おひさまの日記
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2004年07月27日(火) 辛いもの好きの私もヒー!LEE 辛さ×30倍

自称辛いもの好きの私。
うんと辛いインドカレーやタイカレーに目がなくて、
連れが「無理!辛くて食べられない!」と放棄するカレーを、
平気で食べてしまう。
焼き肉屋でカルビクッパを頼む時も、
「普通のよりうんと辛くしてね」とお願いし、
香辛料で真っ赤になったのをいただく。
だから、自分は辛いものに強いのだと思っていた。

なもんで、辛さがウリのレトルトカレー、
LEEを見つけた時は嬉しくなって即買った。
最初は5倍を食べた。
辛さはあっておいしいけど、私的にはまだまだイケる。
で、次に30倍を買って食べた。

辛い。
すっごく辛い。
ヒーヒー言って、自分が軟弱に感じてしまった。
辛いものには強いなんて、傲慢だったっス。
素直に参りました。


2004年07月26日(月) 「みんなの涙は心のしずく」

アンナはよく即興で歌を歌う。
当然、作詩作曲byアンナだ。
今日歌っていた歌はすごかった(らしい)。
母から聞いたのだけど、

「みんなの涙は心のしずく〜」

って歌ってたそうだ。
忘れっぽい母はその前後を忘れてしまったそうだけど。

「みんなの涙は心のしずく」
本当にそうだなぁ。
心のしずくなんだよなぁ。
心からぽとんと落ちる、言葉なき言葉なんだよなぁ。
なんて素敵な言葉だろうって思う母でした。

子供ってすごいね。
色々なものを無意識のうちに神様から受け取っているに違いない。


2004年07月22日(木) お母さん、好きって言って

今日母から電話があった。
つまらないことで口論になった。
口論と言っても、私が一方的に腹を立てたのだけど。
よくよく考えると、全く腹を立てる必要のないことで腹を立てていて、
電話の途中でそれに気付いたけど、
なんだかいつまでもぐずぐず母に当たっていた。

母が「ごめんね」と言った。
私はものすごく悲しくなった。
母はいつも私に謝る。
私が理不尽なわがままを言ってるだけなのに。

時々、母に対して押さえがたいほどの怒りが湧いてくる。
1ミリもないような小さなことをほじくって、
責めたくて、責めたくて、仕方ない気持ちになってくる。

けれど、そんな私が母をいつも苦しめるのだ。
涙が止まらなくなった。
傷付け、苦しめるとわかりながら、ぶつけずにいられない感情。
私は何がしたいのか?
母を苦しめたいのか?
いや、違う。

言葉が溢れてきて、私は母に言った。
「お母さん、悪くない。
 謝らないで。
 謝られると傷つく。
 お母さんを苦しめる私が悪いんだって感じて、すごく辛くなる。
 お母さんは本当に悪くないんだ。
 私がただわがまま言ってるだけなんだ。
 お母さんそのままで大好きなんだよ。
 変わらなくていいんだよ。
 謝らないでよ、そのままでいてよ」

すると、母に感情をぶつけたいという止められない衝動の裏に
今までずっと潜んでいたであろう私の気持ちが、
突然、目の前に現れた。
本当に突然、するりと。

「お母さん、好きって言って」

そうだ、私はそれを伝えたかったのだ。
そして、私はぽつんと言った。

「ねぇ、お母さん、私のこと好き?」

母は答えてくれた。
「ああ、大好きだよ」

「よかった…」
私の目から涙がいっぱい溢れてきた。
そうだ、私、お母さんに好きって言ってもらったことなかったんだ。
あったかもしれないけど、全然覚えてなかった。

母が口を開いた。
「恵美がね、アンナを抱きしめたり、好きだって言ってるのを見て、
 私は恵美にこういうことしてきてやらなかったなぁ、
 きっと恵美は寂しかっただろうなぁ、って、思ってたんだよ。
 かわいそうなことしたなぁ、って、思ってたんだよ。
 私はしてあげられなかったんだもん…」

好きって言ってほしかったんだ、
だってこしてほしかったんだ、
ほめてほしかったんだ、
いい子だって言ってほしかったんだ、
私は泣きながら母に言った。

それは、きっと、幼いあまり、
それをはっきりとそういう気持ちとして感じることも、
それを言葉にすることも、できずにいた私の、
もどかしく切実な想いだったのだと思う。
それがようやく明るい場所に出て、言葉となり、
母に届けることができた、そんな気がした。

「私は恵美がいなかったら折れ曲がってしまっていたよ。
 ありがとうね」

私はただただ泣いていた。
悲しい涙じゃなかった。

「お母さん、好きって言って」
そのたったひとことを言いたいがために、
私は母を責め続けてきたのだと思った。
どうして好きって言ってくれないの?
どうして受け入れてくれないの?
ひどいよ!って。

私の中で愛を求める激しい衝動は、
出口のないまま地下で暴れるマグマのように、
心の中で渦を巻き、猛り狂っていたのだろう。
認識できる気持ちにも、言葉にもなることもできず、
ただ痛みとしてそこに存在し、暴れていたのだろう。
それが怒りになって母に向かっていたのが、
時に憎しみにさえなっていたのが、
今となってはよくわかる。

私は、母に、好きだと言ってほしくて、ほめてほしくて、
目に見える形で、愛を受け取りたかったんだ。
それが受け取れなくて、ねじれるほど苦しかったんだ。
やっと、わかった。

そういう自分がいることを頭ではわかっていたけれど、
今日、それが、心でわかった。
はっきりと自分のものになった。

本当の意味でこの気持ちに辿り着くために、
私は長い長いプロセスを歩んできたのだ。
そして、その長い長いプロセスが必要だったのだ。
生きるとはなんと愛おしい作業だろう。
途中、途中が、いつも苦しい。
けれど、答えを求め続ければ、必ずそれはやって来るのだと、
感じずにはいられない今日という日だった。


2004年07月21日(水) 安全な場所

昔、私は、安心して泣けて眠れる場所が欲しいと思っていた。
それもひとりじゃなく、誰かがいてくれる場所。

その場所には、私を無条件で受け入れてくれる人がいて、
そこでは、支離滅裂なことをグダグダ話してもいいし、
子供みたいにわんわん泣いてもいい。
泣きつかれて無防備に眠ることもできる。

そんな場所を渇望していた。

勝手気ままに過ごすなら、独り暮らしで十分だ。
だから私は独り暮らしをしていたけれど、
自分のアパートは、安心して泣けて、眠れる場所ではなかった。
だって独りだったから。
独りじゃダメだったのだ。
独りではできない作業があったのだ。
人に受け入れてもらうという行為を欲していたのだから。

自称暗黒の20代を過ごした私は、
いつも、いつも、そんな場所を探し続けるボヘミアンだった。
自分にとっての安全な場所を。

振り返れば、私は、カウンセリングやセラピーを通して、
そんな安全な場所を体験していた。
そこで時々自分の心を裸にして、
グダグダ言ってみたり、泣いてみたり、受け入れてもらったり、
自分の世界に帰った時にどうやって歩いたらいいかの知恵をもらったり、
そんなことを繰り返しながら、
気がついたら自分もセラピストになっていた。

私は忘れない。
否定されず共感してもらえた時、
辛かったねと言ってもらえた時、
泣いていいんだと言ってもらえた時、
これ以上傷付くまいと必死に身につけていた重い鉄の鎧が、
ひとりでにガシャンと脱げたことを。

だから私は誰かの安全な場所になりたい。
そう思った。

安全な場所は、ずっと身を置く場所ではなく、
疲れてしまった時に身を寄せる場所。
誰かの人生に、まるで幻みたいに、
必要な時だけ、ぽつんと存在する場所。
そんなふうになりたいと思った…


2004年07月19日(月) サイン

無意識は常にサインを出している。
私達の気分や感情を通して、何かしらのサインを送っている。

無意識とは、意識できないから無意識と言うのであって、
そこからのサインは、
自分でも気付いていない自分の気持ちや感情であったりする。
そして、私達は、漠然としたものとしてそれを認知する。

なんとなく気が重い、ブルー、
なんとなく気が進まない、
よくわからないけど何もしたくない、
なぜだか悲しい、不安、
そんなネガティブな感覚とか。

逆に、
なんとなくウキウキする、
なんとなく○○がしてみたい気がする、
よくわからないけどワクワクして仕方ない、
なぜだか活気が湧いてくる、
そんな感じのポジティブなものもある。

いずれも無意識からのサインだ。

そういうものを感じる時、
それが一体どういうものなのか、何を意味しているのか、
すぐにわからなくたっていい。

ただ、無意識からのサインが来てるなぁ…って、
受け止めておくだけでいいし、
それだけでも、自分自身の声に耳を傾けることになる。
自分でも気付いていない自分から、何かメッセージが来てるなぁ…って。

例えば、楽しく仕事してて、結果も出てて、うまくいってた人が、
この仕事好きなはずなのに、最近なんだかやる気がない、
不満もないのに、なぜか気が乗らない、
そう言えば、この頃あまり業績もよくないなぁ、
そんなことがあったとする。

そんな気分は無意識からのメッセージだ。
自分では好きだと思っていた仕事を苦痛に思い始めているとか、
あきらめていた仕事を始めるチャンスだとか、
かなり疲れがたまっているので休んだ方がいいとか、
とにかく、自分では気付いていない何かがあるから、
そうしたサインが送られてくるのだ。

無意識は私達の本質、間違ったサインは送ってこない。
気付いてくれよ、本当はこうなんだよ、そんな声なき声を届けてくる。
それを無視して突っ走ってると、病気したりもする。
無意識は感情を通してメッセージを送ってくるので、
それを無視し続けると、体に出して伝えるしかなくなるのだ。

意味も根拠もない気分や感覚、
そんなものも大切にしてみるといい。
それは、自分でも気付いていない自分からのメッセージなのだから。
それがはっきりどういうことかわからなくても、
無意識が「何か」がを伝えようとしてるんだ、そう受け止めてみるといい。
後になってその「何か」がはっきりとわかる時が来る。

サインを大切にしてみよう。
今これを読んでいるあなたにも、
無意識から常にサインは届いています。


2004年07月18日(日) 心をすり替える

人は無意識に心をすり替えてしまうものなのだと思う。
ゆえに、自分の真実から遠ざかってしまって。

ゆうべもこんなことがあった。

アンナのお友達が遊びに来た。
ペットを飼っていないその子は猫にものすごい興味があるらしく、
ウチのめいとはなをやたらかまう。
2匹の猫が、その子のそばにずっといたら、
アンナがしゅんとしおれてしまった。
「アンナも猫と遊びたいのに」
と、下を向いた。
「アンナから(猫に)触りにいったら?」
そう私が言うと、アンナは泣きそうな顔をした。

私はアンナを連れて別の部屋に行って彼女をだっこし、とんとんした。
そして、聞いた。
「どうして悲しくなっちゃったのかな?」
アンナはこう答えた。
「あのね、猫と遊びたいなら自分から行けばよかったのに、
 その方法が思いつかなかった自分がバカだと思って悲しくなった。
 アンナはバカなんだ」
私は言った。
「そうだったのかぁ、自分がバカだと思ったのかぁ。
 猫達が○○ちゃんの方にばっかり行って、
 いつもは仲良しなアンナのそばに来なくて、
 寂しかった気持ちもあるのかなぁ」
すると、アンナは急にぽろぽろ涙を流して泣き出した。
「アンナよくわかんないや。
 でも、ママの言葉聞いたらなんだかとっても悲しくなってきたよ。
 アンナね、めいとはなが来てくれなくて寂しかったんだと思う。
 猫達取られちゃったみたいでやだった。
 だから、自分から猫のそばに行っても悲しんだ」
それからしばらくの間、アンナは声を上げて泣いていた。
「本当の気持ちに会えてよかったね」
って、言うと、
「うん、嬉しかった、なんか気持ちよかったよ」
って、さんざん泣いて笑顔が戻ったアンナが答えた。

それを見ていて思った。
私達は日常の中でこういうことがよくあるんだろうなって。
感情の理由を事実とは別のものにしてしまうことって。
心をすり替えてしまうことって。
無意識に。
だから、時々とんちんかんなこと言うんだろうな、って。
感情的な人ってヘンなこと言うもんね。
自分もそうだし。

自分の気持ち、本当の気持ち、いつも感じられる人でありたいな。
本当の気持ちに辿り着かないと、それがいつまでも完結しないから、
なんだかずっとぐずぐずしたブルーな気持ちになってしまう。
それってきっとみんな経験があるんじゃないだろうか。

言いたいことも言った、することもした、思うままにしたはずなのに、
後味が悪くて、悲しみやら寂しさやら怒りやら、
なんだか心地よくない感情が残る…そんな経験が。
それは本当の気持ちに辿り着いていなくて、
その周りにあるその気持ちを隠すためや守るために生まれた、
二次的な気持ちで動いてしまったからだったり。

中島先生のワークショップの後で、
感じてこなかった自分の感情、感じてみたい、
強くそう思うようになった。

あの場所にいたからこそ心の中で始まること、きっとあると思います。
時にそれは辛いことでもあり。
ひとりで抱えないて、そういう時こそどうか会いにきてください。

ワークショップに参加してくださったみなさんと同様、
私も同じあの場所にいて、多くを感じ、受け取っているのです。
空調の温度や、おやつの時間、みなさんひとりひとり、
そして、先生のギャグにいつ突っ込みを入れるかを気にしながら。


2004年07月12日(月) 「泣いちゃいけない」

今日、ある人が言った。

「泣いたらすべてがそこで終わっちゃうような気がするから、
 泣かない」

私はハッとした。
癒しの道が存在すると知ってから、
その道を歩き始めてから、
私は泣くことを覚えた。
いや、思い出した。
だから、もう私にとっては、
泣くことは当たり前のことになっていた。
辛ければ泣く、流れるような作業になっていたからだ。

でも、そうでない人もいっぱいいる、
今日彼女を見ていて改めて思った。
泣いちゃいけない、って、頑張ってる人が。
なんか泣けない、そんな人が。

泣いたら今までの頑張りがそこで終わる、
泣いたら辛くなる、
泣いたら立ち上がれなくなる、
泣いたら負ける、
そんな想い、みんなが持っているのかもしれない。

私は伝えたい。
泣きたい時は泣いていいんだ、って。
泣いたら見えてくる景色が、そこにある。


2004年07月08日(木) 人の身勝手さ

親戚のあるおばさんのとこの嫁は、
そうとうあくどくて、かなりの鬼嫁だと言われていた。
話を聞く限りでは、本当にひどかった。
おばさんがかわいそうだな…って思ってた。

で、少し前、20年振りくらいに、
そのおばさんと会う機会があった。
そして、半日を一緒に過ごすことになった。

そこで私の考えは一転した。
お嫁さんかわいそうだな…って。
半日一緒にいて思った。
たった半日で私的にはかなりしんどい。

おばさんは、人として言ってはいけないと、
少なくとも私は感じることを、ケロッと平気で言うし、
高い場所から若僧を見下すような調子。

これじゃ、お嫁さん、やってられないだろうなぁ…ってのが私の感想。

おばさんは言った。
「お嫁さんにはいつもひどいことばかりされるけど、
 ガマンして合わせてあげてるのよ。
 それがみんなのためじゃない?」

その辺からして私は「???」だった。
そして、そう言う割には、
お嫁さんにひどいことを言ってるようだった。

「私、○○子さんに△×●☆って言ったの。
 そうしたら、口聞かなくなっちゃってね。
 それくらいで口聞かなくなるなんておかしいと思わない?」

と言っておばさんが話した△×●☆の内容は、
結構イヤミが濃厚で、げげっ!ってなことだった。
それ言われれば嫁も絶対口聞かなくなるな…って思いながら、
適当に相づちを打っていた。

親戚伝いに聞いていた鬼嫁の話は、
きっと、嘘って言うか、尾ひれがついてるんだろうなぁ、って思った。
おばさんがお嫁さんの悪口を言って、
それが噂になって広がっただけなんだろうなぁ、って。

そして、お嫁さんのひどい噂は本当かもしれないけど、
実は、おばさんとの関係の中でのフラストレーションなどから、
そうせざるを得なかったことなんだろうなぁ、って思った。
もしくは、嫁姑、似たりよったりの性格だったりするのかもしれないし。

色々な角度から考えられるけど、
ひとつだけ言えることは、おばさんが言うように、
お嫁さんだけが悪いってことは、まずないだろう。
ケンカ両成敗って言うしね。

人は身勝手だなぁ。
誰が悪いとかじゃなく、純粋にそういうもんなんだよなぁ。
主観がいけないんじゃないけど、主観は価値観のひとつであって、
絶対的正義じゃないんだよなぁ。
でも、自分が正しい、そう思いたいのが人なんだよなぁ。

そして、人ごとではなく、私もまさにそうなんだよなぁ。

こういうことがあって、
折々自分を振り返らせられる。

なんだか、身が引き締まる思いだった。
自分の想念をよく見張れる人でありたいと、
人の世に行き交う多くの言葉の奥にある真実を
客観的に察することを忘れない人でありたいと、
心から思う。


2004年07月03日(土) ケルベロスと戦う

かの有名なゲームソフト、バイオハザード、
あの中に出てくるスターツの隊員になって銃を持ち、
細菌により変化し凶暴化した犬、ケルベロスと戦う夢を見た。

次々と襲いかかるケルベロスを絶え間なく撃ち続ける。
少しの油断も許されない張りつめた空気と緊張感、そして恐怖。

ものすごくリアルな夢だった。

で、起きたら右手がパンパンに張ってて痛かった。
上がらない。
銃の撃ち過ぎかね?


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