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オオカミ

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2004年02月29日(日) ■
好きと嫌い。良いと悪い。

自分は好きか嫌いかで
物を、見る。

歌の好きか嫌いか
絵の好きか嫌いか
文章の好きか嫌いか

他にも色々





まあ、これはもちろん
他の人もそうしているのだろうけど、
ふと思ったことがある。




好きか嫌いか、ではなくて、
良いか悪いかという視点をもつと、
もっと視野が広がるんじゃあないかなと。


例えば、自分は歌詞が訳のわからない歌は嫌いだ
モーニング娘が、その典型で
なんで、あんなものが好きなのか
わからなかった。
(ファンの方はすいません)



でも、売れている。

その理由は?
それは「良い」とおもう人が多いからだ。

多分それは、癒しの効果が彼女たちにはある。
元気をもらえる。
歌のノリやリズムがリズムが楽しいなど色々
あるのだとおもう。


別に自分の嫌いなものを好きな人も
嫌いというわけでもないので
もちろん、モーニング娘が好きな友人もいるのだが
実際そういう風に言っている奴も多い。



ここで、言いたい事は、
良いか悪いかだったら、

モーニング娘は間違いなく「良い」の部類に入るということ

歌に大切なことはどれだけ、たくさんの人に見てもらえるか
どれだけファンが多いかだとおもう。

その条件でみると、確かに「良い」のだ。



そして、これは他のことにもあてはまるとおもう。


この歌は「嫌い」だけれど、あって「良い」
この本は「好き」だけれど、人気が「悪い」
原子力発電は「便利」だけど、環境に「悪い」



といった感じで。


そういう風に、良いと悪いの視点と、好きと嫌いの視点で事柄を見ることで
視野が広がるんじゃあないかと思うわけだ。


嫌いなことも好きになるかもしれない。
新しいことを発見できるかもしれない。


それならば。自分はやってみようと思う。
好きなものにはもっと。
嫌いなものには少しでも

目を向けていこうと思う。


今日の一口<嫌いだったものを好きになれたら少し嬉しくならないか>


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2004年02月28日(土) ■
やりたいことを見つけにいこう

実は1年前の自分は
本当にやりたいことが解っていなかった。
いや。もちろん今もわかってないのだが

だが、数ヶ月前にあったある事柄で
糸口がつかめたような気がする。


ここではそのことについて深くは語らないが。






前の自分は本当にやりたいことが
わからなくて迷っていた。
動けない自分に腹を立てていた。

好きなことは、幾つかあるのに
本当に好きなことがどれかわからなくて

本当にやりたいことを一番に必死で勉強したい
と思っていたのだ。

ほかの事はしても無駄だし役に立たないと。

そんな風に思って、何も動かずにじっとしている
だけだったのだ。





でも、そんなことは無いのだ。

やりたいことをどんどんやっていって
うまくいかなかったり、好きなことじゃあ無いとわかったら、
別のことをすればいい。

それまでにやったことが無駄になるのではなく
やったことが、身に付いて次に生かせるのだろう。


近道を求めてただ、立ち止まっていても駄目だったのだ。

遠回りでもいいから動いて先に歩かないと駄目だったのだ。



それが、わかってから、自分は
晴れ晴れとした気持ちで物事ができるようになった。

HPも、それに気がつかなければ
作ってみようなんて思わなかっただろう。


今、昔の自分をみて、馬鹿だなあと素直に笑える。


本当にやりたいことの探し方を知らなかった
自分に恥ずかしいと思える。


人生に近道なんて無いのだ。


迷わずに先を見て、前に進めばいい。

やりたいことを見つけにいこう

そうしたら
今よりもっと自分が好きになる。

もっと自分に自信をもてるだろう。




今日の一言<人生に近道なんか求めないで前を向いて歩いていこう>


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2004年02月27日(金) ■
同性愛者の存在理由

この間
同性愛者の存在理由なんてあるのかなんて
そんな会話をしていた。

ある人が言った
「ゲイってさあ、子供も作れへんやん?
結婚も出きひんやん?

社会的にも認められてないしさ。何の意味があるんやろうね。」

また、ある人がその人にこんな質問をした

「社会的に認められた時、そしたらどうあってほしいんよ?」

そうしたら、彼はこう答えた
「放っておいて欲しい。俺らは俺らで」
「普通の人達が受け入れてくれるはずが無い」
そんな一連の会話。


彼の話をきいて自分はこう解釈した
放って欲しいなんて、本当は思ってないのだろう。
傷つくくらいなら放っていて欲しい。
でも、できるなら、受け入れて欲しいと
本当はおもっているのではないかと



自分はそう思うし、そう願う。
出来ないことではないかもしれないじゃないか。
社会的に認められなくても
少なくとも普通の人に受け入れてもらうことは
できるはずじゃないか。


でも、彼はその願いをかなえるのは
無理だと考えているから
こんないい方をしたのだろう。


だけど、それに対して、こうも思うのだ
自分が自分の願いを否定してしまったら
何も出来ないしそこから動けない。

もちろん、願うことでかなうと言い切るわけじゃあない。



もしかしたら、突き放されるかもしれない。


もしかしたら、大きく傷つけられるようなこともあるかもしれない。


もしかしたら、可能性は少ないかもしれない。





でも、願うのをやめたら、動くのを止めたら

可能性は確実に0だ。


だから、自分は常に、動こうと思うし
願うのは止めないだろう。




そもそも同性愛者の存在理由なんてあるのだろうか。


自分はそんなものは、はっきりと無いと思う。

なぜかというと、人種によって存在理由が
変わるわけなんて無いからだ。

全ての生き物にはそこに存在していることに意味があって
その意味を、探すために生きている。

それでいいのではないだろうか


たとえ、結婚が出来なくても、
それが生きている意味ではないはずだ


結婚するという「形式」自体に意味は無いのだから。

子供が欲しければ養子に迎えればいい。

男同士だって、養子縁組という形で
一緒に暮らすことははできるのだから。
結婚だって、子供を作るのだって
方法はあるのだ。


「形式」に意味はないのだ。
それに、意味をもたせるのは
その人その人では無いだろうか。


そして、その形式の中に
「同性愛者」という物もあるわけだ

それに対する、価値観なんて
人それぞれ、つけていけばいい。
そういう風に思う。


だから、探すとしたら
「今ここにいる自分の存在理由ってなんだろうね」

これでいいのではないだろうか。


それを探すのが生きることなんだろうから。


そうはいっても、どう探したらいいかわからない人もいるだろう

存在理由が解らなくて、しんでしまおうしてしまおうと思ってしまった人も
いるだろう

無気力になって、自分が希薄に感じられる人もいるかもしれない。




そういう場合は






一度、やりたいことを探してみよう。
やりたいことが生きる力になって
意味になる。

そう考えて動いてみたらいいじゃないか。


意味が無いなんて、考えたら寂しすぎる

そうならば、意味を探していけばいい。


自分だけができることが絶対ある。
その人だけができることが絶対ある。

たった一人の自分なんだから
大切に。自分を一等好きになって
生きていけばいいんだ。



今日の一口<自分があきらめることで足を止めないで>



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2004年02月26日(木) ■
同性愛者の国による差

自分はまだ、言っても新参者なので、
よくは分からないけれど、昔は同性愛者の人数というのは
今ほど多くはなく、
せいぜい、男性人口の10%ほどだったらしい。

だけど、最近は20%位は居るのではないかといわれている。

なぜかと思い、今日ある人にきいてみたら
そのこっちの知人いわく、特に若い子が急に増えたとのこと。



確かに、自分から見ても、12、3歳の人が
同性愛の出会い系サイトの掲示板に掲載してるのをみると、
そういう可能性もあるのだろうと思う。


その理由としておそらく一番でかいのは
おそらくインターネットが普及したためがあるだろう。


10代だけではなくて、他の世代も
インターネットがあることで
増えてきたんじゃあないかと思うわけだ。


元々こんな世界があるなんて知らない人は
まず、隠すだろうし、打ち明けられないだろう。

だから
昔は出会いがまずなかったらしい。


ところがネットができてからは、
気軽に会えるし会う前からお互いがそうだと分かるから、
不安もストレスも無く話ができる。


そう考えると、ありがたい世の中になったものだとは思うけど。
その分軽い出会いが多くなったのかもしれない。

まあ、それは置いといて。


そういえば、
去年辺りにこんなことを学校の授業で習った。

倫理学だったか、心理学だったかで、
習ったのだが。


「発展途上国には同性愛者は少ない。
子供を生んで、労働力を増やさなければ、
家族を養えないからだ。
貧しい国では、子供は働かせるために生む。
ひどいと思うかもしれないがそれはそこの国では当たり前なのだ。
なぜならば生きていくために必要だからだ。

だから、自分の血縁の中に、同性愛者が出た場合は
勘当されるのが、当たり前のようだ」



「逆に先進国には同性愛者が多い。
勿論発展途上の国と比べたら多いというだけではあるが。
それの理由は、先ほどあげた発展途上国とは違い、
生きていくために必死にならなくても
ある程度は、生活ができるからだろう
個人の自由が、ある程度、許されるからだ」



「そうしたときに、経済力のある国々での差は
どうやってできるかなのだが、例えばタイなんかは、
人口の半分が同性愛者だという。

それは文化の差から来るもののようだ」


「では、アメリカや日本はどうなのだろうか
日本では現在は大体15%〜が、同性愛者だといわれている

だが、数年前は、10%位だといわれていたのだ

これは、人口自体が増えてきているため

何か、自然的な力で、増えて行ってるのかもしれない

人間が増えないように。少子化していっている理由も
それが、あてはまるではないか」


こんな感じの講義だったと思う。


それに対して俺はこう思うのだ
勿論人間自体が増えすぎたというのも1つあるのかもしれない

だが、同性愛者が増える波が本当の意味で
到来しているときと言うのは
経済状況が悪くなっているからではないかと

実際調べたところ、戦時中の国は戦前よりも同性愛者が増えるという
そして、今の日本。不況が続き、回復せず約10年になる。
この不況が同性愛者を増やしたのではないかと


なぜ、自分がそう思うかというと
周りの社会自体が余裕がなくなったときは
個人個人にも余裕がなくなってしまう。

その時に、異性の場合だと、
元々、考え方が違うので
お互いのことが分からない。

そして分からないムズかしさから、
攻撃的な人間になってしまい
傷つけあう。

その傷つけられた
癒しを同性に求める
人間が出てきて、

友情が、恋愛感情になるのではないかと思うわけだ。


他には、単に
異性は分かりにくい
安らげない

同性のほうがわかりやすい。
安らげるところがある。

といった風に思う人も居るだろう。
そういう図式が頭の中にできてしまったばあい。
異性には興味がなく。
同性の方がよくなるのかもしれない


また、戦時中の国などの場合

兵士達は同性だけで暮らす。
その時にできた、信頼や、憧れ
尊敬。そういった考えが
行き場のなくなった、恋愛感情に
かわるのではないかという風にも思うのだ。


他にも色々な要素もあるだろう
だが、人間の心というのは
実に様々なバランスで保たれているのだとおもう。

そして、そのバランスが崩れたときに
補おうとして、同性愛者が増えるのかもしれない。

そのバランスが、大きく崩れるのが
社会の経済力の降下だとかんがえたら、
ありえないことではないように思うのだ。



今日の一言<人は誰もが、その国の社会に洗脳されているのではないか>


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2004年02月25日(水) ■
鋭利な刃物で刺すような言葉

実は俺は今日ある友達に
「痛い」「きつい」と言われた。


夜食を、食べた後ぐらいだろうか
会話の流れから
その人が、
「どうせ俺なんてすぐ死ぬし。
別に将来のことなんて考えんでええねん」
と言った。

たいていの場合
そんな様子を見て無視をするか
優しい言葉をかけるかするのだろうが。


俺はそんなこの人に対して
「じゃあ、今死ねばいい」
と言った。

「生きてる意味無いな。太く短くやったらともかく、
細く短くなんて最低よな」


「将来のことを何も考えずに逃げるだけ逃げて
それだけで終わる人生なのならば
今、死んだらいい」
と。

そうしたら…答えは返ってこなかった。


この後、相変わらずきついなあ
とぼやかれたのだが。
それはさておき。





俺は自分の悪い所を分かっているのに
正さないのは嫌いだ。

自信がないがゆえから言い訳を先に持ってきたりして
歩みを止めるのも嫌いだ

周りから批判をされてるのに正さないのも嫌いだ。

周りに迷惑を掛けるのも嫌いだ。

自分の事を、卑下にするのも嫌いだ。

だから、そんな事をしている人を見ると
何故正さないのかを聞くし、
どうでも良い人なのなら、放っておくが。
相手が好感を持っている人であればあるほど
そういうところは直して欲しいと思う。


自分が正しいと思う事は。
いつも相手にとっても正しい事か
分からないのだけれど。
それでも、そのためには


些細な会話をしたり、話し合いをしたりして。


直して欲しいと思おう事柄を
伝えようと努力をすることが必要だろう。


その際に気をつけている点が
相手の言い分もきちんと聞いたうえで
意思を伝える事だ。

まずは
自分の物差しでは決して計らずに
相手の考えを聞くことだ。


そして、その時に
自分の考えを決して押し付けたりは
しないようにする事だ。



何か考えがって、やることならば
それはまた別の話なのだから。


まずは相手の考えを聞き、
その後で、その物事に関して
視点を変えて、なるべく客観的に
話をするようにする訳だ。




まあ、自分の気持ちを言わない
ような人は、論外なのだが。


だから
相手が、何も考えてないで
周りからの、もしくは俺から見ての評価を
下げるような行動をとる場合のみ

もしくは自分でその事に気がついているのに
それから、逃げている場合や、
身勝手を貫こうとしている場合。
その場合のみ。


相手に、意思を伝えようと思うわけだ。


だが伝わらなかった場合。
もしくは、伝えるより先に流されてしまった場合も
もちろんある。


その時は
別のやり方を使うか。諦めるかどちらかになるのだが。



ここで俺の場合は別なやり方をとるのだ。
諦めたりはしない。



所詮他人のことなんだから、
放っておけば良いのに…といわれることもあるが。

俺にはそれができないのだ。


そして、そのやり方だが、

人とは少し発想が違うかもしれないが
決して、相手をいたわるわけではなく。


俺は物凄く攻撃的に相手に接するようにするのだ。










そう。柔らかく、根気よく
こちらの気持ちを繰り返し伝えて
それでも分かってくれなかった場合。



俺は相手にとって
鋭利な刃物で刺すような言葉で相手を罵るのだ。



逃げ道を全てふさぎ、
追い詰め、
感情も持たずに。
相手のことを一瞥し、
相手にとって一番痛い言い方をする


そして、それを相手が、消沈するか激昂するまでやる訳だ。



では何故俺がそんなやり方を選ぶのかなのだけれど。


もちろん、あたりさわりの無い言い方でとどめるのも
ひとつのやり方ではあると思う。

だが、そのやり方だと
相手が、流すのが上手かったりすると

本当に言いたいことにこぎつける前に
逃げられたりする。

また、軽くあしらって
自分の心に俺の言葉を入れないように
する人もいたりするのだ。

それじゃあだめだ。


俺は相手の心に自分の言葉を
少しでも強烈に残したいのだ。



だから、胸に刺さるような言い方で、
心が痛むことをあえて俺は言うのだ。


俺は憎まれてもいい。

相手が分かってくれたらそれでいい。







今日あげた
その人は本当は将来に凄い不安を持っているくせに
死にたいのではなくて自分の居場所が欲しいだけのくせに
先ほど綴ったようなことをいう訳だ。


何も、決め付けて言うわけではない

この人とは何度も会話をした。
正直かなり仲のいい人の部類だろう。


だが、この人は自分が、
悪いとこも駄目なとこも
分かっているくせに、

自分にも他人にも甘い人で
悪い所を正すことをしないのだ。

いや。多分できないと、
思い込んでいるのだろうが。

そして、今回のような
こういう自虐的なことを言うのだ。


彼が最初に綴った俺の言葉をどう受け止めたのか知らない。
だが、言葉の意味は捉えてくれてるだろう。

俺は、この痛みによって相手が、少しでも
悪い所を正してくれればそれでいいのだ。



それでも、分かっているのに、
分かってくれたのにこちらの言うことを
全く聞いてくれない場合もある。


自信の無さからか、
元々、直す気が無いからか
それは人によって違いはあるとおもうが。


さすがにその時は、もう諦める。





正直な話、ここまで、長々と綴っているが
最低限の常識にあてはまらない事柄以外は
伝わらなかったら仕方が無いで済ますのだ。



先に生きていく中で、俺があんなこと言ってたと。
相手が思い返してくれて、いつか分かってくれれば良いし、



先に分かってもらえないままで、終わってしまったら
それはそれで悲しいことだけど。
やはり仕方が無い。


そう思うわけだ。


だが、ある人にこの話をすると


偽善だといわれた。

相手のためという名目で
傷つけているだけだと。


そして
又ある人にはこう言われた。

あなたは優しすぎるのだと。

相手に自分の最善だと思う方法を伝えてあげようと
しているのだと。


だが、俺自身はそのどちらとして
評価してもらっても構わない。


自分のエゴだと、分かっていて
やっていることなのだから。


ただひとつあげるならば、

やはり俺は、人を嫌いたくないのだ。

嫌いなところを見つけても、
直してくれればそれで良いと思うわけだ。
そう思いたいわけだ。

だから、逆に言うならば。
仕方がないと、俺が本当の意味で思ったとき
ばっさりと。いとも簡単に、
相手との、関係を切るだろう。




<今日の一口>好感を持っている人を嫌う時ほど自分を醜いと思うことは無い


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2004年02月24日(火) ■
強い自分を守れるくらい大きくなろう

今日は合気道に行って来た。
久しぶりに行ったので、感覚が鈍っていたが
始めて10分位でなんとか取り戻す。

…やはり楽しい。

元々動くのが好きだから、というのもあるかもしれないが
新しい発見があって楽しいのだ。
力の流れに逆らわずに
それを利用するやり方等を
学び取っていく。
それが楽しい。


合気道をやり始めた理由がこれである。
相手の力の流れを見極め返す。
それが出来たら、たとえ喧嘩を売られても
こちらからは手を出さずにすむ。
自分を守ることができる。

基本的に俺は暴力が嫌いだ。
何故嫌いかというと、自分が嫌になるからだ
殴ることで、相手以上に自分も傷つく。

相手のことを好きでいればいるほどだ。

だから、こちらからは手を出さないようにしている。
基本的には口で罵られたら冷静に流す。
余りしつこいと、多少は罵り返すが。

例外を除いては
こちらから先行して
殴りかかったりはしない。


だが、相手によっては不条理にも殴りかかってくる時がある
だから、殴りかかってこられた時に
流して返せる力が欲しいわけだ。

そう。具体的に今上げるならそうなのである。



だが、始める際にどう思っていたか。
自分は合気道を始める時何を思って始めたか。
なのだが。

単に強くなりたかった。
これももちろんある。
いち、人間として自分を守る強さが欲しかったのだ。

しかし、本当の理由は
自分の体を鍛錬することで
精神的余裕を持ち、精神的にも強くなりたかったのだ。
それは何故か。

ここで、先ほど上げた、

例外を持ち出そうと思う

俺は昔から、我慢することはする様にしている。
痛い目に会おうと、苦い目に会おうと。
我慢して、解決に向けて進もうと努力する。

だが、もちろん自分も菩薩ではない。
限界値と言うものがある。
他の人よりは、はるかに高いところにあるつもりの
その線だが、その線を越えた奴を

俺は殺そうとするのだ。

憎しみにかられて怒りに没頭し
相手の存在を消そうとするのだ。

一度昔、相手の頭をカチ割り
病院送りにしたことがある。

そうなのだ。何もかも忘れて。社会のルールさえも忘れて。
相手を消そうとするのだ。

これほど怖いものはない。
しかもそれが自分の中に潜んでいる訳だ。

二度と、出してはいけない「自分」だ。

そして、それを出さないようにするためには。
心を強くもつことだろう。

それに、精神的に強くなることで
その自分の弱い部分を、無くせるかもしれない。

今以上にもっと大きく構えて、不動でいれる自信を
手に入れられるかもしれない。

そのために。俺は合気道をし始めた。

自分も生かし他人も生かしていく自他共栄の道

そういわれる合気道を。



今日の一口<人という生き物にとって一番怖いものは自分かもしれない>



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2004年02月23日(月) ■
家族

今日は俺以外の家族全員が
仕事などの用事で出払っていた。

それで、まあ、留守を任されたのだが
留守をする際いつも気をつけるのが
うちの「カキ」という犬だ。
いつもは俺なんかに付きまとわないで
親父殿や、母上殿について回るくせに
いざ、俺と二人きりになると
俺の傍に寄り添ってくるわけだ

家に二人っきりのとき
俺が自分の部屋にいると、勝手に入ってくる
扉を開けてないと開けろとばかりに
扉につめを立てがりがり鳴らす。

そして、俺の横でうずくまり
すやすやと眠るわけだ

ペットというのは、なんともいえなく可愛いと思う。
孤独感をなくしてくれて

人と違い、こちらが愛情を与えた分
その体いっぱいでこちらに愛情を示してくれる。
言葉なんか伝わらなくても
その体いっぱいの表現でこちらに意思を
伝えてくれるのだ。


いつか、何かの番組でこんなことを
言っていた。

ペットとは家族の変わりに、
寂しさを紛らわすために出てきた「物」だと

でも、それは違うと思うのだ
いや。正確にはその「表現」は
違うと思うのだ。

そうではなく

ペットとは家族がいない人に
温かみを提供するためにある「新しい家族」だ


と、少なくともそういう風にいうべきではないかとおもうわけだ。


少なくとも、俺に取ったら
「この子」は家族であり
家族の代わりとか「代用品」では無いのだから。


今日の一口<無垢な心から出てくる思いほど綺麗なものは無いかもしれない>


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2004年02月22日(日) ■
子供の視点

家に昔からある
グラスに、今日お茶を入れてみた

その時、ふとこう思ったのだ

このグラスも、
小さい時は倍くらいの大きさに
見えたものだけどなあと


この間久しぶりに母校の小学校を見た
小さかった

あれだけ大きく見えた校舎が
とてもちっぽけに見えた

自分の体が大きくなって
周りが小さく見えるって言うのは

不思議な感じで

昔見た景色を思い浮かべると
少し懐かしい気持ちにもなる

そんな事を頭の中で考えていると
あることに気が付いた

子供の視点は
いろいろなものを綺麗に偉大に
見せてくれてたような気がする

例えば、そのグラス
今はグラスを見て
綺麗だなあと思うことは
俺はそんなに無い
だが、昔はグラス一つ見るだけで
それの鈍光や形が
綺麗だと眺めて気がする

他には昆虫達
昆虫採集と飼育が
俺はすごく好きだったのだが
蝶の羽化の瞬間や
こおろぎの
音色などがひどく美しく
素晴らしく思えた気がする

そして、海や山などの
壮大な大自然
それに対して自分は
とてつもなく偉大に
感じていた気がする



俺はあの頃の感性を
何処においてきたのだろうか
決して今も
綺麗だ、偉大だとおもわないわけでもないが
昔と比べ、希薄になってるような気がする


子供の純粋さと一緒に
どこかに大切なものを
俺は置き忘れてないだろうか

そんな風に思う


かといって、昔の視点に
戻れるかと言ったら
無理なのだ

昔に比べると汚れてしまったし
経験や知識も増えた

だが、昔何もかにもが
綺麗に見えたあの頃

あの頃の視点を
どこかで持つことは
できるのではないかと
思うのだ

あれは未知なものに対する
探究心や好奇心から来ていたものではないか?
あれは憧れや親愛の情からくる
尊敬する心からきていたものではなかったか?

そうならば、常に新しいものを
追い求めればいいのではないかと
思うわけだ

そのためには

同じ道を歩かずに 少し角を曲がって
別の通りに 入ってみることだ

もちろん同じ道を歩いて
新しい発見を探してみるのもいいが

それは、結局保守的であるとも
いえるように思うのだ

だからもっと目を外に向けて
いつもと違う道を歩いてみよう

そうしたら、あの
子供の視点が蘇ってくるはずだ


今日の一口<人が追い求める心を忘れた時、その人は死んでしまうのだろう>


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2004年02月21日(土) ■
自分の感情表現

この間、ある人にこういわれた。
ほんまに素直じゃねえし。
頑固だよなあと。

人にとってここが良いところになるのか
悪いところになるのか
俺自身にはわからないが


実は俺は、極端に強い感情表現が嫌いだ。
自己主張が強い代わりとばかりに
感情を表に出さないのだ。
出そうと思ったらできるくせに
ブレーキをかけてるわけだ。


だから、どれだけ言葉でいいあらわせても
感情が伴わないので、相手に伝わらない
いや、自分から伝えないようにしているのだ。


極端に嬉しい時ほど怒り
極端に怒っているときほど冷静に
極端に哀しい時ほど笑うように
極端に苦しい時ほど余裕を持つように


してしまい、
そしてそのほとんどを、笑った顔かポーカーフェイスの「大丈夫」の一言でかたずけてしまうのだ。
要は第三者から見たら、素直でないのだろう。


かといって、相手に何かをしてもらって嬉しい時にお礼を言わないわけではない。
笑顔でありがとうと言うだろう。

人から意見を聞かれたらしっかりした回答を返すようにもしている。

そして、会話する時はよく笑うようにもしている。

要は相手の行いが程度が過ぎない限り、相手にできる限り返すようにしているのだ。


程度が過ぎるとはどういうことかというと、
例えば、大げさなお祝い。
これは駄目だ。照れくささの余り相手をにらみつけてしまうか、無表情になる。
後は何かやってあげたいとこっちにあからさまに態度に出してくる奴も駄目だ。
いらないとつきはなす。


また、相手に対して極端に怒りを覚えた時も無表情になるか笑う。
談笑している相手の首を掻っ切る体勢に入るわけだ。


そして哀しい時は絶対顔に出さない。これも無表情になるか笑っているだろう。
と言うか、笑い飛ばして忘れようとしていることの方が多いのだが。


体や心が辛い時も、余裕を持つようにしてやはり笑っている。
そして大丈夫。心配いらねえ。というのだ。



何故ここまで素直にならないのか。
それはやはり俺が相手に、

照れる自分を見られたくないとか、心配させたくないとか
怒りを隠したいとか、弱い自分を見せたくないとか。

そういう思いを抱くからで、
その辺から考えると
俺は自分をさらけ出すことは慣れているくせに
自分の感情を出すのは慣れてないのかもしれない

一種の拒絶反応が出るのだ。
これ以上出すのは嫌だと。

自分の気持ちは自分さえ知っていたらいい。
そう思っているのかもしれない。

だがこれは誰もが、やっていることではないだろうか
人によって態度を変える人もいるではないか。


だから俺はこれも一つの表現方法だと思っている。
また、自分はそれしか出来ないしやらない。

頑固だと思われようが、素直で無いと思われようが
やはり俺は自分の領域に踏み込んで欲しく無いのだ。


ただ、どうしても素直な俺に会いたい人は

その人が恋人という枠や友達という枠
にあてはまるならば、アルコールの力を借りて
たまに、素直な俺と直面できるかもしれない。

今日の一口<人の良いところと付き合っていこう>


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2004年02月20日(金) ■
礼儀

今日はとある知り合いと会った。
その人は昔、ちょっとした事で知り合った人で
俺と同じ同性愛者だ。
たまに連絡をとる程度の人なのだが。

今日はその人とカラオケに行ってきた。
前からカラオケに行こうという話が出ていたのだ。
それで、その話をしたときに
二人だけじゃあ話も出来ないだろうから、
人をもう一人位は
呼ぼうという話になった。
そういう話をしていた所、その人が誰か誘って連れてきてくれるというので
俺はその言葉に甘えることにした。

そして今日が約束だったのだが、
彼は何故か、自分も初めて会うという
メル友を連れてきた。

そして
そのままカラオケを行ったわけなのだが。


今日のこの出来事で思ったことなのだけれど。
最近は礼儀のわかってない人が多いのではないだろうか。


俺は彼のいった言葉に対して

誘ってつれてきてくれる=友達を紹介してくれる。

だと解釈していた訳なのだ。
だが、彼はメル友を連れてきた。

ここで少し余談だが
自分はメル友は基本的に作らない人なのだ。
しかし会うという前提で作ることはある。
というか、その前提が無いと作らないことにしている。

なぜなら、メールだけの付き合いを続けていると
自分の中に虚像が出来てしまう。
そうすると、虚像が出来てしまった後に
いざ実物にあったときに悪い意味で驚くことの方が多いからだ。
だから、俺はメールは、基本的に会うまでの連絡手段としてしか見ていない。
メールをある程度したらすぐに会うことにしているからだ。

そして、ここからが今回言いたいことなのだが。
メル友と初めて会う時と言うのは
1対1で会うのが礼儀では無いだろうか。

また、メル友と1対1で会うのではなく、
今回のように1対1対1で会う場合、
少なくとも彼は俺の方にもそういう情報を言ってくれるべきではないのか
そう思ったわけだ。
俺と彼は
仲がそれほどいいわけでもなく。
よく会っているわけでもないのだから。
もしそうであるならば、また、話は別なのだろうけど。

決して腹を立てたわけではない。
決して楽しくなかったわけではないが、
何か、違う。
何かおかしいと。
思ったのだ。

俺に気を使えていない。
メル友さんに気を使えていない。
そんな彼に対して
もう少し、考えて欲しかったと思う。
俺ら二人の気持ちを。

それと同時に、俺は彼に対してこうも思うのだ。
俺とメル友さんに気を使った結果こうなったのかもしれないと。

もしかしたら、彼は、メル友さんを緊張させないように
今回の行動に写ったのかもしれない。

メールをしていい人だったから俺に紹介したかったのかもしれない。

実は誰か誘っていた人がいて、その人がこれなくなったから
俺との約束を守ろうとして、メル友さんを呼んだのかも知れない。

色々な見方があるとは思う。
色々な解釈があると思う。

だから、彼を責める気は微塵も無い。
実際カラオケのあの空間で俺は楽しかったのだから。
ただ。やはり礼儀は大切にするべきだとは
思うのだ。

今日の一口<全体を見る目を身に付けよう>



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2004年02月19日(木) ■
自分の願望

嫌な、夢を見た。
いや。むしろ悲しい夢だ。

以前、こんなことがあった。
俺の友達にKさんという人がいた。
その人はとても優しくて、そして純粋な人だった。
だが、そんなその人にも、大きな、問題があった。

純粋と綴ったのは間違いかもしれない。
彼は子供だったのだ。
自分のいいと思うことが、相手にとってもいいことだと思ったようで。
そのKさんにとっていいことを、徹底的に俺に押し付けてきたわけだ。
おせっかいはやめろといっても。聞かない。

そして、Kさんの難点は自分がいい人っだと思っている点だった。
要は自分に酔っていたのだ。
そして、そういう表現方法しか知らないがゆえに、
それを貫き通そうとして、
エゴだと、分かっているのに
相手が嫌がっていると
分かっているのにやり続けてしまったのだろう。

俺は彼と縁を切った。
その方がお互いのためにいいと思ったからだ。

さて、ここで問題だが何故、相手の考えがここまで分かっていたか。

それは、以前に、Yさんという人に俺も同じ過ちを犯していたからだ。
幼いときに。

人様から見たら、そんなに幼くない年齢かもしれない。
でも、俺自身はとても未熟で。
あのときのことが後悔されて、やまない。
あのときに戻れるなら…とも。

その彼の夢を見ていたのだ。Yさんの出てくる夢。
俺は傷つけた彼と和解をし、その頃の友達と
大団円で、酒を飲み交わす。

でも、それはただの夢で…。和解したと思ったのは夢で…。
願望が現れた夢だったわけで。
夢だと理解した瞬間、これほど物悲しくなることは無い。

俺は、Kさんを、許してあげようと思う。
次にあったら気楽に声を掛けてあげようと。
彼が、もし、俺のせいで、同じような夢を見ているとしたら。
それは、取り除いてあげるべきだと思うから。


先ほど、あの頃に戻れるなら…と綴ったが、
でも、こうも思うのだ。
その時、過ちを犯していたから、今の自分はここにいる。
あの時にで苦しんでいるからその苦しみがわかるのだと。
他のことも同じだろう。
生きている中のどこかで傷つけられたら、その分傷の形が分かるのだ。
だから、これからも俺は傷つきながらも悩み、
それでも、思うがままに前へ進んでいこうと思う。
たとえ、傷ついても、その先に何かがあるのなら、
それを見つけ出すのも悪くは無い。

今日の一口<傷つき倒れようとも何度でも前へ進もう>


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2004年02月18日(水) ■
生活習慣

今日は昨日ここに綴っていた、文書を紹介しようと思う。

良い生活習慣が成功へと導く


 自分を作るのは自分であり、自分を正しくつくろうと思えば、自分を正しく律することが必要である。これまでの人生で、何となく思うようにいかない不満が多い人は、不注意な惰性の習慣を見につけてしまっているからだろう。その習慣が自分の成長と、成功への道を遠ざけているのだ。


 運と不運、成功と失敗は、心構えや生活習慣に大きく左右される。自分の生活習慣の支配力ほど恐ろしいものはなく、悪い習慣は知らず知らずのうちに、人を破壊へと追い込んでいく。習慣は本能ではなく長い間にいつしか身についたもので、現在の自分はいろいろな習慣の束みたいなものだから、よく吟味して自分の役に立つものかどうかを確かめ、その結果気にいらなければ改める。非生産的な習慣をキッパリと切替え、新しい心構えや習慣を身につけると、無意識のうちに自分の人生を思う方向に導いてくれる。


 人がなかなか従来からの習慣を変えられないのは、変化は常にリスクと努力を必要とするからだ。日常行動の95%はあまり考えもせず、反射的に習慣に従うだけで、残りわずかの力で習慣化された自分と対決する。



 習慣を変えるためには、願望を潜在意識に引き出すまでの繰り返しの努力が必要になってくる。見栄も体裁も考えずに、ともかく実行することだ。�〔軌媼嬰�にできないと思っている段階から、��意識的にも出来ないと思っている段階、�0媼嬰�にできると言い聞かせる段階、�ぬ軌媼韻暴个�る段階へと進む。何度も何度も繰り返し、自分の心に情報を与えつづけていくと、次第に潜在意識の中に入っていく。

�\�在意識は、本音に対して反応し、信じようとしない人には働かない。
�∪�在意識は、善悪を判断できず、一度願望を受けると無差別に実現する。
�8穏澎媼韻茲蠅皸掬歸�に潜在意識のほうが強く、よく乗りこなすと途方もない力を発揮する。



ここまでを、ワープロで打ってあり、その下に大きい父の文字でこう書いてあった。

意欲=目標意識×手段×承認

昨日ここに綴っていた文章は、以上である。
ちなみに、一応言っておくが何故、昨日にこれを取り上げなかったかというと、
文書の表記してある紙がすぐ出てこなかったからだ。

これを見て、やはり考えさせられるのは昨日も上げていた、
人間の習慣の恐ろしさ。そして、強さ。
この重要なことを認識するのとしないのとでは、
人生一つ変わるのではないかと思う。

そして、悪い習慣が治るはずが無いと思っている人は、考えて欲しい。
他の奴が出来ていることで、自分ができないことはないということ。
そして、自分にそれが大きな価値があるということを。
文書の通り見栄も体裁も考えずに。行動して欲しい。


全ては、自分の気持ちから始まると認識しよう。

今日の一口<全ての物事のありかたは自分次第なのだ>



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2004年02月17日(火) ■
開放感のある時間

突然ですが、日常の中で人が一番開放感があるときは何でしょう?
俺の場合は風呂にゆったり浸かった時です。
一番幸せかもしれないなんて、思います。

それで、実はここのとこHP製作の事しか頭の中にないわけで、
新しいコンテンツをこうしようとか、
Topを、もう少しいじろうとか、
色んな、ことを考えてました。

そして、ふと気が付いたのですが風呂の中は、俺にとって、
一番良くある、自分と向き合う時間なのじゃあないかということ。

今日はHPのことを考えていましたが、
詩や文章を考えたり、
何か、考え事や悩みがあるときは風呂場でよく自問自答をしていたのだ。
そして、打開策や、解決策が、頭の中に浮かぶと、
よっしゃ!!と声を上げてしまったりもしたことがある。

そんなことに気がつき、考えてみると少し不思議な気がする。
俺自身も気がつかずに日々繰り返してきているその行動。

人間の習慣というものは、実は思っている以上に。
すごく根深いのかもしれません。

習慣という言葉を今綴って
ふと、昔、父にもらったある、文書を思い出した。

その文書については明日、語ることにしようと思う。


今日の一口<幸せと思うことからそれは始まる>


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2004年02月16日(月) ■
力をくれる本

今日「Itと呼ばれた子」という本をよんだ[幼年期]
読み終えた後、自分は泣いてしまっていた。
余りに苦しく、余りに痛い話だった。

母親から生まれ愛を注がれた子供が、
ある瞬間から、痛みと苦しみだけを押し付けられる。
生きていけてるのがやっとの状況の中で、
その状況の中だからこそ、生きる強さのあるその人。

そんな彼を本の中に見て、
生きたいと。本当に生きたいと思う気持ちほど強いものは無いのかもしれないと思う。

今の日本人の幾らかの人には
何故今生きてるか解らない人がいるだろう。
先が見えなくて動けない人もいるだろう。
生きるのが辛くなって、死にたいと思うような人がいるかもしれない。
そんな人にこの本は是非読んで欲しいと思えた。
必ず力をもらえる。そんな気がする話だ。

だから、あえてここで、俺は語らないことにする。
読む前に内容をここに綴るべきでもないだろう。
自分の好きな人に。自分を好きでいてくれている人に是非見て欲しい。


「何故僕だけこんなめに?」――母親に名前も呼んでもらえない。
”this boy(あの子)”から、ついには”It(それ)”と呼ばれるようになる。
食べ物も与えられず、奴隷のように働かされる。身の回りの世話はおろか、
暴力を振るわれ、命の危険にさらされ、かばってくれた父親も姿を消してしまう――
児童虐待の体験者が、その記憶をたどることは、きわめて苦痛と困難を、ともなうものだ。
本書は、米国カリフォルニア州史上最悪といわれた虐待を生き抜いた著者が、
幼児期のトラウマを、乗り越えて自らつづった、貴重な真実の記録である。
          「It」と呼ばれた子 幼年期 著者 デイヴ・ペルサー
                          訳 田栗美奈子
出版社 ヴィレッジブックス


[今日の一言]<痛みも苦しみも昇華し生きていく力に変えよう>



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2004年02月15日(日) ■
理屈〜痛感へと…

ここ最近、俺は体づくりをしている。
ジムに行ったり、合気道に行ったり。
家で筋肉トレーニングをしたりである。

だが、なかなか、筋肉がつかない。
筋力が上がっていないかと言えば、そうではないだろう。
何故そういいきれるかと言うと、筋肉痛になってない日は無いからだ。
それでも、体重は増えない。
これは、どういうことだろう。とずっと思っていた。

いや。理屈では分かっていたのだ。

骨太の人は筋肉や脂肪がつきやすい。
骨細の人は逆につきにくい。

といったように体質の差により、筋肉がつきにくい人がいる。
そしてそれが、自分なのだと。

だが、理屈で分かるのと、本当に分かってしまうのは違うのである。

今日は久しぶりの人にあった。
この人は、俺や、周りの人にちょっかいを良く出してくる人で。
何か気が向いては、人をこそばしてきたり
肩をつかんできたりするような奴なのだ。
その人に、今日おもむろに、こういわれた。

「おい。ちょっと、腕に力入れてくれへんか?」

その時、自分の横には知人が一人いて、そいつが
「ああ。ええよ」といって、上腕二等筋に力を入れた。
俺の腕のゆうは二周りも違う腕の太い奴だ。

質問をした奴は
返事をしたそいつの力こぶを、思いっきり握りつぶそうとする。すると

「痛!ちょっと!無理やて。きついなあ」

と力んでいたそいつは腕を引っ込めた。
それで、次は俺の番とばかりに、腕を握ってた奴が、手を伸ばしてきたので

「ほら」

と俺も腕に力を入れる。
すると、どうだろう。
全然、つぶされそうも無い。
圧力を感じる程度だった。
俺が、力を入れた状態で踏ん張っていると
向こうが根負けしたようで、腕から手をのけた。
そして、

「あかんなあ」
「そんなもんじゃつぶされへんよ」

そんな会話。
この時俺の中に少し優越感が浮かんだ。
だが、それと同時にそれ以上に、愕然としてしまった。
腕の太さの差と、力の差のギャップについてである。

結局そういうことなのだ。と思った。
体質の差が物をいう。
そのことを本当の意味で痛感した。
少し悔しかった。
だが、それと同時に負けん気も沸いてくる。
俺の腕より二周り大きい奴と、同じものが欲しかったら、
3倍は力が強くないといけないのだろう。
ならば、俺は、人の三倍努力しよう。
と、心に決めた。

[今日の一口]<諦めない心それは強さにつながるだろう>



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2004年02月14日(土) ■
人に嫌われて平気な人はいないだろう

夕飯前辺りだろうか。
知人達の間で、いじめに対する些細な話をしていた。
いじめられる方にも原因があるとかいじめられることで
人の気持ちを分かるようになるとか。

そんな話をしてるときに、その中のの一人がこんな事を言った。

「でも、僕はいじめられたことは無いけど、
嫌わる事なら良くありましたよ」

彼はそれに続けてこうも言った。

「いや。今も変わらないかもしれませんけどね。
まあ、もう平気ですから」と。

俺はそれを聞いたとき空間が凍る音を聞いた気がした。
皆が静まり返り、数瞬の間、誰も何も話さなかった。

たぶん、誰かはフォローを入れようとして出来なかったんだと思う。

なぜなら、彼自身も分かってる通り

今でも、誰かに嫌われているから。
そして、それを皆がしっていたからだ。

俺自身は相談された訳でなければ意見を言うわけでもなく、まして
相手が、フォローを入れて欲しかった訳でも無さそうなので、
冷たいようだが放っておいた。

そこから、話題は変わり、空間はぬくもりを取り戻した。

ここの会話で、自分は何故だ。と思っていた。

人に嫌われて平気なわけが無いだろう。何故、「笑いながら」
そんな話をするのだろうか。

俺自体も人に嫌われた経験は自分の中にあったから余計に、
そう思った。もちろん彼が本気で、言ったわけじゃないだろう事も分かる。

だが、何故そのように言葉に出せるのか。
俺は嫌われた記憶が平気な人はいないだろうと思う。

それを受け止めて心の中に入れておくか、逃げるか。
それしかないと思う。そして今嫌われ者の状況なら、
自分ならばそれを打破するのに、躍起になるだろう。

でも、それを笑って話す彼は受け止めているのだろうか。
本当に悩んでいるなら、笑って話せないはずだろう。
本当に苦しいのなら、口に出せないだろう。
悩んでる分かってる振りをして、逃げてるのだろうか。
それとも、あきらめきって、笑い飛ばすしかないのだろうか。
もしそうならば、彼が…

…少し悲しいな。と、俺は思う。




[今日の一口]<周りを見よう。自分を見よう。中から外へと>



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2004年02月13日(金) ■
怠惰な自分に対する苛立ち

今日バイトの後友達とTVゲームをやって
時間をつぶしてました。



自分は昔からゲームが好きでした。


その思いは、自分が病気持ちだった
と言うこともあり。


親が、ゲームを買って
くれなかったことで


余計に強くなっていたような気がします。

従兄弟が、ゲームを持っていたので
従兄弟の家に行くたびに


ゲームをしていました。

そして自分がゲームを持ったのは
高校2年の時でした。


周りの友達のみんながゲームを持ってたので、

病気も治ってきたし
買うことを許してもらったためです


そのために、家族会議までしたと思います


そして現在ですが
俺はほとんどゲームをやらなくなりました。

友達と同じゲームをやったりして
盛り上がったりはしますが。


一人でゲームはまず、しなくなりました。


何故かというと
一人でだらだらゲームをしてると

他に何か出来るのではないかと。


やるべきことがあるのではないかと
思うからです。


俺にとってある時期からゲームは、

「遊び」ではなく「暇つぶし」になりました。



ただただ、怠惰にゲームをやり
時間だけが流れていく。


それならば
その時間で他に出来ることがあるのではないかと。

そんな呼びかけが自分の中にあるのに
その呼びかけに応えようとしない。



そんな、怠惰な自分に対する苛立ちから、


ゲームをやらなくなったのです。



きっかけは簡単でした。
やりたいことを見つければよかったんです。

詩を書いたり絵を描いたり
歌を歌ったり
勉強したり

やりたいことが分からないなら
片っ端からやっていけばよかったんです

出来ないと思わずに。

本当にやりたいことじゃないかもしれない
だからやらない。

そうではなくてやりたいことを見つけるためには
取り組まなくちゃあいけない。

やりたいことが出来たら動くではなくて
動くからやりたいことが見つかるのだと


俺は思います


…そんな思いが、今日友達とゲームをしているときに
蘇り、反芻し、ここに書かれている。
自分自身、不思議な感じがしますが…


娯楽は大切だとは思う。


でも、娯楽だけの人生は
楽しくないと俺は思いますね。



今日のひと口<僕らより不幸な人はいる。自分だけが不幸だと思うな>



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2004年02月12日(木) ■
始まりを妨害されたような心を持つ

今日バイト先で、自分のHPを見て、驚きました。

自分の家のPCはセキュリティがきいてるため、気がつかなかったのですが、
バイト先のCPで見たところUPしたHPの上にすごく大きい、
広告が着いていまして正直、衝撃を隠せません。

とても驚きまして、それと同時に悔しさがありました。

でも、それは考慮にまったく入れてなかった、俺も悪いのだとは思う。

色々HP管理サイトを見て周り、この広告を消すか、
場所を変える方法を探してみましたが無い模様。

いや。正確にはあるにはあるのですが、お金がかかるようです。

ですが、お金をかけて、広告を消すのなら、
有料HPに変えた方がいいのではないかと思ったのです。

仕方ないのであきらめて、サーバーを変えるか、
有料HPに変えるかした方がよいかもしれませんね。





俺はどうも元々、頭が固い人間なのかもしれませんが、
物事が思うとおり行かないと、自分に腹を立ててしまう。

自分が、自分に腹を立てる事ほど滑稽なことは無いのかもしれないのですが、
これだけは、治らないかもしれません。

今回もそのいい例で、家に帰って今すぐにでもサーバーを変えるなりして、
HPから、広告を消したいと頭の中で考えてしまっています。

でも、ここで、自分に対して思うのですが、悔しいと感じたときや、
腹立たしく思ったときの自分の行動能力や思考能力は、
自分にとって必要だとも思うのです。

回りに迷惑をかけてるわけでもないのだから。
ですから、治らないのではなくて治しません。

ただ、ここで物事を投げ捨てるような…
…逃げるような人間にだけはなりたくないと思う。




今日の一口<自分の中の自分と他人の中の自分は違うだろう>



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2004年02月11日(水) ■
歌が好きな自分

ただ今、朝6時。
何故こんなに日記書くのが遅いかといいますと
今日は夜中も一時から小田和正のクリスマスライブの
再放送を三時までみていたんです。

そして、その後からHPをいじってたためなんですよね。

それで、その小田和正のライブなんですが、とにかくすごい。

小田和正が色々な人と色々な歌を歌うんですよ。
ミスチルや、ゆずと、ハモって歌ったり、
世界でひとつだけの花を歌ったり…。

とてつもなく感動いたしました。

やっぱり自分は、歌が好きだと改めて実感。
元々小田和正のファンですが、なんでかというとあの透き通る歌声は
もちろんなんですが、やはり詞が好きなんですよね。
優しい、包み込むような詞をかかれていて、聞いてると心が和みます。

自分が詩を書くようになった理由の一つにアーティスト達の歌があります。

元々、俺は歌うのが好きで、物心ついた時から、歌は歌ってたと思います。
それは家族の、影響がかなり大きいとは思います。
今でももちろん歌うのが好きなのですが、
自分の好む歌は、歌を聴いて言葉が聞き取れ、歌詞が良い歌がほとんどです。

そこからも分かるように多分俺は、
歌の中の言葉が好きだったんではないかと思います。もちろん音も好きなのですが、

「1に言葉」「2に音」「3にリズム」

っといった感じで…。

ですから、今でこそ、洋楽も多少は聴きますが、
洋楽ファンの皆様には申し訳ないですが昔は何がいいのか分かりませんでした。
言葉が伝わってきませんから。

…話が横にそれてしまいました。すいません。

それで自分が伝えたいことは、言葉がやはり一番好きだと言うことです。
本当に言葉で表現するのが好きです。

ですから、俺は詩を書きます。言葉を…書きます。


今日の一口<枠にはめない自由な心を持とう>



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2004年02月10日(火) ■
ここから始めよう

今日から、今まで書いていた日記も続けながら。
ここにも日記を書こうと思う。

何故、今から新しく日記を作るのかだけれども。
出来事や、思いについて自分と向き合う時間を増やすため。

今までに、自分となるべく、向き合って生きてきたつもりだが、
その機会をこれまで以上に増やそうと思えたからだ。

それに、ここに書き込むことで自分も気が付かなかった、
自分の気持ちもわかってくるのではないだろうかとも思う。

また、ここでの文章の中に、自分というものを入れていき。
俺自身を、もっと、色々な人に知ってもらいたい…のかもしれない。

普段の自分は不器用で、自分の気持ちを素直に出せなかったりする。
だから、ここでは素直に自分を出していきたいと思う。

だから、時には、日記ではないかもしれない。
時には何かの事柄や思いに関する、文章だったり、詩であったり
するかもしれない。
むしろ、そちらのほうが多いだろう。

そう決めた上で
一生懸命。でも。楽しみながら。
ここから始めようと思う。

[今日の一口]<終わるのは簡単だ。始める事こそ難しい>



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