即興詩置き場。

2002年03月31日(日) 未来日記。




というか日付が明日になってるだけだが。
このままずっと何日も未来の日付で書き続けるのも面白いかも。


で。昨日はぶざまな顔写真をさらしてしまったわけだが、
今日はこれから夜遊びに行くので、
手抜きで以前某所で書いた文章をアップ。
日付は1999年1月11日になってる。3年前だな。まだ若いな(笑)。





「SMと自己啓発セミナーとデート」


SMというのは
一般に伝わる非常識な常識
つまり、ムチとローソクとか、
痛みに性的興奮を感じるとか、
そんな場所とはまったくかけ離れた場所に存在していて、
「自意識の緊張→崩壊(寸止め)→解放」という一連のプロセスの中に
存在している。
ムチとかローソクとか荒縄とか洗濯挟みとか三角木馬とか浣腸とか
そんなものはただの手段に過ぎず、
大切なのは
一連の流れを滞りなくスムーズにこなす信頼関係。
そして
プロセスをこなすことによって深まる絆。
これが一番大事。
というのを、
村上龍の「コック・サッカー・ブルース」と
昔付き合っていた女子高生から学んだ。

「自意識の緊張→崩壊→解放」
というプロセスにおいて快感を得るというのは、
実は心理学的、生理学的にも証明されていたりする。

で、このプロセスを行動科学的に取り入れて発展していったのが、
自己啓発セミナーだったりする。
SMも自己啓発も似たようなもんだ(笑)。
自己啓発プログラムというのは、確か、
もともとはアメリカのどっかの学者が考案したものらしい。
巷に溢れるうさんくさい(うさんくさくないのもあるけど)やつは、
ここではちょっと別にして考えてください。

余談だけど、
マインドコントロールの手法のひとつにも
このプロセスは取り入れられている。
洗脳はちょっと違うけど。
(洗脳とマインドコントロールが全然別物ってのは周知のとおり)

で、本題。

デートでもこの手法が使えないかと考えたのよ。
使ってみるとけっこういけたりする(笑)。
方法はしごく単純。つーか、原始的。
デートの最中、1回ほど、
相手を否定する。
相手の自意識(自己かな?)を。

俺はたいてい、
相手の考え方を理詰めで完全否定する。
物腰はやわらかいけど。
で、
その後で肯定する部分を具体的に取り上げて、
(矛盾してるけど、否定した部分と少し重なる部分を)
ちゃんと褒めて、
「そこが好き」と声に出して言う。

そんだけ。

ささいなことでいいのよ。
昨日見た番組の話とか、
友達とケンカした話とか、
親とソリが合わないとか。

小さな事からコツコツと。
積み重ねが大事(笑)。


あ、でも、
最初にお互いの信頼関係が少しでもないと、
この手法は成立しない。

SMと一緒ですな(笑)。








↑エンピツ投票ボタン
My追加



2002年03月30日(土) ときどき呼吸の仕方を忘れる。




いやマジで(笑)。
どんなふうに息を吸って吐けばいいのかわからなくなる。
だいたい10秒くらいで思い出すけど、
10秒間。長いね(笑)。

あせるけど怖くはない。
このまま死ぬんじゃ…なんて怖がるヒマがあったら、
懸命に思い出そうとするタイプなので。
「どうせすぐ思い出す」って慣れもあるし。


たいていの人がそうであるように、
中学生くらいの頃は「死」についていろいろ考えていて
俺が出した結論は「いつでも死ねる」でした。

いつでもできることを今慌ててすることもないかなと。
そんな感じでまだ生きてます(笑)。




この前言ってた写真が届きました。
あざとく投票ボタンに組み込んだ(笑)。

タイトルは「ヤクザとその情婦」もしくは
SPLASH WORDSで金も女も思いのまま!」
(by 村田活彦)




↑エンピツ投票ボタン
My追加


あと、土曜は夜遊びするので夕方17時くらいに手抜きの未来日記などアップ。




2002年03月29日(金) 最近ウザイよな俺。



(前からウザイよってツッコミには泣きます)


どうもなんか端から自分を見ててウザイ。
無意識にウザくなってるときは見えなくなってるときなので
いろいろ警戒。警戒レベルを高める。
自分の言動に対する警戒レベルを自分の中で設定している。


ちょっと待て。その書き込みがウザを呼ぶ。




昔、某知り合いが
「ウザを憎んで人を憎まず」という名言を残した。
昔はピンと来なかった部分があったけど、
今はシャープにわかる。理解できる。


ウザイヤツはステキな女の子にモテないのだ(笑)。






↑エンピツ投票ボタン
My追加




2002年03月28日(木) 3対11で負けてます。昨日の詩(泣)。


“詩を読む目”にズレを感じたので、
原因を確かめるべく詩をばらまく。いろんな投稿サイトに。
帰結点に違和がある場合は統計を幅広く取って過程を練り直すのよ。
で。
レスを見て回ってなんとなくわかった。ズレの原因。
何がどうズレてるのかは言いません。
それは俺の問題であり課題なのだ。
ついでに最近わかんない人にはわかんない話題ばかり書いてるけど、
どこで何やってるかは組織票につながるので言いません。


鬱々しながら家に帰ると詩学4月号が届いてた。

井坂洋子さんの文に癒される。
(「癒し」という言葉は大嫌いなのだけれど今は使うのだ)
井坂洋子さんは俺が大好きな詩人の一人。
同時代に生きていることが嬉しい。
そして岩本さんのコラムに叱咤される。
蟹澤さんの詩も好きだ。
カワグチタケシさんの詩も載ってる。



解説好きだけど解説してもしょうがないけど、
のんさんのレスが一番的確で、作者としては嬉しかったです。
ありがと。
もちろん他の人のレスも嬉しいに決まってる。
何にせよレスはありがたいです。感謝。

じつはのんさんのレスの内容の、その裏がもうひとつあるんだけど、
それはまぁわかんなくてもいいやって範疇なのでどうでもいいや(笑)。






↑エンピツ投票ボタン
My追加




2002年03月27日(水) 妻→RPG→つよし




↑エンピツ投票ボタン
My追加


↑なんてかっこつけてみたり。

というわけで「テレビゲーム」でこんなんでました。↓
勝てるのか?
つーか勝ったらまた来週も書かなきゃいけないので勝ちたくないのが本音(笑)。
メンドくさいことは嫌いなのだ。





妻→RPG→つよし



妻にテレビゲームをさせるRPGだRPGと言っても妻は何のことかわからないに決まっているそれどころか「たたかう」の意味さえ知らないに決まっている決まっているのに妻にテレビゲームをさせる主人公の名前はつよしだ俺はつよしじゃないつよしではないので妻にテレビゲームをさせる

眠れない夜を暮らす

いつまでも慣れない慣れていない妻はゲームが苦手なので手取り足取りほらここはこうそこはこう動かすんだよそう良い具合だぎこちなく妻の手が動いてつよしは動くゲームの中でつよしが動くたたかう敵を倒す成長する成長する成長するゲームの中で成長する成長して大人になるつよしは成長する大人になる

つよしのいない夜を暮らす

つよしは死ぬ何度でも死ぬ何度でも死んで生き返るがまた死ぬのは妻が下手だからだ妻が下手なのでつよしは死ぬ何度でも死ぬ妻のせいでつよしは何度でも死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死んで生き返ってまた死ぬところを俺は見ているつよしが死んでいるのを見ている何度も見ている妻のせいでつよしが死ぬところを何度も何度も見る見させられる

つよしと暮らす

ほらここはこうそこはこう動かすんだよなんでそう動かさないんだつよしが死ぬじゃないかまた死ぬじゃないか何度殺すんだつよしを何度殺すんだよ殺すのは敵じゃないおまえだよおまえが殺すんだよおまえがつよしを殺したんだよ何度殺せば気が済むんだゲームで良かったな生き返るからつよしは生き返るおまえが殺してもつよしは生き返る生き返る生き返るゲームの中で俺たちの子供は生き返るゲームの中では

つよしと暮らす
ゲームの中で




2002年03月26日(火) 今月も詩会終わりました。



ま、いろいろあったけどな(笑)。
いろいろあるのは詩会の宿命だな(笑)。
今これを書いてるのは23:30ですが、
このままだと、1位に2篇入りそうです。
今回で15回目だけど、1位に2篇は初めてだな。
最高点とか最低点で優劣つけようとも考えたけど、
そこまでして1位を決める必要もないかなと。


今日は主に詩学の原稿を仕上げてました。締め切りギリギリ。
たった14×90ラインにこれだけかかるとは思わなかった。
かなり辛口で批判っぽくなっちゃったけど、でも期待してるのよ。
いや本当に。
“初めて”の困難さはわかってるつもりです。
というわけで、
なにがどう辛口なのかは詩学5月号、4/27発売にてにて。

ま、来月の原稿はもう少し楽に書けるでしょう(笑)。
その前に明日だな。というか火曜だな。
明日は「テレビゲーム」の締め切り。
明日中に書かねば。くそ。なんかせわしいぞ。
まさかアレが予選通るとは思ってなかったからなぁ(爆)。
せわしいので今日はおしまい。
とりあえずこれから詩会結果発表の準備をせねば。





↑エンピツ投票ボタン
My追加




2002年03月25日(月) 他人の場所ではしゃぎ過ぎるなよな。


と言われてビクビクした人は何人?(笑)
つーか、俺のことなんだけどね。反省中です。

というわけで「テレビゲーム」というテーマをいただきました。
締め切りは火曜日中。
さっきようやくプロットが頭に浮かんだのであとは形にするだけだ。
でも、詩学の原稿まだ書けません(泣)。


さてさて。

いつまで「ネット詩」という言葉が存在していくんだろう?
5年? 10年? 100年?

媒体の違いから新しいものが発生した先例を考えると、
迷わずCGが思い浮かぶのね。コンピュータグラフィックス。
CGはあくまでCGとして、美術の一分野を担いつつある。
CGは他の既存の美術と一線を画したまま、独自のカテゴリーを形成してる。
(かなり大雑把に言ってだけど)

CGとネット詩の違いってのは、
道具の差がそのまま表現の差になってるところなのね。
水彩画や油絵と同等のカテゴライズにCGがある。
そういう意味では、CGという概念は媒体の違いによるものではなく、
単に道具の違いによって発生してるのかもしれない。

ネット詩はどう?
道具の違いですか? 違うよね。だって道具は言葉なんだもん。
CGイラストレーターがグラフィックソフトに精通する必要があるように、
詩人は言葉に精通しなけりゃ詩が書けない。
色合いや構図の基礎を知らなければ絵にならないように
(知らなくてもいいものが描ける場合もあるけど)
言葉の置き方や効果を知っている必要がある。

美術の授業に水彩画や油絵や版画って項目はあるけど、
国語の授業に現代詩とネット詩って項目があったらヘンだよね(笑)。
って、これは極論だな。<一人で納得

でね、
美術、じゃなくてイラストでもいいや。
イラストはそれこそ、芸術としてのイラストもあれば、
雑誌の端に載るようなものもある。
多岐に渡っていて、全部イラストとして認められている。

じゃぁ、「詩」はどうなの? どうなってるの?
それは勝手に考えてくれ。それぞれの、いろいろな立場で。





↑エンピツ投票ボタン
My追加


↑言葉が足りないのでこのへんはまた今度書く。
ここで終わると誤解されるかもしれないから。



2002年03月24日(日) 今日はノロケ話だ!



妻は金曜も夜遊びで飲んだくれて(笑)、
今日も午後から花見に行って帰ってこない。
このまま帰って来なかったら
日曜はたぶん夕方まで寝てるんだろう。

俺は俺で休日だというのにやることいっぱいで
今日はお昼にちょいと打ち合わせして
帰ってから詩会のレスをチェックチェック。
シナプスの原稿もいくつか来てるのに放ったらかし。
ま、これは日曜にやるとして、詩学の原稿も書かなきゃね。
ゲームなんかして遊んでる場合ではないのだよ(笑)。

一人で留守番してるとやっぱ寂しいってのは少しあるけど、
俺が遊んでるときも妻は同じように、
寂しいって感じてるんだろう。

とりあえず大丈夫。
それをわかっていれば、大丈夫。


今日妻は、
豊浦正明さんという高名な写真家と一緒にお花見してます。
帰ってこないってことは、話が弾んでるんでしょう。良いことだ。

妻は妻で自分自身で交友関係を築いて
他にもまぁ、いろいろあるみたいだけど(笑)、
それで楽しんでるなら、それが幸せというものでしょう。
彼女が楽しそうなら、俺も楽しい。とても単純な事実。
裏に何が隠れてるかは知らんが(爆)。

もしなんだかんだあって別れるようなことがあったら、
それは単に、俺に彼女を繋ぎとめておく力量がなくなっただけのこと。
そういう思考回路を、俺は持ってます。扱いやすいぞ(笑)。
これだけ扱いやすい夫もそうそういないだろう(爆)。

ま、ね。
そのへんは、自信があるから言えることなんですが。






↑エンピツ投票ボタン
My追加




2002年03月23日(土) 「伝える」に対するいくつかの誤解。


詩にとって「読者に伝える」という意識が大切と、
常日頃言っているのだけれど、
二重三重に誤解されている部分が多々ありそうなので、
解説というか説明というか釈明? 言い訳?
ま、普段はメンドくさいんで
誤解されてるなと思ってもいちいち反論はしないけど。
日記のネタがなかったからというツッコミはしないでね(笑)


まず。
「読者に伝える=読者のために書く」わけではありません。
これは大前提ですな。
ごちゃごちゃ言う必要はないでしょう。

で、
「読者にわかるように書く=素直な表現を用いる」でもないです。
結果として素直な表現になることはあるだろうけれど。
読者に伝わりやすいようにありのままの気持ちを平易に書いたって、
一般論として、そんなもんは詩としてはつまらない。
「何を伝えるのか」という部分で誤解があるみたい。
詩は、自分の気持ちを伝えるものではなく、
詩という作品を作品として伝えるものだと、個人的には考えています。
自分の気持ちを伝えるんだったら詩なんてメンドくさいもの作らずに
こうやって日記でも書いてたほうが早い(笑)。

痛烈に極論を言えば、
「詩は自己表現の手段として簡単なものである」
「詩は自己表現を行いやすい表現形式である」などと考えてる人は
はっきり言って詩の入口にも立ってないと思ってます。個人的に。あくまでも個人的に。
そんなものは詩の形式をマネた心情吐露に過ぎない。
自己表現に適しているとは思うけれど、簡単だとは思っていない。
簡単であることと適していることをイコールで結べないものも世の中にはある。


もう一つ。
この誤解はとても繊細な場所から発生していて、
個人的には一番悲しい誤解なのだけれど。

どう書けばいいんだろう?
「伝える」ってのは姿勢や方法論の問題ではないのね。
根源的には。それはもう、根源的な場所においては。
派生して方法論などに行く場合もあるけれど、
一定レベル以上の作品に対しては行き着かない。行き着いても意味がない。
そういう作品はどのような姿勢/方法論で作られたものであれ、
俺が言うところの「伝える」をすでに達成しているから。

説明がわかりづらいよな(笑)。
俺もどう説明していいのかまだよくわかってない。

たとえば、
セックスとオナニーに喩えて
「セックスしたいんじゃなくてかっこいいオナニーを見せたいんだ」とか、
「伝えることではなく純粋表現を目指す」とか、
そういう感覚をアンチテーゼとしてもってこられても困惑するのね。
そういった姿勢/意識のアンチテーゼとして「伝える」と言ってるわけじゃない。
これらの誤解が一番悲しい。
俺の言葉がまだまだ適切ではないのだろう。
「伝わっていない」ことを、「伝えきれていない」ことを、痛切に感じる。






↑エンピツ投票ボタン
My追加




2002年03月22日(金) 川村むつみさんは俺のためだけにエクボを見せてくれた(嬉)。


↑エンピツ投票ボタン
My追加



キーワードの話はもちろんしない。もちろんもちろん。


mammo.tvにある
さいとういんこさんのインタビューで、
「センスは教えられないものですから」とあってすげぇ納得。
そう。技術は教えられるけどセンスは不可能。
センスは備わっているもの、あるいは獲得するものです。
獲得のお手伝いはできるかもしれないけど。


いんこさんと山路さんがやってるインディーズ出版(?)
SPLASH WORDSから、第2詩集が出版されました。
カワグチタケシさんの詩集。カワグチタケシさん、
ポエトリーカレンダートーキョー主催の一人です。

で、21日はその出版記念のリーディング会。
良い意味で内輪中心の、心地良いイベントでした。
内輪と言っても40人くらいは集まってたけど。
もちろん知ってる人もちらほら。
有名どころ(?)では、
いんこさんはもちろん、
石渡紀美さん、ジュテーム北村さん、村田活彦さん、
稀月真皓さん、寺西さん、河井澪さん、ヤリタミサコさん、などなど。


終わってからいんこさんとむつみさんにいぢられてしまった。
くそぅ。お酒飲んでないと思って好き勝手やりやがって(笑)。
いぢられたときの写真はそのうち村田さんが送ってくれるので後日公開。
ヤクザとその情婦みたいな写真(謎)。

その後みんなタデクイ主催のイベント「嘔吐会」に行くというので、
その前にちょっとだけ喫茶店でお茶することに。
いんこさん、山路さん、カワグチさん、村田さん、むつみさん、俺、の6人。
んでまぁ、その準備中に、むつみさんと2人きりでいろいろプライベートなお話。
どんな話をしたのかはナイショ。
つーか、むつみさんはやっぱりカワイイ(笑)。
今度デートしたいね。うん。というか、話し込んでみたい。
(と、日記で言うのは小心者だからだってば)

あと、村田さんの知り合いの写真やってる女の子(大学4年生)を紹介してもらった。
すげぇ別嬪さん。女の子にみとれたのは久しぶり。たぶんマナ以来。
(知り合いにマナっていうすげぇ別嬪さんがいるのよ<知らない人への説明)



あー。なんつーか、
詩のイベント行って女の子のことしか報告しないのは俺くらいなものだろう(笑)。





2002年03月21日(木) これで日記の間隔はもとどおりに。

例の秘密のアレは着々と進行中。


ところで。
撰集候補にレスが付かなくてもめげないのさ俺は。
だって俺が好きなんだもん。

でも最近は、
いいなぁと思った詩はとりあえずレスが付いてるのでまぁいいかな。
思ってない詩にもレスはついてるけど(笑)。
ん。うちの「ことだま ことのは」の話。

開始当初よりは、格段にレベルが下がってるのね。
それはもう、明らかにレベル下がってる。
初期の頃、尾上れこさん(昔は別HN)が、
「怖くて投稿できない」と言っていたのは知ってる人は知ってる有名な話。
でもまぁ、それはしょうがない話で、
参加者の数とレベルの高さは反比例するものなのよ。基本的に。
増えれば増えるほどレベルは下がる。

もっとね。ダメなものはダメって言っちゃってもいいと思うけど。
poeniqueはそれを否定してないのね。
コミュニケーションサイトのつもりではないから。
もちろん言い方には最大限の注意を払ってだけどね。
異論反論と誹謗中傷を区別できない人はレス付けなくていいよ。
というか、来なくていいよ。
で、そういったレスで来なくなる人も別に来なくなったってかまわないし、
そういう人が安息できるサイトはいっぱいあるし、
安息できるサイトがあるからうちみたいなのがやっていけると思ってるし。
もともと俺なんか、すげぇ酷評やる人なのね(笑)。
「ありきたり」とか「主題が薄っぺらい」とか「詩とは何かをもっと考えて欲しい」とか、
そんなレスを平気でいっぱい付けてたし(笑)。

んとね。
来てくれる人が、それぞれのレベルで、学べるサイトでありたいのね。
それが今のところの理想です。poeniqueの。
だから、もっと質の高い詩が集まって欲しいとも思ってる。
もっと質の高いレスが付いて欲しいとも思ってる。
やっぱりそういうのは、作品や反応によって学んでくれるのが一番だから。
(もちろん質の低い投稿をするなとかレス付けるなとか言ってるわけではない)

自分にはわけわからん詩でも、
相応の読む力のある人のレスが付いてる作品は、
やっぱり良い詩なんだよ。何かしら得るところがあるんだよ。
わけわからんで終わらせるのはもったいないよ。
見どころのある詩に時々レスが付かないこともあるけど、
でも、見てる人は見てるよ。ちゃんと見てる。
少なくとも俺は見てる。

うちのサイトに投稿された作品とレスは、
全部ちゃんと読んでる。





↑エンピツ投票ボタン
My追加



2002年03月20日(水) 桜が早いのは地球温暖化のせいだってば。


花は素直なので隠したりしない。
平年と比較してた最高気温をいきなり前日比に変えたりしない。

気象学会では1970年代に温暖化の危険性が指摘されていて
1980年代になると、“すでに手遅れ”というのが定説になった。
90年代に京都で開催された温暖化会議なんか、
あんなもん、開催が10年遅い。
今頃CO2の総量規制なんてやってたって間に合わんって。
CO2の排出を全面禁止にしたって温暖化止まらないのに。

赤道付近の小さな島国で、
水位上昇による国土消滅がリアリティをもって危惧されているのは有名な話。
東京は数年後に亜熱帯気候になるという試算もある。




↑エンピツ投票ボタン
My追加



2002年03月19日(火) どうでもいいけど俺の詩のほとんどは完全なフィクションです。



ときどき勘違いしてる人がいるので。
実際の経験を元に書いた詩は片手にも満たない。


タイミングがとてつもなく噛み合わない期間ってのが俺にはあって、
どのくらい噛み合わないかというと、
たとえば電話しようと思って公衆電話を探すと、
街中の公衆電話で誰かが電話してるくらい噛み合わない。
もちろん今は携帯で連絡取るのでそういうことはないけど。
まだ携帯なんてないころ、そういうことがときどき起こった。
似たようなことは今でもときどき起こる。
お目当ての商品が近所のコンビニ全店で品切れ中とか。

タイミングもそうなんだけど、
「場」ってのにすごく敏感で、
(比喩的表現ではなく純粋に空間としての場)
肌に馴染む場所と、馴染まない場所ってのがあるのね。
たとえば大阪はわりとすぐに馴染む。しっくりする。
けど、名古屋はなんかすごく違和感がある。
名古屋に初めて行ったときあまりにも違和感が大きくて
駅に着いてから30分くらいイスに座ってぼーっとしてた。
あの違和感はなんなんだろう?
ま、ただの思い込みなんだろう(笑)。


親交のある人は知ってるけど、
基本的にヘンなヤツです(笑)。



↑エンピツ投票ボタン
My追加



2002年03月18日(月) ステレオタイプなえっちぃ詩を書いた。




花粉症一夜明けたら元どおり。ふ○っく。

つーか駄作だなこりゃ(笑)。
ま、気晴らしってことで。
ちなみにテーマは「自動販売機」です。





「愛なんていらない」


ここをね
押すんだよ
そうすると ほら
こんなふうに溢れてくる
声も出ちゃう
大丈夫だよ
愛なんて言葉より
恥かしくはないから

溢れてきたらね
剥き出しにして
指ですくって
くるくるとゆっくり
ゆっくりゆっくり

ちょっとコツがいるけどね
自動的に ほら
欲しくなってきたんでしょ?
入れてあげるから ほら
もっともっと 声を出して ほら
愛なんて言葉より
恥かしくはないから
もっともっと




2002年03月17日(日) 旅から帰ってきたら花粉症がすっかり治ってた。



らっきー。


どこに行ってたかはナイショ。
ぷらぷらとふらふらしてた。
時々旅に出ないと、
自分の中のいろんな場所が滞ったりする。

途中、何人か知り合いと会いました。
でも秘密にしといてね(笑)。



帰ってきたら詩の有料メルマガ「さがな。」が届いてた。
大村浩一さんがネット詩について書いてた。ふむふむ。
「さがな。」は面白いよぉ。タメになるよぉ。と宣伝。

長澤忍さんが考えてることと、
俺が考えてることがかなり似てる。
今度会ってお話してみたい。
アートセラピーとしての詩については、
以前、「ぷれぷれ」で書いたことがある。
「ぷれぷれ」ってのは、
今やってる「ちりつも。」の準備として発行してたメルマガ。
3回で完結(爆)。
ネットで未発表の作品とか載ってて、
今となっては貴重かもしれない(笑)。


今週末はこんな感じ。
あ、ちょうど今、
下北沢でジュテーム北村さんがリーディングやってるはず。
行こうかなぁ。。でも疲れてるんでやめよう。ごめんなさい。



2002年03月15日(金) 自分の言動を他人がどう判断するかに、希望的観測を入れてはならない。



「おかしいな?」って思ったときは、だいたいそこで間違ってるんだよな。



つーかねぇ、段取りしようよ段取り(笑)。
今日はちょっと仕事の愚痴書くよ。

んと、何がイヤかって、
仕事上で他人の尻拭いするのが一番イヤなんだよ(爆)。
少なくとも「働いて金をもらう」ってことがどういうことか
そのくらいわかって仕事して欲しいよまったく。社会人なんだろ?

まーね、作業量がキャパオーバーしてテンパってるのはわかるけど、
行き当たりばったりじゃなくてちゃんと筋道つけて仕事しようね。
つーわけで尻拭いが決まって進行状況確認したときに、
当の本人が全然わかってなくて(爆)。
しょうがないんで全部仕切って段取って割り振って。
とりあえず間に合いそうなんで良かった良かったと。


10聞いて10するのが仕事だと思ってるヤツが多いんじゃないのか?
それは仕事じゃなく作業なんだってば。
中には10聞いて5しかできないヤツもいるし。

仕事ってのは、5聞いて10することです。
あるいは、10聞いて15くらいすることです。

(聞かなきゃできないのかってツッコミは無視。
 そういう話をしてるわけではない)



ま、というわけで、
週末はちょっと旅に出るのでいろいろ休みます。




2002年03月14日(木) 日本中の杉林をシートで覆って欲しい。



そういう芸術家いたよね。なんでもかんでも覆っちゃう人が。
やってくれないかなぁ(笑)。
そして衛星写真で杉林の分布状況を把握するのだ。


さてまず。
昨日の日記は別に特定の他のサイトへ向けての発言ではありません。と、補足。
つーか、某サイトの一連の経緯を今日初めて知ったのだ(笑)。
(最近ネットを巡回してないのがバレバレですな)
ま、穿った見方で関連付けられても困るので一応。
個人的には、気に入らなければ放っておけばいいのにってな感じで(笑)。
何か言うにせよ、客という立場なんだからそれなりの礼節が必要なのに。
実社会でもいるよね。
「客なんだから何をしてもいい」って勘違いしてる馬鹿が。




さてさて。
うちのサイトの話でもしよう。

今度コーナー化を考えてるリライト合戦(仮名)なんだけど、
コーナー内におけるリライトの定義のために用例を載せたいのね。
載せたいんだけど、掲載したい作品の作者と連絡が取れない(泣)。
今月中に立ち上げたいと思ってるけど、もしかしたら延びるかもしれません。

もうひとつ。「ことだま ことのは」のハイクラス設立構想。
こっちも早めになんとかしたいのね。
一定の質を保った作品・評を読める場所が、ネット内には少ないです。
少ないというか、足りない。
ハイクラスは、何らかの指標のひとつとなる場所を目指したいです。
ネット内に対しても、ネット外に対しても。
(指標の“ひとつ”ね。あくまでも“ひとつ”です)
なので少数精鋭主義で行く予定。
で、少数精鋭はブランド化につながるんだけれど、
そして、ブランド化を目指すつもりではいるんだけど、
ブランド化の弊害もいろいろあって、
そのへんをどうしていくのか、いろいろ考え中。
少なくとも、あたりまえの話ではあるけれど、
ブランド化は目指すけど権威化は目指さない。
ということは、
ハイクラス内の作品に特定の傾向を持たせないようにするということで、
そうすると、
初期の人選がすごく大切なのね。

そのへんがなかなかね、難しいです。
ま、ぼちぼちとやっていきますわ。



2002年03月13日(水) やっちゃってから考えるのは女の子口説くときだけだってば。



というわけで、タイトルネタありがとうです(微)。



んで。

極めて個人的な印象(苦言? 感想? 意見? 見解?)だよと前フリしておいて。

詩の主題について語る前に、
詩として、作品としてどうなのかってのを、
やっぱ見るべきなんじゃないのかなと。

「何が言いたいのか」ってのは、それはもちろん大事なんだけれど、
それだけを見て、それだけについて感想を述べるってのは、
やっぱり違和感がある。個人的に。

要は、一般的に、
「詩がコミュニケーションの道具として使われている」
と言われている、その傾向についてなんだけれど。

だってさぁ、そういう話がしたいんだったら、
別に詩じゃなくたっていいじゃんか。
わざわざ詩という形式を使う意義がどこにあるんだろう?


前にも書いたけれど。もう一度問いたいのだけれど。

“詩”が好きなのですか?
それとも、
“詩によって自分の思いを形にして発表できる”ことが好きなのですか?
これって、別に共有しててもいいんだけど、混同して欲しくない。です。

詩のサイトはあくまで詩のサイトであって、
日々感じていることを意見交換し合うサイトではありません。
「“詩のサイト”に“詩”を投稿する」ってことの意味を、
「投稿された“詩”に感想をつける」ってことの意味を、
それぞれがそれぞれなりに考えて欲しい。


でまぁ、クドイ前フリからわかるように、
「するな」って言ってるわけじゃないのね。
「考えて欲しい」っていう要望です。
俺が言ってることが本当に正しいかどうかも含めて。
(というか、自分の発言が正当であるなんて意識は毛頭ないのね。
 あくまでも一意見なのね)
これも前から言ってるけど、
そうやって詩に参入していける、そういうキッカケを詩が持っているってのは、
詩が有している要素のひとつであり、
他の表現形式に対するアドバンテージだと思ってるから。
で、そうやって集まってきた人たちを、
どのように、どこに連れていくかってのは、
サイト運営者の責任だと思ってるから。

「するな」って一言で終わらせちゃうのは、
運営者の怠慢であり横暴だと思う。



2002年03月12日(火) 賛じゃなくて讃なのか。ごめんよー(恥)。



というわけでタイトルネタができてラッキー(笑)。


先日、ネットの知り合いと話してたときに、
「インターネットは議論に向かない」という話が出て、
思わず(じゃないけど)納得してしまったのだ。
リアルタイムレスポンスじゃないんだよね。ネットは。
それと、文字情報しか伝えられない。
コミュニケーションの手段としてマイナス面を持っているのは確か。

詩の合評会みたいなことをしたいと、ずっと思っていて。
けれど、ネットでは難しいなぁと、ずっと考えていて。

チャットでの合評会に何回か参加したことがあるんだけど、
んー。
それなりに突っ込んだ話はできるのよ。確かに。
でもなんか、突っ込んだ話以上のことができない。
たとえば実際に会って合評するのと比較すると、
なんか物足りなさが残る。

理想が高すぎるのかもしれない。
詩の中身に突っ込んで濃い話ができればそれでいいのかもしれない。
けど。けどけど。ってのが俺の中にやっぱ残る。

でもまぁ、poeniqueとしてやったことないんで、
1回やってみてもいいかもね。
やってみてから考えるってのは俺の得意技だし(笑)。



2002年03月11日(月) 今日は手抜きで会社からコソコソっと。



昨日のに少し付け加え。

まず「落語」→「漫才」という流れと、
「“読む”詩」と「リーディング」の流れを同一に捉えているのは
あくまでも便宜上のことです。誤解があるといけないので注釈。
「詩の発生」という歴史的側面から考えると、もちろん順序は逆。
ただ、最近のムーブメントの流れ、
あるいは戦後以降の詩史の流れとして捉えると、
そういう喩えもあてはまる、ということで。

んで、劇的演出についてもう少し考えてたんだけど、
たぶんね、その有無をはっきりと目に見える形で説明するなら、
読まれたテキストを紙におこした場合に鮮明になると思う。
一般のリーディングテキストを紙におこした場合、
それはやはり、「詩の作品」として読まれるわけですよ。
少なくとも詩の作品として読むことができる。
けれど、浮遊賛歌がやったパフォーマンスは、
あれはおそらく、台本、あるいは脚本に近いものになると思う。
そういう違い、ニュアンス、が、ある。

たしか長田弘だったと思うけど、
ト書きとか含まれてる、脚本のような詩を誰かが書いてたんだよな。
あーいうのとはまた別なんだけどね。




2002年03月10日(日) やっぱポエフリの感想を期待されているんだろうなぁ(笑)。



というわけで。
というか、浮遊賛歌の印象になるけど。



「漫才」と「コント」の違いに思い馳せるわけですよ。

浮遊賛歌を観て、そう思った。
あれでね、詩学3月号の座談会で、
関田さんが言いたかったことが、はっきりわかった(ような気がする)。

「落語」→「漫才」→「コント」と、
発生学的には続くわけよ。
かなり乱暴に言っちゃうと、
“読む”詩は、落語なのね。で、リーディングが、漫才。
そして、漫才とコントの違いは、劇的演出の有無にあります。
劇的演出って言っても、
別に物語性の有無とか、そういうんじゃなくて。
舞台のうえでのパフォーマンスとしての、
劇的方法論。そんな感じ。

浮遊賛歌には劇的演出の匂いがありました。
言葉の選び方、使い方なんか、
鴻上の初期の舞台を彷彿とさせる。
「朝日のような夕日をつれて」のラストとか、
じつはけっこう似てる。
あるいは一昔前の小劇場ブームで興った
有象無象の劇団にも、似たような“舞台”はいくつかあった。

で、似てるから云々ってそんな安直な話ではなく。

詩(ポエトリー)の側からそういう方向を向くというのは、
確かに「新しい」ことだなと。
方法論はまるきり違ってるけど、
方向性としてはRADIO DAYSに似てるかもしれない。
彼らが、自分たちのしていることが「詩」なのかどうか、
そこに疑いを持ち始め、
「言葉のパフォーマンス」と定義し直したこととか、
そういう、似たような匂いがする。

だからね。見方を変えないと、
間違った評価を下してしまうと思います。
頭の固いヤツは「何あれ?」って思っちゃうんじゃないのか?
落語や漫才のつもりで観ると違和感を感じるんじゃないのか?
ま、感想を聞いてる限りではそんなのは杞憂みたいだけどね。
杞憂になってるってことで、すごく、
詩の未来を感じるんだけどね(笑)。

だから、浮遊賛歌は、
良い意味でポエトリー・リーディングじゃないって、俺は思いました。


おしまい。



2002年03月09日(土) 「恋人はいつでも」←ピクッとする人が約1名は必ずいるはず。ふふふ。



ジャケットの写真(裏)をネット上でみつけてしまったのだよ(爆)。
壁紙にしよっと。るるるるん。

と、わかる人にしかわからないネタでした。



5月末に1週間ほどアメリカ出張しない? と社長から言われたが、
すげなく断る(爆)。つーか、行けませんって。
「その間俺の仕事誰がするんですか?」の一言で社長は敢えなく断念。
自分にしかできないことを持っている人間は強いのだ。
ま、その代わり来年は行くことになったけどな。


「midnightpress」15号をパラパラ読む。
やっぱこの詩誌、面白いわ。
季刊なのがもったいない、というか、
季刊だからこれだけの“熱”を出せるんだろうなぁと。
いあ、俺と片野さんのメール対談が載ってるから持ち上げてるわけではなく(笑)。
「月刊にして欲しい」って以前岡田さんに言ったことあるけど、
「無理です」とにべもなく(笑)。

15号で一番面白かったのは
谷川俊太郎さんと正津勉さん+ゲストの連載対談。
天野祐吉さんを迎えて詩の言葉と広告の言葉について。
詩とCMの類似性については以前から考えていて、
まだ上手く言葉にできてないんだけれど、
似た感覚が両者にある。と、思ってる。感じる。
このへん、谷川さんとは意見が違ってるんだよなぁ。
たぶん手法的な部分を中心に俺が考えているのに対して、
谷川さんは包括的なところ分類してるような感じ。
そこから違いが発生してる。そんな気がする。


というわけで、midnightpress購入すべし。損はない。
ちなみに同誌で連載を持ってる元山舞さん。
彼女はネット出身だったり。
彼女の昔の詩が読める投稿サイトを知ってるけど、
ここでは言わない。知ってる人は知っている(笑)。


サイトは↓
midnightpress
http://www.midnightpress.co.jp/

メールによる注文は↓
http://www.midnightpress.co.jp/publish/order.htm



2002年03月08日(金) 神様、彼らを赦してください。彼らは自分たちが何をしているのか、わかっていないのです。



それでも、無知は罪。
無知故に人を殺すことだってある。
殺してはじめて、
自分が無知であることに気づく。

あんたたち、それが背負えるのかい?





とてもとてもても、好きだった女の子が幾人かいるのね。
(一人ではなく幾人ってところが俺らしい(笑))
もし、その女の子が、今、目の前に現れて、
「もう一度、やり直しましょう」なんてつぶやいたら、
もう、全部捨ててもいいような、
そんな女の子が、幾人か、いる。
生きている子もいれば死んでしまった子もいる。



たとえばね。
その子の頬を撫でてるだけで、イッてしまうような。
そういう愛しさ。

思い出すだけで、どこかが壊れそうになる。
失ってはじめてわかることはいっぱいある。
失わないとわからないことがいっぱいある。
とりかえしのつかないことを
誰もが抱えて生きている。



2002年03月07日(木) 「談合で逮捕」のニュースを見て、妻がひとこと言いました。


「チャットで談合すればバレないのに」

確かにそのとおり(爆)。



以前から、
架空の職業に就いている人たちへのインタビュー記事
というのを書いてみたくて、
なんていうか、そういうのは訓練になるのかな。
どこまで「リアル」に迫れるのか。そういう訓練。

リアルなファンタジーが書きたいのね。時々。
リアリティの反語はファンタジーじゃないんだよね。もちろん。
“ファンタジー”は“物語”に置き換えてもいいかもしれない。

「実体験でないとリアリティが出ない」と言う人が時々いて、
んー。こういうことを言っていいのかどうか、迷うけど、
それはやっぱり、イメージする能力を磨く必要があると思います。
「実体験しか題材にしたくない」ってのなら、
それは単なるポリシーなので理解はできるけど。

んとね、何をうだうだ書いてるかというと、
フィクションとノンフィクションの区別の無意味さについて語ってるわけですよ。
どうせ区別するなら、リアルかリアルでないかで区別すべきだと思う。


リアルじゃないノンフィクションってのもあるのね。
たとえば9月11日のあの映像。
あんなのはもう、全然“リアル”ではない。
あの映像にはリアリティがまったくない。
テレビの映像にリアリティを求めるのは馬鹿げてる。
「あの映像、映画みたいだった」って、そりゃあたりまえだよ。リアルじゃないんだもの。
(注:映画にリアリティがないと言ってるわけではない)

「あの映像、映画みたいだった」という表現そのものにすでに、
リアルかどうか=ノンフィクションかどうか
という誤解が入ってる。
リアルかリアルでないかに、
フィクションかノンフィクションかってのは、まったく関係ありません。

リアリティを獲得するってのは、
イマジネーションの仕事なんだよな。
イメージする能力。イメージするということ。
たとえば、あの映像から、
音を、匂いを、土埃を、空気の震えを、イメージする。
イメージできる。そこに、リアリティが生まれる。

逆に言えば、あの映像からそこまでイメージせずに、
「なんて酷いことを」とか言ってるのは、
個人的に信用できない。
それは“リアル”を感じているんじゃなくて、
単なる共通認識に過ぎない。



2002年03月06日(水) 「覚悟」という概念。



知り合いの某詩人が、
9月11日の映像を見て、「美しい」と感じたんだよね。

その美しさを詩にするのは、許されることなんだろうか。


という、命題。


それを発表すれば各方面から非難を浴びるの明らか。
そしてその詩人自身、そのことを理解している。
それでも、
あの映像を美しいと感じたことを、
閉じ込めておくことができなかったら?


という、葛藤。


結局その知り合いの詩人は、
発表することを断念したんだけど、
その選択が正しいのかどうか、俺にはよくわからん。
そこには、責任を負う覚悟が必要になる。
そしてその詩人一人で、
発表する責任を負い切れないのは、確かだけれど。
それでもその選択が絶対に正しい
と、言い切れない何かがあるのも、確かだと思う。

少なくとも、もしその詩が発表されたときに、
「そんなものを書くな」と、断言することは、
俺にはできない。
断言する覚悟を持っていない。



2002年03月05日(火) 11月のあの旗の下で。



タイトルはテキトーに書いてみただけ。
あの旗ってどの旗だよ?(笑)
テキトーでも詩情が出るからやっかいなんだよな。
詩情出すだけならコンピュータにまかせたほうが早い。


「神はサイコロ遊びをしない」ってのは
アインシュタインの有名なセリフなんだけど、
そんなアインシュタインの揶揄を差し置いて、
量子力学はどんどん発展していってる。

超ひも理論が大好きでね。
あの感覚が好きなんだけど、
物質は振動によって作られるって、
極論を言えばそうなるんだけど、
某タントラ密教系の宗教の聖典にも
そういうことが書いてあるのね。
「存在は振動である」って。
こういうシンクロニシティは、どうなんだろう?


振動って書くとイメージが伝わりにくいかもしれない。

存在は“ゆらぎ”である。
ゆらぐことによって「有」が生まれる。



でも、アインシュタインも好きなのね。
ああいった、いわゆる天才ってのは、
結論を導くために仮定を求めるんじゃなくて、
結論を裏付けるために仮定を探すんだよな。
インスピレーションで最初に結論を確信して、
それを伝えるために仮定をみつける。
なので、「説明する」ってことに多大な労力を使う。

石は石でいたいのだ。

アインシュタインの頭の中では、
もう、これだけで結論になってるんだろう。
アインシュタイン自身はこれ以上の説明を必要としていないのだろう。


神はサイコロ遊びをしないけど、
賭場を作って遊んでるのかもしれない。




追伸。
アインシュタインの逸話で一番好きな話。

アインシュタインの家のお手伝いさんが、
洗面用、体洗い用、洗濯用、だったっけな、
何種類かの石鹸を用意して、使い分けてたんだけど、
アインシュタインは、
そんなにたくさん石鹸があるとわけわかんなくなるって、
一種類に統一させたそうだ(笑)。



2002年03月04日(月) 脳梁をね、こう、ぶったぎるんだよ。そうそう。そんなふうに。



なんかヒマな一日。

いろいろやろうかなぁと思ってたけど
半分くらいしかやらなかった。

ま、そういう日も必要。


現代詩手帳の3月号を買ってぱらぱら読んでたんだけど、
一番インパクトあったのは、
水原紫苑って別嬪さんだなぁと(爆)。
俺思わずgoogleのイメージ検索で水原紫苑探しちゃったよ(笑)。

あと、正津 勉と島田雅彦の対談の中、
「詩人にはモテる系譜がある」ってやつ(笑)。
金子光晴、田村隆一、正津 勉と続くそうな。

つーか、どこ読んでんだ俺は(笑)。


そういや最近、このエンピツで飯田伸一さんの日記を発見して、
もちろんマイエンピツにぱしっと登録。
飯田伸一さん。1997年現代詩手帳賞を受賞した詩人です。

あと、
投稿欄に載ってる青野直枝さんの作品が、
うちの投稿掲示板にも載ってます。「投影」ってやつ。
ま、要チェックということで。


今日の日記はこんなもんかな。
静かな一日でした。



2002年03月03日(日) 「つみうみ」という言葉をふと思いついてしまった。



なんか出てきそう。つみうみ。罪海。



明日、というかもう今日だな。
いよいよポエフリのイベント開催です。
3/3名古屋、3/9東京です。
詳細は↓ですね。はい。俺は東京のに行く。
http://homepage2.nifty.com/poeticfree/

俺自身はスタッフでもなんでもなくて、
ただの部外者なんだけど、
やっぱりね、見知った人たちが集まって、
自分たちの力で何かを遂げようとしてるんでね。
応援したくなるのは人情です。はい。
ま、応援の方法はいろいろあるということで。

以前の日記にも書いたけど、
実際に動いて何かを行うというのは、
ゼロから始めて1を作るというのは、
それだけで賞賛に値すると思うのね。
もちろん端から見ていて至らないところはたくさんあります。
俺だったらもっと上手くやるのにとか、
それはスジが違うんじゃないの? とか。とかとか。
けっこう苦言は述べてるしね(笑)。
メールなんかでね、こっそりね(笑)。
けれど、揚げ足を取って揶揄して満足してるヤツラより、
実際に動いて、ここまでやってきたメンバーたちのほうが、
絶対に凄い。
その行為は絶対に認められるべきだ。賞賛されるべきだ。
「頑張ってねー」なんてノホホンとしてる俺なんかよりも絶対に凄い。

今の時点でイベントが成功するか失敗するかなんてわからないし、
俺自身は、そんなのはどっちでもいいと思ってるのね。
「失敗してもいい」って言うのは、
客に対してもメンバーに対しても失礼なんだけど、
でも、実際に行動を起こしたってことはね、
もうそれだけで財産なんだよね。
「ああ。やっぱりね」とか「ポエフリつまんねーよ」なんて
陰で嘲笑うしかできない馬鹿には絶対に得ることができない財産。

だからね。
続けていって欲しいってのが、俺の要望。
(もちろん主催の関田さんは続けるって言ってるけどね。
 メンバー全員に対しての要望ってことね)
今回だけで終わるんじゃなくて、
今回で得た財産を、糧にしていって欲しいのね。
いろんなノウハウを蓄えたんでしょ?
いろんな壁にぶち当たって、でも乗り越えていったんでしょ?
だったらそれをね、次回にも見せて欲しい。
これだけ成長しましたってのを、
自信を持って皆に見せつけて欲しい。
今回のイベントの成否なんかより、
盛況だったかどうかに一喜一憂するより、
そっちのほうがずっと大切だと、思ってます。

ポエフリがんばれ。



2002年03月02日(土) さみしいセックス。



昨日はなんか不穏なこと書いてるなぁ(笑)。
俺も馬鹿だなぁ(笑)。

とりあえず対策などを相談元に進言。
(昨日の情報は相談を受けて入手したのだよ)
それで様子見だな。うん。
大丈夫。味方はいっぱいいるからね。

自分たちの気に入らないことをしてるから潰そうなんて、
まるでアメリカ並みの幼稚さだ。
んなことやるからネット詩の評価が低くなるんだよ。



さて。気を取り直して。セックスの話。


感じてくれれば、いっぱいイッてくれれば嬉しいってのは、幻想で。
いや、幻想ではないけれど、それだけでは計れないものがある。

たとえば男が
自分のためにセックス“する”ことがあって、
同じように、男が
自分のためにセックス“される”ことがあるのね。

それはもう、ローターとかバイブとかペニスとか、
そんなのに関係なく、
相手は感じてるんだけど、
それは俺が感じさせてるんだけど、
けれどそれは女が自分のために感じてる。
そういうセックスがある。

んー。微妙なんだけど、
別に棒として使われてるわけじゃないんだよね。
相手もそんな意識はない。
オナニーの延長ではなくきちんとしたセックス。
だけど。だけれども。

セックスに対する姿勢の問題じゃなくて、
在り方の問題なのかもしれない。
気持ちの行った先が、そのフィードバックが、
体の反応を元にした気持ちだけから帰ってくるのね。
「こんなに気持ち良くしてくれてありがとう」という場所だけから。
俺は贅沢なんで(笑)、それだけじゃ物足りない。
んと、お互いが気持ち良くなるためにセックスするんじゃないでしょ?
気持ち良くなるのはあくまでも手段であって、
「何故セックスするのか」という観点が、
「こんなに気持ち良くしてくれてありがとう」ってところにはないんだよな。
そういうセックスは、そこが、すごくさみしい。

体を求め合うだけのセックスとはまた別のね、さみしさがある。



2002年03月01日(金) 詩学3月号の裏話というほどのことでもない話。

今日はワークショップについて書こうと思ってたけど
気が乗らないので別の話。


いや、3月号に掲載されてる「ネット詩抄」のことなんだけどね、
あ、ちなみに誰の作品が載ってるかはここでチェックできるんだけど、
今回は11篇。
上記のページに書いてあるとおり、今回はVol.1です。
Vol.2もある。3もある。4は、あるかどうかわからん(笑)。

ネット詩抄に掲載される作品は、
詩学編集委員の寺西さんと、
同号の座談会に出席した5人が選んだ作品なんだけど、
結局40篇近くになって、で、選びきれなくて、
寺西さんが篠原さんに見せたんですよ。
あ、篠原さんは詩学の編集長やってる人ね。
その篠原さん、バリバリ現代詩の人で、ネット詩なんかまったく見ない。読まない。
そういう人に見せたんだけど、篠原さん曰く、
「全部掲載してもいい」って。
「掲載されて遜色ない」って。

寺西さんと飲んでるときに、俺、それ聞いて、
すごく嬉しかったんだよ。
ネット詩がね、きちんと認めてもらえてるって。
俺たちがやってきたことって、間違ってなかったんだなって。


いやほんと。
嬉しくて泣きそうだったよ(笑)。


3月号のネット詩抄の感想、欲しいんだよね。
現代詩やってる人たちからの感想。反響。
寺西さんには感想欲しいって伝えたんだけど、
飲んでるときだったから忘れてるかも(笑)。
ネット上でなんか書かれてないかなって今探してるけど、
まだないな。みつけてない。
誰かみつけたら知らせて欲しい。




追伸。

どこぞのバカ連中がどこぞの詩のサイト潰そうとか
そんなバカなこと考えてるなんて情報が入ってきてるけど。
ふざけんな。

なんかやったら俺は反応するよ。
俺の全能力傾けて敵対するよ。
事前に言っておく。

poeniqueと刺しちがえてもいいくらいの心積もりでやるからね。


 < 過去  INDEX  未来 >


いとう [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加