築き上げた険しい壁が、
ふにゃふにゃとやわらかくなり、なくなってしまう。

歯を食いしばって、武装して、強く、強く、
折れないように、強く、強く、
そんなふうにぎゅっとしていた自分がいたことに気づく。

あれ…
ああ、そうか…
私は何になろうとしてたんだ?
ちょいと立派になろうとしてなかったかい?
人様の立派と自分の立派は違う、
人様のいいところをいただいて、
あとは私は私でいいんだよなぁ…
私ができることをすればいいんだよなぁ…

そんなふうに思ったら、また泣けてきた。
悲しい涙じゃない、ほどける涙。

よく同じところをうろうろし、
よくくよくよし、
よく泣き、
そして、よく立ち上がるセラピストでございます(爆)

あったかいたこ焼きはおいしかった。
いつもはカロリーが…なんて考えてマヨネーズはつけないんだけど、
今日はもらったたこ焼きに添えられていたマヨネーズを、
たっぷりつけて食べた。

おいしい…

私は今日の母のようなセラピストでいようと思った。

お母さん、たこ焼きごちそうさまでした。
宇宙でいちばんおいしいたこ焼きだったよ。
今日まで私を育ててくれてありがとう。
私はもうずっと愛を受け取り続けてきているんだね。

私はあなたの娘です。


2011年01月28日(金) 後悔しない女

あの時あんなことを言っちゃったから…
あの時あんなことをしちゃったから…

正直、そういうことは結構ある。
だから、こんなふうに、
つまり、望まない結果を招くことに、
なっちゃった、ってことが。

時には、それが、
交流のあった人を失うことであったり、
人からあからさまに避けられることであったり、
なんらかの損失を被るものであったり。

正直、気落ちするし、こわくなることもある。

でも。

後悔しなくなった。

なんであんなこと言っちゃったんだろう、
なんであんなことしちゃったんだろう、
って。

明らかに自分の言動が原因で、
望まない体験をしてすることになっても、
後悔しなくなった、過去の自分を。

あんなこと言って、
あんなことして、
バカだねぇ(笑)

そう思う。

そして、こう自分に言う。

あの時はそう言いたかったんだよね、
あの時はそうしたかったんだよね、
って。

「やっちゃった…」

って時、本人がいちばんよくわかってる。
そういう時、どうしてほしいかって、
私は黙ってそばにいてほしい。
黙って肩を抱いてほしい。

だから、自分にそうするのだ。
痛いくらいわかってる自分に。


2011年01月27日(木) 食あたりならぬ情報あたり

ネットには情報が溢れていて、
その恩恵を受けて日々過ごしている。

けれど、時々、食あたりならぬ情報あたりすることがある。

自分があたる情報が悪いってんじゃない。
だいたい私があたる情報ってのは、
とっても素敵な情報。

ええっ、素敵な情報にあたっちゃうの!?でしょ(笑)

そうなんだよー。

あまりに情報が多過ぎて、
自分がぶれちゃうんだよね。

ぶれない軸を持ったしっかりした自分でいろって突っ込みはなし(笑)
まあ、その通りでもあるんだが(爆)

あれも素敵、これも素敵、
あれもいいじゃん、これもいいじゃん、
あれもスゴイ、これもスゴイ、
あれ・・・?
自分は何がしたくて、どう在りたいんだ?

ってな感じのことが内側で起こってくる。

本当は「私はこうです」ってのが、
これでいいのか?
これじゃまずくね?
ああしたほうがいいんじゃね?
自分ヤバくね?

という反応が起こってくるんだな。

直感では、これ違う、と感じているのに、
頭であれこれ判断を始めてしまうのね。



最近読み始めたメルマガ
「マスターのシークレット・メッセージ」
これがまたイイんですわ。

そのメルマガを書いていらっしゃる濱田さんのブログはこちら。
「ショットバーマスター濱田浩朱のブログ」
そのメルマガにこんなくだりがあって。



かつてのわたしは、直感的に、
「あ、違う」ってキャッチしていても、

でも、「この人は成功者と呼ばれている人だから」って、
直感の声に耳を貸さずに、

思考で、「この人の言うことを聞いていればいい」って、
言い聞かせていました。

ところが、その後どうなるかというと、
直感がはじめに教えてくれた通り…




シークレット・メッセージということなんで、
あまり多くは公開してはいけないかと、
ごく一部を抜粋させていただいたんだけど(笑)

これ読んで、
あ、やっぱり自分の感じるものを大切にしていいんだ、
って思えたら、
すーっとラクチンになった。

そして、情報あたりしていた自分にも気づいたという(笑)

それまでは、
こんな素敵なこと書いてあるのに、
わぁ〜!はいっ、はいっ、やりまぁす!
って受け取れない自分って、
どっかおかしいのかな?
自分の痛いものが反応してしまって、
素敵なものを受け取れなくなってるのかな?
とか、色々考えていたわけですよ。

でも、純粋に、ああ、これはいいや、という感覚を、
信頼してもいいのよね、と、改めて思ったのね。

そして、自分を信頼してなかったな、と(爆)
そうなると自分の素晴らしさを見失ったりね (´・ω・`)ショボーン…

それに、私の場合はだけど、
過剰に感じるポジティブにもあたったりする。
強い光で影が濃くなる、みたいな感じかな。
私の中で中毒が起こっちゃうと言うか。

そういう時はちょっと情報断ちしたりする。
動物が食あたりすると回復するまで食べないでしょ。
あんな感じかも。
自分の感覚に飛び込んで来たものだけを拾って。
直感でこれと思ったものだけをクリックして。



人にはみんなその人なりの段階があるし、プロセスがある。
その時、その時、必要な情報はみんな違う。
同じことをするのにも方法が違うかもしれないし、
表現が違うかもしれない。
まあ、根本にあるものはひとつなんだけどね。

だから、大切なのは、溢れる情報の中の、
どの情報を受け取っていくか、なのだよね。

俺様は時々そういうことをうっかり忘れてしまうのダ。
思い出すだけよしとしておこう(笑)
まめちゃん、カワイイ。
あ、まめちゃん、私です ( ̄▽ ̄)エヘン



そうそう、濱田さんのブログはぜひぜひ読んでみてくださいね。
そして、これもひとつの情報。
最近の私が選んだ情報のひとつだな。

とてもニュートラルな濱田さん、私が目指すところ。
素晴らしい方です。
あらゆるものを通り過ぎてきた人、という感じする。
だから、今ああした穏やかな輝きを放っていると言うか。
私と同じ年齢とは思えないほど熟成(笑)されていらっしゃる。

ブログとメルマガが連携してて、
読んでると力が抜けて楽になっちゃう。
すげー、すげーよ!!!
これまたまさに私が目指すところ。

「ショットバーマスター濱田浩朱のブログ」

ワークショップも興味あるぅ♪



んで、情報あたりしている私は、
ネットの徘徊を控えめにして、
ホームページ作ったり、
また懲りずに帽子編んでたりします(笑)
今度の帽子はabuの。
もうにんにくじゃないよ ( ̄▽ ̄)
ふたつめだから上手になったみたい♪


2011年01月26日(水) 「さる」じゃなくて「さり」な素敵な女性

私のお友達でもあり、
また、尊敬するカウンセラーでもある沙璃(さり)さんをご紹介します。

がんばるあなたの心の応援団
占いカウンセラー沙璃(さり)さん


算命学の占い師であり、心理カウンセラーでもあり、
そのふたつを融合させた心地よいセッションをしてくれるのです。
企業研修をしたり、雑誌に記事を寄稿したりと、
その活躍ぶりも彼女の素晴らしさを感じさせてくれるのダ。

私が彼女が特に素晴らしいなぁと感じるのは、
自分の中にあるどんなものも肯定することを知っているから。

それがいいとか悪いとかじゃなく、
それはただそこにあると受け止め、
そして、それが自分をつらくするのもであったり、
また、自分が前に向かって進んでいくことを阻むものなら、
それを素敵なものに置き換えることができる人。

だから、自分がどんなものを持っていて、どんなものを感じていても、
まず、オッケーで、じゃあそこからどうしようか、
そんなことを素でやってのけてしまう素敵な女性なんです。

真剣に生きているからこそ、
ユーモアを知っていて、外すことも知っていて、
そして、何があっても必ず大切な場所に戻る人。

だから、彼女のセッションを受けると、
まず自然に自分を肯定できるんですねぇ♪
そして、その上で、どうしていこうか、って部分にフォーカスさせてくれる。

それは、彼女の生き方そのもの。

ブログも読んでて気持ちいいのダ。
後味がいいんだよね。
そか、そかぁ!って。
日々の中、生きていくヒントがいっぱいの彼女のブログ、
ぜひぜひアクセスしてみてね♪

彼女の鑑定もぜひ!
受けるとなんか元気になっちゃうんだぁ。

がんばるあなたの心の応援団
占いカウンセラー沙璃(さり)さん


そんな彼女の悩み(?)は、

沙璃と書くと
「さる」
と読まれることがあることだとか(爆)

ああ、なんかわかるわぁ!

間違える時って、恐らく、
「瑠璃」という文字が浮かんでると思う。

瑠璃(るり)文字はどっちも似てる感じがするし、
並んで目にすることが多いから、
どっちがどっち!?って思っちゃう(爆)

そうなると、「璃」が「る」なんだか「り」なんだか、
混同しちゃうわよ(笑)

沙璃さんは「さり」さん、
「さる」さん、うっきーじゃないんで、
そこんとこ夜露死苦! ( ̄▽ ̄)





「そこんとこ夜露死苦」とか書いたら、
頭の中で、
横浜銀蝿の「ツッパリ・ハイスクール・ロックンロール」が
鳴り始めて止まらなくなった。
同年代の人ならわかると思いマス(笑)

♪今日も元気にドカンを決めたら
 ヨーラン背負ってリーゼント
 ツッパリHigh School Rock'n Roll
 ツッパリHigh School Rock'n Roll
 ソリも入れたし弁当も持ったし〜


2011年01月24日(月) 罪なパン屋

ホームページ制作の仕事が入ってくると、
どうもそっちに没頭し、ブログの更新が止まりがち(笑)

今、大好きなパン屋さんのホームページ作らせてもらってます♪
楽しぃ〜!!!
大好きなお店のを作れるなんて、
こんな幸せなことがあるだろか!?

ウェブでもそのパン屋さんのパンが買えるのよ。
パンアトリエ・クレッセント・ウェブショップ

ホームページリニューアルに向けて、
ウェブショップもリニューアルするっておっしゃってたので、
最近アクセスする度、
あちこちちょっとずつ変わってますね〜(笑)

ハード系のパンなんかすっごくマニアックで、
私ゃあ見たことないのばっかりだったよ。

カテゴリーのライ麦パンの中の、
フリュイなんてもう、個人的にかなりツボです。
焼き菓子のねぇ、スコーンもすっごくおいしいんだよ。
ぼそぼそしてなくて、甘過ぎなくて、
あああ…深夜にこんなこと書いてると、
食べたくなるじゃないか…

それに、スペシャルなのが、お買い得セット
人に教えると自分が変えなくなるから言いたくないのに、
でも、言いたいというジレンマ(笑)
売れ残り、または形が悪いなどの、いわゆる「アウトレット」パン。
それが、あーんなに、あーんなに、詰め込まれて、あの値段!?
冷凍庫がパンで溢れるうれしい悲鳴♪
しかも、売れ残ったパンがある日しか出ない、
希少価値メニュー。
予約制なんだって。

そうそう、ホームページのリニューアルにあたり、
ブログもアメブロに引っ越してきたんですよ!
まだ来たばかりで記事も少ないし、
今は普通のスキン使ってるけど、
カスタマイズして素敵にするようです。
のぞいてみてね。

パンアトリエ・クレッセント
「Cressent Blog」



大人なバレンタインにぴったりの、
限定予約、ハートの超ロングウインナーパン!
おしゃれだよね.。゚+..。゚+.
ビールのつまみにもすっごくよさそうで、
男の人は喜びそう。
お酒を飲まないabuも、ここのロングウインナーパンが大好き。
ホールでね、なっがーいのを買うのが、
我が家のちょっとした贅沢なのダ。

このパン屋さん、クレッセントの店長さんは、
ブログの更新が結構マメで、
その都度、画像付きでおいしいパンの記事を書いてくれる。
見てるだけで走っていきたくなるくらいうまそーなブログ。

罪ですよ、ええ。
私はこのパン屋、クレッセントを

「罪なパン屋」

って呼んでる。

おいしくてハマるととんでもないことになる、
って、どういうとんでもないだ!?(笑)
ま、うれしい悲鳴だけどね ( ̄▽ ̄)

んじゃー、お仕事に戻りまぁす。


2011年01月19日(水) 水戸黄門・デカダンス キャスト決定!

昨日の「もう」と「まあ」で書いた水戸黄門ネタ。

妄想が広がって、ソレ系の水戸黄門の配役を考えてみた。
コンセプトはデカダンス。

「助さん、角さん、
 まぁいいでしょう」


上から目線の横柄な黄門様が全国を旅しながら悪を懲らしめる。
気怠くそのキメゼリフを言い放つ黄門様、そして、その取り巻きは…
(ドラムロールっ!)

黄門様 → 内田裕也
助さん → 北村一輝
角さん → 松田龍平
うっかり八衛 → マツコ・デラックス
風車の矢七 → 豊川悦司
かげろうお銀 → 菊池凛子
飛猿 → 遠藤憲一



あぁ、考えてる間楽しかった.。゚+..。゚+.

こ、こういうことをするのは、
シ、シアワセなんだな(山下清風に)


2011年01月18日(火) 「もう」と「まあ」

母は夕方になるとお約束の水戸黄門の再放送を見る。
実は私も大好きで、夕飯の支度をぼちぼちしながらチラ見する。

黄門様のあのキメのセリフ。

「助さん、角さん、もういいでしょう」


キタ、キタ、キタ…
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
ワク、ワク、ワク…

印籠どどーん!

「ご老功の御前である、
 みなのもの、頭が高い、控えおろーっ!!!」

悪役慌てふためき、

「ははぁーーーっ!!!」

いひひひ… ( `∇´ )



それが、なんだかなー、ある時、ふとこんなことを思った。

あの「もう」が「まあ」だったら…

「助さん、角さん、
もういいでしょう

     
「助さん、角さん、
まあいいでしょう


( ´,_ゝ`)プッ

いきなり黄門様が横柄な感じに。
投げやりに、めんどくさそうに、

「まあ、いいよ、そろそろね、うん」

なんて、耳ほじりながら言ってそうで、
ああ、ダメ、ツボに入ってしまった。



それから、そのシーンが、今まで以上に楽しみになった。



まあ、うん、それだけなんだがね(笑)


2011年01月17日(月) 背負った罪

私がソファーでうたたねしてしまった間に、
先にキッチンで夕食の支度を始めてくれたabu。
ひゃぁ〜、ありがたや〜.。゚+..。゚+.

私はテーブルの準備を。
夕飯の支度、楽をしよう思って買ってきたお惣菜。
大根と鶏肉の煮付け、メインディッシュだ。

それをお皿にあけようとした時、
手が滑ってパックごとお惣菜が床に落ちた。
しかも、裏返しに。

( ̄ロ ̄;)ガーン…

かなり柔らかくなるまでに込んであったので、
落ちた衝撃でぐちゃぐちゃ。

「もう食べられないや…」

そう思うと、
どこにぶつけたらいいかわからない腹立たしさと、
遠くの方でちょっと悲しいのを感じた。

「あ〜〜〜」

それを見てabuが笑った。

「おかずがなくなっちゃったよ…
 何か作らなくちゃ…」

私が暗くそう言うと、abuはにこにこして言う。

「じゃあ作りましょう!」

私の中で軽い混乱が起こる。

「あれ?
 あれ?
 あれ?
 怒らないの?」

abuがそれくらいのことで怒らない人だということはよく知っている。

けれど、私の中では、失敗→悪いこと→怒られる、
そんな図式ができあがっていたのだ。
そして、私は何か事が起こると、それに備えて身構える。
無意識のうちにね。
だから、身構えているのに、にこにこするabuに戸惑ったのだ。

不意に訪れた気づき。
自分がそんな反応をするパターンを改めて認識する。
(おせーよ!という突っ込みははナシで・笑)

腹立たしさや悲しみは、自分がしくじった時に必ず感じていた感情だった。
責められ、なじられ、押しつぶされ…
子供の頃ずっと繰り返した体験だった。

そして、楽しそうに料理をするabuを見ていて思った。

私は「罪」を背負っていると。
自分は罪を犯しているのだと信じていると。
かつての想いがいまだ自分の中にしみていて、
かつて自分がされたこと(攻撃)に対しての反応を、
無条件に繰り返していると。

責める人などいないのに…

私は自ら責められた人としての自分になっていたのだ。
先回りして。

だから、失敗したり、うまくいかなかったりすると、
必要以上に悲しくなったり、怒りが湧いてきたりする。
もういいや、って無気力になったり。
責められる前からすでに責められている状態になっていた。

(/´Д`)/イヤァ〜

うひゃ。
また発見しちゃった。
過去に生きている自分を。

こうして気づいて発見する度に、
私は過去に生きている自分を今この瞬間に連れ戻す。

「それもう終わっちゃってることだよ。
 もういいじゃん。
 うぃっす!」

って。

罪。
決して罪ではないのに、それを罪だと信じ込んでしまっていること。
私達はいくつそんなものを背負っているのだろう。

昔は誰かの言葉や態度でそう信じてしまったかもしれない。
けれど、信じ続けているのはまぎれもなく自分。
それを終わらせると決めるのも自分。

バイバイしたら、新しい世界。
もう楽しんでいいんだ。
おかずが台無しになったって、
何か失敗したって、間違ったって、いいんだ。
そこからじゃあどうしようか、って、にっこりして考えればいいんだ。
それだけなんだ。
それが欲しかった世界。
じゃあ、住みましょう、その世界に。
自分の意思で。

毎日が罪だと信じていたことをぬぐい去る日。
毎日が生まれ変わりの日。


2011年01月16日(日) 「無になりそこねるメッセージ」

私がヒプノセラピーを学んだ学校を同じく卒業した人、
願いが叶うバーEmisuのオーナーでもある本間義幸さん。

行者、セラピスト、整復師、空手家、社会活動家、
時に旅人ヒーラーとして全国を行脚、色々な顔を持つ人でもある。



ある知人が言っていた。
なぜスピリチュアルな話やメンタルな話を敬遠したくなるかと言うと、
きれいごとが並べられていることが多いからだ、と。

「そんなことわかってるよ。
 わかっててできないから人は苦しむんじゃないか。
 そこを切り捨てていいことばかり書いてあるものには共感できない」

その知人が言う。



そういう意味では、
本間さんのブログはその真逆にあるような気がする。

人間だからこそ持つものを直視し、
ありのままとらえ表現し、それも愛してなお、
神の世界と深くつながる本間さんだからこその言葉、
私はすごく好きだ。

きれいごとじゃない、上から目線じゃない、
同じ人間だからこその悲喜こもごもを持ちながら、
真実に常に触れている人の言葉。
だから、グッとくる。

読んで、理屈でなるほどね、ためになるな、
なんてものは、私にとっては感動とはチト違う。
もちろん、必要な情報ではあり大切ではあるんだけど、
いわゆるデータのインプットだ。
それはそれで重要で、私も常に行っている。
けれど、心揺さぶられて何かが喚起されるのとは違う。

「いい情報」は比較的多いと思う。
もちろん、賢くその情報を選ぶことも大切でありつつ。

けれど「心揺さぶる」ものは溢れているとは言い難い。
そんな中、本間さんのブログは、
その「心揺さぶる」希少なものの中のひとつだ。

おちゃめな楽しい記事とそんな胸に響く記事がいっぱいの、
彼のブログをぜひみなさんに紹介したい。

特に今日の記事はすっごく好き。

願いが叶うバーEmisuオーナー
「無になりそこねるメッセージ」


彼のブログ、ぜひぜひチェックしてくださいね。

あ、ブログヘッダーのデザイン&制作はabuですよーっ。
なにげにすっごくきれいなので、そちらもチェックを♪



そして、彼が仙台で経営するバーEmisu。
かなりヤバいですよ!!!
スピリチュアルバーですよ!!!

各チャクラに対応したセラピーカクテル、
心願成就のために日本酒でプチ儀式も楽しめる如意宝珠(にょいほうじゅ)、
(お土産に儀式で使った水晶を持って帰れるのダ。
 それってオトク過ぎじゃね!?
 私も飲んでプチ儀式してきたんだ〜、うふふ♪)
他にも、えええっ!?ってメニューがいっぱい。

こだわりピザも超絶品。
しかも、うれしい低カロリー!

茨城県民の私だけど、車で仙台まで行っちゃうもんね。
Emisuにハマって。
abuが飲まないんで、
帰りの運転を気にせずいい感じで飲めるという(笑)

バーテンの親方(同じくアメブロ)
ピザ職人のマッキーさん、
おふたりもかなりいい味出す素敵な人達。

Emisuのためにわざわざ仙台まで出向く価値があると、
私は思ってマス。

ま、とにかく、
詳しくは本間さんのブログへGO!ってことで(笑)
彼の過去記事にEmisuのことも色々書いてあるんで、
そちらもチェックしてみてくださいね♪

abuの新「あぶろぐ」もずくずく更新中(笑)


2011年01月13日(木) 危険な「普通」

普通は危険。
ヒジョーに危険。

よくこういう言葉を聞く。

「普通は○○だよね」
「普通は○○しないよね」

これ、すっごく危険。

こういう言葉には言い含みがある。


「普通は○○だよね」
→ ○○じゃないのはおかしい


「普通は○○しないよね」
→ ○○するのはおかしい


大なり小なり批判の気持ちがそこにあるのだ。

誰かの言動に、カチン、ときた時に出てくる言葉だろう。
なんかおもしろくないわーっ!
ちょっと納得いかないんだけど?
そんな気持ちの時によく口走っちゃう言葉じゃないかな。



「普通」ってなんだ?

ソレ、オイシイデスカ?(コラー)

この場合の「普通」とは。

その人がイイと思ってること。
自分にとっての正しさ、正解、あたりまえ。


その「普通」から外れる人がいると、
間違ってる、おかしい、納得いかない、という判断が瞬時にくだる。
そして、責める。
たとえ口にはしなくとも、心の中で相手をそういう目で見る。



だが、しかぁーし!!!

人はみんな違う。
自分の「普通」が誰かの「普通」と同じとは限らない。

たとえば、誰かとコミュニケーションして、
相手の言動に、おもしろくないと感じることがあったら、
思い出してほしい。

人はみんな違う生き物。

価値観が違う。
考え方が違う。
好みが違う。
知識が違う。
経験が違う。
体験が違う。
スキルが違う。
育ってきた環境が違う。
人間的成長の度合いが違う。

それを受けれる。
そうです、もう受け入れるんです。

受け入れないと?

うん、いつまでも腹が立ったり、おもしろくなかったり、
そして、その相手のことをよく思えなくなったり、
ストレスがたまったり。
結局自分がイヤな思いしちゃう。

意識して思考する。

「色々な人がいるよな、あの人はああなんだな」

意識してそう思考する。
これが重要。
自分が無意識に「普通さぁ」と言う言葉を使って批判していると気づいたら、
そういうふうに切り替える。

腹立つのにそんなふうに切り替えるのってバカらしい!
そう思う人がいるかもしれない。

なぜ、腹が立つのか、おもしろくないのか、と言うと、
切り替えないからだ(爆)

腹が立つ、面白くない、だから切り替えない、んじゃなく、
切り替えないから、腹が立つ、面白くない、なのダ。



自分の「普通」と人の「普通」は違う。

「普通さぁ」と相手を裁くのは、
相手に自分の「普通」を強制していること。

みんなの「普通」が違うこと、よくわかっておくのが素敵。




結局、人は鏡。
投影の法則。
不愉快になる、腹が立つ、
責めたくなる、ひとことちょっと言いたくなる、
そんな相手に見るものは、自分が持ってるものなんざんす。
例外なし(笑)

相手の何かに反応が生まれる時は、
素晴らしいものであれ、不快なものであれ、みんな自分が持ってるもの。
それを頭に置いておきながら、
泣いたり笑ったり腹立ったりできたらカッコイイね。


2011年01月12日(水) 「それ」はいつも思いがけない形で訪れる

いつも読ませていただいているryokaさんのブログ。
彼女の幼い日の物語を読んで、涙があふれてきた。
彼女の物語に共鳴して私の中で何かが弾けた。

「本当にほしいものは手に入らない」

そんな悲しい思いが、自分の奥にまだうずくまっていて、
私を呼んでいたんだ…

どれだけ泣いただろう。
痛い痛いが溶けて涙になって外に出ていくみたいだった。

ひとしきり泣くと、

「まいった、マジまいった…」

最近、そう感じていることがあるにも関わらず、
しんどいのに明るく振る舞って空元気してた自分、
表向きいい感じを演出していた自分、
どこにもぶつけられない思いひとり抱えていた自分、
助けて、何とかして、と言いたいのに言えない自分、
そんな自分に出会うことができた。

うれしくて、穏やかで、心地よくて…
これこそが本当の自分に出会った時にいつも感じる感覚。



ここ少しの間、どこにも何にもフォーカスできなかった。
何がおかしくて、何をしたらいいのか、まったくわからなくて。

奥の方にいて追いやっていた自分に出会う度に思う。

何をどうしたらいいかとか、
どういう方法を実践するかとか、
そういうのも大切だけど、
いちばん最初に必要なのは、
心の奥で身をひそめて、けれど、本当は見つけてほしくて、
助けを求めている自分に出会うこと。

その自分に出会ったら、ただ、ただ、それでいい。
出会って何をするとか、そういうんじゃない。
ただ、ああ、会えたね、って。

とっても会いたかった人に会ったら、それだけでうれしいでしょう?
それ自体が幸せでしょう?
それと同じ。
それ自体が大きな出来事で、たくさんのエネルギーが動く。
癒しが起こる瞬間でもあり。

その自分の存在を知ったからこそ、
その自分に出会えたからこそ、やっと動き出せる。
何かをするのも、いいと言われるノウハウを実践するのも、
そこからでいい。

何かしようとしてもできなかったり、
周りが、いい、いい、と言うものに自分では取り組めなかったり、
身動きが取れなくなるし、何がいいんだかわからなくなる。
自分を見失っていると。

そういう時は、自分に会いにいこう。
心の奥にうずくまっている自分に。

不思議なもので、
奥の方に押し込めていた自分に出会い、
感じないできたその自分の感情を感じ切ると、
清々しく穏やかな気持ちになる。

そして、それまでと状況が変わらなかったとしても、
何かが違うのを感じる。
身動きが取れなかった自分が動けるようになったり、
あ、あれやってみよう、そんなひらめきが訪れたり、
よさそうな情報がやってきたり。
そうした時に自分が「これ!」と感じるものにほぼ間違いがない。

苦しんでもがいて、溺れる者は藁をもつかむ勢いで、
なんでもかんでも手を伸ばしてしまいたくなる感覚とは異なり、
スッキリとした選択をすることができる。

そして、そこから始まるものがある。
必ず。



思い出したんだよね…
私がセラピーを始めた理由。

そんな自分に会える喜びを、
そして、そんな自分に会うことで開ける未来を、
出会う人と一緒に体験したい、
それが私がセラピストであろうとする理由だったことを。



今日の私みたいに、ある瞬間、何かによって、
導かれるように解放が起こることがある。

「それ」はいつも思いがけない形で訪れる。
そして、「それ」は愛されている証。
宇宙に愛されている証を強く見せてくれるもののひとつ。

私はまたひとつ証を見た。

ryokaさんのブログ、
ぜひ、みなさんも読んでみてくださいね。


ryokaのブログ
「犬のぬいぐるみ」



ryokaさんの日々を、
彼女らしい素敵な目線で綴るブログです。
読んでいて、はっ…!とする瞬間があるのは、
彼女が真摯に自分に向かい合い、
感じたことを言葉にしているからでしょう。

アクセスすると素敵なピアノの曲が流れます。
仕事中の方はサウンドオフで(笑)


2011年01月10日(月) 「あなたは欲しがるものを手にすることはないでしょう」

誰もが願う豊かさ。

欲しいものが手に入ったり、多くの収入を得たり、
そうした現象が訪れると、人は豊かさを感じるのだと思う。

私がアバンダンティアのアチューメントを受けてもうすぐ1年。
豊穣の女神アバンダンティアとつながることで、
豊かさを受け取ることを妨げるブロックを外し、
多くを受け取れるようになるアチューメント。

私は、アチューメントを受けると、
濡れ手に粟状態でお金入るようになると思っていた。
いや、と言うか、それを願っていた。

結論から言うと、効果が実感できなかった。
お金、来ないよ???って。

けれど、今になって思うのです。
私は間違いなく豊かになっているし、常に豊かであるのだと。

いつも思っていた。

「お金が欲しい」

けれど、それすなわち、

「私はお金がありません(だから欲しいのです)」

そう宣言をしていたことになる。
お金がないと感じ思考するから、欲しい、という欲求が生まれるのであり、
その欲求自体が「ない」ことそれそのものなのだ。

その思考とそこから生まれる不安定な感情は、
さらに私を貧しくさせる現実を突き付けてきた。
と、言うより、与えてくれた。
なぜなら、

「私はお金がありません」

という私の思考に対して、宇宙は、

「そうか、お金がないのだね、そうだね。
 では、その通りに」

と、それをそのまま形にして与えてくれていたから。
まさに、思考が現実化する、をそのまま体験していたの。

ある動画をご紹介します。
これは、こころと体の癒し人・もくさんのブログで紹介されていたもの。

もくさんのブログ
「疲れたら癒されにおいでよ」


素敵なのでぜひチェックしてみてね!

単なる情報だったものが、自分の一部になったような、
そんな感覚を覚えた動画。
まるで、固形だったものが、
液体になって自分の中に溶け込んで来るように。

「あなたは欲しがるものを手にすることはないでしょう」

衝撃の言葉で始まります。





以前はこの動画でも言われているようなことの意味が、
さっぱりわからなかったの、わかりたくなかったし。

どん底ズンドコに書いたので、ここでは省くけれど、
色々あって、もがいて、もがいて、
自分に与えられている豊かさが溢れんばかりにここにあると、
そう感じる時間が増え始めた時、
私はようやく理解したのだった。
豊かさを求める以前に、豊かさが今自分にあることに気づくこと、
そこが出発点だったのだと。

そして、そこに辿り着けたことこそが、
アバンダンティアのアチューメントが私にもたらした、
最大の贈り物だと感じている。
そこから始まる世界は摩訶不思議(これまでの概念からすると)、
きらきらした自由で楽しい世界だった。

アチューメント後、私にもたらされていたものは、
人やモノや状況との出会い、あらゆる直感であり、
すべてすべてが私を導くものだった。
それはまさに豊かさ。
今だからわかる。

もちろん、アチューメント以外のすべての要因が、
私に働きかけていたとは思う。
厳密に言うと、アチューメントは、
流れの中のひとつの要素だったと思う。

逆に、最初にじゃんじゃかお金が入ってきていたら、
豊かさの本質というものに目を向けられずに、
この場所に来ることがずいぶん遅れただろう。
すべてが完璧なタイミングで、完璧な出来事として起こるのだなぁ。

どこかの本で読んでふぅん…と思っていた世界が、
今ここにあることを知らしめられたこの1年。



そして、春から、いよいよ!
アバンダンティア・アバンダンス・レイ・アチューメントを開始します。
私はずっとこの時を待っていました。

本当はいつだって始めてもよかった。
けれど、自分の中で何かが引っかかっていた。
それは、きっと、真の豊かさを理屈抜きで感じるこの感覚が、
自分にないことに気づいていたからかもしれない。

SunGoddessの新しい形でのスタートと共に、
また多くの方との出会いと再会を心から楽しみにしています!
エイミーであった私を知っている方、
えみやである私を知っている方、
これから私を知る方、
みんな、みんなに。


2011年01月08日(土) 冬の海の火の鳥

おとといに引き続き、と、言うか、おとといに味をしめ、
abuとアンナと3人で、今日も夜明けの海を見に行った。

今度は九十九里浜。
2時起き、3時出発、現地到着4時30分。
気温氷点下3度…さぶっ!

昨日の強風で空には雲ひとつなく、空には満天の星。
私とアンナは声をあげる。
泣きそうなほど美しい星空、まさに星降る夜。

自分が見ようとしないだけで、
それはいつもそこにあるんだなぁ…

自分は無限の宇宙の片隅の地球という惑星にいるんだと、
理屈抜きに感じる瞬間。

真っ暗な海辺で小さなストーブとランプだけがオレンジ色。
abuが作る目玉焼きのせトーストとカフェオレで、
しばし、おしゃべり。

水平線がかすかに明るくなってきた頃、私達は撮影を始めた。
abuは去年の暮れにやってきた1Dで、
私はずっと愛用しているD80で、
アンナは携帯カメラで、
それぞれがそれぞれに撮る。



海風にさらされて体感温度がさらに下がる中、
abuは遠浅の海に足首まで入っての撮影。

「手痛い!
 足痛い!」

そう言いながらも海から出てこない(笑)
氷水のような海水の中にずっといるんだから、そりゃ痛いよ。
知ってるんだ。
痛いより楽しくて出てきたくないってこと。



アンナは携帯の待ち受け写真の撮影。

abuと同じく、

「手痛い!
 足痛い!」

そう叫びながら、くるくる回って手をはぁーっとしている。
なによ、ずいぶんいい写真撮るじゃない(笑)



私の手もかじかんで感覚がない。
カメラの操作をしていてもどのボタンに触れているかわからないほど。
じんじんじん…と手足の指先が痛む。

「指がちぎれるーーーっ!!!」

そう叫びながら、撮るabuとアンナをひたすら撮り続けた。



何かが戻ってくるのを感じた。
ここ1年2年感じてなかった感覚じゃないだろうか。
うまく言えないけど、撮る感覚。
それが喜びであるという感覚。

火の鳥はいるんだ、そう思った。

私の中の写真は死なない、何度でも甦るんだ、って。
きっと私は火の中に飛び込んで自分を焼いて、
また生まれたんだ、って。
ひとり心の中でドラマチック(笑)

うれしかったな…



地平線に太陽が顔を出した。

冷えきった空気にぬくもりが混じるのを感じる。
頬があたたかい。
ほんのちょっとだけ顔を出しただけなのに、
こんなはるか彼方の地球の片隅にいる私達をあたためる太陽、
なんてすごいんだろう、そう思った。



あさってもまた行くことにした。
全員一致で(笑)
みんな寒いのなんでどうでもいいみたい。
楽しいから。



撮影した1枚を写真ブログにアップしました。
よかったら見てやってくだせぇ。
更新どんだけぶり!? (´Д`;)

emiyaism PHOTO
「撮る男」


2011年01月07日(金) う○ち思考に見る発想転換

タイトルが下品で…すいません(笑)
このブログはその路線じゃないハズなんだが(爆)



車を運転していると、
素晴らしくイラついていて、
それをこちらに向けてくる、
そんなドライバーに遭遇することがある。

きっと追い越したいんだろう、
うしろから蛇行運転であおってきたり、
クラクションをパッパカならしたり、
パッシングをバシバシしたり…

合流で入ろうとウインカーを出して待っていると、
クラクションを鳴らしたり、
すごい顔でにらんで隙間を詰めたり…

まあ、色々な人がいるわけだ。

そういう時、当然イヤな気分になる。

その気分は耐え難いもの。
そんな気分のままずっといるのはイヤ。

だから、私はこう考える。

「この人う○ちがしたいんだ。
 もれそうなんだ」

相手のマナーが悪くなればなるほど滑稽に見える。

「そうか、
 そんな形相で先を急ぐほどもれそうなのか。
 じゃあしょうがないよねぇ」

思わず、ぷっ!となる。
まあ、ちょっとはイヤな気持ちも残っているけど、
笑えた分、気が楽なのだ。
そして、ま、いっか、と流せる。

その出来事へのとらわれから、
その出来事から生まれる感じたくない感情から、
解放される。

私の中の物語なので、あくまでひとつの例として(笑)



この例でわかるのは、
こじつけでも、無理矢理でも、

考えを切り替えたら、
その切り替えた考えから生まれた
新しい感情を体験するということ。


例で言えば、
私はあのイヤぁな気分、イライラした気分を、
ずっと感じているのがイヤで、
う○ち思考をしている。

目の前で起こった出来事は、ただそこにあるもの。
それにどういう意味付けをしていくか、
それによって自分が体験する感情が違うということは、
そうした発想の転換を実際にしてみても明らかだ。



望む感情、望む状態を体験するために、
それを生み出してくれる思考を選択する、
それは、人生を心地よく生きるために重要なこと。

私にしてみれば、

前向き、プラス思考、ポジティブ、
そんな崇高なもんじゃない(笑)
もう必死(爆)


こんな気持ち、こんな状態、イヤよ、イヤイヤ!!!
感じてたらおかしくなっちゃう!!!
なんとかしないと!!!

そんな感じ。

楽になりたいその一心。
「らく」とは「たのしい」とも読む。
そう、楽しくなりたいんです、私。



「らく」って言うと、
努力しないとか、苦労しないとか、
なんかこう、ダラーっとしているイメージもあるけど、
「たのしい」ことだと私は思うんだよね。

たとえば、すっごく好きなことを夢中でやっているとする。
楽しくて楽しくて寝るもったいない!そんな気持ちで。

端から見ると、

「すごく頑張ってるね」
「無理しないで」

そう言われるようなことかもしれない。
そして、確かに、ものすごい努力や苦労をしているのかもしれない。

でも、本人は楽しいので、
努力や苦労だとはちっとも思っていない。
きっと、誰にでもそんなが経験があると思うな。
ワクワクすることをやっているとそうなるってこと。

楽しいとは、時に、苦でさえ楽にしてしまう魔法。



だから、どうしたら楽しくなれるかな、って考える。
私の場合、どうしたら笑えるかな、ネタになるかな、とか(笑)

すべての出来事に意味はなく、中立なもの。
それに意味付けをするのは私達。

何かが起こって瞬時に生まれる感情は条件反射。
過去の体験に基づいていたり、
まあ、人間の基本的反応であったり。

パブロフの犬みたいなもんです。

そうやって思考の切り替え、発想の転換をするということは、
そうした無意識の条件反射を違うものに切り替える作業。

多くの人は、自分の無意識の条件反射が自分だと信じているけれど、
あれは自分じゃなく、単なる反射的反応。

それをしっかりと意識しておく。
反応は自分じゃないんだ、って。
そうするともっとフレキシブルに変身していける。

自分は変える必要がない。
変えるのは反応。
反応が生まれる元になる思考。

ええ、そうよ、必死なのよ(笑)
つらいのイヤなんで。



変身と言えば、
ケロロ軍曹の556(コゴロー)変身時の「癒着」が好きです ( ̄▽ ̄)
「宇宙刑事ギャバン」の変身時の掛け声
「蒸着!(じょうちゃく)」のパロディだと思われます。

↑ 話の脱線魔



考える葦になると人生がうんと楽(らくでたのしく)になる。
発想の転換をゲームだと思ってやるのが気楽でいい。
常に実験。
あんな話読んだけど、ホントかよ、ちょっとやってみよう、って。
素敵な人体実験よ(爆)

感じたい感情、体験したい状況、
それが生まれる思考を選択して、
コンチクショー!って思いながらでも思考を変えてみる。

イヤな気持ちがゼロにはならなくても、
やわらいで、ちょっと楽になったら、大成功なのだ。
ちょっと楽になった自分ができることをしていけばいいし、
それこそが新しい思考をする自分になるスタート地点なのだから。


2011年01月06日(木) abu(あぶ)だけに「あぶろぐ」

コードネーム「まめこ」ことえみやのパートナー、

abu(あぶ)!

彼がアメブロでもブログを始めました。

文章が苦手だからイヤだと言う彼を、
なだめすかして(爆)半ば強引に誘致。

写真を織り交ぜながらの彼の日々とつれづれを、
のぞいてやってください。

個人的に彼の写真のファンなので、見ていて楽しい!
そうそう、abuは写真家でもあります。

実は芸人並みにおもしろい彼の一面を、
ブログに出してくれるとうれしいんだけど…
本人曰く、家族以外には見せないとか(爆)

abuのブログ
「あぶろぐ」


よろしくお願いします♪


2011年01月05日(水) ツイッター離脱組

去年の夏頃かな、ツイッターを退会した。

人脈を広げるにはツイッター、
ブログやホームページに誘導するならツイッター、
ツイッターの有効な活用法、
ツイッターは大きなビジネスチャンス、
そんな言葉をあちこちで見る。

だから、ツイッターをやってみて、
別段楽しくもなく、夢中になれるわけでもなく、
もうやめたいという気持ちになった時、

「えっ、あんなにいいと言われているものをやめていいの?」

そう思ったりした。

けれど、どちらかと言うと遠ざかりたい気分、
自分にとってのその事実がとても重要だと思ったので、
さっくり退会してみた(笑)

ツイッター、上手に使えたら最高のツールだと思う。
たまたま私は気がノらなかっただけで。

退会したら、重い荷物を降ろしたように軽やかな気分になった。
どんな時でもその「スッキリ感」で判断しようと改めて思った。

私はツイッター離脱組。
去年はmixiもやめた。

世の中がいいと口を揃えて言うことでも、
自分が興味を持てなかったり、その気にならなければ、
右へならえする必要はなく、それはそれでいいんだなぁ、と、
しみじみ思う。

そして、ツイッターやmixiで、
また楽しみたくなったら登録するんだろうな(笑)


2011年01月04日(火) 素敵なバイバイ

感情を感じると、
その時の感情が自分の感情だと思いがちだけど、
実は、違うことがよくある。

わかりやすいのは、怒り。

怒りは感情の表面にある感情。
フタみたいな感情なの。

たとえば、さびしい時、悲しい時、
怒ることってとっても多い。



それに気づいてから、
怒っている自分を観察すると、
こう叫びたい自分がいる。

「私を愛してよ!」

色々な思いを集約すると、結局真ん中にそんな気持ちがある。

愛されていると、
気に留めてもらっていると、
大切にされていると、
尊重されていると、
感じることができない時、

私は怒ることが多い。
一見、怒ってるんだけど、
その心の奥では叫んでるんだよね。

「さびしいよ!」

って。

人ってそういう奥にある気持ちになかなか気づかない。
私も含めて。

さびしいって感情はあまりに悲痛で、
まともに感じると相当キツい。
そして、みんな怒りでフタをしてしまう。

そのフタの部分だけ感じていると、
いつまで経っても奥の方にあるさびしさって消えない。
どんなに怒り散らして、暴言を吐いて、怒り狂っても、
消えない。

けれど、奥にあるさびしさをしっかり感じていくと、
とても不思議で、
さびしさを感じ切った時、
それがスーッと消えていく瞬間が来る。

そして、深いため息がふーっと出る。



人と話していて、共感してもらえるとすごくうれしいよね。
心が満たされる。

怒りの奥にあるさびしさを感じる時、
それと同じことが心の奥で起こっている。

そのさびしさを持っている私達の奥の方にいるインナーチャイルドが、
ああ、気づいてもらえた、わかってもらえた、って、
ほっとしてうれしくなるんだ。

泣いて泣いて泣いて、泣き疲れると、
ある瞬間、なんだかさっぱりしたような気分になる体験、
きっと誰もがしたことがあると思う。

感情は感じていってあげると、ありがとう、って離れていく。
わかってくれてありがとう、
寄り添ってくれてありがとう、
って。

だから、こわくないんだ。
どんな感情も。
感じてあげさえすれば、うれしくなって違う形になって、
にこにこしながらバイバイしてどこかに行ってしまう。

本当に不思議だよ。
こればかりはうまく説明できないけれど、
そういう体験をする度思う。



思考が現実化する、だからいいことを考えようとする、
そんな時、人はトラップにかかる。

頭ではいいことを考えよう、
前向きに、素敵な未来を、そう思っていても、
後から後から湧いてくる不安や恐れ、悲しみや悔しさ、怒り、
そんなつらい感情にまみれて、
これっぽっちも前向きなことなんか考えられなくなる。

それでも思考が現実化するんだから、と、
必死につらい感情に負けじと、
頭でいいことを考えようとすると、
そのうちおかしくなってくる。

前向きでいなくちゃ、いいこと考えなくちゃ、感謝しなくちゃ、
そう思えば思うほど、アリ地獄にハマったかのように、
ズルズルとつらい苦しい感情と思考に絡めとられていく。

何度かき消しても、
なくならない不安、恐れ、つらいつらい感情、
そんな感情にまみれて思考する夢も希望もない未来、
そんなものに絡めとられて途方に暮れたら、
思い出してほしい。

とことん湧いてくるつらい感情と、
そのつらさから生まれてしまう夢も希望もない未来への悲観的な思考、
思い切ってとことん感じちゃって!

ええっ、それじゃあその感情と思考が現実になっちゃう…!
もしそう思ったら安心してー(笑)
そんなに瞬時にはならないから(爆)
神様はちゃあんとタイムラグを作ってくださった。
だから、そんな本当の痛い自分と向き合う時間はちゃんとあるの。

それは、まさに、ゆだねる瞬間、そんな感覚。

もうダメ、もうどうでもいい、
スピリチュアルとか、思考現実化とか、引き寄せとか、
そんなのクソくらえだよ!
こっちは苦しくてそれどころじゃねーよ!
きれいごと言ってんじゃねーよ!

そんな瞬間が人生にはあっていいと思うんだ。

もちろん、私にだってあるよ(笑)



そうするとね、最初に書いたことが起こる。

心の奥の方にいて、苦しくて身動きもできずにいた自分が、

「気づいてくれてありがとう…
 わかってくれてありがとう…
 すごくうれしいよ!」

そうやって癒されていくんだ。

すると、不思議なことに、私達は自然に力を取り戻す。
ま、スッキリしたし、色々あることには変わりないけれど、
ここらでいっちょ前向きになってみるか!
そんな気持ちになる。

そんな時、人はまっさらで、
まるで、もうなくすものはない、そんな状態に似ていて、
すべてをひっくるめた上での強さが備わる。



ここで大切なのは、フタの感情を感じるんじゃなく、
フタで隠してしまっているその奥の感情を感じるってこと。
フタの感情はいくら感じてもなくならない。
それどころか、感じるほどに増長する。
そして、感じ切ると空しさだけが残る。

本当の感情は、感じ切ると清々しいの。
たとえそれが悲痛な感情であっても。

痛い感情を感じるのはこわいかもしれない。
でも、実は、その痛い感情は、とってもやわらかくてやさしいんだよ。

感じてあげると、かわいらしくなって、
素敵なバイバイをして旅立っていくんだ。
そして、とてつもなく大きい贈り物を置いていってくれる。

時に、それは、
すごく素敵なものになって帰ってきてるんじゃないかって、
思うこともある。

しんどくなったら素敵なバイバイすればいい。
そのために、とことん自分に向き合っちゃう。
それがどんな自分でも。
神様はそんな私達でさえ深く愛してくださっている。



去年の暮れ、私は思考現実化に取り組むにあたり、
そんなトラップにかかった。
不安と恐れにがんじがらめになり、
精神的に追い詰められ、おかしくなっていった。

そんな時、まるおくんとの会話が私を導いた。

(まるおくん、通称まるさんは、私を導く存在。
 どんな人なのかはよくわからないけれど、
 ここぞって時にお話して力をもらってる)

今日ここに書いたことは、
その時のまるおくんとの会話とその後の体験から得たもの。

もちろん、今までだってわかっていた。
わかっていたのに、見失っていた。

人は、わかっているはずの何かを見失い、また手に入れ、
また見失い、また手に入れ、
それを繰り返しながら大切なものを自分の一部にしていくのだろう。

私のそんな貴重な体験だった。

まるおくんとの対話 「答えを思い出す」


この会話は私をずっと導き続けるだろう。


2011年01月03日(月) 言葉のチカラにびっくりだわよ!

混雑した駐車場ほどイヤなものはない。

でも、私はノープロブレム。

なぜなら、すごーく駐車場運がいいのだ。
どんな駐車場でも必ず停めることができる。



それに、よくいただきものをする。
いただきもの運がいいのだ。
特に食べ物が多い。

本当によくいただくのよー。

年末もすごかった。

パン、
乾燥芋、
ゆで卵、
マドレーヌ、
りんご、
卵焼き、
もち、
あんこ、
嵐のように食べ物がやってくる。



このふたつのラッキーに共通することは、
日頃から、

とにかく口に出して言っている

ということ。

「私は駐車場運がすごくいい。
 どんなに混んだ駐車場でもいい場所に停められる。
 ありがたい」

「ウチはいただきものが本当に多い。
 食べ物は特に多いよね。
 どんどん来る。
 本当にありがたい」

別に、アファーメーションみたいにしてやってるわけじゃない。
ただ単に、あ、ラッキー♪って思った時に、

デフォルメする勢いで言う(笑)

ええと、まあ、時にはこんなこともあるかな、程度のラッキーでも、
あたかも頻繁に自分に起こっているかのように言う(笑)

車だったら、停められるといいな…じゃなく、
いただきものだったら、来るといいな…じゃなく、
もう自分はすでにそうなってしまっているかのごとく言う(笑)

これはよくアファーメーションの際にも言われることだよね。

なる、とか、
なりますように、とか、
ではなく、
それが今現在すでにそうなっている形で言葉にすること、って。
なる、なりますように、ってのは、
今現在そうなってないってことなので、そうなってないことを引き寄せてしまうとか。

あと、
ならない、とか、
なりませんように、とか、
否定形を使わないこと、って。
潜在意識ってのは否定形を認識できないそうで、
たとえば、悪いことが起こりません、という使い方をすると、
悪いことが起こります、と言っていることになるのだとか。

あたしゃーそれが本当かは確認してないけど(笑)
気持ちがいいので、
そういう時は、
よしと言われる言葉を選んで使うようにしている。

そうするとね、嘘くさいんだけど、
いや、嘘から出たまことって感じでね、
本当にそうなってっちゃうんだよ。

年末、怒濤のように食べ物をいただいて、
改めて、言葉のチカラにびっくりだわよ!

いやぁ、ありがたい!
本当にありがたい!



最初はおそるおそる言ってたんだけど(笑)
そのうち、本当にそうなるんだ!って確信が生まれると、
感情レベルでもノッてきて、
そういうふうに言うようになったな。
そうなると現実化は加速する。



せっかく人間に生まれたんだし、
言葉を話せるんだし、
そして、どんな言葉を話すか選べるんだしね、
タダだしね(爆)

やってみたら面白いよ。
言葉通りの人生になるなら、
素敵なこと言いたいじゃん。

ほら、人生はゲームだから♪


2011年01月01日(土) 恵まれて生きる

あけましておめでとうございます!
やぁ、2011年ですね。
新年ってだけでなんだかワクワク(単純)。

娘はお年玉にワクワクしとるようです(同じく単純)。



大晦日の昨日から、
ずっと脳裏を離れないことがある。

それは。

恵まれていることに負い目を感じる

ということについて。



おととしの暮れ、アパートから実家に引っ越した時、
ある友達がこう言った。


「えみやちゃんはいいよ。
 実家に入ったんだから。
 家賃もないし、
 家事はお母さんも手伝ってくれるでしょう?

 私は違うの。
 一戸建てを買ったからローンもあるし、
 親と同居していないから、
 仕事をしながらも家事も全部ひとりでやるの。
 大変なの。
 どんなに疲れていてもやるしかないの。
 
 えみやちゃんはそういうのないもんね。
 恵まれてるんだよ。
 いいよね、楽で」



それを聞いた時、私の心がチクッと痛んだ。
そして、思った。


「ああ、恵まれてることに甘えていちゃいけないんだ。
 みんなはもっと大変なのに、
 私はダメだなぁ」



なぜか急にそう思ったことを思い出した。

その時は、そう思って、そして、自分を責めるような気持ちになった。
けれど、ふと、大晦日の昨日、急にそれを思い出し、

それは違う!

と、思った。

いいじゃない、恵まれてて!

と。

恵みを受け取っていること、
それは、その人が引き寄せたということ。

流れに乗って自然にそうなったりと、
無意識の思考や選択の結果でもあるかもしれないし、
意図してそれを思考し選択し引き寄せたかもしれない。
いずれにせよ、大きな意味で、その人の選択の結果なのだ。

そして、それは、また、
その恵みを受け取るまでのプロセスを経たからこそ、
受け取っているということでもあり、
その人の魂の選択でもあると思う。
だからこそ巡ってくる恵み。

その恵みが自分に訪れている時、

恵まれている自分はダメな人間…

そんな幻想をいだいてしまったのが、
その友達と話した時の私だった。
感じたのは、まさに、罪悪感だった。

恐らく、私以外にも、
このトリックに引っかかってしまう人がいるのではないだろうか。

新しい年を迎え、私は声を大にして言っちゃう!

恵まれていていいんです!

訪れた恵みを喜んでありがたく受け取ろう。
心ゆくまで味わおう。
その恵みの中で飛躍しよう。

そして、今度は自分ができることをして人に与えていこう。
恵まれているからこそできることがいっぱいある。

心が、物質が、生活が、人間関係が、
満ち足りるからこそ人に与えられるものがいっぱいある。
やさしさ、思いやり、笑顔、
精神的援助、物質的援助、金銭的援助、
いっぱいあるの。

恵まれているということ、それすなわち、
その恵みを人に分け与える機会を与えられているということ。

決して、怠惰なわけでもなく、ずるいわけでもなく、
恵まれるからこそできる次のミッション(笑)が与えられているわけだ。

恵みの上にあぐらをかいて、
傲慢になっていれば、
恵みは違う形になっていくだろうし。

本来、すべてが恵みなのであって、
一見、困難に見えるものも、宇宙の愛なのであって。
あああ、どん底ズンドコも大きな恵みだったよ…

だからこそ、
ありがたい、うれしい、ツイてる、
そんな形の恵みが訪れたら胸を張って受け取り、
それを大きくして周りの人や世界に拡大していく、
それがいいんだと思う。

いいことがあったから、
今度は悪いことがある、とか、またダメになる、
そういうのも幻想だから(キッパリ)

恵まれて生きよう。
恵まれて生きることを自分に許そう。
恵まれて生きることを選択しよう。
描いたものが来る。

だから、なおのこと、恵みを選択しよう。
今ある、たとえ小さくてもそこにある恩恵に気づいていよう。

不安や恐れにまみれていても、
それを見つけることはできる。
それを見つけると、不安や恐れがちょっとずつ小さくなってゆく。
そして、さらなる大きな恵みをもたらしてくれる。

2011年、恵まれて生きよう。

ここで、

「そんなこと言ったって、
 私は恵まれてない、
 こんなにつらいのに、
 こんなに不安なのに、
 そんなこと考えられない」

という思考が生まれた人は、
つらいままでも、不安なままでもオッケーなので、
即座にこう変換してみて。

「今私に与えられている恵みはなんだろう?」

って。
それこそが思考の転換。
それをひたすら繰り返すことが、ポイントなんだ。

恵まれて生きよう。
恵まれていることに気づいていよう。
恵まれていることに誇りを持とう。

ねーっ。



私の本名は「恵美(えみ)」です。
恵みが美しいと書く名前。
子供の頃はこの名前がそんなに好きではなかったんだけど、
最近は大好き。
父と母から素晴らしい名前をもらったと思ってる。

子供の頃、父と母が私をこう読んでいたの。

「恵美や、恵美や」

って。
こっち(茨城)の田舎の人って、名前の後に「や」をつけるんだよね(笑)
特に小さい子に。

だから、私のウェブでの名前を、
以前の「エイミー」から「えみや」にしたんだ。

あの頃、愛されて呼ばれていた名前、
愛をまっすぐ受け取ろうと決めた名前。

あ、やべ、死んだお父ちゃん思い出して、涙出てきちった(爆)


エイミー |MailHomePage
今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
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